題名:吉備王国

(桃太郎に征伐された鬼の側)

重遠の入り口に戻る

日付:1998/5/11


●なぜ岡山へ行ったのか

65才になって、家内とJRのジパングクラブに入りました。

そうしたら毎月雑誌を送ってきます。

当然のことながら、温泉やグルメなど旅行を勧める記事ばかりと言ってよいでしょう。

もう3年もその記事を見ながら、今まで一度も、その気になどなったことはなかったのでした。

ところが、今年始めに届いた岡山の旅の特集号に、まったく急に飛びついてしまったのでした。

ものには理由があります。

 

もう30年も昔のことになりますが、岡山に巨大な古墳があることを知りました。

また、その頃、魏史倭人伝の中に、倭の国、つまり古代日本に大乱があり、卑弥呼が女王として擁立され、やっと治まったと書かれていて、その大乱を実証するように瀬戸内海に面する各所に弥生時代とみられる城塞があると、ものの本で読みました。

吉備地方の山城や、その後の時代の巨大古墳などを自分の目で確かめに、いつかはこの地方を訪ねたいと常々思っていたのでした。

サラリーマンにもいろいろあるのでしょうが、私が勤めていた電力会社の場合は、自分の会社の供給範囲では、動き回る機会が多いのですが、ちょっとホームグラウンドを外れると、情報や知識は激減してしまいます。

ホームグラウンドの尾張地方の古墳は当然のこと、日本国の誕生にかかわる大和盆地や、河内平野、そして卑弥呼との関連をうんぬんされる九州北中部の古墳も、機会をとらえて訪ねたことがありました。でも、なぜか岡山地方を訪れるチャンスはなかったのでした。

 

いまはもう、人生の中で、働く時期は終わりました。行きたいと思うところへ行くことができます。勿論、行かなくては誰かが困る問題ではありませんし、また、行ったとしても別に世に益するところがあるわけでもありません。

でも私には、いま行かなければ、もう今後、行くチャンスはないでしょう。そして弥生、古墳時代という日本の国の曙の時期に興味を持ち続けてきた私の一生に、心残りを残したまま終わってしまうことになるのです。

もうひとつ、この岡山の吉備路には、自転車道路が整備されており、またレンタサイクル乗り捨てのシステムも整っていると記載されているのにも、強く心を惹かれました。

つまり、私は行きたかったのです。そして行くことができたのです。

♤ 柳恕舞う河の流れに刻追ひぬ

 

●どんな所へ行ったのか

訪問地を羅列しても、さして興味はないでしょうから、項目的に手短に並べます。読み飛ばしていただくのも、一法です。

 

第一日

吉備津彦神社  備中の国 一の宮

福田海     家畜供養の霊所 665万頭の牛の鼻輪が積み上げてある

吉備津神社   この地方を強制併合した中央政権の将軍、吉備津彦を祀る

惣爪塔遺跡   塔の礎石

鯉食神社    鯉に変身した地方軍の大将を、政府軍の大将が鵜に変身し食殺した所

高松城水攻   急造堤の一部、秀吉に謀られて国と部下のために命を捨てた清水宗春墓

最上稲荷    伏見、豊川と共に日本3稲荷のひとつ

造山古墳    天皇陵以外で最大、大きさ日本4位

郷土館     考古学資料

 

第2日

宝福寺     涙で鼠を描いた雪舟の住んだ寺

総社宮     備中の国の主な神社324社を併せ祀る、お宮のデパート

作山古墳    日本第九位の大古墳

国分寺     聖武天皇御創建、建物は江戸時代

国分尼寺    礎石だけが楚々と

こうもり塚   古墳、口を開けた玄室、こうもりが住処にしていた

鬼の城     韓国、唐連合軍の侵略を恐れ8世紀に築かれた山城とされるが?

 

第3日

下津井     古い瀬戸内海の、潮待ち、風待ちの港町

鷲羽山     景色、観光客などを見物

藤戸      謡曲で高名な源平合戦の古戦場

倉敷      美術館、大山名人記念館など観光

 

●サイクリング

昔、長野支店に単身赴任していたころ、安曇野を訪れる機会が何度もありました。その頃、穂高のわさび田の周辺をサイクリングしている若い女性たちを、羨ましくも眺めたものでした。

サイクリングは足で歩くよりは、はるかに早いし、しかも楽で、見た目にもスイスイと格好良いではありませんか。もっとも、それは若い人が乗ったときのことなのですが。

どのガイドブックでも、吉備路探訪は、サイクリングがおすすめになっていました。

今回訪れた吉備路の遺跡は、JR 吉備線で6つの駅の間、距離で14キロほどの地域の中に、散在しているのです。また、自転車道がよく整備されているとも書かれています。

自転車を借りない手はありません。

備前一宮の駅で、2日分2000円を払って自転車を貸してもらい、前の篭にリュックを押し込み、まずは、さっそうと走り出しました。

ハンドル側の荷が重いので、少々フラフラします。でも、予想どうり、すいすいと走ることができます。

 

自転車道の旅は吉備津神社までは順調でした。ここを見終わって、神社の前の松並木を通ったあたりから、おかしくなりました。最初は、自転車道の入り口を見落としたのでしょう。でも、この時はそんなに気にしていませんでした。というのも、また適当なところで入り直せばいいと思っていたからです。

ところが、この頃から色々の地図と現実との照合の難しさが目立ってきました。

地図はジパング倶楽部、JTBガイドブック、地元観光パンフレット、サイクリング地図、国土院五万図と持っていたのですが。

地図に関することは、また改めて書くことにして、ここではサイクリングについて気が付いたことだけ書き留めておきます。

 

サイクリングでは、自動車で観光をするのと比べて、まづ道路本体が、ハイウエイ用と自転車道用とでは大きく違います。

なんといっても、ハイウエイは直線的に作られています。ところが自転車道は山の端や川に沿ってカーブしたり、古い家並みの中で自然に方角が変わっていったりします。

道標がしっかりしていない所では、かなり頻繁に、方角を確かめていないと、思わぬ方角に進んでしまうことが起こります。

道標の整備の様子だって、ハイウエイは仕事のためですし、自転車では所詮遊びのためですから、責任の感じ方が違うのがよく分かります。

この吉備路では、自転車道が相当よく整備されていることは認めます。しかし山で狭められた地形などから、止むを得ずハイウエイと一緒になる場合も当然あるわけです。

道標が立てられている様子から推察すると、こんな場合は、自転車道が併用されるとは扱わず、いったん途切れたものとして扱われているように見受けられます。

そういう場所では、当然事故の危険は多いし、もし併用として扱えば、その事故は、自転車道で起こった事故とカウントされるので、責任逃れをしているのかと邪推しました。

そのために、ときどき不意に道標が途切れ、次にまた自転車道に入るところが分かり難くなってしまっているのです。

自転車道を作った人や、よく知っている人たちは、ちゃんと道標が立ててあるよと言うでしょう。しかし、自分で自転車を運転していては、あまり目立たないように置かれた標識まで、落とさず見つけられるものではありません。このために、随分苦労させられました。

 

それから、なんといっても自分のエネルギーで走らなくてはならないのも、自転車旅行の大きな違いです。

サイクリングは自動車と比べ、CO2の排出量が少ないのは良いのですが、なにせ走ることそのものが労働です。

自転車では一定の早さで走り続けるのが一番楽です。また、登りと向かい風では急激に体力を消耗します。

だからどうしても、下り坂では、目的の場所がこの辺りの筈だと思っても、引き返せば登りになるのが辛くて、もうちょっと行けば、あるのではないかなどと甘えて、結局、大変な苦労をして登り返さなくてはならないことになるのです。

結局のところ、現在の自転車道と地図の状況では、予定の時間内に、予定した対象箇所を訪ねるのには、よほど余裕をとっておかなければ無理でしょう。

1日の中に、行けたところに行けばそれで満足することができ、残ったところは後日にしようというように、人生に余裕時間をふんだんに持った、若い人向きの観光手段というべきでしょう。

 

吉備平野の北にある鬼(キ)の城は、古代の朝鮮式の山城だと言われます。標高約400メートルの鬼城山の9合目あたりに、今も多くの石組みが残っているのです。

車も走る舗装道路を自転車で上がりました。登りには一時間少々かかった道を、帰りはスイスイと約10分で下ってしまいました。

坂道は、とても自転車に跨がって漕いでは上れませんから、降りて押して登ったのです。

日頃は、自分はマイカーを運転し、若いサイクリング屋さんたちを、ご苦労さんだねと眺めていたものです。

ところが自転車を押して登るのは、意外に良い気持ちなのです。それは帰りが快適だというのが大きな理由だと思えるのです。まあ言ってみれば、貯金をしている気持ちなのでしょうか。

本当の貯金や殖産では、ついつい、それ自体が楽しくなってしまって、使うことを忘れ、相続のトラブルの種を播いてしまうことが、間々あるのと比べ、これはまことに単純なことでありました。

♤ 菜の花の広きより虹立ち上がる

 

 

●地方の立場

 吉備津神社の、巨大な比翼入母屋造りの拝殿に、「平賊安民」という大きな額が掲げられています。

吉備津神社は吉備津彦を祀っています。

吉備津彦は、大和政権から地方征服のために派遣され、この吉備地方を平らげたと記されている将軍です。

 

平らげられた賊は、この吉備地方を治めていた首長だったのです。

崇神天皇による征討軍の派遣は、日本書記では北陸、東海、西道、丹波の4方向へとされ、他方、古事記では西道を除く3つの方向へとされ、西への侵攻は2代前の孝霊天皇の時代のことだと記されています。

日本書紀も古事記も、いわば大和政権の正式の歴史書ですが、それが食い違っているのは、この事件の記述が、ある事実を基にし、多少加工された証拠であると解釈されています。作った人の主観を入れて書かれるという歴史書の性から逃れることは、所詮、不可能なのであります。

 

別の伝説もあります。この伝説では、この負けた首長はウラと名乗る百済の王子で、身長4,2メートル、大変な強者で、新山の鬼の城に陣取っていたとされています。

伝説はまだあります。それはなぜか、ここ吉備の国が桃太郎伝説と結びつけられているのです。おとぎ話では、桃太郎が犬、猿、キジをお供に連れ、鬼を退治し、戦利品の宝物を車に積んで、えんやらや、えんやらやと持ち帰るのです。

従軍の報酬交渉は「お腰につけたキビ団子、ひとつ私に下さいな」と手打ちが成立するのです。このキビは黍のはずですが、なぜか駅のKIOSKで売られているのは吉備団子です。

 

いずれにしても、平らげられた賊は、この地方の首長であり、安らかになったとされるのは、この土地の人々なのです。首長を殺され、明日からおれの手下になれと、言われて安らかに思ったのは、反体制の人だけだったに違いありません。

巨大古墳といい、朝鮮式の山城といい、吉備が弥生、古墳時代に、大きな勢力圏だったことは間違いないことです。そしてそれにしては、正史には吉備についての記述はあまりにも少ないように思われるのです。

 

吉備津神社の駐車場に、岡山県憲友会ガ作った石碑がありました。

碑文の内容は、

「およそ人類は平和の旗を掲げながら悲惨な争いを繰り返してきた。

日本が戦争に敗れたため、連合軍の専断により、極寒あるいは酷暑の地に苦しみ、ついに祖国の土を踏むことなく処刑された同胞を思うと愁嘆にたえない。戦後の風潮は、混沌としている。今このとき記しておかなければ、後世に事実が伝わらなくなってしまう。

そのため、ここに碑を建て、後世に判断を仰ぐことにした」

と、いったものでした。

石碑の横には、某故陸軍中尉を始め、軍曹、伍長など、いわゆる名もなき多くの元軍人の名前が刻まれていました。B,C級の戦争犯罪人として処刑された人々なのです。

彼らはどんな人たちだったのでしょうか。

我々の町内や、職場や、学校のクラスや、趣味のサークルや、バスや地下鉄の中に座っている人たちを思い浮かべて見て下さい。

いろんな人がいます。ここに名を刻まれた人たちも、同じような平均的な日本人の集団だったのでしょう。中には、乱暴な人や、冷酷な人もいたでしょう。しかし、優しい人で、部下の責任をとらされた、不運な人も多かったに違いありません。

ほとんど全員が、戦争さえなければ、普通の人として一生を過ごせた人たちでしょう。

所詮、歴史書は人の筆によって作られれものなのだと思いながら歩いた、吉備路の旅でした。

♤ 幾盛衰秘めて吉備路の八重桜

 

●正確な地図

 

今回のサイクリング旅行で、一番悩まされたのは、信頼できる地図がなかったことでした。

たとえば、国分寺、国分尼寺、吉備路郷土館、こうもり塚の諸遺跡は、ほぼ纏まった地域にあるのです。

私は時間の関係から、第1日はそのうちの吉備路郷土館だけで終わりにして、あとのポイントは翌日回にしたいと思っていました。

今度の旅行には、何種類もの案内図を持って行きましたが、このようにポイントを絞る目的の役に立つのはひとつもありませんでした。

 

地図にもいろいろあります。実状そのままの、いわば写真を図化した国土地理院の5万分の1の地図は、正確ですが、細かい物件までは記入されていません。

また案内用の絵地図では、前後と左右ぐらいだけは、一応間違ってはいませんが、要するにひどく主観的に歪めて描かれています。ですから、これを頼りにして迷わずに行くとか、所要時間を推定するとかは、まったく不可能なのです。

ところで前述のように、いったん自転車道がハイウエイに合流し、ふたたび分かれて自転車道に入り直す時にも、正確な地図がないために、数回、試行錯誤を強いられました。

 

解決策は二つあると思います。

その一つは、正確な地図を作ることであり、もう一つは案内の道標をやたら沢山置くことです。

正確な地図は、地域を包含できる適当な縮尺、たとえば8万分の1図に、2万5千図に対象物を記入した部分図を配すれば完璧です。対象物は当然、番号と注で表す格好となります。

ところが、地図によって行動する場合は、それが読めなくては、全く無用の長物にすぎません。そして、レジャーが女性のものである現実を見れば、地図で場所を探す方法が実用的とは言えないように思われるのです。

 

こんなことを考えていると、いつもの癖で、頭が変な方向へ回転を始めるのです。

これまでに辿ってきた道、今自分のいる場所、これから進んで行く方向を把握したいといえば、世の中のすべてのことが当てはまるのではないでしょうか。

 

たとえ話を、並べてみましょう。

海藻が入っていて、使うと痩せられると伝えられた石鹸が流行したことがありました。また今は、白ワインじゃなくて赤ワインだけが体に良いと、たいへんに売れているそうです。人間は未来永劫に、美しく、健康で、長生きし、ポックリ死ぬことができると伝えられる何物かを、絵地図のような不確かな口コミを頼りに追い求めて行くのではないでしょうか。

 

次に、テレビのニュースをテーマとして取り上げてみましょうか。

一定の限度の中で正確さを旨としているNHKのニュースからよりは、興味本位の解説をする民放の売れっ子キャスターから、情報を仕入れている人が多いのではないでしょうか。

それは、世間では沢山の人が、スピード違反、信号無視など、やり放題にしていることは棚に上げて、話題に取り上げられた一部の人を、さも極悪人を見つけだしたように袋叩きにしているのを眺めるのが、心地よいからでしょう。

 

人間は、客観的な冷厳、正確な地図よりも、自分の主観に合うような絵地図を好むように見受けられます。

マスコミが熱烈に媚びて止まない住民投票も、絵地図を基に事を決めようとする感があります。社会全体や将来に責任をとることなく、主観的に、好き勝手に描くことができるのですから。

ホモサピエンスとは、そんな、正確とはほど遠い情報で、自分たちの将来を探り探り、辿って行く生き物なのでしょう。

♤ 山つつじ尼寺礎石ばかりにて

 

●国民年金保養センター

 

観光協会へ電話して、一人だけでも泊めてくれる民宿を紹介して欲しいと頼んだところ、国民年金保養センターを紹介されました。

それは、山の頂上近い、瀬戸内海を見下ろす、絶好の位置に立っていました。行き来する船や入り日が綺麗に眺められました。

ここ岡山県下津井から対岸の香川県坂出までの間には島が多く、瀬戸内海の水路が狭められているためでしょう、潮の流れがよく分かります。

 

 

「熟(にぎ)田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」と、額田王が詠んだのもこんなような所だったのかしらと偲ばれるのでした。

 

この歌について、また脱線してみます。

地名の熟田津は、伊予の道後温泉に行く途中の港と言われています。

次の言葉、船乗りせむと月待てば潮もかなひぬは、解釈の分かれるところです。

 

その一つとして、夜は危ないから航海はしない。だからこの歌の意味は、岸に引き上げておいた御座船を、満月と満潮に乗じて海に出して、斉明天皇が船上で、禊ぎをされるのである。今、その時が来たと歌っているのだ、と解釈する向きもあります。

 

しかし私は、当時も明るい月夜には、航海していたと思うのです。

なぜならば、レーダーが使われる前まで、日本海軍は、暗闇でも物が見えるようにと、見張員を養成していたものでした。

潮がかなうというのは、潮流が追い潮になることなのです。瀬戸内海の潮流は1日2回、西流、東流と変わっています。速いところでは、水泳の5000mの世界記録と同じ速度だそうです。このことは、ほかの海で育った人間には想像のつかないところなのです。

壇ノ浦の合戦では、午前中有利に戦っていた平家が、潮流が変わった午後に、急に敗色濃厚になったと伝えられます。この潮流を利用しない手はありません。

ところで私の意見に、あんまり本気になってうなずいたりしないでください。正直のところ、サイクリングで追い風に苦労した、労働者的発想をご披露しただけなのですから。

 

この宿では、夕食の献立の値段が、品質ではなく品数で調整されているのも気が利いていると思いました。老人というものは、よく選ばれた美味しいものを、ちょっとだけ食べたいものなのですから。

 

翌朝7時半、食堂に顔を出しました。

私は浴衣を洋服に着替えて行きました。会社勤めの頃には、それは当然のことでしたから。

ところが、集まった泊まり客のほぼ半分は浴衣姿でした。驚いたのは、女性の中に、髪のクリップというのでしょうか、赤い丸いものを髪に巻きつけたままの人もいました。

とても心の安らぐ心地がしました。

 

もう人生の中で、社会をサポートする仕事の段階を終え、余生を送る時期に入っているのです。人目なんか、どうだっていいじゃありませんか。

みんなで渡れば恐くない、でやりましょう、そんなムードなのでした。

他人から爺むさいと言われたっていいじゃないですか。もう爺なのは事実なのですから。

♤ 春雨や遊女宿場に音もなし

 

重遠の入り口に戻る