題名:東南アジア最高峰キナバル山に登る

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日付:1998/2/5

 


 63年8月,ボルネオ島の北部にある東南アジア最高峰のキナバル山に登りました。今は「世界の山旅,辺境の旅」と言うようなツアーの企画があるのです。それで,申込が2人以上まとまれば,ツアー会社がいろいろの手配をしてくれます。私はそれに申込み,始めの希望より一週間遅れで成立したのです。

 こんな訳で,同行者は出発のとき成田で始めて顔を合わせたのです。

 どうせこのようなツアーに参加するのは,個性の強い人ばかりで,とくに自分から職業など紹介などしません。旅の途中でガイドなどと喋っているうちに知った所に依りますと,一人は鹿児島の高校の生物の先生で44才,あと一人は高岡の36才の女性です。役に立つ範囲の最小限のお付き合いに止めましょうといった雰囲気でした。

 3人の中では,私が一番英語ができましたし,年上のこともあって,纏め役らしきものを演じましたが,成田に帰り着いた時,私は2人に挨拶しましたが,後の2人はお互いの挨拶もなしに鹿児島と高岡に帰っていったぐらいでした。

 

 いきなり山の話でもないでしょうから,南の国の話と言う辺りから始めましよう。

 行ってみると,私達の世代は南洋というか熱帯というかこの地域のことについて,かなりの潜在的な予備知識があることに気がつきました。半世紀近くの昔,「◯◯戦線にて某特派員発」としての報道をむさぼり読んだ覚えがあるのです。

 「日本と違って湿度が低いので直射日光は灼熱を感じさせるが,木陰に入るとすっと涼しい」、本当にそうでした。

 人々は木陰とか軒先の陰を選んで歩いています。

  取り締まる警官涼し大樹陰

 私はあまり帽子をかぶるほうではありません。しかし,登山基地ヘッドクォーターでの直射日光の鋭さに閉口したので,サバ州の首都コタ・キナバル市のホテルを出ると,珍しく帽子を被りました。そして,こちらの人達はどんな帽子を被っているのかな,そう思いながら見ていました。ホテルの前で先ずイギリス人らしい人が来ました。見ると帽子を被っていません。白人は日光に弱い筈なのに,彼が歩いてきたのはきっとほんの一寸した距離だったのだろう,その時はそう思いました。しかし,それからも擦れ違う人達がだれも帽子を被っていないのです。とうとう海岸端の埠頭や倉庫の並んだ所にきました。すると始めて帽子を被っている人達に出会いました。鍬を持ったり,土を積んだ車を押したりしている人達なのです。

 大抵の人は自分が肉体労働者ではないことを証明するために,強い日光に頭を晒しているらしい,私が多少日射病気味の頭でそんな風に考えていると,中国系の頭の薄くなった老人が,のろのろと歩いて来ました。

  熱帯の日は厳しくて老二人

 知人もなし,ガイドもなしでたった一日だけ滞在した街のことを,こんなふうに記述することこそ,絵に書いたような管見というのでしょうけれども。

 

 街の外にお墓の団地がありました。お墓のいくつかには屋根が掛けてありました。 たしか,台湾にも同じようなお墓があったと思います。

 四本の柱で支えられた,いかにも涼しそうなこのお墓の屋根から,ここの熾烈な気候の中で,人々が死者をいたわる気持ちの深さが本当によく伝わってくるのでした。  

熱帯の日をさえぎると墓に屋根

 

 高床式住宅や水上生活者について,日本人の祖先が南方から来た証拠であるようなニュアンスで書いた記事があり、それを昔読んだことを思い出しました。それが,ここのことだったのかと思いました。。高床式住宅は田舎ではざらですし,山から下ってきた帰り道に、わざわざ連れて行かれた水上部落は,田舎の古くて崩れそうな木造の造りでした。しかし,街の中心からほど遠からぬ,名古屋で言えば港区程度の所にも比較的新しい水上の街があるのです。住んでいる人達はちゃんとミドル程度の収入があるのに,なにも事新しく陸の上へ移ろうとする気がないのだと説明してくれる人もいました。

 普通の田舎では、広い平野にずっと水田が開け,子供達が遊び、水牛がのったりと田圃の中を歩いたり寝そべったりしています。

 半世紀前と気候が変わらないのは当然として,田舎では人々の営みも、昔、聞かされた話と余りにも変わっていないのには本心びっくりしました。

 日本で若者がステレオを聞きながら耕運機を運転しているような変化は,この国の田舎にはまだないようです。牧歌的な農村風景に憧れる人にとっては理想郷が残っていると言っていいでしょう。

  今もなお水牛寝まる青田かな

 

 街には駐車料金を徴収する役の、緑色の上っぱりを着た小母さん達がいるのです。繁華街では100メートルに2,3人もいるように見えました。そしてひとしきり駐車する場所が埋まってしまうと,木陰に集まって何時果てるともないおしゃべりを楽しんでいるのです。

 また,いい働き盛りの青年が日がな一日,共同便所の入り口で5円ばかりの使用料を入れる缶の番人をしていたりします。

 みんなが一寸づつ仕事を分担してのんびりと働いている,スローな省資源的な生活に安住しているように見えました。半世紀前には,怠け者で未開という失礼なニュアンスで報道されていたように覚えていますが。

 しかし,それだけかと言えばそうではありません。

人々の生活を一番変えたのは何かと言えば,それは車に違いないと思われます。道路はかなり発達し,車が飛び回っています。車の急速な導入のせいでしょうか,車優先の社会であります。首都クアラ・ルンプールでもサバ州の州都コタ・キナバルでも歩道は殆どありません。人々は勝手な所で自由に,しかし,命がけで横切っています。

 その結果,中央分離帯の芝生が人通りの多いところが裸地の筋になっています。それを見ていて,私達が子供の頃,日頃,野球などした四角い空き地の草原の中に,近道をするための斜めの道が付いていたことや,ついでに怪しからぬフランス小話まで思い出してしまいました。

 こんな話でしたでしょうか,教会の懺悔の場での女の質問「牧師様,どうして私にはあるべき所に生えていないのでしょうか」牧師の曰く「人通り多き径には草生えず」。

  引揚げを待ちけむ港スコールす

 

 さて,今回登ったキナバル山は,昔からこの地域の人達に、死者の魂の帰ってゆく霊山と信じられていた奇怪な山容の山です。直径約5㎞の花岡岩の半球が地面から突き出していて,その頂上に幾つかの鋭いピークを乗せているのです。

 土地の人達にとっては登山の対象ではなかったのですが,イギリス人達がやってきて探検気分で征服し,各ピークにセント・ジョーンズとかビクトリアとか王様や聖者の名前を片端からつけたのです。最高峰は4101mありますから,富士山や台湾の玉山(旧名新高山)よりもかなり高く,東南アジアの最高峰なのです。このところ段々とアプローチが整備され訪れる人も増えつつあります。

 登って,二つばかり感じたことがありました。

 まず,ひとつはヨーロッパ人の登山にたいする態度です。

 家族連れでズック靴など履いて,気軽に挑んでいます。それに引き換えわれわれ日本人は,案内書に忠実にニッカーズボンに登山靴,リュックに雨具と本格装備を整えていました。良し悪しは別として,ゴルフと言う競技のことでも要するに球を棒で打つスポーツと考えるか,クラブの材質は勿論,手袋から帽子まで吟味に吟味を重ねて乗り込むかの違いに似ていると思いました。

 いま一つはインフラストラクチュァに対する認識の違いです。

 登山道がしっかりしているのはまあ当然でしょう。驚いたのは登山道のみちみちに飲料水のタンクがおいてあるのです。近くの沢から水道管で水を引いてきて,一立米程のタンクに溜めてあるのです。水のコックは,押している間だけ開く節水型のものでした。

 また,山小屋には電気温水器がありシャワーが使えるようになっています。電気温水器のひとつはGEC社製で2KW,直径40センチ,高さ40センチの円筒形でシャワー室の天井の空間にぶら下げてありました。

 その電気は標高1900mにある発電所から登山道に沿って6000Vでテレコム,テレビ局と途中の負荷に送り,あと3000Vで標高3340mにある山小屋まで電力ケーブルで送られています。

 小屋は個人ベッドで,各室に電気のヒーターが入れられるようになっています。

 日本の山小屋では,9時頃の消灯までガソリンエンジンが唸りをあげ,板の間の上で寿司詰めになって寝るのが常識になっているのとは大きな違いです。

 この辺りの議論は,場所こそマレーシヤではありますが,考えかたとしては日本とイギリスの比較をしていることになるのでしょう。

 いま,世間には日本はもう充分に豊かになり過ぎており,これ以上の豊かさは必要ないとの意見があります。

 しかし私は今回の登山で,日本の登山界はまだまだインフラが貧弱だと思はざるを得ませんでした。どっちでもいいようなものは節約して,その分、子孫に残せるしっかりした資産を作っていくことは是非とも必要と思います。山だけじゃなくて,同じことがいろいろの社会的なインフラについて言えるのではないかとも考えます。広く見聞することが望まれるわけです。

 

 山頂近くでは,気温は明け方には9℃を示していました。行ったのが夏なので,ついつい冬の気温はどうなんだと聞きそうになるのですが,考えてみるとここは南緯6度と赤道に近く,季節の変化は殆どないのです。ガイドは雪は見たことがないが,水が凍ったのは見たことがあると言っていました。

 台湾の玉山に行ったときには、まだ針葉樹をかなり見かけました。しかし,ここまで来るともう広葉樹ばかりです。そしてそのかわりにいろんな種類の蘭が実に豊富です。

 大袈裟に言うと,蘭を採ってしまったら禿山になるほど沢山あります。地面に生えているのやら樹の幹にくっついているのやら,3000mを越す高さまで本当にいろいろあるのです。

 季節の変化がないので,蘭達も日本のように冬には死んだようになり,夏に元気を回復するということはないのです。

 してみると,蘭は温かい所が生存の条件だと言うよりは,最低気温が10度より低くならないことが条件だと言った方が正確なように思われます。

 植物の好きな人でしたら,周りに見惚れて足が動かなくなり山へ登れなくなるか,ついつい手が出てしまって公園のレンジャーに捕まるかのどちらかになると思いますので,決してこの山はお勧めいたしません。

 

 「山の天気はどうでしたか」と,よく聞かれます。

 それが日本とは大分違うのです。

 大体常夏の国と言うぐらいですから,気温は一年中殆ど変化しないようなのです。そして毎日,早朝は好天で9時とか10時とかに雲が湧始め午後には雷が轟きスコールが来るのだと皆様にお答えしています。たった4日しかいなかった国のことを,そんなふうに断定的に説明するのもちょっと如何と思いますが,まあものの本にもそう書いてありますし、実際私がいた間はそうだったのですからお許し願えることでしょう。

 のんびりした社会も、いいことばかりではないようです。

 飛行機で出発する前の3時間ほどの時間を、博物館で過ごそうと思いました。ホテルの前からタクシーに乗り「ミューゼアム」と申しました。すぐ「オーケー」と連れていってくれました。栄から東山位まで走ったように思います。ところが博物館はお休みでした。金曜日でした。あとで聞くと金曜日はイスラム教の日曜日に当たるのだそうで,モスクへ拝みに行くべき日には、ほかの施設は休みにするようにとの要求が,イスラム教徒から出ているのだそうです。運転手は「それじゃ水上村はどうか」とかいろいろと勧めます。結局,街へ帰って映画を見たのですが,本当は彼は休館のことを知っていたのだろうと思うのが、順当でありましょう。

 また,クアラ・ルンプールの飛行場で,成田へ帰る搭乗券の手続きをしたときのことです。我々日本人3人は特別の知り合いでもなく,3人とも窓際の席を欲しいと要求しました。係の青年は我々をグールプと決めつけ,一人は窓際,そして窓際の次,もう一人は窓際の次の次と3人とも「WINDOW SIDE」を響かせて申し渡しました。重ねて要望を説明すると,「もう満席で窓際は一つしか残っていない」と突っぱねました。明らかに嘘を付いているのてす。マレーシャ航空の窓口の青年にいいようにあしらはれて,縁故も何も通用しない個人としての私の無力さ加減と,窓口の態度で会社全体のお客様に対する姿勢が判断される恐ろしさを知る,よい勉強にはなったことでした。

  マレー沖いまぞ我翔ぶ盆の空

 

 イスラム教の礼拝堂を尋ねました。これは金曜日だったからかえってよかったのです。正午から礼拝式があると聞いて,一寸早めに行きました。

 その時はがらんとして,一体なにがあるのかしらという様子でした。ところが時間近くになると,車が押し掛けてきて渋滞となり,駐車場よりも入り口に近い道路端への駐車がまず始まり,次いで駐車場も満車となりました。

 所が変わり人が変わっても,ロータリークラブやゴルフ場で、日頃我々が見ている風景や人情とちっとも変わらないとの感を深くしました。

  金色の屋根燃えブーゲンビリア燃え

 

 うろうろしていると白衣,白帽のイスラムの僧侶が近づいてきて,お前はどこから来たのかと尋ねるのです。背中が丸くなり顔中皺だらけで歯が3本程しか残っていない老人です。「サバ州から来た中国人かと思ったが,ポシェットの字で日本人とわかった」などいうのです。ここまのあと,1ドル出して日本の金と換えてくれといいます。そんなことをしていると子供たちが寄って来ました。

では多少神秘めいた,それらしいムードではありませんか。

 ところがそ 彼は戦争中に日本人が来た時のことを覚えていると言います。「母親は阿門から来た中国人なのに、父親は土地の人だし,いろいろと苦労があったようだ」などと言います。「ところで,歳は幾つだ」と彼の歳を聞くと「57」との返事が戻ってきました。このイスラムの老僧は私よりもひとつ年下なのです。思わず「お互いに苦労したね」と握手したことでした。

  椰子の風涼しコーランなほつづく

 

 そう言えばキナバル山中で,片言の英語を理解すると言うハイグレイドのガイドの青年からも歳を聞かれたことがありました。答えると「この辺りじゃ50過ぎたら、働こうなんて思うのは一人もいないよ」と言はれてしまいました。

 私は「日本じゃ・・・」なんて反論はせずに,ここでは、のんびりした生活様式を送っている反面で,仕事と人の量のバランスから,人は早く老い,早く去ってゆくのだろうかなどと、思いにふけっていたことでした。

 このガイドは、このキナバル山の近所に住んでいて,20歳だと言っていました。目の澄んだ大人しい好青年でした。私が電力会社に勤めていると聞くと,自分も電気の勉強をしたのだが職につけないのだと言っておりました。15年前,電源立地が難しかった頃,電気が充分に供給されないと仕事が減り,若者が失業することになるなどと、いろいろな方達にお話しして御協力をお願いしていたことを思い出し,日本はなんとかかんとか言いながらうまくやって来たものだと思いました。

 先程,映画を見たといいました。金曜日の午後,街の映画館の前は男女の中学生で賑わっていました。ほんの2時間くらいの暇潰しですから,中学生と同じ並席へ入りました。3マレーシヤドル(約150円)で,2階の上席は5ドルです。

 香港製の活劇でした。喋るのは中国語です。輸出用と見えて,始めから中国語と英語のテロップが入っています。それにもうひとつマレーシャ語のテロップが追加されているのです。

 勿論私は英語のテロップを頼りに筋を追っていました。だんだんコツが分かってきました。尻の方から読むといいのです。どうせ前の方は I AM とか YOU AREとか言っているので,それは映画で喋っているので自然に分かるのです。

 ともかくも,テロップ技術では国際化の面で進んでいると言えましょう。

 旅行の前に中部プラントのMさんに勧められて,第二次世界大戦の時に、元社会党代議士山崎釼二氏が、この地から連れ帰った現地妻の阿燕さんの書いた「南十字星は偽らず」という手記を読んでいきました。日本軍の進攻,そして敗退を司政官の現地妻として,日本の側と現地人の側との両方の目で見た、身近な体験を書いたものなのです。

 その文中に出てくる土地を,この地域の最高峰から眺めながら思いにふけっていました,なぜこんな所に戦争を持ち込んで,そして自らも苦しみ他をも苦しめたのだろうかと。半世紀前はそれをしたのは確かに日本だったのです。

 しかしその何十年か前にはイギリスがそれをしたのです。

 そして,さらにそのまた前には外国人ではなかったかもしれませんが,よその土地の人が攻め込んで支配を宣言したのだろうと思います。

 何国人であろうと誰であろうと,敵はあくまで敵です。

 緑の大地を見下ろしながら,人はどうして争わなくてはならないものなのかと,人間の性の悲しさを思はざるを得ませんでした。

  ジャングルに雲の影濃し盆にして

 

 今回の旅行のように意外性に富んだ経験は,日頃見過ごしていることにも考えるきっかけを与えてくれます。

 私はこれからも考え続けたいと思っています。

 

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