題名:キリマンジァロ

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日付:1998/2/5


はじめに

 カラチからナイロビに向かう180人乗りのジェット機は満席でした。そしてその90%までが日本人でした。ナイロビのホテルのカウンターには,ドルを握った若い日本の女の子達が詰め掛けていました。そしてホテルでの現地通貨との交換は,午後9時にはシリング札がなくなってしまい停止されました。

 今や,すさまじいまでの海外への観光ラッシュなのです。今度の旅では,日本が豊かな,楽しむために生きている時代に入って来ていることを痛感させられました。そして私は人生の終わりに,その有難い時代にかろうじてタッチすることが出来だのだという感を深くしました。

 世の中変わっただの,これから新しい時代だなどと騒ぎ立てるのは,私の好みではありません。むしろ変化の連続が通常だと信じているぐらいです。しかし今回のキリマンジァロ登山は,たかが遊びに対するものとしては,休暇の長さも費用も,今までの常識からは許されないものではなかったと思うのです。従って,こんな旅行をしたなどと人に言いふらすことを,快く思わない人もいるかもしれないと,躊躇しないでもありません。しかし,この旅行が今という時代のひとつのドキュメントであることには違いありませんから,あえて記録としてまとめてみました。

 

●B707機に乗ること

 カラチに着くとリーダーが,これからは小さな飛行機に乗り換えるんですと言いました。ここまではジャンボ機でしたから,小さいといえばB737なのかなと誰かが言いました。

 バスが駐機場に着いて降りて見ると,なんとそこには懐かしいB707機が待っていたのです。この飛行機は,昭和天皇のご大喪のとき,各国元首の専用機の中に見掛けたことはありましたが,頻繁に稼働する定期便にもまだ使われているなどとは考えても見ませんでした。

 座席に身を沈めて,昔のことを思い出していました。

 人類最初のジェット旅客機はイギリスのコメット機なのですが,これは機体の金属疲労による事故が続発し,実用機とは言えないほど短命に終わりました。従って,このボーイング社の707機とダグラス社のDC8機が第一世代のジェット旅客機と呼ばれるのです。昭和30年代の中頃のことであります。そしてかなり長い期間,ジェット機に乗るには普通の運賃の外にジェット料金が必要だったのです。

 当時,日本国民の期待を背にして若きエースたちが,その頃国が求めていたもの,即ち最新の技術と低利の資金とを求めて,この飛行機で先進国へと飛び立って行ったのでした。

 青春の日,代表選手として選ばれ,胸を膨らませて機上の人となり,FASTEN SHEET BELT,NO SMOKINGの文字を見つめ,機内や空港での聞き取り難い英語のアナウンスに必死で耳を傾けていた人達も,今や星霜移り,仕事の現役からは消え去りつつあります。

 そして今は当時と逆に,日本の方が技術と資金とを世界中に供与するまでに豊かになりました。今,私がその豊かさを使って,楽しむために機上の人となっていることを思うと感慨深いものがありました。

 天候が良かったせいでしよう。年老いたB707機の飛行は,安定かつ快適なものでした。われわれが平生,電気事業で使い慣れている機械は,鉄で頑丈に出来ています。それに比べればひ弱に見える,アルミニューム合金で作られたこの飛行機も、こんなに長持ちしちゃんと働いているのでした。機械というものは,管理さえしっかりすれば,随分と長く使えるものだなあと心強く感じたことでした。

・雷雲の虹の真中にわが機影

 

●事前トレーニングのこと

  キリマンジァロは,山が大きいこと,標高が高いことから,そう簡単に登れる山ではないと覚悟していました。ですから折角時間と大金をかけて行って,もしも登り損なったら馬鹿馬鹿しいから,できるだけ事前のトレーニングに力をいれることにしました。

 名古屋には全国でここ一箇所だけといわれる減圧ルームがあります。ここへは2回入ってトレーニングを受けました。本当は,順々に高度に馴らすようにトレーニングのスケジュールがつくられているのですが,私は時間の都合でその途中へ割り込ませてもらいました。従って,トレーナーは「始めから6000mでお願いします。なに酸素吸入設備もあるからいいでしょう」と気軽に言いました。空気をゆっくりと抜いてゆき,6000mの薄さになった所で自転車をこいでみました。一度に4人一緒に訓練するのですが,ひとりひとりセンサーを胸につけます。そして,4人の心電図と脈拍数とをブラウン管の上でトレーナーと一緒に,自分でも見ながら運動できるようになっているのです。

 最初の運動のあと,じっと休んでいると視野の周りからすっと暗くなってきました。そしてなんとも気分が悪くなってきたのです。6000mでは空気は地表面の半分以下にまで薄くなってしまっています。ですから血液の中の酸素が欠乏してきているのです。これはたまらぬと思い「気持ちが悪くなってきたのですが」とトレーナーに申し出ました。すると彼は大変突っけんどんに「深呼吸しなさい」と酸素マスクなど見向きもしてくれません。仕方がないので言われたとおりにしました。すると間もなく,頭はちょっとボーとしているものの,そのままで続けられそうな状態には戻ってきました。

 ともかくも,この指導のおかげで,空気の薄さからくるトラブルは,なんでもかんでも深呼吸をすれば直るという信念を得たのは大きな収穫でした。単純な馬鹿の一つ覚えは修羅場での強い武器になるのです。

 また血液の中の酸素の不足は,手足の指先に,長時間正座した後の足の痺れと同じ感じの痛痒さを起こさせます。これも同様に,指先を動かして血行を盛んにし,あわせて深呼吸することで防止できるのです。

 2回目の訓練の終り,つまり合計6時間の訓練を終える頃には,大分慣れてきました。心電図を見ながらペダルをこいでいて,まるでスピードメーターを見ながらアクセルを踏んでいるような,つまり自分の体がエンジンにでもなったような気分になってきたのは不思議でした。

 そして,私には若い人ほどはピークロードは掛けられないこと,しかし自分のペースならばいわば何時間でも続けられそうなことが分かってきました。

 減圧トレーニングのほかには,出発の前の週に富士山に登りました。生憎の悪天でしたが,激しい風雨のなかを頂上に登り,帰りの時間が許す限り火口壁の上にいるようにしました。またさらにその1週おいた前の週には,日帰りで御岳山に登りました。このときも3000m以上の場所に出来るだけ長くいるように努めました。

 故郷の名山であり,かつ御嶽教の霊山である御岳山はおろか,日本一の富士の山まで,キリマンジァロ登山の小手調べに使わせて頂いたことは,なんとも心苦しいことでありました。

 これらの外に,日常生活では半年前から早朝ジョギングをしました。それも,毎日,判子で押したように走ったのではマンネリになると思いましたので,毎朝目を覚ましてから,毎度毎度,今日走るか止めるかを考えることにしました。そして,さぼりたい気持ちを抑えられる日だけ走ることとしました。御陰でちょっとは意志が強くなったはずです。

 また「5時からオトコの午前様も」止めることに決めました。周囲からは伺い知り得なかったかも知れませんが,一つひとつの「5時から案件」について,常に止めるべしという方針のもとに,実行可能かどうかを真剣に判断していました。これはジョギングのケースより,もっと意志の強化につながったと思いたいところです。

・バス幾台人々仰ぐ富士は夏

 

●お土産を買うこと

 我々は登山隊だといっても,財布の紐が緩いと評判の日本人の端くれには違いありませんから,バスの運ちゃんはよくお土産店に連れ込みました。

 そしてその度に,激しい値切り合戦が繰り広げられました。

 ガイドブックには,お土産店での買い物は,まず言い値の3分の1から交渉を始めなさいと書いてあります。我々のツァーリーダーは「なんと言っても気に入ったのを買うことですよ。買ってやれば喜ぶし,高い安いは場数を踏めば分かってきますよ」と大いに中立的なことを言っていました。

 シニカルなB氏は,外で写真を撮りながら「見てごらんよ。買ってるのは日本人ばっかりさ」と言いました。私も公平に見てそう思いました。

 売り手,買い手とも,日本語と英語の単語のぶつけ合いで,こういうのを観光客語とでもいうのかと思いました。例えば,売り手が勧める「ノー,タカイ」というのは,安いという意味なのでした。

 私の見た目では,勝負はおおかた敵側の勝ちのように思われました。なにせ彼らは,駆け引きに、日がな一日かけることなど,全く意に介していないのです。それに,当方はなんと言っても,いずれは払うつもりのお金を持っているのが致命傷のように思われました。

 じつに凄い売り込み方なのです。キリンの木彫りを壊れたサングラスと「コーカンOK」と仕掛けてきます。うっかり話にのると,「差額,XXシリング」と追っ掛けてきます。結局,なんにもデスカウントしている訳ではないのです。

 高く売りたい,安く買いたいというのは人間の本能でしょう。われわれ日本のサラリーマンはその本能を行使する機会が余りに少ないために,片輪になってしまっているのかもしれないと思いました。相談もなしにごっそり税金を天引きされ,残額を自分の所得だと思っているのです。また自動販売機にコインを入れると,ゴットンと缶がでてくるのです。安売り店だって,定価と売値とを並べて書いて購買欲をそそりますが,それ以上の値引きはそう大きく期待はできないのです。

 延々たる駆け引きをして買い物することは,人間同士ののふれあいを復活させようと主張する人には好ましいことでしょう。家庭の主婦が,値段の駆け引きに午後中をつぶして,夕食の材料の買い出しをすることを考えてみましょう。。時間をかけても,値段は結局ほどほどのところに決まるでしょう。と言うことは,買い手は自分の手柄で安く買ったと思うし,売り手も今日の稼ぎをあげたと納得するのでしょう。奥様たちはサークルに行って合唱しなくても,源氏物語を習わなくても,結構充実した半日を送ったことになるのです。

 でも問題はあります。その経済的影響を考えると,サークルが開かれないために部屋の貸し料が入らない,講師の小遣いが入らない,というだけではありません。お店では一人のお客に時間をとられるので売上量は少なくなります。同じマージンならば利益が減りますし,同じ利益を得ようとすれば高く売らねばならないのです。

 ですから,自分も正直に徹し,また相手も信用してテキパキと値を決めるということは,社会活動全体の効率化に不可欠なのです。今の我々にとって後戻りできる話ではないと思いました。

 訪ねた国のお土産店は,そんな楽しみ楽しませる商いをしていました。ほかの所でもその傾向は見られました。しかし,国全体がそれではとてもたまったものではありません。事実,ナイロビの街にはスーパーマーケットがあって,そこではまったく我が国と同じ方法の商売が行われていました。むしろカウンターの女性が椅子に座ってキーボードを叩いているだけ,こちらよりも進んでいると言っていいぐらいです。

・サバンナの日にぽっつりと土産店

 

●マサイ族に接すること

 ケニアとタンザニアの国境に近づくと,赤い布をまとった10等身の人達を見掛けるようになりました。彼らは国境の両側にいるマサイ族で,牛や山羊の放牧の群れを追って生活しています。男は老若を問わず杖を持っていますが,先年までは杖ではなくて槍だったのだそうです。誇り高い彼らは,伝統を重んじ,よそからの文化を取り入れようとしないのです。イギリスの統治時代にも,彼らの取扱には手を焼いたと言われています。

 動物の乳と肉と血だけで生きようとしていたマサイ族も,今ではかなりの人達が現金収入の魅力に引かれ,観光客に土産物を売っています。しかしその地域に入ると立て札があって,写真を撮ってはいけないと書かれています。なんでも,彼らは写真に撮られると,魂を吸い取られると信じているとのことです。

 そのマサイ族の20人ほどの部落の頭と,われわれのマイクロバスの運ちゃんが知り合いだとかで,お金を出せば,マサイの家の中まで見せてくれるという話になりました。

 その金は,マサイ達の学校や家のために積み立てるということでした。

 道路からちょっと入ると,マサイの子供たちが寄ってきました。そして牛の糞と泥で固めた,高さ1メートルばかりの穴蔵のような家が5〜6軒,柵に囲まれていました。

 マサイ達があれほど嫌がる写真も撮ってもいいと言ってくれましたが,そう言われるとかえってなにか気の毒なような気がして,始めはみんなためらっていました。でも,一人がシャッターをきると,ほかの人も続きました。家のある辺り一面に牛の糞が積もり,子供たちの目や口には蝿がゴマンとたかっています。家に入れてもらうと,中は真っ暗でした。そこで蝿は暗い所へは来ないのだとか,妻は4人まで持ってもいいのだなど教えられました。

 マサイたちの中に,うちの孫のような可愛い赤ん坊がいましたので,写真を撮ってもいいかと尋ねますと,母親が激しく拒否の仕種を示しました。子供のことになると必死になる母親を,美しいと思いました。そして私は大変失礼なことをしてしまったのだと後悔しました。それで「グッド・ベイビイ」と,今度は私が必死でお愛想をすることになってしまいました。

 彼らを未開人呼ばわりすることはありません。我々だってついこの間まで,三人並んで写真を撮ると,真ん中の人の寿命が縮まるなど言っていたのですから。

 さて近頃,日本の海外援助について,国の内外からいろいろと非難の声も聞かれます。マサイ族のような極端な例を見ていて,自分なら一体どうしたらいいのかと,真剣に考えさせられました。

 現代の文明を忌まわしいと思っている人と,逆に望ましいと思っている人とが混ざって住んでいるところへ,入って行って何かをするとすれば,何をしてもその一方から非難の声が上がらない訳はありません。何もしないでいるのが一番無難なのですが,それさえも,人道的に放っておけない,待てない,という声がどこからか出てくるるのが実情でしょう。善意がスムーズに受け入れられるためには,時間の要素が絶対条件だと思います。そして,それは途方もなく長い時間であるに違いありません。

・赤道下白髪黒人杖を曳く

 

●サファリしたこと

 ケニア山からキリマンジァロ山へ移動する途中,アンボセリ動物保護区のロッジに泊まりました。ここにも数多くの日本人が押し掛けていました。次の日,我々はキリマンジァロの麓まで入るので,朝6時半からたった2時間,サファリというものの経験をあわただしく済ませました。

 この保護区は私達が見た東アフリカ高原地域の中でも,とくに地味の悪い,植物の少ない火山灰の原っぱです。こんな所にシマウマだとかヌーだとか,沢山の動物が生きているのは意外でした。人間が荒らす前には,この高原全体にどんなに沢山の動物がいたことかと想像されました。

 私達の車は幸運にも,アフリカ象の20頭ばかりの群れが,すぐ後ろを横切って行くのを見ることができました。長年の苦労で耳のふちがぼろぼろになった大きな雄象が,こちらをじっと見ました。彼と車の中の私と目が合ったと思いました。群れを守っている彼を見ていて,ふと亡くなった父親のことを思い出していました。

 象でもライオンでも,車の中にいて見ている限りは安全ですが,一旦車の外に出ると猛然と襲って来るのだそうです。ひょっとして猛獣たちは,自分達を何百万年ものあいだ苛め続けてきた人間共が檻に入れられているのを,いい気味だと思っているのでしょうか。人間社会でも,部長だ重役だという煙ったいのを,個室という名の檻に入れて隔離しているではありませんか。

 でも本当は,動物たちは自分を害するものは排除するが,無関係は無関係として「去るものは追わず。来るものは拒まず」と孔子様のような澄んだ心境にいるのかもしれません。群れを率いていた巨象の目は,人間だからねじけた考え方をするのだとでも言っているようでした。

・なにか似て花熱帯の日に揺るる

 

●アフリカと車のこと

 ケニアでは殆どが日本車です。タンザニアでは第一次大戦までの宗主国であったドイツの車が主力になっているようです。

 2週間旅をしてから日本に帰って来て、成田でリムジンに乗った時,まず最初に思ったのは,なんてノロノロ運転しているのだろうかということでした。

 今回行ったどこの道でも,車は猛烈にぶっ飛ばしました。部落の中でも警笛を鳴らすだけで,ちっともスピードを緩めない運転手もいました。総じて,アフリカで使われる車の警笛は連続使用に耐えられるものでなくては,使いものにならないと思われました。

 スピードメーターの針がまったく動いていない車にも2度乗りました。これでは道路脇にいくら制限速度が表示してあってもどうしようもないわけです。

 埃だらけの道を猛然と飛ばしていますが,そんなときエアフィルターがどうなっているのでしょうか,あっと言う間に詰まるのじゃないかと想像されます。

 サファリラリーなど有名な耐久レースでは,特定の車と特定のドライバーの組み合わせですが,そうでなくても実に多数の車が,特別の知識のない運転手に酷使され,それに耐えているのを見ました。

 このような国への車の輸出は,日本車の耐久テストになっている面があるのだと思います。これに耐えれば日本の道の上で車が故障するなんて,まるで考え難いことのように思われました。

 また,アフリカで見ていると,文明が西欧化してから初めて車が受け入れられるというものではないことが,つくづくと分かってきます。古い伝統に生きるマサイ族が,布切れをまとい裸足で牛を追っているそのすぐ横を,時速100キロメートルで車が驀進してゆきますがとくに違和感はありません。それは車が持つ隔離性という魔力のなせるわざに違いありません。日本の街で,新入社員が平気で社長を追い抜くのも,車が持つ魔力のなせるわざなのでしょう。

 また,国が豊かになってから始めて車が入っていく訳でもなさそうです。どんな文明のどんな段階にでも,それなりにうまく溶け込んで行く,車というものは不思議な魔力を持っているものであるわいとつくづく感心させられました。

・マサイ住む国境のまち燕とぶ

 

●外交について考えたこと

 いろいろの国を旅し,いろんな人達と接しました。そしてやはり,国により考え方に大きな違いがあることを感じさせられました。そのために,我々を連れていってくれた旅行社の若いリーダーは,相手と交渉していて何回も頭に血が上った様子でした。

 帰国の途上,ナイロビから成田に向かう便が,カラチで航空会社のダブルブッキング(二重予約)にあって予定した飛行機に乗れなくなってしまいました。キャンセル客を見込んで,多少余分に予約をとることはどこの会社でもすることです。しかし,150人の通過客のうち70人がダブルブッキングされ,途中から乗れなくなってしまったのは異常としか言いようがありません。それを謝るわけでもなく,仕方ないの一点張りで,一体どういう国なのかと思いました。

 でも,こんなこともありました。始めの便の代わりに遣り繰りしてくれたイスラマバード経由の便は,空港上空の悪天候のためちょっと遅れ,午前10時に着陸しました。すると「日本の成田に午後10時までに到着出来なくなりました。やむをえずここで12時間待機します」とアナウンスがありました。そして航空会社が休憩のためのホテルを用意し,時間潰しのために観光バスを仕立ててくれました。先方にしてみれば,成田のような、自分勝手な空港がある国って一体どうゆう国なのと思っていることでしょう。

 歴史や環境の違った民族の生き方を,お互いに完全に理解しろと言っても,それは不可能に近いことです。そして,それが100人や200人じゃなくて,何百万,何千万と現実に生きているのです。外交とは,しょせん理屈では解決できるものではなくて,妥協しかないなあと思ったことでした。

・盆過ぎの北京大天とんぼ舞ふ

 

●暑さ知らずのアフリカのこと

 アフリカと言えば、熱帯と言うイメージです。ナイロビ到着の日の午後2時,機長が空港の気温は18度だとアナウンスしました。はっきりしない英語でしたから聞き間違いかと思いました。でも,空港を出ると半袖ではうすら寒く,現地の人達はちゃんと背広など着こんでいました。標高が1700?ありますから,涼しいのはもっともなのです。

 アフリカ東部は,すこぶる広く平らな高原になっています。ケニア山の麓は,見た目には関東平野よりもなお広そうな平原ですが,それ全体が2000mの高さにあるのです。そこから3000m突き出たケニア山は標高約5000mということになります。

 行った時は乾期に当たるので,湿度は低かったのだと思います。そのために,体からの発汗による体温の調節機能がうまく働くのでしょう。我々は大体半袖でしたし,現地人にはキルティングを着ている人もいました。

 5000mをこす山頂は,氷河があるぐらいですから勿論寒いのです。だから今度の山の旅では,アフリカにいるあいだじゅう,全く暑い思いはしませんでした。

 平地は低い潅木か草が生えています。それが,乾期なので枯れて一面茶色になっていました。ただ,山のある所だけ雲がかかり雨が降るのです。山でも,いつも雲がかかるのは1500〜3000mのあたりだけです。その雨のお陰でマキ,ブナ,マツに相当するような大きな森も出来ています。それよりも高い所は雲海の上になり,大体晴れていますが,日照による上昇気流のため午後になると雲がかかり雨や雪がやって来るようでした。

・懸命に黒人売子ケニア寒

 

●アフリカの山へ登ること

 そうそう,本題の山登りのことを書落としてしまうところでした。

 山はケニア山のレナナ・ピーク(4985m)とキリマンジァロ・ギルマンズポイント(5685m)に登りました。

 レナナ・ピークには3000mまでトラックでゆき,あと1日目7時間,2日目13時間の2日の歩行行程でした。キリマンジァロは約1600mまで車でゆき,あと1日目4時間,2日目6時間,3日目6時間,4日目14時間,5日目7時間の歩行と,かなりのハードスケジュールでした。

 富士山が3776m,私の過去の高度記録がボルネオ・キナバル山の4101mですから,今度の山にはかなりのプレッシャーを感じていました。空気が薄く,いつも酸素不足でしたから,全般的に楽な山歩きではありませんでした。しかし苦しいことは始めから予期していましたし、環境が徐々に変わっていくことには,そんなに大きな心理的ショックは受けませんでした。

 したがって,こと新しく取り上げるとすれば,つぎの2点だけでしょう。

 4700mの小屋で寝た時のことです。起きている間は気をつけて深呼吸するようにしていましたが,眠りに落ちてゆくと酸素不足で苦しくなってきました。始めのうちは,はっとして2〜3回深呼吸をしていたので,その度に目が覚めてしまいました。そのうちに深呼吸は一回で済むことを発見してからは,どうにか眠られましたが,当然どうしても深くはありませんでした。不眠はみんなが訴えていました。

 もうひとつは登頂の朝のことです。5300mあたりで,ザクザクの砂で急な所が何箇所かありました。ここをつい日本の山を登っているときのペースで突破したのです。この時に冷たい空気を激しく吸い込んだため,気管支が軽い凍傷になったようでした。このあと,非常に苦しい思いをしました。ギルマンズポイントに一応の登頂を果たしたものの,このダメージのせいでウフルピークを逸したのは返すがえすも残念でした。

 ほんのちょっとの赤字でも,経済環境の厳しい時には倒産につながるようなものだと心したことでありました。

 通年,登山者はありますが,やはりこの地域の乾期にあたる12月,8月頃が多いそうです。また,一番多いのはイギリス人,あとオーストリア,ドイツ,フランス,カナダ,アメリカ,そして日本ぐらいの感じのようです。

 わが国も経済力から先行していたのですが,いまや遊びごころも先進国並みになりつつあるようです。

 

●豊かな心のこと

 航空会社のダブルブッキングでカラチに留め置かれとたき,どうしようもないので,他のグループの人達とお金を出し合ってバスをチャータし,観光に行きました。

 バスが警官に止められたとき,スピード違反で捕まったのかとみんなで言いあいました。ところがそうではなく,反対側の車線をブット大統領の車がくるのだということでした。そこでみんなで車から降りて見物しました。露払いの車が通ったあと,素敵なベンツが猛スピードで走り抜けました。「やっぱり凄い美人でしたねえ」とよそのグループの添乗員が頓狂に叫びました。無論本当は,誰にも見えなかったに違いありません。しかし国に帰ったら,皆結構「凄い美人だったよ」などと話していることでしょう。そんなところが外国旅行の面白いところだと思いました。

 カラチ市の人口は700万人,市街地は物凄い人また人の有様です。たまたま私の滞在した日にも,暴動で5人死んだと新聞に出ていましたが,どこでそんなことがあったのかと言わんばかりの街の表情でした。

 バスで街を抜け出し広いところに出ると,遠くに火力発電所や4導体の送電線が走っているが見えました。そんなことに気がつくところが職業病なのです。カラチの700万人の生活を支えるのにはやはり電気が要るはずだと,一生をそれに捧げてきた技術屋の私は,つい自分のしてきた仕事のことを振り返りました。

 国民の生活を豊かにしてゆくということは、遣り甲斐のあることであります。一時は製造者にも期待の目が向けられました。ところが豊かになってしまった社会では,すでに基本的な欲求は満ち足りているのですから,することといえば,製造者にケチをつけることになり勝ちなようです。訴訟の弁護士が異常に多い先進国など,既にそうなっているのでしょう。洗った猫の毛を乾かそうと電子レンジに入れて焼き殺してしまった婦人が,説明書に猫を入れるなとは書いてないと訴えたという話を聞きました。

 物が豊かになったから,これからは心の豊かさが大事だというのは,無理なことのように思われます。物が豊かになってしまってからも豊かな心,感謝の心を持ち続けることは,神ならぬ身の人間にはたして可能なことなのでしょうか。

 豊かになってしまうことは,不幸なことなのではないでしょうか。常にいくばくかの不足があって,ちょっとづつ豊かさに近づいてゆく状態が一番幸せなのではないでしょうか。国際紛争の絶えない,ある国では,銃を持ったぶっそうな軍人でさえ,国を守る人として有難がられているように見受けられました。

 

●おわりに

 昨年,ボルネオのキナバル山に登ってから,次はキリマンジァロだと,お酒に酔ったときなど口走っていました。しかし,自分でも内心では本当に実現するかどうか,大いに心もとないことでした。もしも,まわりの人が,そんな計画お止めなさいと言ったら,あるいは一目散に降りていたかもしれません。無論,やろうという気はありましたが,止める理由が出なかったのも実現につながる大きな要因でした。普通の山登りでも,途中,天気や時間の心配をしながら「かと言って,ここから引き返す理由もないしな」など思いながら歩いていることはよくあることであります。

 キリマンジァロ,それは10年前には経済的に高嶺の花でした。そして4年前には仕事の上で時間的にとても叶わぬ夢でした。そんな頃,キリマンジァロに登るつもりだなどと言ったら「この馬鹿者!」と,どやされるのは確実でした。

 今回は,山や辺境の旅を専門とする,ある旅行業者の計画に乗ったのです。そして指定の時刻に成田空港に行きましたら,なんと19人も集まっていました。そして,計画どおり、いとも当然のように,この大きな海外登山は進んでいったのです。

 見るもの聞くもの珍しい2週間の旅の間,私は頬をつねりながら「思ひきや・・」という古人の短歌を思い続けていました。まさに価値ある「思いきや」の旅でした。

 

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