題名:99年九州

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日付:1999/4/5


同行4人、名鉄バスセンターを21時に出る福岡行きのバスに乗りました。座席が横に3列ばらばらに配置された例のデラックス・バスです。

同じ福岡行きが3台も同時に出るのですから、大変な人気です。

外はもう真っ暗ですから,みんな車内で上映されるビデオに目をやるわけです。今日のビデオは、森繁久弥がボケ老人を演ずる「新サラリーマン物語」とか言うのでした。

しばらく見ていて、ふっと目を外に向けると、窓ガラスに映った自分の顔が今ビデオで見ているボケ老人と、まるでそっくりなのにひどくショックを受けました。

本当の鏡と違って、窓ガラスに映った顔は、皺はくっきり、しみは大きく映ってしまうのです。

 

糸島半島の二見浦と言うところに行きました。鳥羽のと同じように夫婦岩に注連縄が掛けてあるのです。

岩礁の多い所なのでしょう。折からの強い北風に吹き寄せられる玄界灘の大波に、辺り一面、まるで注ぎたてのビールのように海面が泡立っていました。こんな勇壮な海を見るのは始めてでした。

この辺りの海は、冬型の日には、いつもこんなに荒れるのでしょうか、藁を編んで作った注連縄は、丈夫なスチールワイヤに吊り下げられていました。

 

雨の中を、筑紫富士と言われる、姿の良い可也山に登りました。

今回は創価学会の研修所のある辺りから登りました。

途中ですれ違ったおじさんに「道が崩れていて、頂上には行けないよ。赤土で滑るから気をつけなさい」と親切に言ってもらいました。帰りに、またお会いできたら「怖かったので、崩れたところから、引き返しました」と言おうと思っていました。ところが今度は、おじさんを見かけませんでした。本当は頂上まで行ったのでしたが。

 

前原市の「い土城」へ行きました。標高200メートルほどの山々の頂上に、狼煙場があるだけのことでした。

思えばこの地域には30年前、一人で訪れたことがあったのです。装飾古墳とか、方形周溝墓、内行花文鏡などが話題を賑わせていた頃でした。昔、畑だった辺りは、今はもう昔の面影が残っていないほど家が建て込んでいます。

あれからどんな発見があったのでしょうか。今回は時間に追われて、それを確かめられなかったのが残念でした。

 

武雄のユース・ホステルのペアレンツはとても遣り手の人です。温泉のパンフレットの中に、旅館と並んでユースが入れてあります。また、出発するときに返してもらったカードには「あなたは武雄温泉の湯に入って、美男、美女になったことを証明します」と印刷されたカードが入れてありました。

瀬高町のユースは、ルノワルと言いました。なるほど、ルノワールの絵があちこちに掛けたり張ったりしてありました。どうも日本ルノワル会というものがあるらしくって、それの総会の写真も沢山ありました。

さすがルノワールです。私のような野蛮人でも覚えている絵が幾つもあり、本物でなくても、そんな絵に囲まれていると、なんか良い気分になってくるのでした。ここから車で10分も西へ行くと、北原白秋の生家がある柳川市です。

 

?日陰れば春は名のみの白秋館

 

雲仙岳の噴火は2年前に収まりました。前からあった普賢岳よりも200メートルほど高くなった、出来たばかりの平成新山に登るのが、今回の旅行の大きな目玉でした。

ところが近くへ行ってみると、冷たい雨と強風が吹き荒んでいました。それで、午前に登るはずだった順序を変え、支石墓と原城を先に見て、午後になってから如意岳とのコルまで車で入りました。しかし、濃霧のため、その先の道路が閉鎖されていて入れず残念でした。雲の切れ間から時折覗く山頂付近は、お彼岸だというのに霧氷で白くなっていました。

仕方がないので、雲仙温泉の地獄巡りをして引き上げました。

 

?春寒し魚屋の婆手の赤く

 

支石墓(しせきぼ)というのは、縄文時代から弥生時代に移る頃のお墓です。「島原ドルメン」と看板にありましたが、まさにそういう感じでした。平たい石で壁を作り、上に天井石を載せてあるのです。ここだけで大小100基を越す墓が見つかっているのです。死者を極端に折り曲げた屈葬の形で埋葬したと、説明にありました。

その後、弥生時代の甕棺、方形周溝墓を経て古墳時代、寺院時代へと、お墓の移り変わりも段々解明されて来ているのです。

 

原城にも行きました。

1637年、徳川体制がスタートして12年後、過酷な年貢徴収とキリシタン弾圧に反抗して、島原の乱が起こったのでした。

当時、既に廃城になっていた、この原城に立て籠もった反乱軍は、まだ14才だった盟主天草四郎をはじめとして、老幼男女3万人7千が皆殺しにされたのでした。

日本国内の戦では、民族が同じのせいなのでしょうか、織田信長の石山攻め、長島攻めなど以外に、あまり皆殺しの話は聞かないように思いますが。

島原の乱が哀史として語られるのは、時代が割に新しいことと、マリアさま信仰、信ずる神のためには命を捨てても節を曲げない、殉教者としてのイメージが、大きく影を落としているからではないでしょうか。

本当は宗教とは無関係な、消費税撤廃みたいなアジに舞い上がった人たちもいたことでしょう。そして、鎮圧する幕府の側にも,降伏を許さない厳しい意志があったような気もします。

インドの歴史を学んでいるうちに、国内の争いに外国の力を借りると、相手には勝ったが、よく見れば自分も外国に乗っ取られていたということになりかねないのです。

先進国の帝国主義がほぼ終わりかかった明治時代まで、我が国が侵略を受け付けなかったのは、徳川幕府の好判断と幸運とがあったためだろうと思うのです。

そう思うと、ともかく目前の悲劇は極力避けるべきだという私の持論には反するかも知れないのですが,島原の乱の皆殺しは、一揆に外国が手を貸す芽を摘むための、尊い犠牲だったと思えないでもないのです。

 

?芝橇に一族総出草萌える

 

島原市に近づくと、先年の噴火で出来た火砕流や土石流の爪跡が見えてきます。川の上流を目がけて、当てずっぽうに車で登って行きました。間もなく、観光客たちを乗せたタクシーが登ってきましたから、我々も正解だったことが分かりました。

見れば見るほど、この辺りの土地そのものが、何万年かに渡る噴火や火砕流、土石流の繰り返しで作られたものであることが分かります。

もしも噴火がなかったら、いまみんなが住んでいる土地は、出来ていなかったことでしょう。時間軸を変えて見ると、人間は結構、際どいことをして生きているものだと思えてくるものです。

 

?春霞火の国の山裾を引く

 

島原城は、城造りの名人といわれ、あちこちで城造りを頼まれた松倉重政が、ここの城主になり、自分のために、一揆を起こされるほど沢山の年貢を住民たちから取り立てて造ったお城なのだそうです。

こんな戦争の道具が、一度も使われなかったのは救いではありますが、それにしても空しいことですね。

 

近くには、ごつい石垣を巡らした武家屋敷街が、200メートルほどに渡って昔のままに保存されています。今となっては、毎日の生活に随分不自由でしょうから、貴重な史跡です。

弘前の伯父さんの家を思い出して、懐かしく思いました。

 

太宰府の天満宮では、3人の孫に一つづつ、学業のお守りを買ってやりました。なにせここは本場なのですから。

天満宮の神主さんは、今でも、ここの祭神、菅原道真公の子孫だということです。1200年もの間、子孫を食べさせている道真公って、大変な人だねという話になりました。

天満宮は、もともと雷除けの神様のはずです。いわば道鏡の非を直言しただけで罪がないのに、九州に流された道真公は、京都に雷を落として祟りをしたのですから。

それなのに、いち早く将来の教育ブームを先取りして、受験合格という現世の御利益をキャラクターとして採用されたのは、すごいですね。

そう言えば、神道のお宮さんでは、武運長久、商売繁盛、縁結び、安産、火災除け、交通安全、大魔人神社とか、とかく現世の利益をタイミング良く取り入れる体質があるのかもしれません。

 

順序が逆になりましたが、今回の旅行で最初に訪ねたのは、1270年代に築かれた元寇防塁でした。

1274年の最初の戦いでは、蒙古軍と高麗軍からなる4万人の連合軍に大敗、上陸を許し、日本軍は太宰府近くまで逃げたのでした。それから7年後に2回目の侵略を受けるまでの間に築いた防塁なのです。

ちょっとした土塁の上に岩を置いたもので、博多湾一帯に築かれたのでした。全国の領主にその石高に応じて、築造する長さを割り当てたのだと言います。

第2回戦では、今度は連合軍は上陸できませんでした。防塁というハードウエアも威力だったでしょうし、戦術というソフトウエアでも、反省の上、改善されていたので

しょう。「ヤーヤー我こそは」式の個人戦から、誰の矢が相手を射止めようと、とにかく勝てばいい式の集団戦に切り替えられていたのでしょう。

攻めあぐね船に留まった連合軍は、かの有名な神風に吹き散らかされ、日本侵略の野望は潰えたのでした。

蒙古、高麗の連合軍は、今の言葉で言えば中国、韓国の連合軍です。侵略の進路にあたる壱岐、対馬での残虐行為は箱崎八幡宮の絵巻に記されています。

 

久留米の高良山(こうらさん)と八女の女山(ぞやま)で神籠石(こうごいし)を見ました。山のかなり上の方の中腹を、岩の壁が延々と取り巻いているのです。

古代宗教では山や大樹が、神の拠代(よりしろ)とされていた例があります。そのため以前は、この岩の壁を宗教的な祭祀遺跡と考えた説もありました。神籠石という名前は、そのような解釈からつけられたのでしょう。

今は、神籠石は朝鮮式の山城だと考えられています。江戸城、名古屋城などの石垣から見れば、取るに足らぬ障壁ですが、山の斜面にあるので、下から攻め上る側にとっては、武器を離し両手ともフリーにしなくては越えられないので、結構な障壁になったはずです。

昨年見た岡山の鬼ガ城も同じ造りでした。このほかにも同じような山城は、この時期に四国、近畿にも造られたのでした。

天智天皇が朝鮮の白村江(はくすきのえ)で,唐と新羅の連合軍に大敗し、今にも日本本土まで攻め込まれるかと恐れ、防衛戦に備えて造ったものと言われています。

 

今度の旅で、当時の九州の政治、経済、軍事の中枢であった太宰府の防衛ラインと言われる水城(みずき)、「基い城」、大野城を訪ねました。

なるほど、水城は両方から山が迫った地点に、堀を設け土塁を築いたものですから、北から攻めてくる敵を食い止めるためのものでしょう。

しかし、「基い城」と大野城は、太宰府を守るための城ではなくて、太宰府は放棄し、山へ逃げ込んでゲリラ戦に持ち込むための城と思われます。

歴史にイフはないと言いますが、もし中国・韓国の連合軍が押し込んできて、太宰府軍が大野城に逃げ込んだらどうなったことでしょうか。

水陸18万人といわれる連合軍は、一部を残して次の戦線に移って行くことでしょう。何人ぐらい残して、なにをするのでしょうか。

財宝を奪い、収穫をピンハネし、次の戦闘のために徴兵するのでしょう。

そういうことは前の為政者たちもしていたわけで,住民から見れば、無血交代だけを望んでいたのかも知れません。

でも、今も世界の各地で起こっている紛争を見ていると、人類の遺伝子のDNAには、理性的な損得判断よりも、もうちょっと愚かで、残虐行為に走る、恐ろしい感情的な情報が組み込まれているとしか思えないのです。

今の日本のように、為政者になりたい人たちが、それぞれバラ色の政見を述べ、それを国民が、ある程度本音を読んで、投票し、選んでいるのは、まことに幸せなことだと思います。

南米のボリビアやアフリカのナミビアが日本に攻め込んでくるとは思えません。トラブルは、とかく近くの国との間で起こるものなのです。

今回の旅では、昔からずっと、その玄関口にいた九州北部を訪ね、そのご苦労と、歴史の重みとを噛み締めたのでした。

 

?野火走る昔天智や戦きし

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