題名:孫の時代 死語

 

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日付:1998/4/25


先日、春休みで、孫たちが千葉県の我孫子から来て、一週間ほど滞在していた。

帰る日も近くなったとき、家内が「この子たちの言ってるカシラってなんのことだか、やっとわかったわ」とさも納得したように言った。

実は先日、かしわをゆでて食べさせたところ「おいし、おいしい」と食べたあげく「もっとカシラちょうだい」と言ったのだそうである。カシラってなんのことと家内が尋ねると、チキンのようなものと答えるのだが、その時は家内はとうとう何のことだか分からなかったのだという。

この子たちの母親は、私たちの娘で三十ウン才である。

その世代の家庭では、「かしわ」という言葉をつかわず、今夜はチキンよ、と言っているようである。だから、孫たちは、かしわという言葉は使ったことがなく、チキンによく似たカシラという肉は、名古屋のおばあちゃんの家にしかないものだと、思っていたのであろう。

かしわという言葉が、すでに死語になりかかっているのは、新発見であり、シヨックであった。

 

90才になる母たちの会話を聞いていると「最近、街で看板を見ていると、カタカナや英語が多くて、これが日本かしらと思っちゃう」など嘆いている。

なるほど、レジデンスとかクリニックなど、なんとなく高級そうに聞こえる言葉が幅をきかせ、その裏で多くの言葉がいつの間にか、使われなくなっている。

外套とコートとの、どちらでも抵抗なしに頭が受け入れてくれる中は、どうということはないが、いつの間にか、どちらかが通用しなくなってゆく。

もともと歳をとるに従って、時間の経過が想像以上に早く感じられるようになって行くものである。

だから、昨日まで普通に喋っていた言葉が、あっという間に若い人に通じなくなってゆく。

 

食後、一番年下の、太一という孫が膝に上がってきた。

「じいちゃん、チョがつく果物知ってる?」と話かけてくる。

急には思いつかないから、考え込んでいると、4才年上の姉が通訳にシャシャリ出た。

「太一、チョコレートのことでしょ」と姉は、似たようなレベルの思考体型を武器に、横から助言する。

わたしはチョコレート好きなので、妻がバーゲンでビターの板チョコを山ほど買ってきてくれてある。

それを、冷蔵庫に積んでおいては、食後にひとかけらづつ、ちびちびと食べているのである。

孫たちが、来てからは、ひとりで食べる訳にもゆかず、孫たちにもお裾分けしてやることにしていた。

太一は、そのお裾分けの催促をしにきたと言うわけである。

多分、彼らの家では、食事の時に「まだちゃんと座ってなさい。デザートを食べてないでしょ」とママに言われて座っていると、そのうちにフルーツが出てくるのであろう。

確かに、デザートは果物である場合が多い。

幼い頭で、デザート、フルーツ、果物など、食後の食べ物を言うのに、おじいちゃんに通じやすいのは「果物」だと考えたのであろうか。なんとも可愛い知恵である。

ともかく、チョコレートは果物にされてしまった。

わたしがその年頃だった頃は、誰それの分け前が大きいなどと言っては、兄弟喧嘩の種になったものだが、いまの子たちは「決めるのは、おじいちゃん」と言って大人しく待っている。

そんなにされると、かえって公平な配分に気を遣ってしまうのである。

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