題名:メキシコ駆け回り

重遠の入り口に戻る

日付:1998/12/15


(1998/10/3〜10/14)

 

 

今回のメキシコ旅行の主な目的は、この国の最高峰5700メートルのオリサバ登山とマヤ、アステカの遺跡訪問でした。

 

●オリサバ登山

今まで書いた海外登山紀行では、山について必ずしも詳しく触れていませんでした。

しかし今回は、老境に入り、自分の山登りはこれからどうなっていくのかというテーマに取り組もうとする気持ちもあり、また挑戦し敗退した結果、思うところもありで、いささか突っ込んだ書き方にしたいと思っています。

 

●退却

「貴殿が小生をオリサバに登らせようと大変な努力をしてくれたことに深く感謝する。しかし、小生の体のコンでションは今日はちょっとおかしい。どうも物がはっきり見えず、体のバランスが悪い。そのために異常にエネルギーを使っている。とても頂上は無理だ。引き返すこととしたい」。

お恥ずかしい話ですが、思いがけなく早く、たった2時間ほどしか登っていないのに、もう、あっさりとこのように、ガイドにリタイア宣言をしてしまったのでした。

今回ついてくれた山岳ガイドのセニョール・クリストバルは、オリサバに65回登ったという優秀なガイドです。前々日から一緒に行動しており、私の登りのスピードも把握していて、標準登高時間8時間のこの山も、今日は12時間の登りになるかも知れないと、運転手のフェラーリに漏らしているのを私は知っていたのです。

それはスペイン語しか分からない運転手と二人だけいたときに、お愛想に「街から小屋まで車で何時間かかるか」と片言のスペイン語で尋ねたとき、彼は取り違えて「ドウセ(12時間)」と答えたからです。車で小屋まではどんなに長く見ても2時間程度なのですから。

 

標高4260メートルのピエドラ・グランデの小屋を出たのは、午前1時15分でした。

幸い、ほぼ満月の時期であり雲もなく、ヘッドランプが要らないほどでした。

小屋を土石流から守るための排水溝を2条、横切って登っていきました。

岩礫の散らばった斜面の、かすかな踏み痕を、辿っていくのです。

オリサバは火山ですから、この辺りの山相は焼岳、妙高山といった感じでした。これは、標高が高くて木がないので、日本の新しい火山と似た姿に見えるのかも知れません。

 

リタイア宣言をしたのは、標高にして、4500メートル弱のところだったと思います。私の日本製の腕時計の高度標示範囲は4000メートルまでしかなくて、その面では昨日から、高度計はもう盲目になっていたのです。

薄い空気のため、息が苦しいのは毎度のことです。それはちゃんと覚悟して いましたから、用意してくれたランチ・ボックスから、ビン入りのジュースとリンゴと抜き取って小屋に残し、荷の重量を必要最小限に抑えているのです。それでも今回は頭がぼーとして、なんとなく集中力がなく、その結果体のバランスがおかしく感じられるのでした。

体のバランスが悪いために、正常なときだったら、土や岩角にちょっと触っているだけのピッケルに、力をかけざるをえないのでした。そのために腕が疲れて、持っているピッケルを重いなと感じさえしたのです。こんなことは生まれて初めての経験でした。

いつものように上体を真っ直ぐに立て、脚だけ使って登っていくのと比べると、富士山で見かける日頃山など縁のない人がしているように、杖に縋り付いて登るのとでは、体力の消耗は全然違います。

こんな調子で、5000メートルの薄い空気の中を、あと約10時間も登り続けるのは、とても不可能と判断したのです。

 

リタイア宣言をしてから、ともかく10メートルほど下りました。そこで私は足を止めました。

こんな状態で、いざ下ってみると、それもとても大変で、かつ危険にも思われたのです。

そこでクリストバルに「さっきは、ああ言ったが、下ってみても、どうも目がはっきり見えず、体のバランスがとれない。

これは夜で暗いためであるためかもしれない。サン カムズ アウトまで登り続けてみたい」と方針変更を伝えました。

こんな風に書いていると、いかにも会話ができているように聞こえるかも知れませんが、私のスペイン語はひどい片言ですし、彼も日本語はぜんぜんだめ、このため英語で会話をするのです。ところがこのときは、彼にはサンが分かってもらえないのです。サンシャインとかサンライズと言ってみても駄目なのです。

あとで調べてみたのですが、簡単な会話の本などには、「太陽」や「月」は出ていないのです。分類すればこれらは学術語に属するのでしょう、このことは意外でした。

 

しかし、なにせこの小世界には二人だけしかいないのです。思っていることがいつまでも通じない訳はありません。ともかく登り始めました。こんどは彼も気が楽なので、ゆっくり行ってくれます。私も薄い空気を確かめながら、着実に登っていきます。

 

広い傾斜した岩の壁に、昼間は上の氷河からの水が流れていたのが、夜のうちに凍ったところをトラバースするところはスリリングでした。靴の下につけたクランポンの鉄の爪が、氷を突き通し、岩にがっちりと食い込みます。

二人がザイルで結んでいても、こんな所で相手が滑り始めたら止める手段はありません。当然、ばらばらで一歩一歩確実に行くより方法はありません。

あとは雪の斜面を行きます。ところどころ氷になっているので油断はできません。

いつのことなのか、前に登った人が残した足跡を辿っていきますが、もし滑ったときにどこまでも流されて行かないように、下に露岩があって、なんとか止まりやすいようなルートを自然に選んでいるのが分かります。微妙な、登山者の心理なのでしょう。

氷河末端の、氷が崩れた大きなブロックの中を縫って進むようになると、雪面の傾斜も一層急になってきます。薄暗い中で踏み出した足が、思ったより早く雪面に当たります。脚がもう十分上がっていない証拠なのです。

小屋を出てからもう5時間経ちました。夜明け前の一番気温が低くなる時間です。氷河から吹き下ろす冷たい空気の流れの中で、足を止め息を整えてていると寒くてたまりません。大分明るくはなってきましたが、これ以上登高を続ける気力はもう残ってはいなかったのでした。

その今回の最高到達地点は、ガイドのクリストバルが持っていたアメリカ製の高度計付き腕時計によれば、5000メートル弱、今日予定していた標高差の約半分を登ったことになります。

 

オリサバはなかなか厳しい山です。山の厳しさは、足で登る標高差、空気の薄さを表す標高、そしてルートの危険度、気象状況などで表せます。私が今まで経験した山の高度差と標高を次の図で見てみましょう。

キリマンジャロは標高約5700メートル、標高差約4000メートルですが、4日かけ、毎日1日当たり約1000メートの高度差を登っています。オリサバは宿泊地4261メートルから頂上の5699メートルまで、一日で標高差1438メートルを往復せねばならないのです。しかも標高5000メートルあたりの薄い空気しかないのです。

富士山頂3776メートル辺りでは、空気の濃さは地表の2/3,キリマンジャロ、オリサバの5700メートルでは1/2になってしまいます。

胸一杯に空気を吸い込んでも、そのなかの酸素の量は半分しかないのですから、放っておけば血液はだんだん酸素不足になります。このため深い呼吸を頻繁にして、酸素を取り込む努力が必要です。

また、取り込むことのできる酸素に見合った登高スピードに抑えられることになります。

その様子を98年5月に御嶽山に登ったときのデータで示したのが次の図です。

御嶽山では、駐車場を出たばかりの標高1500メートル付近では毎時480メートルの登高速度で登っていたものが、標高3068メートルの頂上付近では毎時250メートルにまでスピードが落ちてしまっています。

それからもうひとつ、大きな登山では、本体の山に取りかかる前に、それよりもちょっと低い山に登っていることに気がつかれると思います。

人間の体は、薄い空気の中に滞在していると、ある程度はその環境に適応するように、耐える能力を獲得できるのです。その作用を高所順化といいます。

59才の時のキリマンジャロ登山では、事前にケニア山5000メートルに登っています。また、この時はアフリカに行く前に、日本でも御嶽山、富士山に登ってから行ったのでした。おまけに、スポーツセンターの減圧室で、6000メートル相当の薄い空気の中で、自転車漕ぎのトレーニングまで受けて行ったのでした。

67才の時のモンブランでも、事前にブライト・ホルン、アラリン・ホルンと二つの4000メートル峰に登っています。

今回も、前々日にマリンチェ峰、4461メートルに登ったのでした。

その今回の高度順化の状況についても、ちょっと書いておきましょう。

 

?朝日差す氷に鉄の爪を立つ

 

●高度順化

10月3日、成田を夕方16時に出て、メキシコシティに同じ日の17時につきました。実飛行時間は14時間、待ち時間も入れれば16時間の旅です。サマータイムで時差は14時間、ほぼ昼と夜が反対になっています。

次の日の朝、ガイドがホテルに迎えに来ました。その後、車を飛ばし、午前10時にはもう標高3000メートルの登山口から歩き始めていたのです。そして4461メートルのマリンチェ山の頂上を往復しました。

登りの標準時間は4時間だと言います。私は6時間かかりました。

始めの1時間は、だらだらの林道だったので高度差は200メートルしか稼げませんでした。残りの1200メートルを、標高4000メートル辺りの空気を吸いながら、1時間400メートルのペースで登るのが標準というのは、ちょっと凄いのですが、私のような凄くないのが来たのが間違いだったのかもしれません。

この足慣らし登山は、1日で徳沢から槍ガ岳を往復するような大仕事で、高度順化もできましたが、疲労も溜まりました。

この日の経験は、先行きの見通しを明るくするものではありませんでした。

4200メートル辺りから、また一段と息が苦しくなってきました。苦しいのに馴れるのも、予備登山の目的の一つだからと自分に言い聞かせ、着実に高度を稼いで行きました。でもそのうちに、今までに経験したことがなかった現象に気がついたのでした。

 

 

 

頭がボーッとするというのか、目がはっきり見えないというのか、要するに意識がいまいち散漫になっているのに気がついたのでした。

この辺りの山では、スイスや日本のアルプスのように、しっかりしたルートがあるわけではないのですから、よほど慎重にステップを選ばないと、体のバランスを失うのです。それも後ろに、のけぞる様になりかかるのでした。

そんなとき意識して足を止め、深い呼吸を繰り返していると、まったく平常に戻るのです。こうして血液中の酸素濃度を高めては4,5分行動し、また蓄積にかかる、その間に次に登るべきルートを目で確かめておく、そんな登り方を続けたのでした。

 

この高度順化の登山からオリサバに向かうまでの2晩、オリサバ挑戦の戦略を、夜中、ベッドで考え続けました。

マリンチェ山での、あんな登り方を10時間も続けるのはとても不可能なこと、それなら、標準の8時間で行けるところまで行って引き返す案、そのあと2時間程度で登れそうなら、ガイドに無理を頼むことなど実に色々の選択肢を、繰り返し繰り返し考えました。

 

私はこの10年余、1種の高山病になっていることを認めます。つまり標高の高い、空気の薄い山にチャレンジし、いろいろの障害に対応しながら、乗り切って行くのに、病的な興味を持ち始めているのです。そして去年のモンブランまでは、なんとかしながら登頂できてしまったのでした。

しかし、こんな山登りは、低酸素による障害の増大と、老化による体の性能低下から、いつかは壁に突き当たる運命にあるのも分かっていました。

 

そしてこの日の経験から、こんなことをしていると、いつかは軽い意識障害のなかで、些細なミスから滑落するという話の筋が見えてきたような気がしたのでした。

エベレストにでも登り損なったのならともかく、それしきの山で何をほざくか、と笑うなら笑って下さい。

私としてはこれでも、かなりマジでものを言っている積もりなのです。

 

いまの私には、この程度の山でも、自分の限界を論ずることができるような気がするのです。

まず年齢です。髪は白いし、胸も脚も筋肉は、もうげっそり落ちてしまっています。

また、こんどは高度順化が不十分でした。5月の御岳3063メートル、7月のテンゲル・ハイルハーン山3942メートルだけでした。もちろん、富士山も狙っていましたが、今年のお天気では無理でした。

そのうえ、体調が悪かったのです。

1週間前から風邪を引いていました。風邪にもいろいろありますが、今回のはたいそう気分が滅入って、粘っこい鼻汁と痰の絡む種類の風邪でした。

往路、メキシコ・シティのベニート・ファレス国際空港へ着いた最初の仕事は、トイレに駆け込むことだったのです。

もともと体調というものは、良い悪いの二つでは割り切れず、その間の段階で表すべきものです。今回の風邪は熱や咳はありませんでしたから、体調は総合的には73点ぐらいだったでしょう。でも肺の酸素取り入れ能力は60点ぎりぎりがいいところだったと思います。

クリストバルは「もう1日高所順化にかけるべきだった。同じ小屋に泊まっているドイツ人たちはそうしているじゃないか。そうすればきっと登れたのに」と2度も言いました。

しかし今は、私自身、今回の苦い経験から、精神面も含め、オリサバはちょっと無理じゃないかと思っています。

でも時が経つと、また何時かは、自分のことを甘く考えるようになる日が来るのかしれませんが。

 

?小屋近く失意の山を語り合う

                 

●運命

お聞き苦しいと思いますが、どうして体調が悪かったのかちょっと聞いて下さい。

9月23日に熱田神宮の能楽殿で、私の謡の会の年一回の発表会があったのです。

その日に家内と二人、エアコンのせいで風邪を引いてしまったと信じているのです。

昔、豊臣秀吉が能を舞ったときにエアコンがあったとは聞いていません。だれも、汗ダラダラの時期には能などやらなかったのに違いありません。

有り難い、この御代のことです、能楽殿には悪名高き空調設備があります。つまり「夏は毛皮のコートを持って行け、冬はTシャツまでに脱げるように」と言われているのです。

もっとも観能の空調には難しい点があるのです。舞台に立つ演者は厚い衣装を付け動き回っているのに、観客は普通の服装でじっと座っているのですから。

今年のその日は、夏の部類でした。冷房が寒くて寒くて、家内が事務局の方に頼んで冷房を止めてもらいました。すると今度は止めどもなく暑くなってきて、どこからか声があったのでしょう、客席はまた極地の寒さに戻りました。

なんでもこの空調設備は、暖房と冷房と停止しか選択できず、それも能楽殿の管理人さんが神宮の事務所に電話で運転をお願いするので、そう度々は言い出し難いということなのだそうです。

もうかなり以前から日本の街では、小さな車まで、エアコンをオートに入れ、希望する温度をセットするだけでみんな快適な車内環境の中で運転を楽しんでいます。そんな車が、エンジンやハンドルや、タイヤまでついて100万円強の値段で買えるのです。エアコンの制御装置など大した値段じゃないことでしょう。

 

能楽殿のエアコンは、いくら古いと言っても草薙の剱ほど古いわけではありませんが、古いものを必死に守って行こうとする神宮の気持ちが表れているのでしょうか。

先日、北陸線の列車に乗ったとき、同じ問題を若い人が車掌さんに投げかけていました。

その年輩の車掌さんは「済みません、この車体は私と同じでもう古いものですから、暖房、冷房、停止しか出来ないのです。ときどき回って、冷房を入れたり切ったりして、出来るだけご希望の温度にしたいと思いますのでご勘弁を」と言っていました。

熱田神宮を民営にすることなんてできませんよねえ。

 

また、こんなことも思いました。観世流に玄象(げんじょう)と言う名の能があります。それはこんなストーリーなのです。

昔、藤原師長が琵琶の奥義を勉強するため唐に留学しようとします。途中、須磨の浦で一夜を過ごすと、夢の中に、琵琶の名手、村上天皇の霊が現れ、素晴らしい演技を見せます。師長はいたく感じ入り、日本にもこんな素敵な先輩がいたのに、それをさておき大国に勉強に行こうと思った自分は浅ましかった、所詮、渡唐は止めようと悟るのです。

熱田の神様も、日本に良い山がいくらもあるのに、ナンデ外国の山などへ行くのかと止めて下さったのかもしれません。

 

?帰国の夜日本の秋の懐かしき

 

●最後の贅沢

20年前には、海外の山に登りに行くなどとは考えもしませんでした。ひょんなことから1983年に台湾の新高山に登ったのが始まりで、やさしい山に次々と登って来ています。

振りかえってみると、日本にはない高い山に、それなりの苦労をしながら登ったことも貴重な思い出ではありますが、その前後に経験した、外国の社会探訪も、貴重な、楽しい思い出になっているのに気がつくのです。

山への旅行の途中に見た、タイペイ、ポカラ、カラチ、イスラマバード、ナイロビ、ラパス、ベルン、ウランバートルなど、もとても良い思い出になっているのです。

そんな目で見ると、アステカやマヤの遺跡のあるメキシコの山は当然有力な候補になるわけです。

そのメキシコの国にある高峰の中で、あまり高級な登山技術のいらないポポカトペテル山5400メートルは、大分昔から対象として狙っていました。

ところが、この山は数年前に噴火を始め、登山禁止になってしまったのでした。

そのことと、97年に登ったモンブランが、わりと順調に登れたことから、あわよくばと、無理を承知でメキシコの最高峰オリサバを選んだのでした。

現役の仕事を終わって2年目になる今年の海外の山は、モンゴルの未踏峰テンゲル・ハイルハン3941メートルと、このオリサバ山に決めたのでした。

オリサバへは当初は5月の登山ツアーに参加する予定していました。ところが謡の会の会合が丁度この時期にあり、それに出席しないと、除名されかねない雰囲気だったのです。

68才の今は、たった半年のことでも能力低下が高所登山には不利になるのは分かっていましたが、謡も一生の趣味として捨てがたいのです。真剣に悩んだ末、山のほうを10月に延期したのでした。

そう言うわけですから、オリサバ登山ツアーにはもう6月に申し込み証拠金を払い込みました。そして、山旅が終わった後には、団体ツアーと別行動をしたいと自分の計画も通知し、打ち合わせを済ませていたのです。

8月には、高所滞在で必要とされる医師の診断書も送りました。ところが、一向にツアーの旅行社から連絡がないのです。

2週間前になり、こちらから電話をすると、私と東京の一人以外にツアーのメンバーが集まらないというのです。

団体ツアーでなくても、少々の追加料金ですむこと、体力の低下からもう残された時間は長くないこと、そして5月に泣く泣く延期したことなどから、計画どうり決行することとしたのです。

東京の人は降りてしまい、結局、一人になってしまいました。

前述の通り、日本とは夜と昼とが丁度逆転する時差のメキシコ・シティーに夕方着き、次の日の朝、ホテルのロビーで、今回の山行のガイドを勤めてくれるクリストバルと落ち合いました。

モンブランのときのように、ガイドが自分でサニークラスの車を転がして来るものとばかり思っていましたら、なんと9人乗りぐらいのワンボックスカーにフェラーリと言う名の専門の運転手がちゃんとついていたのです。このへんの様子は、まさに団体ツアーのベルトに、私が一人だけで乗っているという感じでした。

その時、私はこんな大の男二人にかしずかれるような大それた登山家ではないと感じました。

今回の旅行が成立した経過はすでに述べましたので、私がこんな贅沢な事態を全く予期していなかったことについては、理解が得られると思います。

 

 

 

そしてもう2度とこんな贅沢などするまい、そう固く決心しました。

ところが、オリサバの麓のトラチチュカという部落から、登山基地のビエドラ・グランデまでは、また別のオフロード車で別の運転手が連れていってくれたのです。なにせ凄い悪路ですし、また、やたらに分岐があるのだから、これも仕方ありません。

先ほどのフェラーリ運ちゃんは、我々のコックでもあるので同行しました。だから、この時点では3人の大の男にかしずかれていたことになります。

私は器量が小さい人間ですから、もう2度とこんな贅沢はしちゃいけないと思っているのです。

 

?異国なり食用茸に手を出さず

 

●メキシコ

メキシコに長年住んでいる日本人がこんな話をしてくれました。

昔、メキシコ人から黄金を始め、数多の財宝を奪ったスペイン人たちは、それを元手にして、いまだに自分たち白人の間だけで結婚し、人口の15パーセントの閉鎖社会を形成し、経済を牛耳っているといいます。

また、百余年前ニューメキシコ、テキサスとメキシコの半分以上の領土を奪ったアメリカ合衆国にも反感を持つ人は多いとのことです。

300年に渡って支配していた、スペインへの憎しみと諦めは、我々には想像できないものなのでしょう。

こういうことは、本にも書かれており、考えてみればいかにも、もっともなことだと思われるのです。

しかし私の場合、こういうことに、その国に行って、聞いて、見てやっと気がつくのです。

一般論として、ある国が、あるいはある人が、大きな問題を抱えていても、とくに変化がなくてそのまま流れていれば、地球上の殆どの人からは問題視されないものなのでしょう。

今、流れが急速に変わりつつある日本では、あっちこっちで「悪事」が摘発され、大騒ぎされていますが、メキシコが抱えている問題と比べると、どれもこれも取るに足らないものばかりのように思われるのです。

それだけ日本人は幸せだと言って良いでしょう。

国連に加盟している国は、設立時は51カ国でした。それが60年代からアフリカ諸国の独立が始まり、現在187カ国になっています。

187カ国のうちで、日本のように独立記念日のない国はいったい何カ国あるものでしょうか。

人類の数百万年にわたる歴史の中では、長年に渡り、土地を始めとして欲しいものは何でも、力で手に入れるのが当たり前だったのでしょう。

現状維持が正義だと言わんばかりの国際法などできたのは、まだ、100年そこそこなのです。

そしてアフガニスタンなど地球上のあちこちの国際法の及ばない国内紛争では、未だに激しい殺し合いを繰り返しているではありませんか。

独立記念日を待たない、つまり独立前の力による抑圧の時代を知らない日本人が、国際関係について普遍的な認識を持ち得ないのは仕方のないことなのでしょう。

 

メキシコ・シティーは人口2000万、世界最大の都市です。

北緯19度(フィリピンの北端ぐらい)、標高は2200メートル、10月の気温は名古屋よりかなり寒い感じです。

京都とは比べにならないほど広いのですが、やはり周りを山に囲まれた盆地なので、世界最悪の大気汚染地区だと言われています。もっとも短期間の滞在で、どうのこうの言うほどそれが分かるわけはありません。

でも、あるとき黒い煙を吐いているバスを見たときに、日本みたいだなと思ったことがありました。いろいろなことの技術レベルがどうかは知りませんが、浮遊粉塵に関しては、かなり気を遣っているのではないでしょうか。

また、地下鉄の料金は世界で一番安いと称していて約20円、改札を出なければどれだけでも乗れます。

市内バス料金も約20円で、頻繁に走っています。いずれにしても、大気汚染対策については、出来ることはやっているように感ぜられました。

ついでに言えば、満員の車内で、日本のように自分の横にデンと荷物を置いているような人は見かけませんでした。きっと、まだ咎める人がいるのでしょう。

 

この市に限らず、自動車がスピードを落としたり止まったりするところ、つまり信号のある交差点とか、鉄道の踏切などには、例外なく物売りが待ちかまえています。

彼らが新聞やジュースを売りつけるのには、さして驚きませんでしたが、こんなような信号待ちをチャンスとして、車のフロントグラス拭きや、煙草の火付けまで商売にしているのにはびっくりしました。

 

靴磨きも多いのです。店構えを持たずに、道具一式を持って歩いているのもいます。私は旅行中ずっと登山靴で通しましたので、うるさく言われることはありませんでした。それでも一度だけ、若い流しの靴磨きに声をかけられたことはありました。

その彼に、メキシコ滞在中一番頻繁に使い、最も上達した言葉、ノ・グラシャス(ノー・サンキュー)と言いましたら、彼はさらにネセサリとねだりました。それは英語なのかスペイン語なのか分かりませんでしたが、ともかく意味だけは通じてしまいました。

 

彼と同じような年頃の青年たちは、同じ肌の色のヒーロー、タイガー・ウッドを憧れの的にしているようで、野球帽をかぶったウッドが、あそこにも、ここにもウロウロしてるという様子でした。

 

物乞いも結構沢山いました。

仕事を得るのに、たいへんな苦労があるといいます。

仕事といっても、一回20円の料金を取るために、立派な青年が一日中トイレの前に座っています。外人相手の観光バスはそこで止まって、トイレをすませておけと宣伝をするのです。

メキシコ・シティーで一番高い建物といわれる、ラテンアメリカ・タワーのエレベーターは、自動ではなくて専任の若いエレベーター・ボーイが運転していました。

メキシコの人は、自分の感情を率直に行動に表します。ここの展望台を訪ねたとき、登りにも下りにも、このエレベーター・ボーイに、同じビルで働いているOLたちが張り付いて、キャンデーなどを貢いでいました。

彼氏は、坊ちゃんタイプの可愛い小太りの男の子でした。一日に何度剃刀を当てるのでしょうか、顔のつるつるした彼が糖尿病にならないことを祈りました。

 

お巡りさんも一杯います。

ライフル銃を持って、防弾チョッキを着込んだ物々しい警官も見ました。気候がそんなに暑くはないので、格好いいのかもしれません。

街の中心の50メートル四方ぐらいの公園に、男女2人組になったパトロール警官が2組もいたこともありました。

また、ラッシュアワーには、市中心部のメインストリートの交差点全部に警官が張り付いた感じです。当然、機械と違って眼前の状況に弾力的かつ合理的に車の流れを捌いています。

あるとき、夜遅く空港に着いて都心のホテルまでワンボックスカーのタクシーに乗ったときのことです。元気の良いお兄さんの運転でした。

彼はラッシュアワー方式で、しかも自分が警官になったつもりで運転するのでした。

つまり信号が赤でも、左右を見て安全だと判断できれば、発進するのです。一方通行も同じ方式で処理します。随分、あちこちでお客を下ろしましたが、意外に早く着きました。

 

メキシコ人の生活について、日本との比較であれこれと言いますが、向こうの生活に入ってしまえば、みんなそれなりに当たり前の暮らしをしているように思われます。

モンゴルへ行ったときもそう感じたのですが、土地の人たちの暮らしを、為替レートで換算すると貧しいように思われ勝ちですが、現実には物質的にも精神的にも、決してみじめな感じはありません。服装も小綺麗ですし、メンタルな面でも、良いレベルにあると思われました。自尊心の面でも、立派と言ってよいでしょう。

日本の諸々の面の豊かさは、もとより結構なことですが、それと引き替えに、他人への思いやりを失ってしまったのは、人間社会としては大きな損失だと思われるのです。

 

メキシコ・シティーについてのガイドブックには、掏摸やひったくりの被害に遭った経験談がいっぱい書かれ、ご用心、ご用心と警告してあります。

当地に、あまりに警官の数が多いので、彼らに仕事を与えるために泥棒が多いのではないかと考えました。

これが本末転倒の思考であることは、承知です。しかし、数日間メキシコを旅して、昔の生け贄文化に触れると、人間というものは、結構、本末転倒の議論でも平気で受け入れるものだと思わざるを得ないのです。

日本のような民主国家の国民が、自分たちが選んで投票して作った非力な政府を、やれ指導力がない、政策実行力がないなど、他人ごとみたいに言っているのもおかしなことではないでしょうか。

 

?この土地の道祖神とてマリア像

 

●アステカ・マヤ遺跡

とうとう生け贄文化について述べる順番が来てしまいました。

メキシコ・シティーの都心にあるテンプロ・マヨールという遺跡の博物館に3体の石像が展示してあります。その石像のおなかの真ん中にある小さな窪みは、おへそです。ところがその上にも大きな穴が開いています。これは、まだ脈打つ心臓を取り出した跡を表しているのでしょう。

また、アステカといわずマヤと言わず、生け贄の心臓を置いたというチャック・モールの石像にあちこちでお目にかかりました。

私は38年前結婚しました。妻の父親は電気の技術者でしたが、考古学にも並々ならぬ興味を持っていました。

私も門前の小僧になろうと思いました。それで勤めの近くの本屋で考古学の本を探しました。当時は今と違って本の数は少なく、そのときには考古学と名の付いた本は、吉野三郎さんが書かれた「マヤとアステカ」という文庫本しかなかったのでした。

いま見ると、紙の色が変わってしまった、小さな活字の本です。その中に出てくる、ケトゥサルコアートルとかテノチテトランなど舌を噛みそうな名前を丸暗記したことがありました。

その中で先ず記憶にあったのは、彼らが信じていた、人の心臓を神に捧げる血生臭い宗教のことです。

そしてもう一つは、一旦は国を去った名君ケトゥサルコアートルが、彼らの暦の「葦の1」の年に、東方から再び帰って来るという予言を信じたばかりに、たまたま1915年、その「葦の1」の年に上陸してきたコルテスが率いるたった300人のスペイン人に、何万という大軍を擁しながら滅ばされてしまったアステカ人たちのことでした。

その、アステカの土を踏んでいるのは、ちょっとした感激でした。

 

吉野さんの本の中でも一番残酷だと思われる記述を引用させて貰いましょう。

「13世紀の終わり頃のことです。テノチカと言う名の一部族が、戦争で目覚ましい功績をあげました。テノチカ族から、我々の部族の名を揚げたいから、君主の姫君を首領の嫁御に頂きたいと申し出がありました。戦功が余りにも大きかったので、君主もその申し出でを拒むことが出来なかったのです。やがて婚礼の日が来ました。君主は豪華な頭飾りをいただき、供の装いも美々しく賑やかに乗り込んできました。

ところがその式場で目にしたのは・・・美しい、罪のない愛娘の姿はなく、すでに血にまみれ人身御供として捧げられていたのでした。躰は剥き身とされ、無惨にもその生皮は女神の化身となった神官が身にまとっていたのです。

この事件も、テノチカ族の側から見れば、立派な君主の美しい娘を、むざむざ人間の妻とするよりも、豊饒の神、母なる大地、祖母神と仰ぐ女神に捧げた方が、女神も喜び、自分たちにもよく、また王女も幸福になると考えただけらしいのです。」なんとも恐ろしい思い込みではありませんか。

 

また、神に毎日生きた人間の脈打つ心臓を捧げないと、太陽の運行が止まってしまうという信仰を持っていたと言われます。

 

この手の話には、私はいつも、その行為は一体、どの程度まで普遍的だったのか、あるいは特殊なものだったのかと思うのです。

日本人全体をよく知らない外国人は、カミカゼ、ハラキリの野蛮な民族だと聞かされると、そう信じてしまうことでしょう。それは私たちの認識とはかなり違ったものなはずです。

人類は大まかに3つのグループに分けられると言います。

白人に代表されるコーカソイド、黒人のネグロイド、そして我々モンゴリアンです。メキシコ原住民は、我々と僅か2〜3万年前に別れた、おなじモンゴリアンなのです。

ですから、他の種族からモンゴリアンは野蛮だと言われるときには、我々も同類として含まれているのです。

残念ながら、メキシコ原住民の生け贄行為については、1500年頃からメキシコに入ってきたヨーロッパ人たちの見聞録や、生け贄の心臓を置いたといわれるチャック・モールの像の数の多さから、相当のものだったのは確実です。

そして、それが行われていたのはそんなに昔ではなく、川中島で信玄と謙信が戦っていた頃まで存在した行為なのです。

 

遺跡を訪ねたとき、ガイドの解説は、メキシコ訛の強い英語ではあるし、私はもう耳も遠いし、大変に分かり難かったのです。でも、なんでも遺跡を造った人たちは天文学に詳しく、ゼロの観念を既に持っており、建物の階段の数さえちゃんと訳のある数字を選んでいると言うようなことを繰り返し繰り返し、盛んにまくしたてているようでした。

あんまりくどく、そんな話を聞かされていて、彼らは物事に異常に執着するものだから、残酷な方へ曲がり始めたら、止めどもなく走ってしまったのではないかと思ったことでした。

 

心臓を捧げなくても、太陽はちゃんと動いてるよ、と教えてくれる人はいなかったのでしょうか。

 

過去の経験を活かしたり、外界の情報を取り入れられなかった原因のひとつは、ちゃんとした文字がなかったからではないかと思うのです。

マヤ文明の研究者、タムスンの言葉に「奇妙なことに、マヤ文明に関しては、その読者も、殆どすべての旅行者も、共に同じく、心の満たされないままで、その肉体の、あるいは精神の旅路から戻ってくる」と書いています。

私も、個々の建造物や、遺品には目を見張らせられました。でも、彼らについて、民族の盛衰や、大きなピラミッドを擁する大遺跡の放棄、その忘却などの裏にある、当時の人たちの考え方がどうだったのかなど、分からないことが、やたら多いなと言う印象を抱いて帰って来ているのです。

これは彼らに、今、私たちが常識的に使っているような文字がなかったせいではないかと思われます。

マヤ、アステカには数字と、暦に関する文字はしっかりありました。しかし、その他については、象形文字の段階で止まっており、その象形文字を頼りにして、ことの詳細は口伝によっていたのだろうと考えられているのです。

口伝の情報伝達能力が低いことは、例の卑弥呼を始め、弥生時代末期の日本の国情、庶民の生活などについて、大陸側の魏志倭人伝の中では、文字によって伝えられているのに、日本自体の口伝では殆どわからないことからも、よく理解できるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

文字や映像など情報伝達手段それ自身は高度化した今の時代でも、なお情報管理をしている国はいくらもあります。

また、いわゆる大新聞と週刊誌を比べれば自明なように、報道というものは所詮、関係者の恣意的なものであります。

 

情報が不足すると、文明は誤った方向に行ってしまう可能性があるという恐ろしさや、情報伝達の難しさやを考えさせてくれる、メキシコの遺跡巡りでした。

 

?秋寒やコスモスばかりの国走る

 

●スペイン語

ユカタン半島の、このマヤ遺跡、チチェン・イッサ辺りは、時速100キロで3時間走っても、全く同じ平らな地面と、樹高4,5メートルの木からなるジャングルが続いています。

何でも、このあたり一体は平らな石灰岩地帯で、雨に浸食され、穴だらけなのだそうです。いわば、水耕栽培の様な状態らしいのです。

今でもマヤ族たちは粗末な家に住み、バナナやマンゴーを栽培し生計を立てていました。裸足の人も見ました。彼らは平均して身長が低いと見ました。

 

マヤ遺跡ツアーは、カンクンの町の中にある観光案内で頼んだら意外に安かったのです。それは高級ホテルで取り扱っているような、英語、メキシコ語によるガイドではなくて、メキシコ人用のツアーだったからなのです。だから一般的な解説はスペイン語だけでした。英語を使うのは私ひとりでしたから、必要なことはガイドと一問一答となり、かえって良かったかも知れません。

でも、遺跡の前でガイドがスペイン語で長広舌を振るっているあいだは、さすがに手持ちぶさたでした。

私が使った、ほかの場所にゆく観光ツアーでは英語の説明がありましたが、実は、これもあまりよく分かるわけではありませんでした。

メキシコではスペイン語を話しています。数日、スペイン語圏で暮らしていて、こんなことを考えました。

私は、中学の頃から英語を習ったので、英語の読み方をそういうものだと思い込んでいて気にしていませんでしたが、気がついてみると英語の読み方は、随分素直ではないのです。英語ではOPERATIONをオペレーションと読ませます。それよりもOPERACIONと書いて、オペラシオンと読むスペイン語の方が余程、素直だと思いませんか。

メキシコ人の英語はそんな調子で、猫はカット、山はモウンタインになる訳です。ガイドは、語学の腕前はスピードで評価されるとでも思っている様子で、この手の英語を機関銃のようにまくし立てるので、聞き難いと言ったらありません。それでも英語を母国語にしている人には、結構分かっているようでしたが、こちらは磨りガラスを2枚通したようなもので、年のせいで耳が遠くなっていることも含め、いつも十分には分かりませんでした。

もっとも、随分とつまらないことを言っていることもあります。例えば、この街にはガソリンスタンドが2軒しかないので、入れ損なうと反対側まで走らなくてはならないなど、当方には用のないことを言っているのを、苦労して聞き取りました。

日本の観光バスのバスガイドの話だって、聞いていない人が多いのも同じ理由なのでしょう。

 

サラリーマン時代に夜な夜な歌っていたカラオケが、意外と身の助けになりました。ベサメ・ムーチョ(沢山)、コモエスタ(ご機嫌いかが)赤坂、ソロ・グリス・デ・ラ・ノーチェ(夜)など、高かった授業料をちょっとは取り戻したと言っては、負け惜しみに聞こえるでしょうね。

 

?ジャングルの逃げようのなき暑さかな

 

●カリブ海のリゾート、カンクン

カンクンというのは、ユカタン半島の先端にある海浜リゾートです。メキシコ政府が、珊瑚のかけらなどで出来た真っ白な砂と、カリブ海の透明な海水という観光資源に目を付け、国際的な一大リゾートに育てたのです。

海外旅行を自分で計画する人がよく使う「地球の歩き方」という本のメキシコ編の一番最初に、カンクンが出てくるぐらい有名なのです。

最大のマヤ遺跡、チチェン・イツァは、ここから訪ねることになります。

それに、雪のオリサバ山を下りたあとに、オーション・リゾートで遊ぶというのもいいではありませんか。

メキシコ・シティーから、もう今の日本では飛んでいないボーイング727に2時間乗り、カンクンに着きました。標高2200メートルから0メートルへの移動ですから、空気がムット感じられます。

乗り合いのライトバンに8人ほど乗り込んで町に向かいました。乗客をあちこちのホテルで降ろしてゆくのです。当然のこと、お前はどこのホテルへ行くのかと聞かれます。

観光地だから英語のユース・ホステルで通ずるだろと思ったのが甘かったのです。こうなると、ヴィラ・デポルティヴァ・ジュヴェニルなど、日本訛のスペイン語では、なお通じません。

乗り合わせたお客さんの助けもあって、最後はなんとか分かってくれました。

ユースはホテル・エリアと街との間にあるのです。みんなをホテルで降ろし、お客が私一人になると、運ちゃんは「ユースで一部屋8人で寝るより、スーパーが近くて、個室で、テレビ付きで20ドルの部屋はどうだ」と持ちかけてきました。いずれにしても安いものです。

実は、先に触れた「地球の歩き方」の本には「私はバスセンターの前で、某宿に何ドルで泊まった、なかなか清潔でおすすめです」など、とくとくと経験者の情報が並んでいるのです。

おれもいっぺんやってみるかと、私の大脳の中の軽はずみな部分が乗り出してきました。

そう言うわけで、ある小さな宿に泊まることになったのです。

泊まることに決めて、もうすぐに、私には本に投書している人たちのような能力がないことを悟りました。

部屋が汚いとか、不便だとかは、私だってまったく分からないわけではありませんが、だからといって断るほどの障害には思えないのです。

そして、20ドルを16ドルに値切る根性も持ち合わせていないのです。

つまり、連れて行かれて、言うなりの条件で泊まることは、始めから決まっているようなものなのです。

木製のドアにキーはあるのですが、ハイアットホテルではありませんから、スペア・キーを誰かが持っていても不思議ではありません。

エアコンはなくて天井扇が回っている部屋なのですから、窓はガラスでガラリにしたオープンな構造です。

私がカンクンに来ていることだって、知っている人は一人もいないのです。

連れてきた運転手がその気になれば、何人かで押し入って、パスポートや現金を奪って、消してしまうことだってそんな難しいことではなさそうです。

頼みの「地球の歩き方」にも、自由旅行は何でも自由な代わりに責任もすべて自分にかかってくる。ピンチのとき上手く切り抜けるのは快感だが、失敗のつけも自分に回る。危機管理をしっかりしよう、とつれない書き方がしてあるだけです。

考えてみれば、今日という一日をとっても、世界中で山に殺される人数よりも、人間に殺されている人数の方がずっと多いはずです。

どうにか安心につながる情報としては、カンクンはカリブ海のリゾートの中では、格段に治安が良いこと、またメキシコの強盗は銃やナイフを持っているが、金品を差し出せば、大人しく帰って行く優しいタイプが多いとも書いてありました。

また、トイレには、紙を流さないで下さいと英語の紙が貼ってありますから、一応、本当の宿屋ではあるようなのです。

いずれにしても、今回の旅行の中で、登山よりも、今夜が最大のアドベンチャーだと覚悟しました。

もっとも、ベッドにひっくり返って、そんなことを考えている内に、まだ昼前なのに、うとうと眠ってしまいました。空気が濃いせいでしょうか、何日か振りに、心底からぐっすりと眠りました。

日中は耐え難い暑さですから、15時過ぎからホテルゾーンの見物に出かけました。

しっかりした地図もなく、言葉もまったく通じないのです。自分がどこにいるのかすら分からないのです。

まずは、車で来た道を反対に行ってみました。なるほどスーパーマーケットがあります。あちこちの看板や道標の文字をしっかり手帳に書き写しました。自分の宿に戻れなかったら物笑いですから。

まずいことに、どういう理由なのか、カンクンのダウンタウンの道路は碁盤目ではないのです。数分歩くと、大きな通りに出ました。人の多そうな方角に歩いて行くと、インフォルマシオンの看板が見えました。やれ有り難やと飛び込み、ここはどこだとガイドブックについている小さな地図を見せました。

片言の英語を話せるお兄さんがいて助かりました。

周りに閑人が何人かいて、この変な東洋人とのやりとりを楽しんでくれました。その結果、ここがトゥルム通りという観光客相手の土産物店など多い道だと分かり、すっかり気が落ち着きました。

この観光案内所で、ガラス底の半潜水観光船や、ヘリコプターの情報も仕入れました。またマヤ遺跡の観光も安そうなので頼んだのです。

地元の人たちには、こんなビジネスなどない観光地に、夫婦でなくて一人で来ているのが不思議に思えるようでした。私自身も、私以外には独りで歩いている外人客は見かけませんでした。

案内所のお兄さんは、俺の妹をアコンパニーさせようかと、2度も提案してくれました。

 

水の綺麗なカリブ海の砂浜や、豪華なホテル群、そして若い人たちのお目当てのディスコなどの外側だけを見て、エル・メヒカーノと言うレストランに行ってみました。ショウのある店なのです。ショウは8時半からと書いてありました。まあ、店には6時半ぐらいに入ればいいのではないかと考えました。なにせ一人きりなので、片隅からひっそりと見ていたい訳ですし、そうなるとあまり混んできてからでは席が選べません。かといってあんまり早いと時間が持てないしと、それなりに考えたわけです。

じつは、もうひとつ心配があったのです。それは、私が短パンをはいていたからなのです。なにせ日中の気温が33度もある海浜リゾートですから、短パンは合理的ではあります。ただ、ショウはいわゆるナイトライフというやつですから、ひょっとして場違いな感じになっても居辛かろうと思ったのです。

まだ時間は5時半でしたが、ここはメキシコ・シティーより1000キロ以上も東にあたり、もう薄暗くなってきました。そこで、ちょっと偵察にと、店の前を通って見ることにしました。店は直ぐに見つかりました。まだ、ガラガラでした。そして、ちゃんと短パンの人も入っていたので安心しました。

まずいことに、玄関に呼び込みがいました。どうぞと言われ、つい入ってしまいました。正面ながら舞台から遠い、窓際の理想的な席には座れましたが、ショウまでの3時間が大変でした。

食事代は大したことはないので、あれこれ注文した挙げ句、最後にアイスクリームを食べ終わって「ショウが始まるまで居させてもらうよ」と言って降参しました、もっともチップは弾みましたが。

窓から外を通る人たちを眺めながら、できるだけ、ゆっくりと料理を食べていました。

家族連れが沢山通ります。それを眺めながら、自分が子供達を連れて歩いた頃のことを、懐かしく思い出していました。

まだ下の二人が生まれない頃のことです。私が昼間、会社に行っているあいだ退屈しきっている娘は、母親に連れられて、もう暗くなった近くの道まで出迎えにきていました。

手をつないで家路につくと、急に私に抱きついて、膝を曲げて一生懸命足を上げようとしたのです。よその犬が近寄ってきたのを恐がったのでした。

その娘も、もう今は3児の母です。毎日、毎日、昔の私たちと同じような思い出を作っていることでしょう。

ビールで陶然となった頭で、こんな思い出に浸っているのは、なんとも甘美なものであります。

それにつけても当節は、結婚しない若い人が増えていると言います。若いときは別として、彼らが仕事からリタイアし、外国のレストランで一人で食事をしながら、どんな思いで窓の外ゆく人たちを眺めることでしょうか。

私はつくずく、自分がそんなことを意識したわけではなかったのに、周りに人たちとの成り行きで、こんなふうになった自分の人生に感謝したのでした。

 

ここの散歩道では、自分の体型に自身のある美人が歩いているのでしょう、なかなか素敵な肉体の持ち主が多いようでした。

人類という生き物にとって、セックスアピールは大事なものです。しょせん流行は時代と共に変わっていくものですが、その面では今の日本の若い女性は痩せ過ぎだと思います。

コレステロールとか何とか言い始めると、私は自信ありませんが、栄養不良で膝を曲げたまま歩いているようなのは、好みではありません。

(最近、図書館の百科事典でマヤ族と引いたら、マリヤという項目が目に入りました。読んでみるとヘブライ語で太った女、美しい女とありました。好みは私だけじゃないようです)

爺さんの好みなど、世間的にはどうでも良いことですが、ともかく今宵は、世界各国から来た好みに合った美女たちを眺めては、楽しませてもらいました。

待ちに待ったショウは、ドン・ガバチョのような小父さんたちのマリアッチの楽団で、テーブルを回ってはリクエストを受けていました。

 

宿にはバスで帰りました、誰かさんのやることは、まるで現地の人並みです。

心配な宿の、手を放すと直ぐに隙間を作りたがる窓のカーテンを、ボールペンのクリップで閉め、電灯を点けっぱなしにして一夜を過ごしました。

今回の宿の選択は、本人としては安全をケチったのではなく、経験を買ったのだと思っていますが、一旦、事件が起こると、そうは受け取って貰えないことも理解できます。だから次の日からは、ユース・ホステルへ泊まろうと決心しました。こうすれば、事は経済の問題を離れ「簡素な旅行で見聞を広げる」というユース・ホステルの主義主張の世界になるのですから。

 

当たり前ですが、無事に朝日が上りました。

天地の間には色々のことはありますが、人間はなかなか良い生き物なのです。何と言っても、お互いの間で決めたルールを守る人が大多数なのです。相互不信は社会の効率を下げてしまいます。地球上の沢山の生物の中で、人類が他の生物を押しのけて、ここまではびこることができたのには、やはりそれだけの理由はあるのだと思わずにはいられません。

次の日はユース・ホステルで泊まりました。そこで日本人の外交官の卵と、オーストラリア、メキシコの青年と4人一部屋で寝ました。

前夜の寝不足もあって、それはそれはぐっすり眠られたのでした。

 

?シュノーケル百余の魚と目を交わす

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