題名:みちのく歴史遍歴

(日本300名山のうち2山つき)

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日付:1999/6/21


Mさんとの旅でしたから、例のとおり名古屋から夜行バスで仙台まで行き、まる3日間レンタカーで駆け回り、夕刻、新白河から新幹線で帰るという頑張り形の行程でした。

最初の日には、まず、日本300名山のひとつ、泉が岳に登りました。この山は仙台の西北20キロメートルほどのところにあります。

私たちは、リフトが途中まで運転されているのを知らなかったので、しっかり自分たちの足で登りました。

登山路では、だれをも抜かず、だれにも抜かされず、まことに平和な登りでしたが、いざ頂上に着いてみると、思いがけなく数パーティが休んでいました。

さすが東北の山です、標高1100メートルながら、北風に乗って霰がちらつきました。

山に入ると木々の芽吹きはまだでしたが、麓では、かたくり、いちりんそう、えんれいそう、すみれなどが遅い春を彩っていました。

 

・姥桜ふと女想い恥いたり 

 

下山したあと、岩切城を経由し多賀城へ行きました。

ここは、考古学を趣味としていた家内の父親が、ゴルフ場へゆく道すがら、案内してくれたところなのです。40年前のことでした。

今回はじっくり、総社、政庁跡,壺の碑、多賀城神社、多賀城廃寺と見て歩きました。

元禄2年5月8日、芭蕉はここの壺の碑を訪れ、大変感激し「涙も落るばかり也」と書いています。

多賀城は、八世紀の頃、大和朝廷が辺境を守るために造った出先機関のひとつです。

西の太宰府と並んで、ここ多賀城は北辺の押さえとして、同じ時代に、同じ目的で設けられた鎮守府なのでした。

九州に設けられた太宰府は、中国大陸と朝鮮半島とを睨み、かつ隼人のような九州南部の反乱勢力を視野に入れて置かれたものなのです。その点で、ここ多賀城はどうだったのでしょうか。

当時、北方の寒冷なシベリア、サハリンでは、まだ人口は少なく、そんな外国からの侵略よりも、大和政権に従わない日本人、つまり、蝦夷の平定がその対象だったのです。

今考えれば、大和朝廷は巨大で、蝦夷は弱小勢力に思えますが、中国の例に見られるように、放って置くと、辺境の小民族が中央政府を乗っ取ることだってないことではありません。

多賀城の使命も、領土拡張よりは,食うか食われるかの政権安定が主目的だったのかもしれません。

芭蕉は、都から遠く離れた辺境に駐屯させられ,望郷の念を募らせている兵士たちの心情を偲んで涙したのでしょう。

ところが私は、父は盛岡、母は弘前の出身です。両方とも蝦夷地です。

そして昨夜、寝ている間に名古屋からバスが運んでくれた、楽な旅です。

芭蕉みたいに、涙は出ないのです。昔って良かったなと羨みました。

 

この日は、このあと百人一首の中の「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは 元輔」に出てくる「末の松山」と、「我が袖は 汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし 二条院讃岐」の「沖の石」を見ました。

現在、沖の石はすっかり人家に囲まれてしまっています。20メートル四方ばかりの池が金網で囲まれ、その中にごつごつした岩があります。写真を撮るのに、廃材を積んだトラックを画面に入れないようにするのに苦労しました。

芭蕉が訪れたときには、どんな状況だったのでしょうか。芭蕉も、同行した曾良も情景にはなにも触れていません。今よりは、ましだったことには間違いありませんが、現地を見たことのない文人たちのイメージを壊すことを恐れ、記述を避けたと言えば、下司の勘ぐりと叱られましょうか。

私の手元に明治24年測量という、古い名古屋の5万分の1の地図があります。その地図では、名古屋市の南に古沢村があり、そのまた南に熱田町があります。都市近傍の地形の変化が大きいことには、まったく驚かずにはいられません。

また、何時の日にか多賀城を訪れる機会があれば、近くの博物館で古地図を見せてもらいたいものだと思っています。もっとも、こんな調子で、次ぎつぎ欲を出していると、いつまで経っても死ねませんが。

 

・何事ぞゆすら梅咲く沖の石 

 

私の家内は九州人なのですが、父親の仕事の関係で、結婚当時は仙台に住んでいました。夏休み毎に、一家で仙台の親の家へ里帰りするのを慣習にしていました。

次の日の朝、大崎八幡宮と、その近くにあった家内の昔の家の跡に寄り道してみました。

大都会の40年の月日は、街のたたずまいをすっかり変えてしまっていました。広瀬川の河川敷も公園に変わり、わずかに牛越橋が昔と同じ姿を見せてくれただけでした。

そのあと、山形市に近い立石寺、通称、山寺を訪ねました。

途中、通過した山形盆地では、桃や梨の花が咲き乱れ、日の光が満ちあふれていて、まさに春酣でした。なんど「いいなあ」と声を上げたことでしょうか。

 

 

元禄2年5月27日、芭蕉は山寺を訪ね「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んでいます。

この寺も、いつの間にか芭蕉の銅像が出来たり、それなりに変わってしまっていました。なによりも高速道路で来られるようになったためでしょう、大変な人出でした。

そしてあちこちの土地から来た人たちの方言が、飛び交っていました。

ここ山寺は、昔、家族で何回か訪ねたところなので、懐かしくて仕方ありませんでした。子供を抱いてあの階段を登ったこともありました。家族全員、それぞれ、若く、幼かったのです。

その頃のある日、仙山線の列車で、前の席に登山姿の青年が座りました。聞くと、朝日連峰へ行って来たとのことでした。その頃は、私が40才過ぎてから山狂いになるなんて思いもしませんでした。その青年の靴下が強烈に汗臭かったのを、今でも忘れられません。人間、変なことを覚えているものですね。

 

・山形や花も盆地も浮き立ちて 

 

さて、山寺に参拝した後は、一路、福島市へと車を走らせました。

ちょうど昼時になったので、道端にある弁当市場という幟が立っている店に入りました。その店では、安いパック弁当も売っているのですが、やはり好みで選べるバイキング・コースを選びました。面白いことに、この店ではどんな料理を選んでも、最後は秤に乗せて、重さで料金を決めているのです。言うなれば沢庵でも肉料理でも、重さ当たりの単価は同じなのです。野菜に比べて肉類が貴重だった昭和一桁おじいさんは、いまさらながら豊かな社会というものを感じさせられたことでした。

福島市では「陸奥の しのぶもじずり誰ゆゑに 乱れむと思ふわれならなくに 河原左大臣融」の古歌に出てくる有名な歌枕、信夫文字摺(しのぶもじずり)の大岩を見ました。

5月1日、ここを訪れた芭蕉は「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の句を残しています。

ここの名所案内に、その昔、京都から赴任した源の融と、地元の美女、虎姫とのロマンスが述べてありました。なにせ融は光源氏のモデルだともいわれる貴公子です。最近出来たばかりの、二人の名を刻んだピカピカの石碑が建ってもいました。

ここには子規の「涼しさの昔をかたれしのぶ摺」の句碑もありました。

 

・残雪の安達太良遠くしのぶ摺 

 

この日は、このあと、安達ヶ原の黒塚へも行って見ました。

ここの観世寺は思い切ったフィクションの世界で、昔、この裏山に住み旅人を殺していたという鬼婆の石像や、人の肝を切り出すのに使った包丁、そして肝を煮たという弥生土器までありました。鬼婆が潜んでいたという岩屋は、大きな石が積み重なっているので、見事ではありますが、なんとなく俗っぽくもあります。

「みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれると聞くはまことか 平兼盛」。どうも、昔々から眉に唾をつけていた形跡が見て取れるのではないでしょうか。 

芭蕉はここを訪ねてはいますが、「奥の細道」の中では殆ど触れていません。ただ、同行していた弟子の曾良が「大岩積み上げたる所」とやや詳しく書いています。

はたして芭蕉は、ここを訪ねて何を思ったことでしょうか。案外、フィクションを面白がり、与太って、お寺の門前で商っている鬼婆漬、鬼婆ラーメンなど試食してみたかもしれませんね。

また、ここを訪ねた子規は「涼しさや聞けば昔は鬼の冢」の句を残しています。

 

・鬼女住みし塚に里人草を引く 

 

このあと、須賀川へ向かう国道4号線は大渋滞です。そこで、カーナビを100パーセント信用して、その指示通り何とも知れぬ道を走り回り、今夜の宿、藤波温泉にある「やまゆり荘」へ向かいました。

 

今回は一日千円余分に払って、カーナビ付きのレンタカーを指定したのでした。

昨年夏、北海道でレンタカーを借りたところ、たまたま、カーナビがついている車に当ったことがありました。この時は,折角あるのだからと面白半分で使ってみました。

カー・ナビゲーション・システムとは、人工衛星からの電波を受けて現在の自分の位置を知り、コンピューターが覚えている地図と組み合わせ、自分が行きたい場所まで導いてくれる装置なのです。

私はもう40年も、地図だけで運転しているのですから、何年か前に出現したカーナビ装置など、新しいもの好きの若者か、よっぽど勘の悪い人が使うものだろうと食わず嫌いをしていたのでした。

ところが昨年末、沖縄でドライブしたとき、天気が悪く太陽が見えなかったのと,馴染みのない地名がどれもこれも同じように見えるのとで、道を探すのにかなり苦労しました。

また、考えてみれば、始めて行く地方の最新の地図を揃えることは事実上不可能でもあります。あれやこれやで、このところ文明の利器に頭を下げる心境になってきているのです。

今度借りた車のカーナビはちょっと変わっていました。

このシステムのコンセプトは、私にとっては全く意外なものでした。画面に現れている地図が、車が曲がると、くるっと回るのです。

私のコンセプトでは、まず実際の土地があって、それに東西南北がつけてあり、その上を私が東へ行ったり北へ行ったりすると考えているのです。だから、地図は常に上が北なのです。

ところが、このカーナビの製作者のコンセプトでは、自分の車の向いている方向が万事の基本で、それから右なのか左なのかが表示されるのです。だから東西南北は直接は関係ないのです。

今、矢印が上を向いて北へ走っているときに、右折の指示が出て、指示通り右へ曲がると、矢印は上を指したままで、地図がぐるっと回り東が上向きになった地図に変わるのです。

また、全体の地勢を掴みたいと思って広い地域を画面に出していても、すぐ自動的に「このシステムはもっと詳細な地図を持っています、切り替えます」と表示が出て、縮尺の小さいローカルな画面に変わってしまうのです。いかにもガソリンスタンドや郵便局まで判ることを自慢しているような態度でありました。

例として、名古屋駅から私の家へ来るときのことを考えてみましょう。

私のコンセプトに従って運転してくれば、駅から南東に向かって名古屋市の中心を突っ切って来たと分かるでしょう。

ところが、今回のカーナビのコンセプトによれば、ただ装置の指示通りに郵便局や学校のある角を曲がっていたら、家の前に着いたということになるのです。

要するに,行きたいところに着きさえすればいいだろうというプラグマティズム(実利主義)の極みのようなコンセプトで作られているのです。

プラグマティズムの説明として、こんな話を聞いたことがあります。

熊と言う言葉を聞いたときに「ほ乳類の大型4足動物」などとは考えず、すぐに「逃げろ」と行動することが、プラグマティズムなのだと言います。結構、効率的な主義かも知れません。

いずれにせよ正直の所、今回のカーナビは私には大きなショックでした。

以前使ったカーナビでは、地図は常に上が北で、自分の車の進行方向を示す矢印の方向が変わるコンセプトを使っていました。

後で勉強したところ、常に地図の北が上になっているのを「ノースアップ方式」地図が回るのを「ヘディングアップ方式」と呼ぶのだそうです。

そして聞くところによると、最近のカーナビでは、両者の方式を、好みで選択して切り替えられるようになっているそうです。ひょっとすると、今回のカーナビでも切り替えることができたのかも知れません。まあ、このじいさまが、取扱説明書もなしで、なんとか使ったのを上出来と思って下さい。

 

いずれにせよ、自分の正面に合うように相手を回して案件に処する人がいる現実を再認識させられ、今更ながら、目から鱗が落ちる思いに襲われたのでした。どうも、この視点で分類すると、2種類の人間がいるのではないかと思われてきたのでした。男女別、地域別、学歴別などで、それがどんな率になるのか、また、それは生まれつきのものなのか、それとも後天的に獲得する機能なのかと、いろいろ興味が尽きないテーマであります。

 

また、なにも車の運転だけではなく、人生観にしてみても、人によって大きな違いがあるはずです。

世の中があって、その中で自分が生きていると考える人がいる一方で、まず自分があってその周りに世の中があると考えている人もいるのでしょう。この点について、改めて周りを見渡すと、思い当たる節がないでもありません。

聖書に言う「心の貧しき者は、幸いなり」は前者でしょう。

端的に言って、例えばガンを告知されたときに、前者は「4人に1人はガンで死ぬのだ。とうとう自分もなったか」と思うでしょうし、後者では「自分と同じヘビースモーカーのあいつがぴんぴんしているのに、何で俺だけ肺ガンになったのか」と怒り悲しむことでしょう。

 

話は随分、脱線してしまいました。

でも、お陰様で、私たちの旅は脱線していません。まだ続きます。

3日目には、早朝、まず二股山(1544m)に登りました。

この山は次の週に山開きをするということで、下から眺めると、上の方には、まだ雪が残っているのが見えました。でも、登ってみると、道は南斜面を上がっているので、殆ど雪を踏むことはありませんでした。

東北の山もここまで来ると、すぐ南に、かって登った那須連山など関東の山々がよく見え、足跡も、とうとう繋がったという感慨がありました。

 

・春ながら稜線は月澄みいたり 

 

今回の旅の終わりは、白川の関でした。平安時代に都に住んでいた文人たちにとっては、ここ白川は遙かなる陸奥の地の入り口、シルクロードに例えれば敦煌のように思われていた土地でした。

ここ白川の関も「たよりあらば いかで都へ告げやらん 今日白川の関は越えぬと平兼盛」「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白川の関 能因」「都には まだ青葉にて見しかども 紅葉ちりしく白川の関 源頼政」「秋風に 草木の露をは

らわせし 君が越ゆれば関守もなし 梶原景季」など、平安時代の古歌があり、芭蕉に同行した曾良は「卯の花をかざしに関の晴着かな」の句を残しています。

白川の関は現在2カ所あります。江戸時代に、高名な白川の関は自分の村にあるほうだという、村同士の取り合い論争があったのだそうです。そんな中で、1800年に白川藩主松平定信公が現在の場所であると裁定を下したのでした。

殿様にケチをつける気は毛頭ありませんが、そのとき落選した関の明神と呼ばれている関所跡は、峠の両側に神社があり、今でも交通量の多いところにあります。多分、こちらの方がルートとしては優れているのだと思いました。

芭蕉は両方とも訪ねていますし、私たちも両方訪ねました。

 

昔、この辺りには、どれぐらいの人が住んでいたのでしょうか。そして交通量は、どれほどあったのでしょうか。また、どの程度の道が何本あったのしょうか。親切な村人もいたでしょうし、追い剥ぎだっていたに違いありません。そんな街道に、商業的に宿泊を提供する宿屋は、いつ頃から出来たのでしょうか。

たまにはこんな風にして、目前の人家、畑、道路などの人工物を消したヴァーチャルな世界の思いに浸るのも良いではありませんか。

私にとっては、人口希薄で超自然な情景として、幕末から明治のはじめの頃の北海道のことならば、わりにリアルに想像できるのです。

でも、ここ白川の関の辺りがどんなだったのか、まるで想像できません。

過去の実態は、大体は想像通りではありましょうが、もし常識外のことがあれば、それもまた大変楽しいではありませんか。

こんな詮索は、現世での役に立たないことなのかも知れませんが、縄文、弥生、古代、中世と、土地の歴史を、すらすら教えてくれる人がいたら、どんなにか楽しかろうと思います。

 

白川の関の後にも、もう一つ最後の見所があったのです。新白川駅へ向かって車を走らせていると、道端に「金売り吉司の墓」と書かれた大きな柱が目に入りました。行ってみると、立派な石のお墓が3基ありました。

説明文を読むと、あの不遇時代の義経を平泉の藤原秀衡のもとに連れていった金売り吉司は、その後、ここで弟二人と共に、土地の強盗に襲われ、命を落としたのだそうです。殺した方も、殺された方も、どっちも今いる誰かのご先祖様なのです。歴史の面白いところですね。

 

およそ今回訪ねたいろいろの名所は、平安時代に都の貴族たちの歌心をかき立て、和歌の題材とされた史跡なのです。それら歌に詠まれた旧跡を徳川時代になってから芭蕉が訪ねては、昔を想って涙したのです。芭蕉の時代でも難行苦行でした。陸奥に心を強く惹かれた芭蕉は、あの「奥の細道」の冒頭に「古人も多く旅に死せるあり」と記しています。そんな、生きて帰れるだろうかと思う程の一大決心をして、自宅を人に譲り、旅に出たのでした。

そしてさらに明治になってからは、子規たち文人が訪れ、昔を偲び、かつそれぞれ自作を残しているのです。

そして、いま平成11年、まるでゴミのような私が、夕方、白川市に別れを告げ、石油エネルギーをふんだんに使い、新幹線を乗り継ぎ、約4時間後には尾張の茅屋に帰着するという、まことに安易な旅をしながら、頭の中で珍妙な理屈をこね回しているのが現実なのです。

なにか歴史や文学に、縁のあるような無いような、本人としてはそれなりの感慨に浸った旅でした。

 

・この国に人住む春や美しき

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