題名:アトラス山脈とサハラ砂漠のモロッコ王国

重遠の入り口に戻る

日付:2000/8/15


(2000/05/25〜06/04)

?思い違い

今はさすがになくなったようですが、一昔前、西洋人がいかに日本を正確に理解していないかが、よく話題になりました。

西洋人が日本について抱く印象が、サクラ、フジヤマ、ゲイシャガールだった時代が確かにありました。

その後の一時期には、眼鏡をかけ、カメラをぶら下げた出っ歯のサラリーマンというイメージの時代もありました。

また、外国留学したとき、下宿のおばさんに日本の地図を書かせたら、中国大陸の一部を出っ張らせて、それを日本だと言ったという話も聞きました。

 

今回のモロッコのツブカル登山は、ツアー会社が募集した旅に参加しました。お客さんが4人、それにツアリーダーの、総勢5人でした。

往路の飛行機では、幸い窓際の席が当たりました。

関西空港から北に向かって離陸しました。あっと言う間に、日本海へ出ました。でも、すぐに下界は雲で見えなくなりました。こんなに雲の多い飛行機の旅は始めてでした。13時間の飛行中、ほとんど地上は見えませんでした。

チケットはエア・フランスのを買ったのですが、日本航空との共同運行でした。AF291便のチケットを持った人とJAL435便のチケットを持った人とが同じ飛行機に乗るのです。

往路の機体はエア・フランスのエアバスA340型機,エコノミークラスでも各座席に個人用の液晶画面が付いた最新のものでした。帰りの機体は逆に日本航空の747−400型機、個人画面なしでした。

往路の個人用の画面で、私はかなり頻繁に飛行情報を見ていました。経過ルート、対地飛行速度、外気温度などが出て来ます。

経過ルートは画面の地図の上に赤い線で示され、現在飛行位置は小さな飛行機で示されます。画面の飛行機の像が向かう方向は、少し旋回しても直ぐ変化しました。最近のカーナビの技術のことを思うと、非常に正確に示しているに違いありません。

その画面を注視していますと、なんと日本海に出るとすぐ、真っ直ぐ北上し始めたではありませんか。ともかく、ウラジオストックの東を通り、一時は真北よりも東を指したことさえありました。

今回の旅の最初の訪問地カサブランカといえば、アフリカの東北の隅です。アフリカと聞けば、直感的には、日本から西南の方を目指すのだと、誰でも頭のどこかで思うじゃないですか。普通の地図で見ていれば、日本から西へパリまで行って、そこから左に曲がって、南下すると思うのが普通でしょう。

もっとも、今度はパリで乗り替えることは知っていたのです。だからわれわれの乗った飛行機がかなり北向きのコースを取っても、パリへ行くのなら、それも不思議じゃないと、理性では納得していたのでした。

 

日本に帰ってから地球儀を持ち出して、球面に沿って大阪からカサブランカまで糸をピンと張ってみました。こうすると大圏ルート、つまり最短のルートが分かるのです。

驚いたことに、こうすると大圏ルートでは日本からはほぼ真北に飛び出し、ロシヤ中部では北緯68度まで北上し、ストックホルムのあたりからパリには北から入るのです。そして、ほぼその延長線上にカサブランカがあるのでした。

先月ソウルからスイスのチューリッヒに飛んだときは、ソウルから中国の山東半島に飛んだのですから、この時はかなり西に飛ぶ、つまり感じの通りだったのでした。

球面を飛ぶ場合は、大阪とソウル、そしてチューリッヒとパリを一緒くたに考えてはいけないことが分かりました。

これがひとつ目の思い違いでした。

 

ついでながら、どのジェット旅客機でも巡航中の対気速度は大体900km/hですから、飛行情報に対地速度が1000km/hと出ていれば100kmの追い風に乗っているのですし、800km/hと出れば100kmの向かい風を受けていることになります。

私が今まで経験した風の速度の範囲は、±100m/h程度でした。西へ行くときは東へ行くときに較べて、最大だと20パーセントも速度が遅くなることになります。

 

 

パリからカサブランカまでの機体は、少し小さいエアバス320型機でした。こんどは窓際の席ではありませんでした。

あまり外は見えません。それに機内食のサービスも、すぐに来てしまったのでした。

 

そのあと、右に方向を変える時に機体を傾けました。そのときに、ちらっと陸地が見えました。

つい、「フランスってこんな景色なんですね」と口走ってしまいました。

パリの南だからマルセイユあたりだろうなどと、ぼんやり思っていたのでした。

隣の仲間に「もう大部飛んだから、スペインでしょう」と訂正されました。

考えてみれば、確かにスペインでした。

急にイベリア半島のことなど思い出そうとしました。ポルトガルとスペインは何を目印にして国境を決めてあるのかしら、ポルトガルはフランスと接していたかしらなど思い出そうとしました。でも、ぼんやりとしか思い出せず、何ともはっきりしないのです。

日本を中国の一部だと思っていた西洋のおばさんを、決して笑えないなと腹の底から思い知らされました。

お前だけが無知なのに、その自分を、あたかも日本人の代表のように言うのは止せと言われれば、それまでです。でも、実際、ことに当たってみて、思い違いを発見することは多いのです。

孔子様、「改むるを憚るなかれ」とは、有り難いことを仰って下さいました。

 

・パリ空港ジェット嘴尖らせて

 

?モロッコ

国の面積は、日本の約2倍あります。人口は約2700万人、最大の都市カサブランカの人口は260万人です。

外務省が出している外交青書で、最初、モロッコをアフリカの項で探しましたら見つからないのです。索引から辿って行って、中近東に分類されていることを知りました。完全なイスラム国家であります。

一人あたりのGDPは1300ドル、これは外のアフリカの諸国と較べれば、かなり大きいと言えるでしょう。

都市はヨーロッパと見まがう姿です。同行の一人が「こんな洒落た道は東京にもない」と思わず口走ったぐらいです。

1912年フランスの保護領にされ、1956年独立しました。

民族意識の向上、独立の動きが高まり、ついに第二次大戦後フランスは独立を認めたと柔らかく書いた本があります。

また、ベン・ユーセフという人が独立を勝ち取り、スルタンから国王と改称し、ムハマド5世(アラウィー朝第13代)と称して、新国家の建設に取りかかった、と書かれた本もあります。

いずれにせよ、モロッコ人のあいだでは、ムハマド5世は神武天皇並みに扱われていると見受けました。

その息子さんがハッサン2世、私と同い年ですが、去年7月に亡くなられ、現在は36才の新王が王位についておられます。

ハッサン2世はカサブランカの海岸を埋め立て、メッカに次ぐ世界で2番目に大きいモスク(礼拝堂)を建てられました。25000人が同時に礼拝することが出来るのだそうです。

王制と聞くとなにか時代遅れのように感じられますが、それが良い王様と良い臣下の國だとしたら、愚かな国民が主権者である民主主義と較べ、どちらが望ましいかということはあります。

所詮、国の制度は国民の幸福のためにあるべきものなのです。制度のこともともかく、最後は、国民、人間が、どれほど良くて、どれほど悪いかということに帰結するのでしょう。

 

モロッコでカスバ、クサル、メディナなどと呼ばれる、厚い土の壁で要塞化された人々の営みばかり案内され、その壁が実際の戦争で役に立ったのかなど質問しているあいだに、一番最後の戦争は独立の際、フランスと戦った時だと聞きました。どれほどの戦いがあったのでしょうか。

領土問題が話し合いでうまく決着する、平和な地球になってほしいものです。

 

モロッコは農業国ということになっています。日本へもオレンジが輸出されています。世界の燐鉱石の75パーセントを埋蔵しているのは魅力的です。

日本からは自動車など機械類を輸入していて、カサブランカ近郊には、三菱といすずが工場を持っているとのことです。トラックの90パーセントは三菱製だと言っていました。

また日本は、フランス、スペイン、アメリカに次いで、4番目の投資大国だとのことであります。

ハッサン2世カップのサッカー大会には、日本チームも招待されます。それに高円宮ご夫妻がご臨席されました。我々の車線の車は止められ、反対車線を日の丸をかざした大型ベンツで走り過ぎて行かれました。

 

ベンツといえば、モロッコのグランタクシーというのには殆どベンツが使われています。

町と町との間の市外を走るバスの便数は少なく、交通はほとんどこのグランタクシーに頼っています。タクシー乗り場に行くと、仕切る人がいて、同じ方角へ行きたい人を5〜6人まとめてスタートさせます。往々にして、お客を7人も詰め込むことがあるのだそうです。言ってみれば、乗り合いタクシーというわけです。

市内を走る普通のタクシーは、プチタクシーと呼ばれ、車種はほとんどがプジョーです。

両者は、案外はっきり分けて使われているようでした。

 

ある人がこんなように書いておられました。

「モロッコ病というか、モロッコにしばらく居ると、人の好意がすべて金に見えてくる」と。

有名なマラケシュ市のフナ広場で、ビデオを撮りました。用心して、特定の人を入れないように、かなり早く振り回しました。それでも早速、お前はオレの写真を撮った。10デラハムよこせと言う人が現れました。

とんでもない田舎道でも、写真を撮ろうとすると、どこからともなくお土産品を持った人が湧いてきてポーズします。

あるガイドブックには「カメラを構えたら、景色はともかく、そのニワトリを彼が飼っているのだと言い始めたら、ポケットに手を入れ小銭を探し始めた方がよい」と書いてありました。

一度だけ、こんなことさえ起こりました。谷間に沢山の椰子の木が生えていて、景色の良いところで車が止まりました。降りると、青い布をかざして、写真を撮らせまいとする一団が待ち受けていました。景色も有料というわけです。

こんな所に車を止めた運転手だって、2度と来ない観光客寄りの立場をとって、地元の人を無視するわけにはいけないのでしょう。

モロッコは大変治安が良い国だそうです。こんなにして、お金を貰う理由を考えて、お金を欲しいと主張するのも、それなりに結構なことではないでしょうか。嫌なら嫌と言えば良いのですから。

言うことも言わないで、いきなり暴力を振るわれたり、こっそり持って行かれたら、それこそ嫌ですもの。

 

・日陰など奪い合ひもしモロッコは

 

?ツブカル山

私がモロッコへ行くと聞くと、殆どの人から、モロッコに山なんてあるのかと聞き返されました。

それほどモロッコといえば、サハラ砂漠の印象が強いのでしょう。

でも、実際に、総延長2400kmにおよぶアトラス山脈という立派な山があるのです。

アトラスという神様は、ギリシャ神話に出てきます。彼は火の神プロメテウスの兄弟であります。オリュンポスとの戦に敗れ、世界の東西の端で蒼穹(大空)を支える罰を与えられました。

シューベルトの歌曲に「アトラス」というのがあります。大空の重荷に耐えているような、大変重々しい曲であります。

ギリシャから見て、地中海の対岸に雪を頂いた高山があって、それが大空の端に見えたのかも知れません。それで、アトラス山脈という名を付けたのでしょう。

また、地図帳のことをアトラスと呼びます。これは、丸い地球を平らな紙に書くように工夫した16世紀の地図学者メルカトルが、アトラス神の姿を地図帳の装飾に使ったためだそうです。

もうひとつ、人間の背骨の一番上で、重い頭を支えている第一頸骨のことも、アトラスと呼ぶことがあるのだそうです。

 

モロッコをぼんやり、大まかに見ているうちは、日本海との連想で、地中海が中央の海嶺で広がりつつあり、その力に押されて盛り上がったのがアトラス山脈なのかなと思っていました。

現実に訪れ、その大きさや、大西洋との関係の深さを知ってから調べてみると、間違っていることが分かりました。

大体、地中海は広がりつつあるのではなくて、ヨーロッパとアフリカは接近し、地中海は縮小しているのだそうです。

そしてアトラス山脈は、アルプス造山運動の一環として第三期初頭、いまから6000万年ほど前に、大西洋の中央にある海嶺に押されて盛り上がったのでした。

日本アルプスに北アルプス、中央アルプス、南アルプスとあるように、アトラス山脈にもアンチ(先触れ)アトラス、オート(高い)アトラス、モワイアン(中央)アトラスと年代を多少異にした山脈が並んでいます。

また、日本アルプスと同様、隆起の時にできた地割れを伝ってマグマが噴出し、幾つかの火山を伴っています。

最高峰はオート・アトラス山脈に属するツブカル山(4167m)です。この山は全山堆積岩でできています。

ツブカル山は登山ルートに難しいところはなく、ヨーロッパではポピュラーな山で、毎日30人ほど登山者があるようでした。

宿帳を見ると、登りに来るのはフランス人が断然多いようです。なかにはバスク人と書いているのもあります。あえてスペイン人と書かないところに、ヨーロッパの複雑な歴史が窺われました。次に多いのががドイツ人でした。

 

今回、同行させていただいたメンバーに、軽く触れておきましょう。

Aさんは岩槻市在住の69才、小さなサービス業の会社の会長だと謙遜しておられました。

旅行中、私とずっと同室させていただきました。大変よく気遣いをして下さる方で、楽しく過ごさせていただきました。

Bさんは吹田市在住、お見受けしたところ、ホヤホヤのリタイア族で、もりもり食べ、モンブラン始め世界中のピークにアタックしようと意欲を燃やしておられました。

 

Cさんは、岐阜の瑞浪にお住まいの、まだ現役の方です。さすがにエネルギッシュで、毎朝早く起きられ、自分で町を探検しては、珍しい情報を私たちに教えてくださいました。

昔、交通事故を見てから、動物の肉が食べられなくなったそうで、その点では不便しておられました。今回ご一緒させていただき、飛行機の機内食でも、レストランでも、ベジタリアン用の食事が素早く出されるのを、普通の日本人として、珍しく見させて貰いました。

Dさんは、旅行社のツアー・リーダーです。34才、ここまで山登り一本で生きているような人でした。

 

山に入るには、まずカサブランカから南へ車で約4時間、モロッコ第二の都市マラケシュに行きます。

そこからさらに南へ車で1時間30分ほどで、イメリルという部落に着きます。ここが登山基地です。最後の20分ほどは未舗装の道を走ります。何となく、鈴鹿の朝明渓谷の入り口のようなムードの林道でした。

北緯32度、九州南端ぐらいですから、標高1740mといっても、かなりの暑さです。

寝袋などは、ミュールというロバと馬の雑種に、ここから上の小屋まで運んで貰います。

10時20分、歩き始めました。始めの10分ほどは渓谷沿いで民家があり、クルミなどの有用木が茂っていました。そして一旦谷を離れると、あとは照りつける太陽に焼けた山道、焼けた川原を歩くことになります。

2時間ほど登り、標高2200m、谷が二股になったところに真っ白にペンキを塗った巨岩があり、そこに何軒か小屋が固まっています。我々はそこの、川原の大きな石の上で昼飯を食べました。

我々はみんな山屋ですから、当然、必要な水は持っているのですが、まあ、半分押し売りのような調子でコーラを売りつけられました。でも、値段は約100円で、麓で買うのとあんまり変わらず、憎めないねと話し合いました。

そのあと30分ほど、わりに急なジグザグの登りがあります。それを過ぎるとあとは広い谷に沿って、緩い登りの道が延々と続いているのです。

結局、その後2時間40分で標高3204mのツブカル小屋に入りました。

石造りの立派な小屋です。今年建て替えたばかりだとのことでした。

収容人数も多く、ふかふかのマットが敷いてあります。

しばらくすると、寒くなってきました。喘ぎあえぎ登って来たので汗びっしょり、体の芯は熱いのです。しかし、シャツ一枚で登っているので体の表面は結構冷えているのです。頃合いを見て寝袋に潜り、体を冷却から保温に転換しました。

暖まると、ついウトウトと眠りに引き込まれそうになります。ツアー・リーダーによれば、眠ると呼吸が浅くなって、高山病になる恐れがあるのだそうです。頑張って目を開け、しっかり空気を胸に送っていました。

 

私が使っている登山用の腕時計には、気圧から換算された標高が表示されるようになっています。さらに、それを記録モードにしておくと、自動的に15分ごとに標高をメモリーするようになっています。そしてあとで、そのデータを読み出せるのです。

 

寝袋に入り寝そべって、腕時計に入っている今日の登高記録を手帳に書き出しました。

小屋には、皆さんより一足遅れて到着したのですが、、記録を見ると標高2400mのところで、15分で100m高度を稼いでいました。これは1時間で400m登ったスピードに相当します。決して体調は悪くないのです。こんなにしては、心を慰めるのです。

 

何もすることがありませんから19時半に寝てしまいました。翌朝は5時半に起きるのですから、10時間と長い夜です。

途中で目が覚め、寝付かれませんでした。どうせ時間は十分あるのです。焦ることはありません。次の日、どんな装備で登頂に向かうかをいろいろ考えました。

ここまでは、ミュールに装備を運び上げて貰っています。でも、これからは全部自力で持って上がるのです。

年齢が年齢ですから、無駄使いしてよいエネルギーは1カロリーもありません。

過去に登った4807mのモンブランのこと、3942mのツェンゲルのことなどいろいろ思い返しました。

昨日ここまで登ってきた様子では、恐れていたほど気温は低くなく、天気も午前中は良さそう、体調も悪くないと諸条件が良いと判断しました。

どうもここに着くまでは潜在的に、キリマンジェロで寒かった経験が頭の片隅にあって、アフリカだって随分寒いことがあると、寒さ対策に過度に慎重になっていたようでした。

それで、思い切って装備を減らすことを決心しました。水も200ccに決めました。

再度、それでよいか頭の中でチェックしました。自信がありました。

そこで丁度、時間になったようで、また、眠りに入ってゆきました。

 

登頂日は5時半起床、6時出発、頂上は10時43分でした。

ルートの15パーセントほどは雪の上を行くことになりました。

しかし、難しいところはなく、辛抱図良く粘りさえすれば、いつかは頂上に着きます。

頂上についたのは、外の人よりも20分ほど遅れていたのだと思います。

もし急いだり、人に遅れまいとするのなら、みんなが休んでいるあいだに登り続ければよいのですが、急ぐ必要はサラサラないと私は判断していたのです。

だから、休むときはみんなと一緒に休み、ビデオなど撮っていました。

実際、小屋に帰り着いたのは、まだ13時半だったのです。

例の腕時計の高度記録から拾うと、標高3800m、平地の3分の2ほどの薄い空気の中で、15分で80mも高度を稼いでいるのです。時間当たり320mにもなります。私にしては上出来だと思っています。

 

頂上へは南側から登りますが、北側は岩壁がスパット切れて落ち込み、近寄り難い凄絶な様相を呈しています。

南はサハラ砂漠です。今立っているこの山脈が、砂漠からの風を遮り、北側を沃野に保っているといわれています。しかし、この季節のこの地域は、空気が濁っていて、サハラ砂漠も北の沃野も、定かにそれとは見えませんでした。

 

小屋に帰ってからは、午後から翌朝まではすることもなく、靴を干したり、のんびり俳句など考えていました。

翌日は7時40分に小屋を出発、12時前には登山口のイメリル部落に降り立っていました。

その後、車で国王歓迎に沸き立つマラケシュ市に帰り着き、その夜はファンタジアという大衆ショウを見に行きました。こうして、いよいよ観光旅行が始まったのです。

 

 

70才になり、4000mを越す山で手に負えるのは、今度のツブカル山とニューギニアのウィルヘルム山と思っていました。

今後の計画として、もう一つウィルヘルム山へチャレンジするか、それとも断念するかも、今回の登山の様子にかかっていました。

ネガティブな材料は、雪の上のパフォーマンスでした。

私は子供の頃からスキーをやり、雪は滑るものだという前提の上にバランスを取って、どちらかといえば雪道には強いほうでした。

ところが、今度の山では、雪に滑りバランスがとれず、何回か転んでしまいました。春の雪ですから、ぐさぐさの雪の下に固い氷があって不意に滑るので、条件は良くありませんでした。

しかし、バランスの欠如と、一旦転んだあと立ち上がるときの苦労とには、老化の影響が顕著でした。もう絶対に転ぶまいと、グリセードを止めステップで降りようとすると、先行者がステップを潰した斜面が何とも煩わしく思えるのでした。

やはり、そろそろ登山は終わりかなと思わざるを得ませんでした。

 

高所障害については、ポジティブでした。

徹底的にマイペースに徹したのが良かったのでしょう。

また、ツアーリーダーが、降りでは意識的に荒く息をして、酸素を取り込むようにすると良いと教えてくれたのも有効だったようです。

お陰様で、過去何回か経験した低酸素と過労による、一時的な斜視現象も、今回は少しも出ませんでした。

 

最後の問題は、登りのスピードの点です。

昨年9月、バリ島のアグン山に7名で登ったとき、頂上に着いた順序が、まったく年齢の逆でした。それで、私の鈍足も、こんなものかという思いがありました。

ところが、今度ご一緒した1才年下のAさんが登る速度には、びっくりさせられました。

こうなると、私のスピードでは、外の人に迷惑だということが歴然としてきた感じなのです。

強い人は気安く「安全はスピードだよ」と言われます。天候の良い間に登頂を済ませて終えるのですから、それはその通りです。

現在、世界最高峰のエベレストの場合、ベース・キャンプから頂上までの登高時間は、今年5月、ネパール人バブ・チリ・シェルパ氏が作った16時間56分というのが最短時間です。

その前は、1988年、フランス人バタール氏が22時間28分で登ったときは、世界中がその速さに驚嘆したのでした。

 

今度同行した同年輩のAさんの快速と、ツアー・リーダーの安全発言で、つくづく考えさせられました。

振り返ってみると、私は小学校の頃から、ランニングでも水泳でも、酸素取り入れ能力が問われる種目はとくに不得意でした。

車にたとえれば、足周りは丈夫だが、いかにせんエンジンが小さい造りに生まれてきているのだと思います。

考えて見れば人間は誰でも、普段は明確に意識されませんが、ハードウエアだけでなくソフトウエアでも、その造りは千差万別のはずであります。

車に例えれば、大きなエンジンとオートマチック・クラッチが付いた車なら、メカのことなど考えなくても楽に運転できます。でも、小さなエンジンの車で、トルク特性や坂の傾斜、車のスピードなど考え合わせながらギヤ・チェンジするのも、結構面白いものなのです。

私の場合は、ギア・レシオの段数が多く、またそのことを意識して使い分けるソフトウエアのお陰で、今までは何とか登頂を続けてきたのだと思われます。

 

そんな条件の下で、前述したエベレスト登頂の快速シェルパ氏が「安全はスピードだよ」と言ったとき、数年前のチャンピオンだったバタール氏など、彼よりも遅い人は登る資格がないと言っているように聞こえないでしょうか。

それ以前に、もっと時間をかけて登った沢山の名クライマーたちは、どうなるのでしょう。

いずれにせよ私の場合、客観的に見て、他人と同行する山行はそろそろ終わりの時期に来ていることは否定できません。

その時期は、相手がどこまで大目に見てくれるかであり、かつ、相手にどこまで甘えられるかであります。

私自身は、自分が強くなかったこともあり、また、自分の力を誇示する趣味もないので、許容範囲は広いと自分では思っています。でも、あまりみっともないことをして、笑われたくないという見栄も強いのです。

 

・俳句どころでない空気が薄くて

 

?ミュール

メディナの中の細い道や、山道を、荷物を振り分けに背負って歩いている小さな馬を、始めはロバ、ロバと呼んでいました。

ところが、あれはミュール(ラバ)という名の動物で、馬とロバの雑種なのだそうです。メスの馬とオスのロバとを交配すると力が強い雑種が生まれますが、逆の組み合わせだと力が弱くて使い物にならないのだそうです。いずれも繁殖力はないのだそうです。中国、南ヨーロッパ、アフリカ、アメリカで使われていると書かれています。

 

これから見ると、これらの地域では、かなり古い時代から遺伝子操作が行われていたようです。それにしては、最近の遺伝子操作技術についての反感が、その技術に馴れているはずのこれらの地域でも、とくに弱くもないようなのは不思議であります。

 

ミュールの使い方は、我々が自動車を使うのと全く同じなのです。

自動車を止めておき、車から離れてする仕事はモロッコにもあります。

自動車は生き物ではありませんから、駐車すればじっとしています。

ところが、ミュールは生物のくせをして、主人が駐馬すると、瞬きもせずまるで無生物でもあるかのような態度でじっ止まっています。まるで自動車の真似をしているといった様子です。私は馬の性質だってそんなに知っているわけではありませんが、ミュールは、あらゆる動物の中で、最高に無表情、無機的な感じに見えました。

ミュールという動物は、自分たちが自動車代わりになって人間に奉仕するために生まれてきたのだと達観しているのか、あるいはひょっとして、色々考える脳を持っていないのではないかと見えるような雰囲気さえあるのです。

身近にいる動物でも、犬はいつも主人のご機嫌をうかがっていますし、猫は大変に自分本位です。同じ犬や猫の中でも、性格は個体によって随分違います。ミュールはあまりにも従順で、可哀想に思いました。

 

ミュールたちは100キロぐらいの荷を背負って、私たちよりも早い速度で山道を登ってゆきます。

我々は平生、車のエンジンを50馬力だ100馬力だ、などと気安く喋っています。

 

しかし、目の前で荷物を運んでいるミュールをみると、これが1馬力だとすると100馬力といえば大変なものなんだなと、思わず畏敬の念に打たれるのでした。

 

アトラス山域では、植物は乏しいのです。僅かに直径数ミリの小さな赤い花をつけるのと、それよりはやや大きい黄色の花を付ける、草と見まがうほど小さな木が、ぼそぼそ生えていました。

それらの植物は、動物に食べられないように,葉っぱが棘になっているのでした。

よほど腹が減っているのでしょう。ミュールたちはその棘の木を、口でむしっては食べていました。

 

・重き荷に汗しつラバの瞬かず

 

?ベルベル人

ツブカル山登山を終え、マラケシュ市に帰りました。

午後3時頃でしたが、町中は大変な人出でした。猛烈な暑さですから、人々は木の陰さえ奪い合っていました。

道路際に小学生の団体が並び、モロッコの旗を持ったり、案山子のような布で作った人形をかざして立っていました。

大通りは交通が遮断されていて通れなかったので、だいぶ遠回りしてやっとホテルには入りました。

この日の大混雑の理由は、いつもは首府ラバトに住んでおられる王様が、セネガルの王様を案内なさって、今日はここマラケシュに来ておられ、群衆が歓迎しているのでした。

 

その日の夜、ファンタジアという、観光ショウのスーパーマーケットのようなところに行きました。

お客さんが一晩に2000人から3000人入れる大きさで、従業員も約500名働いているとかいっていました。夕食付きで、4000円弱でした。

ベリーダンスが上演されました。と言っても、広いグランドの真ん中で踊るのを、ライトで浮かび上がらせ、沢山の観客が遠くから眺めるのでした。

踊り子さんが、薄くて白い衣装をひるがえして舞う姿は、テレビコマーシャルに出てくる、氷の海に住むヒラヒラしたクラゲのように見えて、とても可愛らしく綺麗でした。

ショウはこのほか、アラブ戦士たちによるの馬の曲乗りと空砲の一斉発砲など、盛り沢山でありました。

食卓には、モロッコのいろいろの部族が、代わる代わる民族衣装に身を包んでやってきました。

そして音楽を奏で踊りを披露しました。もちろん、お客さんと並んで写真に収まったり、一緒に踊ったりします。盆踊りムードでした。

外人観光客は、結構、一緒に写真に収まるのが好きみたいに見えました。

実にいろいろの部族が来ました。サハラ砂漠の向こう側に住んでいると称する人たちは、肌の色も薄黒くて人種的にも違うように見えました。こんな肌の色の人がサハラに500万人もいると、ガイドは言いましたが。

いずれにせよ我々は野暮な山屋ですから、そういう歓楽的雰囲気には馴染めず、石部金吉をしていました。

 

モロッコの人口は約2700万人です。その65パーセントがべルベル人、35パーセントがアラブ人だといいます。

べルベル人という人たちは、一体どういう人たちなのでしょうか。

ものの本には、7世紀頃この地に入ってきたアラブ人たちが、この地方に前から住んでいたいろいろの部族の人を、みんなひっくるめて、ギリシャ語で「わけの分からない言葉を話す野蛮人」を意味するバルバロスと呼んだのが、ベルベル人の名の起源だと書いてあります。

ところが私は、もっと古い話ではないかと想像するのです。

というのは、帰国前日、紀元前200年ごろローマ人が進出して来たヴォルビリスという遺跡を訪れました。

この街はオリーブの栽培に適した土地として魅力があって、一時は人口2万人を擁するまでに膨れ上がったと言われています。ここは、モロッコで見慣れた日干し煉瓦の厚い壁による建築とは全く違う、ローマから持ってきた大理石など使った、石の建造物でできた都であります。

アントニウスと読める石の壁の刻印をたどりながら、こんな昔に彼等はアルファベットを持っていたのだから凄いねと語り合いました。

実際、同じ頃、文字のあった中国の魏志倭人伝を通じて、ちょろっと様子が伺えるだけの、文字のなかった弥生時代の日本は情けないには違いないのです。

ベルベル人の名の由来はどの本にも、7世紀にアラブ人が云々、と書かれていますが、それがギリシャ語で野蛮人を意味する言葉ならば、その前にローマ人たちが来たときに命名したのだと考えた方が素直ではないでしょうか。

種本の書き写しというものは、伝染しやすいものなのです。本の数だけで、正確さが保証されるわけではないはずです。あえてローマ人命名説という思いつきを披露してみました。

 

ともかく、ベルベル人が特定の民族名ではないことは確かなようです。

先に述べたように、肌の色さえも一様ではないのです。

今では軽蔑の意味はなくて、彼ら自身が誇りを持ってベルベル人を自称しているとも書かれています。

我々のガイドはアラブ人で、運転手はべルベル人だと言っていました。

彼らが言うのですが「アラブ人とべルベル人、見ただけでは一緒、区別は分からない。話す言葉が違うだけ」なのだそうです。

ベルベル語など、見たことも聞いたこともなかったのですが、べルベル語があるのだと言い張りました。

その後あるとき、ガイドさんに貴方たちはお互い何語で話し合っているのかと尋ねました。ガイドさんは「もちろんアラブ語さ」と答えました。

私には、アラブ人のオレがなんでべルベル語など話すことがあろうかと、彼の顔に書いてあるように見受けられました。

国家権力は、国王始めアラブ人たちで、すっかり握っているのです。

顔かたちが似ているとすれば、誰だってアラブ語を話し、権力に近づこうととしないことがあるでしょうか。

そんな中で新たに、アラブ語と違う共通語としてベルベル語を作ったり、習ったりするわけはありません。

どうもベルベル語というのも、ベルベル人の定義と一緒で「前から居た人たちが話している訳の分からない言葉」ということのようなのです。オーバーにいえば日本語、韓国語、中国語を一緒くたにしてイエロー語と呼ぶようなものかもしれません。

 

今回、私たちが通過した都市以外の地方では、住民は川に沿ったほんの僅かな緑の土地を使って、クルミやサクランボを栽培したり、山羊を飼育したりして生計を立てていました。

そんなモロッコの田舎の生活は、同じモロッコでも西欧的な都市生活とはまったくかけ離れたものでした。所得、生活水準の差は、大きいに違いありません。

生活様式が違っても、また所得の差があっても、特別に問題視されているとは見えませんでした。むしろ地方の人たちは、民族の伝統、誇りを守って従来の生活を続けているという説明さえなされています。

アフリカには多様な国があり、ひとつの国にも多様な人がいると言うのが実状なのかも知れません。

日本のように、均質な人が住んでいて、均質な生活ができないと人間社会としてはおかしいという認識とは、容易に相容れないでしょう。

 

・一片の日陰無き野に羊守る、

 

?メッカの方角

モロッコでの旅行を通じて、日干し煉瓦の厚い壁のある古い町を、あちこちで案内して貰いました。

マラケシュ市とフィス市では、古いイスラムの神学校を見せて貰いました。

どちらの神学校も町の中心地にありました。室町時代に建てられたもので、アラブ独特の根気の良い装飾がほどこされた共通した雰囲気の建物です。

マラケシュの神学校は、ユネスコの世界遺産に指定されているそうです。

田舎から学問を志す優秀な子弟を集めたもので、寄宿舎付きの学校です。

さて、この学校に限らず、あちこちの宮殿など立派な建物では、部屋の壁の窪みを指さして、ここがお祈りするところで、メッカの方向を向いているのですと説明されました。

私は山屋の悲しい性で、つい腕時計のボタンを押しコンパスにしてしまいました。そうして見ると、言われたメッカの方角が、どうも私の感覚と違うのです。

自分の感覚が当てにならないのは自認しているのですが、つい、次の場所で解説されたときにも方角を確認してしまいました。いけないことですが、しばらくそれが習慣になってしまいました。

考えてみれば、お祈りをする方角がマチマチなのは当然のことであります。道に沿って家が建てられ、家を素直に区分して部屋を作れば、当然壁はマチマチの方角になります。ましてや、古くは正確な地図などなかったに違いありません。

不敬になってはいけないと思いましたが、どうしても好奇心を抑えられなかったので「メッカの方角はどんなようにして、お決めになったのでしょうか」と恐る恐る聞いてみました。

こんな質問は始めてだったのでしょう、ガイドさんは、ちょっと考え込まれました。

「太陽が出る方角とか・・」と私が誘導しました。

「そう、太陽の方角なんかで決めるんです。でも、間違っていても別にかまわないんです。間違ったことが、あとで返って良い結果に繋がることもあるのですから」そんなように、禍福はあざなえる縄のごとし的な答えをくれました。

ムハマンド(モハメッド)様はメッカの方向に合わせようとする心をこそ、評価して下さるのです。宗教を頂点とする、エモーションの世界はそうあるべきなのです。

ところが浮き世には、もう一つロジックの世界があります。

昔、水力発電所の水路トンネルを掘っているときのことです。工期を短縮するために、両側から堀り始めました。段々、計算上の開通の日が近づいてきます。相手の掘っている音が聞こえ始めます。ところが、相手と出会いません。そのうちに相手の音が後ろから聞こえるようになってきたのだそうです。

現在ではレーザー光線を使うなど、極めて正確に計測し、方角を定めて掘削するので、両側から堀り始めたトンネルはピタリと合います。しかし先輩からは、どこそこの発電所の水路トンネルは、真ん中で食い違っているんだという話を聞かされました。

方角が少しでも違うと、大変なことになる世界も、世の中にはあるのです。

エモーションの世界とロジックの世界を、上手に使い分けて行くのを人生の達人というのでしょう。

責任政党はロジックから離れることはできません。ところが、責任政党になる可能性がなければ、好きなだけエモーションに訴えることが出来ます。

万年野党が、過半数の支持に達することはなく、しかし一定の支持を得て存続しているのは、エモーションとロジックについての、国民の思考レベルを示しているのでありましょう。

 

・コーランの流るる木陰大昼寝、

 

?モロッコのお巡りさん

先々月、オーストラリアを走っていたとき、制限速度が100キロだったものが、集落に差しかかると70キロ表示に下がるのが普通でした。

そんなときドライバーたちは、きちんと70キロにスピード・ダウンするのでした。

日本だったら、村々で警官が見張って検挙するのでなければ、速度表示に従うなんて考えられないことです。それで、さすがにアングロサクソン人は、法と規律の社会を営んでいると感心したことがありました。

さてモロッコでは、本当にお巡りさんが村々の道端にいたのです。

始めに見たときは、今日は、たまたま日本で言う交通事故ゼロの日なのかしらと思いました。

お巡りさんは原則として、2人で組になって張っているようでした。

理由はよく分かりませんでしたが、彼らの制服の色は場所によって空色だったりカーキ色だったり、まちまちでした。

車の運転手も、村落には警官が立っていることを予期しているのでした。鉄道の踏切があるのを予期しているのと同じ調子なのです。

車がスピードを緩めます。大抵の場合、警官は手を振って通過して行けとサインを送ります。

いつまで経ってもこの調子なので、とうとう「あのお巡りさんたちは、一体何をしているのか」とガイドさんに聞きました。

すると、いかにも怪訝な様子で「証明書や、エブリ・シングをチェックするのさ。あれがあの人たちの仕事なのだ」と、当たり前のことをなぜ聞くのかというように答えてくれました。

お巡りさんたちは、どうもトラック運転手を中心に、停車させては調べているようでした。外人観光客は車のナンバーで分かるのでしょうか。われわれの場合は、スピードを落とし、調べるのでしたらどうぞと恭順の態度をとれば、フリーパスでした。一度だけ、なにか警官と会話があったようでしたが、運転手が出て行き、しばらくして戻ってきました。

あまりに頻繁にお巡りさんが立っているので、記録を取ってみました。

フィスという町からメクネスという町まで、2時間120キロのドライブの間に、8カ所見受けました。相当のものですね。

「あの人たちの仕事だ」と言われて、改めて日本のお巡りさんたちは、どんな仕事をしているのかなと考えてしまいました。

モロッコのような密度で道に立って、不審な車をチェックする余裕があるとはとても思えません。それよりももっと大事ないろいろなお仕事を、忙しくしておられるのを承知しているのです。

モロッコは大変治安の良い国だそうです。実際、あんなにチェックされたら悪いことをするのは大変だろうと思われました。

警官一人あたりの住民の数など、なにせ他国のことで、参考になるとも思えないので、こんど行く機会があっても、やっぱり調べないでしょうね。

でも、世の中、いろんなやり方があるものだとは思いました。

 

・己がじし木の陰毎に涼をとる

 

?ホテルにて

1956年までの42年間、モロッコはフランスの保護領でした。

今でもフランス語が広く通用します。そのためでしょう、沢山のフランス人が観光に訪れています。

パリからカサブランカまで約2時間半のフライトですから、日本からだとソウル、北京へ観光にゆくような気軽さで訪ねているようです。

大部分の人たちはブッたインテリなどではなくて、日本人と同じようにパックツアーで来ている、おじさんとおばさんたちでした。

私も今回は個人旅行ではなくて、登山の団体ツアーでしたから、山へ入っていた期間は別として、朝飯と夕飯はホテルで、昼食は外人観光客用のレストランでとるという生活でした。

そして、我々が泊まったホテルは例外なく、朝も夕もバイキング料理になっていました。

 

まだ、旅が始まったばかりの時のことです。

珍しく夕食に日本人がいました。よくある、おばさん同士のグループ旅行というのでしょうか。

バイキングの列の中で、自分の分だけとって進めばよいと思うのに、日本のおばさんは、お友達にも取ってあげるのがサービスだと思っているんですね。

そして会話が始まります。「これ、美味しそうね」「そう、美味しそうね。でも、色がちょっと変じゃない」。

私も時間をかけるなと言っているのではありません。十分時間をかけるのは結構ですが、その時は列を外れて、外の人の迷惑にならないようにと申し上げたいのです。

そんな様子を同胞として恥ずかしく思ったので、私はフランスの人たちに気を遣い気を遣いバイキングの品を拾っていました。

そんなとき、あるフランスのおじさんが自分の奥さんに「このムシューは、さっきから待って下さってる。彼に先に取ってもらいなさい」と私のことを言ったようでした。

パリに行かれた方たちの中には、フランス人て嫌いだと仰る方が、結構多いようです。

でも、私は今度の旅行で、フランスの普通のおじさんやおばさんたちを好きになったのでした。

それから旅のあいだずっと、にこっと笑って挨拶すると、向こうもにこっと笑顔を返してくれたのでした。考えてみると、そんなときの挨拶は口から出まかせで「グッド・モーニング」だったり「ボン・ジュール」だったり、そして「こんにちわ」だったこともあったような気がします。言葉は何でも良いということでしょう。

叱られるかも知れませんが、日本人の場合、女の人だけのグループということで、単眼的になってしまう問題があるのかも知れません。

西欧人の場合は、夫婦連れが圧倒的に多いのです。男女、お互いの欠点を、補い合えます。

もっとも、かく申す私も、男だけのグループの一員ですから、女性側から見ると、ひんしゅくを買うようなことをしているかも知れませんが。

 

バイキングでは、テーブルに群がる人たちを見ているのも面白いものです。

私と同じ年頃の、リタイアしたフランスの人たちを見ていて、いたく感ずるところがありました。

彼等は男女の別なく、いわゆる西洋人みたいな体型ではなくて、チビ、デブ、ハゲが当てはまる人がとても多かったのです。そして、もう疑いもなく短足胴長なのです。

体型というものは、思いがけなく短い時間で変わってゆくものだと思わざるを得ませんでした。

 

そう思ってみると、彼等の殆どは私よりちょっと年下のようでした。

私の年になれば、すでに言葉や習慣の違う外国を旅行をすることが、億劫になっていてもおかしくないのです。

私も現役を退き、ハッピー・リタイア組のピッカピッカの一年生だったのが、ついこの間のような気分なのです。でも、客観的に見ると、もう、リタイア組ツアー旅行でもシニアグループに入っているようなのです。

こりゃ、第二の人生も意外に短いようだなというのが実感であります。

 

・朱の壁を見るだに暑しモロッコは

 

?明日のモロッコへ

モロッコに入った次の日に、この国の最大都市カサブランカ市から第2の都市マラケシュ市へ車で移動しました。

ほぼ4時間の間、づっと平らな土地でした。

仕事を退いてからこの3年ほど、あちこちの国を見る機会に恵まれました。

世界中見ているうちに、山の多い日本が特殊なので、土地というものは平らな方が普通ではないかと思うようになりました。そして、平らな土地には、平らであるための苦労があることも、分かるようになってきました。

今日走っている道も平らなのですが、なんとなしに、やっぱりアフリカだなと感ずるところがあったのです。

なにが、ここをアフリカ風に見せているのなのかなと、考えてみました。

私なりに考えれば、土の色の赤っぽさ、緩い土地のうねり、涸れた川、石の礫、そして結構人が住んでいることなどが、キリマンジェロへ行ったときに見た、ケニア、タンザニアの風景を思い出させたのです。

それにしても5000キロも離れた場所を思い浮かべて、共通的だからアフリカらしいと言い張ることには、正直、私にもかなり忸怩たるものがあります。

強いていえば、距離による土地の変化は、日本と違って大陸ではおっとりしているだろうとは思うのです。

 

道路の周りに植林をしているのが目に付きました。

私の目には、その事業はあまりうまくいっているとは思えませんでした。

この地方では、植物が生きてゆく上で、基本的に水が制約になっているのでしょう。

「去年は良い年だった。良い年というのは、雨が沢山降った年のことさ」、そんな説明をしたローカルガイドもいました。

ここの道端の植林でも、木の根元をちょっと堀窪めてあるのに気がつきましたし、そこへ水をやっている男たちも見掛けました。

そんなにして助けてやっても、ちゃんと成長している木は30パーセント、枯れてしまったのが30パーセント、枯れもしないが成長もしないのが40パーセントという感じでした。

こんな状況を見ながら「サハラ砂漠も昔は緑の楽園だった。人間が自然を破壊したのだ。緑を取り戻そう」そんな掛け声に、踊らされているのかと思いました。

 

でも、これは私の間違いであることが分かりました。

旅も終わりの頃、古都フェズから首府ラバトへ車で移動しました。

この地域は、冬に大西洋から吹く西風が、北と南とを山で挟まれた平野に恵みの雨をもたらし、果樹園やオリーブ畑などの農業地帯になっているのです。

ラバト市は歴史のある街で、とくに1912年からは首都になっていて、庭園都市と呼ばれる、美しく風格のある街なのです。

街に近づくと、道の両側に立派な森が現れました。

透かして見ると、その森の木々は縦横が規則的に並んでいて、何時の時代かに人工的に植えられたものであることが分かりました。

そう思ってみると、条件が悪くて、植え始めにかなり枯れたと思われる場所では、森の木の分布が不規則になっていました。そんな場所は、かえって自然の森に見え、好ましくさえ感じられたのです。

人々が、自分たちが生きてゆくために必要な、作物を育てられる土地が乏しい中で、植林する余裕を産み出し、実行していることに敬意を表したいと思いました。

そして、条件に恵まれたところでは、すでに立派に努力を実らせ、今は段々条件の厳しい場所での森林造りに挑戦しているのでしょう。

 

道路に沿って、鉄道の線路が走っていました。

なんと、それが電化されているのです。

鉄道を電化しようとすると、送電線、変電所、トロリーなど大きい設備投資が必要です。距離が短くて交通量が多ければ、その投資は回収できます。

でも、閑散な線なら、列車が自分でディーゼル・エンジンを積んで走った方が経済的になります。

心がねじけた私は、旧宗主国であったフランスの電気メーカーの圧力で、電気設備を押しつけられたのかしらと憶測しました。

ガイドさんの話では、線路の延長約300キロ、1日8往復走っているそうです。

大雑把に言えば、高山本線に対応するぐらいの路線なのでしょう。高山本線はもちろん電化されていません。

でも、これも私の憶測が、違っているのかも知れないと反省しています。

それというのも、下記のようなことがあったからなのです。

 

砂漠に向かって走っている間、細いひょろひょろの一回線送電線が延々と続いていて大変目に付きました。

まとまった電気料金収入が確保できるところへは、送電線を作っても採算はとれます。

しかしモロッコでは、日本の2倍ほどの広さの土地に、4分の1ほどの人が住み、1000分の1ほどの電気しか使っていないのです。

大都市は別として、サハラ砂漠に近い、小さな部落が点在する広い荒れ野まで延々と送電線を引っ張り回して、採算がとれるとはは見えません。

途上国では、電力供給は公共的色彩が強いので、採算は決定的な条件ではないかも知れません。しかし我々ならば、遠くにある小さな村へ電力を供給する際には、高額になりかねない送電線を建設するか、それとも使用量に見合った小さなディーゼル発電所を作るか、経済的な方を選ぶことになるでしょう。

モロッコの荒野で目に付いた送電線は、3万ボルトクラスのものでした。このような低い電圧で、長い距離を送電するのは、技術的にも大変難しいことなのです。

送電というより、超低密度の配電技術と呼ぶべきかもしれません。

私が電力会社に入った頃に、アフリカで長距離送電の限界に挑む計画がありました。

この計画は大変特殊な条件でしたから参考になるとは思いませんでしたが、風の便りに送電に成功したこと、しかしその後、反体制勢力の妨害で、十分には使われてはいないと聞きました。

長距離送電はアフリカのお家芸なのかもしれません。

きっと、モロッコにはモロッコなりの事情があるのでしょう。

電圧が変動しようが、停電が多かろうが、電気があるとないとでは、暮らしの質は全然違うのです。

日本だって私が子供の頃は、夕方しか電気が来ないところがありました。

モロッコでは、電気の恩恵にたいする評価で、我々とは違ったコンセプトがあり、今のシステムが成り立っているのでしょう。

軽々に他国のことをコメントするべきではないでしょう。また、それ故に、本当はどんな事情があるのか聞いてみたくなるのです。

 

ついでながら、サハラ砂漠の北で、風力発電の適地を発見しました。

車道がアトラス山脈を越える、ティシュカ峠がそれであります。

水力発電所が水の流れている川に造られるように、風力発電所も風の流れるところに造らなければ役に立ちません。太陽で熱せられて上昇気流が出来やすい砂漠と、いつも冷たくて重い空気のある海との組み合わせは風が生まれやすいのです。おまけに、それを隔てる山脈があって、低い峠で切れていると、風は峠へ集中的に集まって流れるのです。

もっとも送電線が弱いと、風の変動のまにまに電圧が大きく変わり、電灯もモーターも風に揺らぐ蝋燭のような、ロマンチックな状態になることでしょう。

 

植林、鉄道電化、送電網の整備など、公共的な事業が進められていることを述べましたが、この他にも1973年と言いますから独立後に造られた利水、発電用の大ダムも車窓から見ました。

このようにモロッコでは、国民の富を集約的、計画的に活かし、明日を目指している様子が見受けられました。

 

・玉の汗鶴嘴シャベルの世もありし

 

 

?サハラ砂漠

天上の神様たちの会議です。

総理大神

「地球を凸凹にしてみたが、雨が山を削り、川になって、土砂を海へ運んで行く。

そんな様子は見飽きて面白くもない。今度、雨の降らない土地を造って、地形がどう変わり、人間たちがどうやってゆくか試して見ようじゃないか」。

一同

「かしこまりました」

 

数ヶ月後の閣議で

官房喋官

「雨を降らせない計画だったが、実際は年間200ミリほど降ってしまった。気象庁は責任を、一体どう考えているのか」

気象庁喋官

「ワリィ、ワリィ。だが、端っこで少々漏れるのは、勘弁して欲しい」

建設大神

「少ない雨が集中するので、平坦な地面に深い掘り込みができた。また、直径3mもある、大きな岩塊ならぬ土塊がごろごろするのが目立つ」

農林大神

「人間たちは川の岸の僅かな緑地に、イチジク、オレンジなど自分たちの役に立つ植物だけを植えて生きている。一本だけユーカリの木があって、無用の植物にも生きてゆくことを許すなんて可愛いところもあると思ったが、結局、それを使って家の屋根を造った。まったく、セコイ連中である」

厚生大神

「温度変化を和らげる水がないため、夜は冷え、昼間はカンカン照りで凄く暑い。人間どもは、家を90センチもある厚い日干し煉瓦の壁で造り、窓を小さくして夜の冷気を逃がさないように工夫し、昼間の暑さを凌いでいる。

原始人たちは洞穴住まいしていたが、日本人は雨露を凌ぐ、開けっぴろげの家に移り、モロッコ人は冷気を閉じこめようと洞穴の口を塞ぐ方向に動いた」

国防大神

「あんな劣悪な土地条件の中で、部族同士協力するどころか、役にも立たない相手の荒れ地を奪い合うのに血道をあげている。人間の愚かさが、つくずく嫌になった。」

 

 

アトラス山脈を越えて南に出ると、しばらくは上述のような風景が続きます。

ここはもう、サハラ砂漠であるように見えました。しかし土地の人によれば、本当の砂漠から帰ってきた人にとっては、まだこれからカスバ街道を数百キロ走ってゆく間は、喧噪に帰るまでの余韻の土地なのだそうです。

私は確かにサハラ砂漠へ行って、目の果てまでの砂原を見ました。また赤い色の細かい砂を踏んできました。

しかし、それだけの経験から、ああ、こう語るのには、サハラ砂漠はあまりにも大きいのです。盲人たちが巨象を撫でて評論するよりも、もっと愚かな行為に思われます。

サハラ砂漠の面積は、860万平方キロ(別の資料では907万平方キロ)もあります。広さ第2位のアラビア砂漠の約4倍、また有名なゴビ砂漠と較べて6,6倍もあり、日本の国土面積の23倍もあります。そして数カ国ににまたがっているのです。

 

そもそも、砂漠と砂漠以外の土地とを、何をもって区別するかは、顔と額の境を論ずるようなもので難しそうです。英語のデザートという言葉は、荒れ地という意味が強い筈なのです。

 

私の世界地図には、サハラ砂漠を南北に貫通する道が、ナイジェリアの辺りで3本書き込まれています。

その一本の道を足で歩いた人の記録を読みました。永瀬忠志という当時33才だった日本人です。1989年6月8日、アフリカ中部東海岸のモンバサ市を出発し、大陸を西岸のドアラまで横断し、その後北上し、サハラ砂漠を縦断しアルジェに出ました。地中海は船で渡り、マルセイユからパリまでまた歩いたのです。約1年かけて11100キロ、生活用品をリヤカーに積んで引っ張って歩いたのです。

その永瀬さんによれば、サハラ砂漠では世界地図に描かれている道でさえ、砂の原に1キロm毎にドラム缶が置いてあるのが目印で、車のわだちが別れているところでは、どちらを取るべきか、真剣に迷ったそうです。

地図の上で道が記入してないところなど、土地が出来て以来、人類が歩いたことがないのじゃないでしょうか。飛行機または人工衛星からの観測以外に、砂漠を網羅したデータはないでしょう。

サハラ砂漠を訪れた観光客のひとりは「砂漠には確かに砂の場所もあったが、大部分は土漠であり、岩漠だった」と感想を書いています。

砂の砂漠、岩の砂漠、土の砂漠がそれぞれサハラ砂漠の何パーセントあるかなど、実際は分かっていないのだと思います。よしんば分かったとしても、時間が経つに連れて、変化していることでしょう。

 

こんなにして、理屈をこね回した後で、狭義のサハラ砂漠、つまりエル・フード南方にあるサハラ砂漠の観光地点へ行った記録を書こうとしているのです。

 

ワルザ・ザードの町を通り、サハラ砂漠の観光基地エル・フードへ向かうカスバ街道には、約300キロの間にカスバが1000個あると、ガイドが言いました。

この地方では、過去、部族間の抗争が激しかったようです。

そのためにあらゆる場所で、外敵の攻撃を、日干し煉瓦で造った厚い壁で防衛しようという思想が貫かれています。

・カスバ

数十軒の部落があったとき、その内の一軒だけを厚い壁で囲んで造った要塞をカスバといいます。

・クサル

数十軒の村をまとめて、厚い壁で囲んで要塞化したものを、クサルと呼びます。もともと数が少なく、不便なのでほとんど廃墟になってしまったようです。

・メディナ

大きな都市で、一応の都市機能を備えた広い範囲を、もろに壁で包み込んでしまっているのを、メディナと呼びます。現在でも昔のままのスタイルで、都市の一部として機能しています。

 

カスバ街道で、典型的なカスバとクサルを1カ所ずつ見ました。

我々が訪ねたクサルの名は、アイト・ベン・ハッドゥと言い、ユネスコの世界遺産に指定され、保存工事が行われています。

「アラビアのロレンス」「ソドムとゴモラ」「ナイルの宝石」など、数々の映画で、ロケの舞台になった集落なのです。

映画でロレンスの住居になった家は、映画のために造った建物です。当然、世界遺産にはなりません。おみやげ店になっていました。

観光客慣れした親父さんが「コニチワ。サムイ?」と笑わせてくれました。ちなみにこの時、登山用の温度計は39度を指していました。

先日の山行で残っていた腰のポシェット内のチョコレートが溶けだし、サングラスも、手帳もボールペンも大変でした。

カスバもクサルもお城ですから、厚い土の壁の隅に、監視、攻撃用の塔が造られています。

現在では塔ごとにコウノトリが巣をかけていました。ちょうど、5月末は卵が孵る時期のようで、親がじっと抱いているのもありましたし、もう、くちばしが黒い孵ったばかりの雛鳥がいるのもありました。

 

人が住んでいる最後の町エル・フードに近づくと、住民の皮膚の色が薄黒くなり、また、女の人は黒い布で顔をすっぽり隠した、典型的なアラブ・スタイルになっていました。今まで通ってきたモロッコとは、かなり変わったムードでした。

改めて思い返すと、ここへ来るまでは女の人たちは主として白い布を使っていて、髪は隠していましたが、顔はそれほど隠してはいなかったなと、気がついたのでした。

 

 

エル・フードのホテルに入る前に、アンモナイト工場を見せて貰いました。

ついでながら、モロッコで見掛けた工場らしい工場は、このアンモナイト工場の外には、軽量煉瓦を焼く工場だけでした。

もちろんアンモナイトの化石を、工場で作っている訳ではありません。

近くのアンチ・アトラスの山から、5億年前に生きていたアンモナイトやオウム貝の化石を含んだ原石を、切り出して工場まで持ってきます。角張った3トン程度のブロックにして運んできます。それに水を掛けながら、スチールの刃で、2センチほどの厚さの石の板に切ってゆきます。

模様の良いものは、そのまま磨いてテーブルなどにします。

私は孫に、アンモナイトの小さな化石を買ってやりました。日本円にすれば安いものなのですが、ガイドブックに何でも値切れと書いてありますから、一応値切ってみました。相手は「ファクトリー・プライス」だから負けられないと、したたかなものです。いずれにせよ、ファクトリー・クォリティ、つまり本物であることだけは確かでした。

モロッコ中いたるところで、観光客をターゲットにして、アンモナイト、水晶などを売っていました。例えてみれば、火山岩しかない富士山で、本来あるわけがない南米産の水晶を並べるような売りかたを、平気でやっています。

中には、水晶にカラフルな塗料を吹き付けた、不思議にキラキラと綺麗な鉱物を売っていることもありました。偽物の最高傑作として、買って置こうかと思ったぐらいです。

考えてみれば、世の中の女の人たちはなべて、ルージュを引いたり眉を描いたりして、綺麗につくっては、男たちを喜ばせてくれているのです。

さすがに、フランスのおばさんたちも、こんな宝石には手を出していませんでした。

 

 

朝3時半にホテルを出て,砂漠見物にゆきました。真っ暗な町を出はずれると間もなく、我々の乗ったランドローバーは道端に止まってしまいました。エンジンの冷却水が漏ってなくなってしまったというのです。

すぐ、携帯電話で代替えの車を頼みました。20分ほど待っただけで、再出発しました。待っている間に、ほかの観光客を乗せたランドローバーが何台も何台も追い越して行きました。

それが先に行くに従って、分かれ道でそれぞれに分かれるので、最後に我々が着いたカフェには、4台ほどしか止まっていませんでした。

Aさんだけ折角来たのだからと仰って駱駝に乗られ、後の連中は自分の足で歩きました。馬ならば右前足、左後足を同時に動かすのですが、駱駝は右前足、右後足を同時に動かすのだそうです。それで乗り心地は良くないと言います。

Aさんはそのことを後で聞かされて「そういえば、左右に揺れるような気がしました」と言われました。

私は駱駝の足の動きを、かなり一生懸命観察しましたが、実際には微妙な動きをしているようでした。

人間は、2本足で歩きますから、どちらかといえば駱駝方式です。おんぶして貰ったときに、人によって微妙な乗り心地の良し悪しがあるのでしょうか。

砂山の小高いところに登って、日の出を待ちました。気温23度C、砂漠の夜明けは、爽やかな風が吹いていました。裸足になった人は、砂が冷たくて気持ちいいと言っていました。

砂の色は、かなり赤みがかっています。わずか数メートル下はラテライトの岩盤なのだそうです。ラテライトとは、熱帯サバンナ地域に分布する、鉄とアルミニウムを含んだ赤色の岩石のこととあります。

太陽が顔を出すと、その赤い光にサハラ砂漠の赤い砂が赤の世界を演出します。影の黒さとのコントラストの見事さに、これで最後、これで最後と独り言を言いながら、いつまでもビデオを廻していました。

斜面を歩くと、足下から砂がサラサラと流れてゆきます。まるで水でも流したようなのです。

砂漠に広がる無数の起伏のうちには、風下側に雪庇のような砂の張り出しを持ったのも見えます。サラサラの砂では、そんなものが出来るわけはありませんから、そんなところは粒度が揃っていないとか、なにか理由があるのでしょう。

砂山からの帰路には、青い服を着たトゥアレグ族のおじさんが付いてきました。その衣装の青い色からブルーマンと呼ばれている砂漠の住人です。15分ほど「日本の、どこから来たのか」など、一生懸命話して、最後にアンモナイトを買わないかとポケットから出しました。買ってあげたいのは山々でしたが、要らないものは要らないのです。

 

往復で、せいぜい1時間ほども砂の上を歩いたでしょうか。砂に足が潜ってしまい、とても歩き難いのものなのです。

そしてマクロに見れば、とてつもなく広い平らな砂漠ですが、ミクロには比高数メートルの砂のアップダウンが、切れ目なく続いているのです。

先に述べた冒険家の永瀬さんは、リヤカーを引っ張るのに板を2枚用意し、砂の柔らかい所ではタイヤの下に板を敷いて引っ張ったのだそうです。最悪の日には、1日9時間も苦闘した末に、たった12kmしか進めなかったと書いています。通過したあとで、50m右には土の硬いところがあったのが分かって、がっくりきたとも書いています。

フランス映画に出てくる外人部隊の兵隊さんたちは、なにの必要があってあんな砂漠を歩いたのか分かりませんが、自分が行ってみれば、ロマンチックとはほど遠い砂漠なのでありました。

 

・大砂漠山見へ来れば雲立てり

 

?空港での暇つぶし

空港での乗り換えに、かなり長時間待たされることがあります。

私はもっぱら、リュックのポケットに文庫本を入れてゆき、気楽に読むことにしています。

今回は広井良典さんの「遺伝子の技術、遺伝子の思想」というのを読んでいました。

著者は科学史、科学哲学を専攻され、厚生省に勤められ、また大学で教鞭をとられるというマルチな才能をお持ちの方であります。

この本の中で医療、介護の問題を広く論じておられます。

相変わらず、私の管見的議論に引き込んで恐縮ですが、この本の中に引用されている、イギリスの動物行動学者ドーキンスの言葉が衝撃的でした。

「生物の個体は、自己保存を図ろうとする遺伝子の単なる乗り物に過ぎない」というのです。

この言葉は、次世代に遺伝子を渡した途端に死んでしまう鮭の場合は、素直に納得できます。

それにしても「遺伝子の単なる乗り物」というのは、ラジカルな表現であります。

人間個体は、乗せている遺伝子に奉仕するために、勉学に励み、歯を磨き、異性を引きつけようとあがき、同僚の足を引っ張り、蓄財に淫するのでしょうか。

まったくヤレヤレと思いませんか。

 

ともかく、地球上に生きているいろいろの動物をこの観点から見ると、遺伝子が持っている主なメッセージが自己保存にあることは確かなように思われます。その中で特殊な例として、現代の先進国に住んでいる人類の場合には、一番重要な自己保存の目的がすでに叶えられているために、遺伝子に組み込まれている別のメッセージが発動して来るようであります。

それは未婚、少子化であり、またグリーンピース、緑の党的な発想でありましょう。

 

人間の場合、遺伝子が望んでいたよりも長く生きることが出来るようになった、あるいは長く生きる運命にあったために介護の問題が発生した、そこで効率的な介護のあり方、死を迎えるまでの心構えという風に議論は進んでゆきます。

それにしても、遺伝子は生物の基本的ルールであり、しかもすでにかなり明らかに解明された問題であります。

ところが遺伝子組み替え食品に対する世論を見ていると、人間の理解力と遺伝子とは相性の悪い組み合わせのように思われてなりません。行政、報道、いずれも庶民感覚ベースの呪縛から抜け出せないように見受けられます。

 

・サングラス携帯大声長話、

 

?白夜

帰路は、パリ・ドゴール空港を6月3日19時16分に離陸しました。そして関西国際空港には翌日の13時22分に着陸しました。夜をこめて飛んだことになります。

 

席はジャンボ機のF列ですから真ん中です。外は全く見えません。

離陸して間もなく、日が暮れてゆくようでした。

12時間の飛行時間のうち、一度だけ、トイレに行ったついでに、一番後ろの窓から外を見ることができました。窓には霜が凍りついていました。

ちょうど太陽は地平線にかかっていました。ビデオにその真っ赤な影を収めました。

 

このあと多分、日は沈んだのでしょう。

時は6月の始めです。北半球では一番日が長い時期です。北緯67度よりも北極に近い北極圏内では、24時間太陽が沈まない白夜の状態になります。

従って、我々がとった北緯49度のパリから北緯35度の大阪まで、北緯68度まで北上する大圏コースを飛ぶと、理論的には次のようなことが起こっていたと思われます。

夕暮れパリを飛び立ち、地球の自転でいったん日は沈みます。

乗機が北上し、北極圏あたりで、地平線すれすれに再び太陽が現れます。

やがて南下し、北極圏から外れ、日は沈みます。

地球の自転で、東から通常の日の出が始まります。

つまり、夜の間にもう一回、一寸した昼が入るのです。

速度の速い人工衛星では、24時間の間に何回も昼と夜が来ますが、ジェット機でも似たような現象はあるはずなのです。

実際には、時間と飛行機の位置で、ぴったり上記の通りになるかどうかは、実際に見てみないとわかりません。しかし、閉めっぱなしになっていた遠くの窓の明るさからは、それに近い状態だったように推察されました。

団体旅行は万事他人任せで楽ではありますが、好きな席が得られないで、このように折角のチャンスを活かせず残念なこともあるものです。

 

人生のフィナーレは、人さまざまです。

生涯現役の人もあります。

仕事を失った途端に、すっかり元気をなくしてしまう人もあります。

しかし退職後の新しい生活で、例えば社交ダンスなどに新しい興味を見出し、返って若返ったように見える人もあります。奥さんをなくされた人が再婚すると、髪が黒くなるということを聞いたことがあります。同じ様なことなのでしょうか。

私についていえば,年とともに耳が遠くなり、物忘れがひどくなり、物事に対する執着心がなくなるたちなのです。適当なところで第二の人生に入ったことは幸せだったと思われます。

そうして、こんなにあちこち旅行して、一旦、暮れた日が、再び白夜として薄明るくなるように、幸せな日々を授かっていることを感謝するのです。

 

・葬果つる今は夏菊手折る刻

               

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