題名:人形山(99/11/6〜7)

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日付:2000/1/20


今回の計画は、次の通りでした。

 

参加者 M、m、私

日程 11/6(土) 7時30分地下鉄本郷駅集合、名神、北陸高速道を経由して、途中で三方岩岳登山、富山県五個山の民宿で宿泊

11/7(日) 人形山登山、帰路途中に医王山登山、高速道を経由して帰名

 

車は、mさんの車でした。

九州でお世話になった彼のカーナビが、今回は、車のダッシュボードにきっちりついていました。

九州の時は、レンタカーを博多の駅で借りたのでした。車を借りた直後、mさんが、持ってきたボストンバッグから、何やら電線が一杯付いたものを取り出しました。それがカーナビだったのです。

mさんはとても器用なのです。

どんなにして取り付けたのか、今になっては覚えていませんが、なにせ仮に付けて走ったので、急にカーブを切ると、どさっと落ちたりしたのでした。

 

今回の旅では、このところ、カーナビを導入する気になっている私が、目的地、ルートをセットする練習をさせてもらいました。

運転しているmさんに口で教えて貰いながら、セットしました。

高速道路を走っているうちは、カーナビの画面はまったく面白くもありませんでした。

でも、降りてからは、この装置がどんな道を選ぶか楽しみながらゆきました。

結構、狭くてもショートカットになるルートを選んでいました。皆さんの合意を得ながら、カーナビの指示のとおりに走ってゆきました。

「mさん、これ安く手に入れたんだってね」と私が水を向けます。

「子供の商売で、安いのがあるが親父買わんか、と言われたので」「僕も安ければ欲しいと思っているんだけど」「時間と金額は約束できませんが、心掛けておきましょうか」「頼みます」そんな会話がありました。

それも今は空しくなってしまったのです。

 

小松で高速道を出て山道にかかると、仏御前の里という看板が目に入りました。仏御前は平家物語に出てくる、絶世の美女なのです。

彼女は14才で京に上り、平清盛に愛され、人に羨まれる境遇にありながら、わずか17才で出家してしまうのです。

自分が寵愛を得たがために、寵愛を失った人がある現実に,世のはかなさを悟ったことが、その出家の理由でした。

 

ところで、私の義父は九州佐賀の出身です。

昔むかし、義父が名古屋に来て、ある宴会の席で歌を所望されたとき、九州のご当地ソングである黒田節を唄いました。

そしてその二番を、こんな替え歌の文句で唄ったのです。

 

仏も昔は凡夫なり 我らも遂には仏なり

共に仏性具する身を 隔つるのみこそ うたてけれ

 

この歌詞は、仏御前の故事を踏まえているのだとのことでした。

義父は私に、覚えておくと良いよと言って、その文句を箸袋に書いてくれたのでした。

ところが私と言えば、芸者を侍らすような宴会には,残念ながら一生縁がなくて、もっぱらカラオケで裕次郎など歌うような次第でありました。

時代のせいだとはいえ、義父の好意は遂に実らなかったのであります。

 

彼女、仏御前が、ここ加賀の国、原の里の出身とは、思ってもいませんでした。

おっちょこちょいの私は、寄り道をしたくなりました。みんなの同意を得て、彼女のお墓を見ました。

また、近くのお宅に仏御前のお像があると書いてありましたので、続いてそれも拝見する気になったのです。

そのお宅にお願いすると「もうじき団体が来られますので、その人たちと一緒に・・」とのことでした。そこまでは、仲間の同意が得られませんでしたので、拝観せずに先を急ぎました。

つまり、この日の行程は、その程度、のんびりしたものだったと言いたいのです。

秋の抜けるような青い空に、真っ白な小積雲が浮かぶ、この11月始めの手取川渓谷そして白山スーパー林道は、もう感嘆詞の連続でした。

トンネルの岐阜県側に車を置き、三方岩岳を往復しました。

 

20年ほど前、ゴールデンウイークに、このトンネルから北にたどり、笈ガ岳(おいずるがたけ)に登ったことがありました。

その帰りに、行きがけの駄賃のようにして、この三方岩岳にも登ったのでした。

その時期には、このあたりはまだ雪が深く、スーパー林道は不通で、麓から足で登ったのでした。この三方岩岳にしても、この最初のピークから一旦下ったあと、また登り直して、もう一つ奥の本峰まで行ったのでした。

 

今回は、一応、mさんがパーティーでは最高齢なので、トップをお願いしました。

かなりのハイペースでした。山のスケールがあまり大きくないことを頼りに、私にとっては一寸無理なハイペースをとって、やっとついて行きました。

この日は、駐車場に色とりどりの車が溢れ、最初のピークまで沢山の観光客たちが手軽な高山気分を楽しんでいました。

 

その後、荘川筋に入り、菅沼、相倉と2カ所、合掌造りの集落を散策しました。

合掌集落は数年前、世界遺産に指定され、以前と較べて大変な賑わいようになっていました。

今でも住民はそのまま生活しているのですから、合掌造りの大藁屋にエアコンの屋外機がついたり、衛星放送を受信するアンテナがついたりしています。

この地域では、現代に入って出来た瓦葺きの家も大変に大きくて、今でも大家族で住んでいるのかなと思いました。

現在の我が国で主流になっているマイ・ホーム主義と対蹠的な、大家族生活様式がもしも残っていれば、建造物だけではなくて、それも世界遺産の価値があるのではないでしょうか。

ともあれ、茅葺きの大屋根、枯れススキ、柿スダレ、思案顔の俳人などに、暫時、秘境の秋と合掌集落の侘び寂びの雰囲気に浸ったのでした。

 

・大藁屋婆が出で来て大根引く

・柿吊す窓美少女と目が合いぬ

 

泊まりは民宿「北ぶら」、どうもこの妙な名前は、ここのお宅の性である北村が訛ったもののようでした。

「お風呂はあそこ、入浴料1人400円」と若奥さんに指さされました。

それは川の対岸にある国民宿舎だったのです。この紅葉シーズンの土曜日は、国民宿舎はもちろん満員で、先日、宿泊の予約を断られたのでした。

お風呂だけ使わせて貰うことになりましたが、これも何かのご縁でしょう。 そこの露天風呂で、懐かしい富山の言葉を充分聞かせて貰いました。

半世紀の昔、私は旧制富山高等学校生として、3年の秋を越中の国で過ごしたのです。

 

夕食は,岩魚や山菜のついた、かなりデラックスなものでした。

mさんが、お櫃とみそ汁のある方へ座って、私たちにサービスしてくれました。

何でも、mさんは最近高価なギターを求められたのだそうです。

この日頃、若い女性の先生からギターを習っているのだそうです。人懐こい彼のことですから、さぞかしティーチャーズ・ペットなのでしょう。

そして、ギターを買いたいと言うと、その先生のまた先生、つまり大先生まで楽器屋について来てくれたのだそうです。

最初、mさんは音の大きいのが良いと思ったのだそうですが、大先生の選択は一寸違っていたとのことで、やはり専門家は違うと言っておられました。

「今は年金生活だし、孫にいろいろ買ってやらなくちゃいかんし、値段は負けといてよ」というと、楽器屋も「お孫さんに良い音色の音楽を聴かせておくと,情操が豊かになりますよ」と言い返された、敵もさるものだと言っていました。

食べ終わると、何もすることがないので、19時にもう寝てしまいました。

 

翌朝は、6時40分に起きました。これは登山としては、かなりゆっくりした起床です。

でも、mさんは「家だと、まだ寝てられるのだが」と言っていました。

数年前、奥さんを病気で亡くされ,今は全くの独り住まいなのです。

 

朝飯では、そそくさと顔を洗った私が、お櫃を抱えました。

昨夕、お給仕をしてくれたmさんが「今朝は、主婦の座を穫られてしまいましたね」と言いました。

それがきっかけで、どれだけ沢山の女性が、主婦の座に座りたいと願ったことかというような話になってゆきました。

私は、こんな友人の話を披露しました。

長年、嫁に辛く当たっていた母親が、近くの空き地で突然倒れました。ご近所の方たちが騒ぐ中に嫁が駆けつけると、母親はもう声も出せなかったのですが、ただ「あっ、あっ」と、いかにも頼りにしている仕草で手を握ったのだと言います。

その瞬間、積年の邪険な仕打ちに対する恨みが、すっかり氷解してしまったのだということです。

「俺たちも死ぬときには、アッ、アッをやろうや」そう言って、笑いを強制したのでした。

 

中根山荘に車を置き、歩き始めたのは8時でした。

「mさん、昨日は貴方の足が早いので、ついて行くのに苦労しました。今日はゆっくり行って下さいな」私はそう頼みました。

「そう言ってくれると、助かります」と彼は答えました。

でも、歩き始めると、全然手加減をしてくれないのです。あっという間にかなり引き離されてしまいました。

「買ったばかりの靴が、キューキュー鳴って、恥ずかしいから」などとmさんは言うのです。

手入れの悪い地道の林道を20分ほど登ると、一寸した公園があり、広場に車が何台か駐車してありました。「ここまでは車で来られたのに、損しちゃったなー」誰となく、そう呟きました。

 

そこから3時間弱、宮屋敷跡までの道は、まことに単調な登りです。途中、2度ほど休憩して、近時、健康に良いと言われているチョコレートなどしゃぶりました。

この登りでは、3人、団子になって登って行きました。それは、mさんが私のペースに引き込まれたようにも見えますし、彼自身、疲れが出てきたようでもありました。

急な登りでは彼の足が早くて私が離され、傾斜が緩くなると、今度は私の前がつかえた感じになるのでした。

いつものとおり、3人とも殆ど口をきかず、黙々と足を運んでいました。ただmさんが「これじゃ北海道の山と一緒だ」と言ったのを覚えています。

確かにこの人形山は、標高から受ける印象よりも、懐が深いのです。まさに、我々がこのところ取り組んでいる北海道の大きな山と似た感じで、彼の言葉に私も同感だったのです。

先々月、長年、このグループの一員だったIさんを病気で亡くしました。

その葬儀で、久しぶりにmさんにお会いしました。「最近、どうしてますか」とお尋ねすると「もう、年をとって馬力がなくなったので、えらい山には行けません」と言います。「死んでしまったら行けないから、楽な山へ一緒に行きましょうよ」、そんな会話を交わしたのでした。

私たちはみんな、今日の人形山は、比較的楽な山と見て登りに来ていたのです。

 

宮屋敷跡という場所は、稜線に出たところで、格好の休憩場所なのです。でも、私たちはなんとなく、そこでは休まずに歩き続けました。

ここまではひたすら登りですが、道はこれからしばらく、小さな上り下りの繰り返しになります。

そんな道の真ん中にに立ちはだかるようにして、曲がりくねった岳樺の木がありました。雪に押し曲げられたのでしょうか、その姿はまるで怪獣のようでもあり、写真の好対象と見て取りました。それで、私はしばらく、しつこくその木の写真を撮っていたのです。

そのあと、最後のコブを登り切ったところで、先に行った二人が休んでいました。

「ちょっと、休ませて貰います」とmさんが言いました。

 

私は「勝手ですが、先に三カ辻山へ行って、それから人形山にまわります。もし、お二人が先に下山するようだったら、道の分岐点にメモを置いておいて下さい」そう言って先に進みました。

数年前、人形山に登ったとき、この先にある三カ辻山への分岐で、全く視界がなく、かつ所要時間が意外に長く記載されていました。それで、登らずに終わってしまっていたのが、づっと心残りになっていたのです。

今日は視界が良く、まるで三カ辻山が招いているように見えるのでした。

天気も良く暖かいので、仲間の二人が人形山の頂上でゆっくり山見をしている間に、三カ辻山を往復できそうだと思っていたのでした。そして、万一、たとえ人形山に登れなくても、前に登っているのだから、今回は、まあ良いやとさえ思っていました。

 

しばらくゆくと、Mさんが追って来ました。mさんが、Mさんも三カ辻山に行ったらどうかと言ってくれたのです。

山仲間というものは、自分が相手にとって迷惑になっていないかどうかに、いつも、とても気を使っているものなのです。

自然の中に置かれたら、人間という生き物は大変非力なものです。

山に入っていると、体力やノウハウ、さらには先を読む能力など、いずれも限界に近いところに晒されていることを、嫌というほど知らされます。

そんな経験を積み重ねているうちに、自分の能力不足が原因になって、他人の行動や安全を制約することがあってはいけないという気風が、身についてゆくのでしょう。

そして、こんな思いは、年をとりノウハウが増え、反面、体力が落ちてくると、より強くなってくるのです。

 

三カ辻山までは、遠方から見たところでは、ほぼ平坦な容易なルートに見えました。

しかし行ってみると意外にアップダウンがあるうえ、木の根っこが邪魔したり、刈払いができていなくて、そう楽ではありませんでした。

頂上には2等三角点があり、男性2人と犬が1匹来ていました。

ここからの視界は360度、午後の日差しに、とくに槍、穂高など北アルプスの展望が見事でした。

その後、分岐まで戻り、さらに人形岳に向けて5分ほど歩くと、木の根元でmさんが休んでいました。

顔色が悪いのと、それに登山靴まで脱いでいるのが、ただ事とは見えず、なにかとても心配でした。

それでも「どうしましたか」と声をかけると「先に行って来て下さい。ちょっと休んでいれば良くなりますから」と言ってくれるのです。

私たちにはその気持ちが分かりましたから「それじゃ」と、先へ進んだのでした。

人形山の頂上は13時20分でした。すぐ、引き返しました。

歩きながらMさんと、今までの登山の経験の中で、ちょっと休んだら元気が回復した例を話し合っていました。

そして今度もきっとそうだろうと思いながら、戻ったのでした。

でも、mさんは、さっきより3〜4m、下の方の斜面に移り、まだ気分が悪そうでした。

「どうですか」と尋ねると「腕がしびれて」と言いながら、しきりに上膊から下をさするのです。寒くはないかと尋ねると「寒くはないが、・・」と腕のしびれだけを訴えるのです。そのさする仕草は,知覚が次第に薄れてゆくのが不安で仕方ないといった様子なのです。

ともあれ、今の状態で寒くないわけはないので、私のウールのシャツを着せました。

そして、考えながら様子を見ていました。Mさんも同じだったと思います。

 

mさんは、盛んに腕をさすりながら、上体を立てはするのですが、どうも横になった方が楽なのでしょう、ときどき横になります。

こんなにして、何分間様子を見ていたでしょうか。5分か、もう一寸かもしれません。

とうとうMさんが「救援隊を呼びましょうか」と切り出しました。私も同じことを考えていたところでしたから「この際、慎重過ぎても許されるから、そうしよう」と応じました。

救援を求めるのに、登山口から里まで、車の運転が必要になるかもしれないので、私が下り、Mさんが病人に付き添っていることにしました。

3人で、手短に今後の行動を打ち合わせました。

mさんから車の鍵を受け取りました。そして、ご家族の連絡先は、車の中の電子手帳にあることなど確認しました。

私の衣類、それにヘッドランプと飲み水を残留組に残し、あとは一目散に駆け下りました。14時でした。

 

途中、2回転んで尻餅をついたほかには、足を止めませんでした。

そして頭の中では、これからの経過を、想像していました。

私が里へ着くのが16時、救援隊が集まるのは17時になるだろう。それから登山開始,遭難地点到着は20時になろう。寒くなるだろうが、頑張って欲しい。そんなように思っていたのです。

細い山道が終わる公園は、15時40分に通過しました。

さらに林道を下ってゆくと、赤いライトが点滅しているのが見えました。小型のパトカーが止まっていました。

私を見た警官が「Mさんですか」と問いかけてきました。

 

別れた後に山の上で進行していた事態は、あとでMさんから聞かせて貰いました。

二人が救援を待っている所に通りかかった人が、運良く携帯電話を持っておられたのでした。それで、持っていたパンフレットから役場の電話番号を探し出し、電話をすることが出来たのでした。

そのお陰で、私が下山したときには、富山県警のヘリコプターの出動の手配はもう出来ていました。

消防団の方も4名、待機していただいていました。

下界では今までの情報量が限られているので、私が上に残り、Mさんが救援依頼に下山したことになっていました。

そこで私から、三人の身元を始め、諸情報を紙に書いて、お渡しし、良く分かって貰いました。

みんなが、一番知りたがっていたのは、病人の状態と、現在位置でした。

略図を書いて示すと「それじゃ、頂上のほんの近くじゃないか」と、やっと正確に分かって貰いました。

ヘリコプターから病人が発見できるかどうかが、一番の関心事でした。

パトカーの警官が、電波の状態の良いところを探しては、地上の警察を経由して、すでに現場へ向かっているヘリコプターに待機場所を連絡してくださいました。

 

あとでMさんに聞いたところでは、山の上では、mさんを負ぶったり、ちょっと歩いたりで、別れたところよりは少し下っていたようです。

そして、ヘリコプターが見えたので、道から少し離れた尾根の上で両手を振って合図したら、すぐ、発見してくれたのだそうです。

ヘリコプター「つるぎ号」に乗っていたのは、百戦錬磨の富山県警の山岳救難隊です。

吊り梯子、ハンモック状の吊り具を使い、てきぱきと、手際よく収容は終わったそうです。

足下には紅葉が美しく照り映えている秋の空高く、ヘリコプターが高岡市の市民病院に向かったのは、なんと16時でした。

富山から15分、高岡まで10分とか、なにせヘリコプターは早いのです。

 

関係の方たちからは、mさんに持病がなかったかどうか、山の経験はどれぐらいか、人形山は初めてかなど、いろいろの質問がありました。

とくに、遭難者が「山の素人」ではないかという点については、何回も聞かれました。

持病があるとは聞いたことがないし、山の経験も豊富だと答えると、70才という年齢が問題だということになります。

「そうは言っても、私だってそんなところだ」と言うと「そう言えば、ここらの森林組合だって、山へ入ってるのは、そんな年の連中ばかりだもんな」という落ちになりました。

でも、皆さんは質問しながらも、私を慰めるように、いろいろ山の話もしてくださいました。

日曜日に呼び出された消防団の方たちも、嫌な顔もなさらず、本当に有り難いと思いました。

 

山の上ではヘリコプターに乗った警官が、mさんは高岡の市民病院に収容すると話し、さらにMさんの体調はどうですかと聞いたそうです。Mさんは歩いて降れると答え、歩き始めたのでした。

その連絡を受け、消防の人たちは解散し、私は警官と二人で、Mさんを待っていました。

Mさんが登山口に帰り着いたのはもう暗くなってからでした。

その時には警察の方の電話に、mさんは高岡市民病院に収容され、診断の結果、心筋梗塞、1個月の入院が必要だが、様子を見て名古屋に転院したらどうかとの話が出ているとの情報が入っていました。

 

派出所へ下り、ここから電話で、富山の県警の方の質問にお答えしました。

この派出所の奥様がお茶を入れて下さいました。14時から何も飲んでいなかったので、文字どおりの甘露、少しずつ味わって喉を通しました。

 

カーナビの威力で、高岡市市民病院にぴったり着きました。

新しい大きな病院です。廊下などぴかぴかしています。

そして、屋上にヘリポートがあるのです。

mさんとは面会禁止でしたが、看護婦さんを介して、車の中にあった健康保険証と家の鍵をを渡し、名古屋に帰る了解も取りました。

ここの病院の電話で、名古屋のmさんのご家族や、自分たちの家族に連絡ができました。

病院を出たのが20時30分、もしも携帯電話に出会う幸運がなければ、まだ山にいた時間です。

帰路は、料金はかかりますが、運転が楽な高速道路を使って帰りました。

春日井のMさんのお宅には0時半、自宅には1時過ぎに着きました。

 

病気はどこででも起こり得るものです。それが、たまたま登山中に起こったとしても、仕方ないのではないでしょうか。その条件のもとでは、考えられるケースの中で最もスムースに病院に入り、手当を受けることが出来たのでした。

mさんには持病はなかったのですから、病院の手当で、血液をサラサラにする薬を投与されれば順調に快復するはずです。

名古屋に帰る道々、すっかり、そう思いこんでいたのです。

 

11月12日朝、Mさんから電話がありました。

「mさんのお兄さんが、昨夜、高岡に泊まられたそうです」。

次の言葉は「○○日、名古屋の病院に転院される予定です」、そう続くことだと思っていたのです。

ところが「3時51分、再梗塞で・・・」という言葉が続いたのです。

一瞬、にわかには聞いたことが信じられませんでした。

でも、時間をこんなに小刻みに言うからには間違いではなかろう、そんなふうに理性は教えるのです。それでもまだ、本心では納得できませんでした。

 

その日の夜、いつもの時間に、すっと眠りに入りました。

しかし、その後で見た夢は、尋常のものではありませんでした。

 

毎朝のように、まだ明けない真っ暗な道を歩いています。家を出て右へ30mほど行った四つ角にいるのです。

能の卒塔婆小町に出てくる、老いた小野の小町とそっくりの、黒っぽい衣装をつけ、編み笠を被った人が歩いているのです。

私の3mほど前を、右から左へ歩いてゆくのです。

その人は、なにか、わざと顔を隠しているような気配で、いかにも魔性のものという雰囲気なのです。

私も、とても声をかけたくない気持ちなのです。でも、みんなに挨拶しているのにその人にだけ声をかけないでは不公平になってしまう、そういう考えに追い詰められて、思い切って「お早うございます」と声をかけました。

その人がこちらに顔を向けました。

その顔は、白いようでした。

 

でも本当は、はっきり見てはいなかったに違いありません。その前にはっと目が覚めてくれました。そして、心臓が早鐘のように打っていたのでした。

枕元の時計を見ると、まさに丑三つ時だったのです。

 

ご葬儀は、mさんご本人の遺言で、よその人には知らせず身内だけでひっそり済まされました。

その1カ月ほど後の休日に、親しい友人たちがmさんのお宅に集まりました。

写真に向かって、みんな勝手なスタイルでお参りさせていただき、故人の思い出を話し合いました。

mさんが病院に入られたあと、重湯をとるまでに回復し、検査の予定を告げられた矢先に致命的な再梗塞に襲われたのが、いかにも意外だという言葉が繰り返されました。

しかし、故大平総理大臣が、やはり再梗塞で亡くなられたことが話に出て、なるほど万全の看護のもとでも、やはり起こりうることなのだなと諦めたことでした。

 

後日、mさんのお兄さんから、詳細なお手紙を頂戴しました。

お兄さんは、亡くなられる前日の昼頃病院に行かれ、話を交わされ、病院で泊まり、深夜のご臨終に立ち会われたのでした。

前日、ご病人は平生と変わらず、次から次へといろいろ話をされたそうです。

お兄さんのお手紙の中から、故人のお言葉を2,3抜き書きさせて頂きます。

 

(山の上で)「ガタガタ震えがきて、一時はここで死ぬかとも思ったが、これで死ぬなら、死もそれ程のことはないと思った」。

「『この際だから、山など行かないようにガツンと言わなきゃ駄目』といわれている話も聞かされたが、山の上でなら聞いたかもしれないが、ヘリコプターに乗ったあとからでは、もう聞けないと言ってやった」。

「同級生で同じ心筋梗塞をやり、助かったのがいるから、退院したら話を聞きに行きたい」。

「名古屋へ転院する先はどこが良いか、長久手か、平針か、豊明かなど子供と相談した」。

 

これらの言葉からmさんは、事態が急変するとは、思ってもおられなかったようにも受け取れます。

しかしその反面で、最初に息子さんが病院に駆けつけられたときに「死んでも通知しないこと。一部の人には済んでから知らせればよい。葬儀は不要。火葬も無宗教で」と、ちゃんと遺言しておられたのだそうです。

 

担当の医師は、急性心筋梗塞では、直後に亡くなる人が一番多く、次が1日、ついで1週間、1か月は要注意であると話されたそうです。

客観的に見れば、そういうことだったのでしょう。

 

ともかくmさんは、生と死の狭間にいることをはっきり自覚しておられながら、これからの生き方に希望を持ち続け、ベストを尽くそうとしておられたのでした。

 

人生も終着駅に近づいてくると、いろいろな生き方、死に方が目に付くようになってきます。

しかし、神ならぬ身の我々には、自分が何時死ぬかは、しょせん分かるものではありません。

それですから”当分”、1年でも5年でもなく、あくまでもその人が感じている”当分”の間は、生き続けると仮定して、その中で、どんなふうにして生きるつもりかを考えてゆくより仕方がないことを、今更のように教えられたのでした。

 

・肌寒を言わず友病み腕さする

・無事祈り駆下る目にみむらさき

・草紅葉踏まへ警官交信す

・友を吊るヘリ足下に大紅葉

・秋澄めりヘリ高々と病院へ

・星飛ぶや無事の報得て解散す

・病院の窓それぞれの秋灯

 

 

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