題名:西海紀行
2004/5/7〜5/15

重遠の入り口に戻る

日付:1998/2/5


今度は一人旅です。
名古屋を5月7日夜19時50分発の夜行バス、佐世保行きコーラル号に乗り込みました。
翌朝7時過ぎ、佐世保に着きます。約11時間ですから、ヨーロッパへ飛んでゆくぐらいの時間です。バスの席は3列のシートでゆったりしていますし、高速道を走っているうちはそんなに揺れません。かなりよく寝られるのです。
佐世保駅には、JR最西端と刻まれた石碑がありました。

レンタカー屋さんでのことです。
「UFJカードでお願いします』と頼んだまではよかったのですが、UFJはないというのです。おじさんはパソコンを操作しながら、セゾンだとかニッパンだとか読み上げてくれました。その中にミリオンという言葉がでてきました。「それだ、それだ。それがUFJに変わったんですよ」といいましたが、結局、通用せず、現金で支払うことになりました。
今ではミリオンよりUFJのほうが全国区なのだろうと思いますが、本土の西の果てに届くには、まだ少々時間がかかるのでしょう。

こんどの旅では、第一生命が企画したサラリーマン川柳千句という文庫本を持って歩きました。その中の幾つかを、その場その場で引用させていただきます。

・ワープロで金釘流の過去を消し   クラシック

●セイルタワー 
わたしの心の中では佐世保は軍港の街でした。今は海上自衛隊の基地、どんなに寂れた街になっているだろうかと想像していました。でも、バスが市内に入ると斜面という斜面が新しい家で埋め尽くされています。中には、お金をかけて急な斜面に張り出した豪華なマンションも目につきました。もちろん道路には車が溢れているのです。

なにはともあれ、海上自衛隊佐世保資料館、セイルタワーを訪ねました。昔、海軍士官の懇親などに使われた水交社をベースにして建てられています。
9時半開館なので、近くで時間をつぶしました。US NAVYの建物もありますが、あまり目立ちません。ニミッツ公園がありました。米国海軍提督ニミッツの名を知る人も、いまは絶滅寸前でありましょう。
セイルタワーの玄関に行くと、まだ時間前でした。係員に、海軍さんは何でも「5分前」だから、もういかがでしょうかと、心臓強く当たってみました。「5分前」というのは、決められた集合時間の5分前までにその場にゆくようにという意味なのです。昔は日本中、時間にルーズでしたから、時間どおりにきっちり始めるのは海軍の躾だったのです。
すると、なんと「掃除のすんだところから見なさい」と時間前に入れて下さったのです。それのみならず、いま映写の事前点検中だからそれを見れば時間の節約になると、まことに親切で恐縮してしまいました。

日本海軍の創設から終焉までの資料が揃えられています。
戦争の記録では、支那との黄海大海戦、ロシアとの日本海海戦、連合国側で参加した第一次世界大戦などの勝利が続いたあと、第二次世界大戦での惨敗、壊滅までたどってあります。
終戦のとき、わたしは15才でした。わたしの時代は、敗戦の時代でした。戦争中は相手と互角に戦って、少しのところで運悪く勝機を逸したように思っていましたが、じつは戦闘力、情報収集力、補給能力など、あらゆる面で劣勢であったのに、それを精神力で補おうとしていたのでした。
降伏の1年前には、戦線での劣勢は隠すべくもなく、そのことを仲間内で話し合うのは、もはや常識になっていました。
わたしの従兄弟は海軍士官でした。あるとき「またトラック島で味噌つけちゃった。駆逐艦がやられて甲板が海面スレスレになるまで浸水しながら、どうにか自力で佐世保に戻ってきた」と話していたのを覚えています。

第二次世界大戦で日本が失った艦船の沈没の原因は、潜水艦の魚雷によるもの60%、航空機の爆撃34%、機雷への接触6%と書かれていました。
沈んだのは船だけではありません。ある輸送船は、船室1坪に兵士14人、天井とのあいだに棚をつくり2段にして7人ずつ詰め込んで出航したのでした。一隻沈めば、兵士何千人もが、一発も弾を撃たないどころか、敵を見ることさえなく、ただ死んでいったのです。そのひとりひとりが親子兄弟にとってかけがえのない大事な人たちだったのです。
戦争をなくしたい心情は議論するまでもないことです。

セイルタワーの7階は広いガラス窓の展望台になっていて、港が見下ろせます。数隻の軍艦が停泊していました。軍艦はブリッジとマストが高いのですぐ分かります。
矢尽き刀折れ、沈没寸前の状態で、ヨロヨロと母港にたどり着いた駆逐艦が幻に浮かびました。
そのころわたしは、名古屋市で空襲にさらされていました。
軍人であれ市民であれ、日本国民は立場と場所こそ違え、反撃する有効な手段を持たないままに、まるでサンドバッグのように打たれ続けていたのです。
わたしの母校である旧制富山高等学校の戦没者名簿によれば、戦死者の約70パーセントは降伏前一年半の間に亡くなっています。戦争末期はまさに地獄でした。
叩きのめされていたのは佐世保鎮守府の海軍さんだけじゃない、わたしたちもだと、なにか連帯感を感じて涙が出てきてしまいました。

反戦の署名を集めるのも結構です。オリヅルを国連に持ち込むのもよいでしょう。バンダナ姿で太鼓を叩くのも反戦でしょう。
でも、そんな行為で戦争を防止できると思うのは、人間を、そして本当の戦争を知らない甘い考えです。

・常識も世代違えば非常識   スナフキン

自分こそは、たとえまわりが引き止めようが、命を張っても平和を守りたいと、この老人は力むのです。

・我が3高高齢高慢高血圧   はなっこ

●有田・伊万里
佐世保市からハウステンボスの横を南下し、針尾の瀬戸にゆきました。
ここは琵琶湖の半分ほどの広さがある大村湾が、幅300m、深さ40mと狭い針尾の瀬戸を通して外海とつながっているのです。このため干満のとき、流れる潮の速さは時速17kmにも達します。来島瀬戸、黒之瀬瀬戸と並んで、日本三大瀬戸のひとつとされています。
また、この近くにある針尾の無電塔も有名です。真珠湾攻撃を指令した「新高山登れ」の電波を、ここのアンテナから送信したといわれます。
コンクリート製、高さ137mの塔が3本建っています。東京タワーができる前は東洋一の高さといわれたそうです。ともかくバベルの塔なみの奇観ではあります。
名古屋の近くの依佐美にも、鉄材を組んだ高い無電塔がありました。海に潜った潜水艦に電波を届けるには、波長の長い電波が要る、そして長い電波を出すには大きなアンテナが要る、と聞いたことがあります。

このあと東に向かい、有田にある九州陶磁文化館を目指しました。
ところが、途中で「世界最古の豆粒紋土器」という看板が目につきました。それに惹かれ「うつわ歴史館」に入ってみました。
わたしは係りの人に、マメツブ紋土器を見せて下さいといったところ「トウリュウ紋ですね」といわれてしまいました。佐世保市にある国の史跡泉福寺洞窟で昭和45年に発見された豆粒紋土器で、12.000年前に作られたとされています。年代はどんな方法で測定したのですかなど聞いているうちに、なにか専門家扱いをされてしまい、お尻のあたりがモゾモゾしてきました。

九州陶磁文化館では展示物の質と量に、すっかり圧倒されました。こんなに大ぶりの逸品が揃っているのを見たのは始めてでした。
家内の父親が佐賀の出身なので、有田の焼き物に大変詳しかったのです。もう40年近くも昔のことですが、古九谷は加賀ではなく有田で焼かれたのだという説が出ていました。有田のメンバーが加賀の窯跡を調査にきたとき、敵視され、口もきいてもらえなかったと義父が話していたことを思い出しました。ここで見ていると、加賀側の言い分を認めたとしても、青手の古九谷がここでも焼かれていたことは間違いないと思われました。
外人の団体客が大勢きていて、通訳が英語で説明していました。やはりキンキラキンの作品に興味が集中しているようでした。
このあと有田陶磁美術館にもゆきました。ここは私営で、規模は大きくはないのですが、ひとりだけでゆっくり優品に心をまかせ、素晴らしい時間を過ごすことができました。ここではトイレの手洗いの鉢に染め付けの磁器を使っていて、いかにも磁器の里であることを感じさせてくれました。
近くに陶山神社があります。ここの鳥居、狛犬、額などは、白地に藍の染め付けの磁器で作ってありました。
有田の見学の最後は泉山磁石場でした。当時の先進国であった朝鮮から連れてきた陶工たちのひとり、李参平が1616年に磁器の原料の石を見つけたところです。かれは1596年に来て帰化し、佐賀藩に使われていたのでした。来日以来20年後に、ここで国元と同じ良質の陶石をみつけ、始めて純白の磁器を作ることができたのでした。
ともかくそれ以来、磁器の製造はこの地に深く根付いたのでした。
その佐賀藩門外不出のハイテク技術を盗もうと、販売不振に陥っていた尾張瀬戸から陶工加藤民吉が産業スパイとして潜入しました。かれは養子に入り技術を修め、瀬戸へ帰ったのは1807年だったといわれています。
かように佐賀藩に、そして日本に貢献した採石場の跡は、こんにち、自然破壊の元祖だとでもいうかのように、白々と地肌を曝していました。

いっぽう、伊万里は黒髪山(518m)を挟んで、有田の反対側、つまり北側にあります。
伊万里は港ですから、この地方の焼き物はここから海路、全国へ出荷されました。それで伊万里の地名が焼き物の代名詞のように使われていたのです。
有田から伊万里へは、有田川に沿う広い谷につけられた約15kmの道が結んでいます。重量物の運搬は容易だったろうと思いました。
伊万里の焼き物の窯は、港から6kmほど黒髪山のほうに入った大川内山にあります。ここに、1675年から鍋島藩の御用窯が開かれました。
有田で純白の磁器が焼かれ始めてから約50年、それまでに得られた技術成果を凝縮させ、大川内山で鍋島藩の御用窯として金に糸目をつけぬ最高の品質の磁器を焼き始めたのです。
ここでは、鍋島焼ブランドで、皿のサイズ、描かれた人物の数などを、将軍家用、藩主用、上級武士用とはっきり区別し、限定的に製作したのです。
明治の廃藩置県のあとは、その技術は高級磁器伊万里焼きとして伝承されたのでした。

わたしが生まれ育ち、今も住んでいるこの尾張地域は、やはり代名詞として瀬戸物という言葉が使われるほど、日本の焼き物の代表的な生産地です。
つい、伊万里と比較しようとする気分にもなります。
地形的には、瀬戸・美濃とくらべると有田も大川内山も谷が狭く、周囲の山が急傾斜なのです。瀬戸・美濃は鮮新世以降の比較的新しい地層を河川が削った丘陵地域であり、有田・伊万里では、もっと古い古第三紀の固い地層を河川が鋭く削った山峡なのだろうと推測します。
また有田には、柿右衛門、今右衛門、源右衛門を始め、沢山の先生たちの窯の看板が出ていました。高級磁器のブランド品を扱う香蘭社もここにあります。

芸術家のアトリエ群が密集する有田・伊万里に対して、量産のファクトリーとしての瀬戸・美濃といえるのではないかなどと感想を申し上げたら、お前は依怙贔屓であるとお叱りを受けそうな気もします。

酸化鉄を含む茶色系統の生地で比較的低い温度で焼かれた陶器と、精選された原料を高温で焼いた、透明感のある純白の生地でできた磁器とには、それぞれに良さがあり、人によって好みがあります。
わたしは磁器のほうが好きなのです。温かい感触といった芸術感覚より、素材が完全に融けあって固く結合した工学的完成度に惹かれているのでしょう。本音のところ、わたしは志野・織部よりも景徳鎮・有田・伊万里のほうを眺めていたいのです。

●平戸ユースホステル
伊万里秘窯の里を見たあとは、一路、今夜の泊まり、平戸田平(ひらどたびら)のユースホステルに向かいました。
愛想のいいご主人でした。この74才の老人を「おにいさん」と呼ぶのです。
「おにいさん、いつもひとり旅ですか?」
「こんな老人に、一緒にいってくれる奇特な人はいませんから」
「マジの話、旅はひとりが最高だと思いません?思うままに振る舞えるじゃありませんか。お部屋は個室をとっておきました。そのほうがよく寝られるでしょう。夕食のおすすめは、あら煮定食です」。ご配慮をすべてそのまま、ありがたくお受けしました。

・ボクもまたNOの言えない日本人   指示待族

なるほどここでは、一般客用の客室、食堂をユースホステルシステムとしても使わせてくれることもあるようなのです。
ロビーで暮れ行く海を見ていました。
一日の旅を終え、シャワーを浴び、最高の時間です。
しばらく話し相手になってくれていたご主人が「ビールを差し上げましょうか?」というのです。そこで「中ジョッキ、ください」と注文しました。
海、岬、島、行き交う船、始めて見る平戸なのです。でも、それは心の中でかくもあらんと抱いていたイメージそのものだったのです。
何年か前に訪れた松浦半島の呼子あたりと同様、古い溶岩台地と海が作り出した地形だと思います。
だんだん薄暗くなり、遠くの灯台の灯の点滅が明るく見えだしました。
やがて食堂に呼ばれたので、中身が心細くなったジョッキを持って移動しました。
するとさらに「これはサービスです」と、小ジョッキを差し入れてくださいました。先程の「差し上げましょうか」は、サービスのつもりだったのでした。
あら煮には、鯛の頭が二つも付いていました。
その美味しかったこと、「いまは旬なんですね」「いえ、いつもおいしいんです」とあくまでも調子がよろしいのです。
「特産のジャガイモで作った焼酎もやってみませんか」「うん、なかなかいけますね。ここって、じゃがいもの産地なんですか?」「だって、ジャガタラお春っていう銘柄なんですよ」。なにか変な気もしますが。
わたしは家では晩酌をしませんから、こんどの旅の5泊のうち、アルコールが入ったのはここだけでした。

・理屈ならいろいろ知ってるダイエット   なんとかなるさ

●平戸
まず訪ねた先を羅列します。
焼罪記念碑、松浦資料博物館、平戸観光資料館、オランダ塀・井戸・埠頭、ザビエル記念聖堂、松浦宗陽墓、平戸城、鄭成功廟、宝亀教会、紐差教会、切支丹資料館、生月町博物館、田平教会です。

どこになにがあったかは案内書にまかせて、ここではわたしの勝手気ままな印象を中心に書くことにしましょう。

平戸、五島、天草、いずれも昔の日本の西の果てです。

まず国内の事情として、中央政権から地政的に遠い場所です。なんといっても関係は稀薄になります。
そのため友好的な領主を配置し、大きな自治権を与え支配者層に経済的メリットを得させ、それを中央に貢がせ友好関係を維持するといったパターンをとっていたように思われます。

つぎは外交面です。
数万年前、日本列島にホモサピエンスが入ってきたときから、つい最近までは、日本の外国からの受け入れ口はもっぱら西に開いていました。東の太平洋を向いたのは、たかだか100年ちょっと前からのことなのです。九州西部は、長い間、日本の最前線だったのです。
外国との関係は、基本的には隣人との関係であります。
お互いに、相手から良い品物や進んだ技術を取り入れたい、そしてその対価は最小にとどめたいとするのが原則です。

アジア諸国とのコンタクトと西欧諸国とのコンタクトとを、比較しながら考えてみてはいかがでしょうか。

いまから約1500年前からざっと1000年間は、アジア諸国とのコンタクトだけでした。
この期間に、文字、政治組織、都市計画、仏教などがとうとうと流れ込んできました。
従来の神道派の物部氏と新来仏教派の蘇我氏とのあいだで確執があったとされますが、ともかく新しく伝来した仏教が国教とされたのでした。
もっとも神道のほうも死んだわけではありませんし、仏教だって内部で敵対する各派に分かれてはいるのです。
物品流通の面では、一方的な搾取ではなく、相互受益の関係であったと申してよろしいでしょう。
土地の領有権の面では、元帝国フビライによる2回の侵攻がありましたが、運良く気象現象に助けられて、わが国の独立は保たれたのでした。

西欧諸国とのコンタクトは16世紀初頭から始まりました。
入ってきたものは、まず鉄砲を始めとする新技術、そしてキリスト教が挙げられます。このほかにも医療、建築をはじめ、いろいろな先進技術も教えてもらったに違いありません。
やや遅れて参入したオランダ人やイギリス人たちが、先にきていたポルトガル、スペイン人たちのことを、日本を植民地化しようとする目論見ありと幕府にチクリ、自分たちが参入に成功したとされます。かれらのやり取りから、わたしたちの先輩も国際外交技術も学んだに違いありません。

宗教を例にとると、7世紀頃、大陸から仏教がもたらされたとき、それを受け入れ、有能な若者らが相次いで彼の地に勉強に訪れ、日本は仏教国になりました。
16世紀日本に入ってきたヨーロッパ人たちは、熱烈にキリスト教を広めようとしました。ポルトガル人フランシスコ・ザビエルは1549年、鹿児島にきて宣教を始めました。その30年前、ドイツでマルチン・ルッターが宗教改革を訴えキリスト新教が生まれました。したがって、ローマ法王率いるキリスト旧教側でも、自己の正統性を高めようと熱気溢れる状態だったのです。
ポルトガル・スペイン両国王とも熱烈なキリスト旧教の保護者であり、アジア進出の目的は「胡椒と霊魂のため」としていました。それで、貿易と宣教師による布教は密接不可分のもので、領主が布教に好意を示さないときには、貿易船の入港を斡旋しないなどの牽制策をとりました。その結果、日本側でも布教に便宜を与えたり、みずからキリシタン大名になるものさえ現れるほどだったのです。

この頃為政者側は、浄土真宗が絡んだ一向一揆に苦汁を舐めさせられていました。来世の幸せのために死ぬことを恐れない集団に手を焼いた織田信長は、伊勢長島で女子供も許さず皆殺しにしました。民衆の不満が反権力運動になるとき、それに宗教が結びつくと、極めて強固なものになることの恐ろしさを骨身に感じていたのです。
また、お互いに敵対する外人同士の情報から、領土的野心があるとの情報も得ていました。実際、インドで、またマラッカで彼らがしてきたことから目を覆うわけにはいかないわけです。
このほかに、ヨーロッパ人たちが多数の貧しい日本人男女を奴隷として、国外に連れ出していたことも感情的に反感を買っていました。
そしてなにより、従来の仏教界のトップたちは政治中枢と結びつき、権力集団の一員だったわけですから、新規参入の宗教については理屈抜きに反対の立場でした。

接触を持ったヨーロッパ諸国に対して、こんなような「フグは食いたし、命は惜しし」とでもいった状態でしたから、1587年、最初に秀吉が出した宣教師追放令は一般武士、庶民には適用しないという曖昧なものでした。しかし1612年家康による禁教令、1630年家光による禁書令と、順次厳しくなったのでした。
そんななか懸念したとおり、1637年、青年切支丹、天草四郎率いる島原の乱が発生してしまいました。重い年貢の取り立てに不満をもった農民らが、キリスト者リーダーのもとに結集し、大規模かつ残虐な戦闘に発展してしまいました。
ついに1664年、村々の寺院による宗門改帳制度が施行され、切支丹は「かくれ切支丹」となり、表面的には完全になくなったのです。

外来の仏教は古代日本に受け入れられたのに、キリスト教は現在に至るまでついに広く根づくことはなかったのです。
古代は彼我の国富、文化の落差が比較にならぬほど大きかったために、すっと受け取ることができたためでしょうか。

前置きが長くなり過ぎましたが、そんな認識のもとに今回の訪問先を見て回って、とくに印象的だった2、3について書かせていただきます。

平戸観光資料館にジャガタラ文が陳列してありました。
縦横それぞれ40cmほどの、お茶の茶碗を包む袱紗のような布でした。16枚の小切れを縫い合わせてあります。有名な「日本こいしや」のところは、わたしでも読めましたが、崩し文字はどうも苦手で、あとは読めませんでした。
「日本こいしや かりそめにたちいでて 又とかえらぬふるさとおもへば 心もこころならず ・・・」とつづくのだそうです。
お春は、父親がイタリア人だったために1639年、ほかの混血児たち286名とともにジャワ島のバタビアに追放されました。15才でした。6年後、税関長にまで出世する夫と結婚、4男3女をもうけて、裕福で名誉ある上流家庭の主婦となったのでした。1660年以降、文通は許されましたが、故郷の土を踏むことはできませんでした。
オランダ商館長コルネリスと日本人母親との間に生まれた、もっとリッチなコルネリアという混血女性の資料も展示してありました。彼女もジャワに送られましたが、家族と幸せに暮らしたようで、彼女の資料には暗い影などまったく見られませんでした。コルネリアこそは育ちもよく教養もあり、渡航規制、交通手段という条件をのぞけば、現在の国際結婚と変わるところはないように感じます。思えば、国際結婚は21世紀にいたるまで、いろいろ回り道をしたものですが、それが人間社会というものでありましょう。

この資料館は、急な坂の中途に建てられているためアクセスが良くなく、お客は、わたし一人でした。でも、平戸湾の対岸に平戸城がよく見え、市全体を見下ろす良い展望台でもありました。
ここには御子イエスキリストを抱く観音様、つまり、かくれ切支丹たちが崇めたマリア観音も当然陳列してあります。

平戸市には1609年オランダ商館ができて、日本の窓口になりました。33年後、その機能は長崎に移されました。長崎とくらべ平戸はなんといっても狭く、また今でこそ九州と通行料60円の橋で結ばれましたが、本来、島なのですから。

南北約30kmの平戸島のなかほど、日本海に面する西岸に根獅子という小さな集落があります。ここの切支丹資料館にもいってみました。
小さな木造の建物です。
やはり「かくれ切支丹」についての、陳列が並んでいます。
むかし、この集落の岩礁に船が座礁し沈没しました。
若者がひとりだけ助かったのです。その若者は集落に住み着きました。そして地元の少女と恋に落ち結婚しました。
ある日、気を許した女は、自分の一家が「かくれ切支丹」であることを告白します。それきり若者の姿は見えなくなりました。そしてある日、突然役人が現れ、一族26人が裏山で殺されてしまったのでした。
いまでも申し出れば、その人たちが殺された場所、殉教跡に連れて行ってくれるとのことでした。
たまたま、わたしが訪ねた時は激しく雨が降っていましたので、お願いはしませんでした。
ここの番人は、赤ちゃんを抱いたおばさんでした。この一日、わたしは「かくれ切支丹」漬けになっていましたから、この子連れのおばさんを見て、「かくれ切支丹」はこんな人でもあったのかと、なにかセンチメンタルな気分になってしまいました。

生月島の町営博物館「島の館」は、新しくてなかなか充実していました。
捕鯨の資料が豊富でした。
また、「かくれ切支丹」の研究も学究的に展示されていました。
ここで、ちょっと復習してみます。
1550年頃日本にキリスト教が入ってきました。最初は好意的に受け入れられ、最盛期には信者の数は15万人ほどに膨れ上がったと推定されます。
始めてキリスト教が伝来してから40年後に、布教にブレーキがかかり始めました。そしてさらに40年後には転向するか、「かくれ切支丹」となる以外の道は閉ざされました。
また、それから300年後、明治になり信教自由の世になりました。
「かくれ切支丹」の存在はヨーロッパでは知られていましたから、信仰を守り続けた兄弟たちに手を差し伸べようと、ヨーロッパ全土、とくにフランスから宣教師たちがかけつけてくれたのです。
神父さんたちは、自費で教会を建てたり、住民の福祉厚生に力をそそいでくれました。まさに神のシモベの名に相応しい業績をのこされ、日本に骨を埋められた方もあります。
そのとき、神父さんたちに呼応して、ローマ法王を頂点とするキリスト旧教に戻った人たちもありました。しかし一方には、伝統的な「かくれ切支丹」に留まる人たちも多かったのです。
こうして、従来の「かくれ切支丹」たちは、「復活信者」と「ネオかくれ切支丹信者」に分かれてしまったのです。
世界の人間集団でひろく見られる、従前の宗教と新来の宗教との融合の問題がここでも起こっているのです。自由な個人の信仰よりも村八分を恐れるがために集団の信仰に包み込まれてしまう現実など、わたしにとっては面白いテーマが、ここには多々あると思いました。
ただ、「ネオかくれ切支丹」は、その成因ゆえに、ある部落と隣の部落で内容がかなり異なり、また、日本社会全体が信仰なき時代に入った今日、その存続は風前の灯となっているとのことでした。

なにか暗い話になってしまいました。
平戸の最後は、巨人力士生月鯨太左右衛門にしましょう。
彼は明治の世になる40年ほど前、1828年、生月(いきつき)島に生まれました。子供の頃から体が大きく力が強いと評判でした。殿様のお目にもとまり、江戸からの勧誘もあり、田舎で鯨捕りをさせておくには惜しいと力士になりました。
なにせ身長が227センチあったといいます。三役入りしたとはどこにも書いてありませんでしたから、巨人としての見せ物に価値があったのかもしれません。
24才で亡くなっています。
あなたと比べてみて下さいと、ところどころに彼の人形が立っていました。
生月島は平戸島からもさらに離れた日本の西の果ての島です。片道600円の有料の橋で結ばれています。
巨人力士の出身地が、京や江戸ではロマンが足りません。ここ日本最果ての地、生月島こそぴったりの土地なのです。
ガリバー物語の巨人国のように、遠い遠いところには、想像もつかないことがある、そんな夢のある良き時代の響きが濃かったのでしょう。

レンタカーで走りながらラジオを聞いていました。
男女のキャスターたちが軽々と会話を交わしていました。なんでも自衛隊をイラクに戦争に行かせた小泉がけしからんというようなやり取りから始まって、そのうちに「イラクにやるなんて、被爆しろということじゃありませんか」「そうですよねぇ」と続きました。
例のイラクで拘留された若者の一人が、劣化ウラン弾の被害実態を調べに入ったこととの連想から、国境を越えイラクという名の土地に立ち入ると、すなわちヒバクすると話を運んでいるのです。
世界中、とくに日本には、ウランという文字だけから不安を感じる人が意外に沢山います。実際に現地で生活しているイラクの人たちはどうなのでしょうか。
そんななか「あなたはイラク人だからきっとヒバクしています、体がだるいはずです」と、哀れみ心配してあげる態度には心の優しさを感じます。
でも、もうひとつ踏み込んで、ガイガーカウンターとか測定器を持ってゆき、「あなたはご先祖様と同じ天然自然の放射線しか受けていませんよ」とか、「あなたは劣化ウラン弾からのヒバクを受けています。でも、わたしが日本から飛んで来るときに飛行機の中で受けた宇宙線のヒバクよりも少量です。健康にはまったく影響ありませんよ」、そんなふうに科学的根拠を示しながら元気づけてあげてはいかがでしょうか。
取り越し苦労をしている人の不安を除いてさしあげることも、大事なことだと思うのですが。
ともかく、今回カーラジオから耳に入った放送は、ほかでもない長崎の局から出た電波でした。半世紀前の長崎原爆による大惨劇をひたすら思い出していました。

・血圧が低いと言い張る月曜日       遊子
・過労死を心配しすぎて胃かいよう     万年中間管理者
・ミスしてもミスを認めぬ者が勝ち     ねずみ
・まっすぐに生きてきすぎた枯れすすき   愛子

●五島
五島列島は九州の西にある島だとは承知しておりました。でも、その間にある海が100kmもあるとは意識していませんでした。
佐世保からフェリーの航海で、約3時間もかかるのです。朝8時に出航しました。
わたしは、あの車50台、乗客700人も積み、排水量千トンをはるかに越す大きなフェリーが離岸、着岸するのを見るのが大好きなのです。
タグボートの助けなど借りずに、船体の前後にある横向きの補助スクリューを使って自由に操船し、最後はロープの操作に依って着岸するのです。
佐世保港を出るとき、前方に軍艦が2隻、先行していました。外海に出るには、いったん南下し、そのあと西に舵をとります。
軍艦がだんだん大きく見えてくるのです。転針するので相対的に距離が縮まったのかと思いました。でも、本当に私たちのフェリーのほうが速いのでした。とうとう軍艦の左側を追い抜くことになりました。
あのブリッジが大きな箱のようになったイージス艦でした。107と番号を控えました。帰ってからインターネットで調べてみると、イージス艦「みょうこう」であったことが分かりました。

・コンピュータ見ざる解らず近よらず   よみびと知らず

むかし東京湾で釣り船と潜水艦が衝突した事故がありました。そのときの報道が、ジャーナリスト特有の判官贔屓気質から、潜水艦側に酸っぱいものだったことを思い起こしていました。いまここでも、フェリーが立てる波は良い波、軍艦が立てる波は悪い波、そんなように地元住民からいわれるのを警戒しているのかと思ってしまいました。
実際、道路上に自衛隊の車両が先行していると、他人の迷惑も考えず律儀に制限速度を守るので、大変に渋滞するのを経験したことがあります。

ガラガラの客室に寝転んで、ひと眠りすると仲通島の有川港につきました。
今回の旅で、ここから奈良尾港へのバスの便だけが事前に調べられず、心配の種でした。なにせマイカー全盛の時代です。もしも通学時間帯しかバスがなければ、タクシーにしようかしらと覚悟していました。でも心配は杞憂で、バスも、結構、ひんぱんに出ているのでした。
時間に余裕があるのだから、なんでも見てやろうと有川の街に歩きだしました。役場、法務局、警察、郵便局、病院と官庁街を見てもどりましたが、たった40分しかたっていませんでした。こんなにして必要最小限の行政機構が、こじんまりとまとまっているのも離島らしいなと思いました。
つぎは、島の中心地、青方の町で昼食をかねて途中下車しました。案内書には教会が多いと書いてありましたが、町の中心地にはありません。ここ青方だけでなく、この地方どこもそうですが、教会は田舎の集落にあるのです。教会が多いといわれるオーストリアのリンツ市のつもりでいったのですが、予想はまったく外れました。
ここ青方(あおかた)は、続日本紀などに「相子田(あいこた)浦」と見えており、遣唐使の船が東シナ海に乗り出す前の、風待ち港として知られていたのです。歩いてみるとなるほど入り組んだ細い湾で、まわりの山が急峻ですから、水深は十分あるようです。
ここ青方からさらにバスで奈良尾にでました。人影のほとんどない町です。アコウの大木の根のあいだを鳥居代わりにくぐってお宮さんにお参りしました。
ここだけでなく、五島にはアコウの大木がところどころにあります。アコウというのは、気根が垂れ下がり、ハワイのバニアンの木と親類だろうと思われます。
五島は北緯33度、足摺岬あたりと同じです。対馬海流という暖流黒潮の中に浮かんでいるので、緯度から想像するよりは暖かな気候なのでしょう。

ここまでに述べた、有川、青方、奈良尾の町がある仲通島は、五島列島の中で2番めに大きい島なのです。
奈良尾の港から、またフェリーで、いちばん大きな福江島に向かいました。約1時間で福江の港に到着します。
福江市の民宿に2泊し、美味しい魚を食べさせてもらい、また、まる1日を観光に当てました。
例によって、まず訪ねたところを、羅列します。

樫の浦アコウ巨木、堂崎天主堂、水之浦天主堂、万葉公園、遣唐使ふるさと館、空海記念碑、大瀬崎、井持浦天主堂・ルルド、鐙瀬溶岩海岸、鬼岳、石田城跡、武家屋敷跡。

福江島は面積326平方km、名古屋市と同じ広さです。島をレンンタカーで走っていて、何回も「これはまるでハワイだ」と感じた地形がありました。あとで調べてみると三井楽の楯状火山、鐙瀬の溶岩海岸は、まさにハワイ同様と書かれています。日本では珍しい粘度の低い溶岩でできた島なのです。
今回の旅では、数多くのキリスト教の教会を訪ねました。それらは教会と書かれたり、天主堂と書かれたりしていました。
いままでさほど意識せずに過ごしていましたが、この日頃、教会と天主堂をごちゃ混ぜにすることに、やはり何か少し抵抗を感ずるようになりました。
そこで辞書を引いてみました。教会のほうが広義で、天主堂は旧教カソリックの教会を指すとありました。天主とは天にいます父なる神、ポルトガル語のデウスのことです。もっとも旧約聖書でならばエホバとなりますが、まったく同じ唯一神なのです。
佐世保、平戸、五島、そしてこれから訪ねる天草、これらの教会はいずれもカソリックのもので、聖母マリアの存在感が大きく、天主堂と呼んだほうがシックリ感じられます。

堂崎天主堂の庭に十字架が建てられています。ふつう十字架といえばイエス様が磔にされています。でもここのは、チョンマゲを結った日本人男性なのでした。19才で十字架にかけられて殉教した、五島生まれの聖ヨハネです。
キリスト教を弾圧したとき、殺してしまうと神のみもとへ召される殉教になるので、後から後からと熱烈な信者が現れることがわかったのでした。それに手を焼いた役人たちは、切支丹たちの心を苦しめ、辱め、転向させる目的で踏み絵を採用したのだと書かれていました。
ニューヨークでもイラクでもチェチェンでもパレスチナでもバルセロナでも、世界中で自爆テロが報ぜられています。常識的には理解できないのですが、古今東西、人類の遺伝子の中には、格好よく死ぬことに惹かれる要素が組み込まれているのも事実のようです。

5月の陽光がさんさんと降り注ぐ福江島北岸のドライブを楽しんでいました。
万葉の里という表示が目に飛び込んできました。最近作られたような観光地っぽいところは、わたしの趣味ではありません。
でも、あまりに美しい日だったのです。広い駐車場にたった1台わたしの車をとめました。
神社の寄進金額の展示のように、植物尽くしの万葉集が20首書き連ねてありました。それらはかならずしもここの土地に関連があるものではなくて、むしろポピュラーなものでしたから、わたしが知っているのも何首かありました。

・かはづ鳴く神無備河に影みえて今か咲くらむ山吹の花

・巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を

・昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ

・道の辺の茨の末に這ほ豆のからまる君を離れか行かな

・夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ

・さ男鹿の朝立つ野辺の秋萩に珠と見るまで置ける白露

・恋しけば形見にせむとわがやどに植えし藤浪いま咲きにけり

・春の野に須美礼採みにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜寝にけり

・磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまた還り見む

・道の辺の尾花がしたの思草今さらさらに何をか思はむ

読んでいるうちに、なんとも不思議な、いままで味わったことがない気持ちになってきました。
一体、わたしは気が散るたちで、集中するのが不得意なのです。千載一遇のモナリザの絵の前に立つ瞬間も、よそ事を考えたりしているのです。それも、年金を不払い期間なしに収めようというような殊勝な考えではなく、昼飯は山菜そばにしようかそれとも天ぷらうどんにしようかなど、まことにくだらないことが脳みその一部に滲みだしてくるのです。
でもこの日のこの時は、万葉集が詠まれた時代が懐かしいのか、それともわたしがこれらの歌を知った若き日が恋しいのか、ともかく甘いリズムが頭の中に鳴り交わし、時の過ぎるのをそのことだけに任せていたのでした。

このあと三井楽の遣唐使ふるさと館に立ち寄りました。

万葉集の巻十六に、荒雄という船乗りたちのことを詠んだ歌がのっています。
朝鮮海峡に浮かぶ対馬の島は、日本防衛の最前線でした。対馬は平地が2パーセント、山ばかりの島です。2000人の防衛軍に年間2000石の米を送る必要がありました。津麻呂という航海士に米を運べと命令がきました。津麻呂は自分は年をとったので、若い荒雄に代わってくれと頼みます。よくいえば友情に厚い、悪くいえばおっちょこっちょいの荒雄は引き受けました。折しも、新米のとれる9月は颱風シーズンでもあります。船団は海の藻屑と消えたのでした。
そんな荒雄を、なじり、待ち、嘆き、諦める妻の気持ちを詠った十首の歌を、わたしはいままで、ただ読み飛ばしていました。
その荒雄が、いま、わたしが立っている三井楽(みいらく)、万葉集では美弥良久(みみらく)と呼ばれたこの港から出航したことをおもうと、また、ひとしおの感慨でした。
以下に荒雄の十首の中から五首を引いてみます。

・大君の遣わさなきにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る
(政府の命令でもないのに馬鹿な荒雄は船出してしまった)

・荒雄らが来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来ませじ
(荒雄が帰ってくるかと陰膳を供えてるが全然来ない)

・志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすがの山と見つつしのばむ
(山の木をあんまり伐らないで。荒雄らが目印にして来るかもしれないから)

・荒雄らは妻子の生活を思わずろ年の八才を待てど来まさず
(妻子の生活を無視して出て行った。その子ももう8才になったよ)

・大船に小舟引き副え潜くとも志賀の荒雄に潜き遇はめやも
(海に潜って漁をする人がいるが、海の底にだって荒雄は居やしないさ)

わたしは、万葉集の中では、柿本人麻呂のピーンと張りつめた、完成された作品が好きなのです。
例としてあげれば

・阿騎の野に宿る旅人うちなびき眠も寝らめやも古おもふに

・ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

・日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向かふ

など、素晴らしいと思います。

そしてここにくるまでは、荒雄の歌はなんと泥臭いことかと思っていました。
でも、この日、五島列島三井楽に立っては、こんな素直な歌こそ詩の世界の原点ならんと、すっかり変節してしまったのでした。

このあと福江島の西北端にあたる三井楽町柏の曲がりくねった細い道を抜けると、空海記念碑にでました。
「辞本涯」と彫られた大きな石碑が建っています。かたわらには、編み笠をかぶり錫杖をついたお坊様の石像がありました。
コネがあったわけでもない空海は、運良く803年の第16次遣唐使に留学生として選ばれました。留学生の数は一回に十数人と限られていました。803年に出た船は難破し、804年に再度出発しました。803年の船には空海は乗っていなかったのです。
まことにラッキーなことでした。このあと遣唐使が渡航に成功したのは35年後だったからです。当時、遣唐使たちが東シナ海を渡る航海の成功率は、びっくりするほど低かったのです。現在、イラクに派遣される兵士たちとくらべると数万倍のリスクがあったことでしょう。
こんどの旅のどこかで空海の作った漢詩を見ました。ウロ覚えで申し訳ないのですが「死をおかして大海に入る いま本涯を辞す ・・・」というような文言だったと思います。「辞本涯」というのは、日本を去るという意味だそうであります。
青雲の志を抱いた30才の青年僧空海、その命をかけた燃える思いが伝わってきます。
正午前でしたから、まだ空気は澄み切っていました。岸の岩礁には白い波が砕け、日の光に輝いていました。でも、岬から広がる東シナ海の水平線は空に融け込み定かではありませんでした。こんな模糊たる海原へ乗り出していった古人の不安はいかばかりだったでしょうか。
小さな集落のはじにある30坪ほどの、公園とも呼べないほど狭い海辺の、わたし一人だけの世界でした。芝生を張った石碑の周りには、ピンクのヒルガオの花がほつほつと咲いていました。

つぎは島の南西の端になる大瀬崎に向かいました。途中に七っ岳が見えました。
古い火山の外輪山で、小さなピークが7っ並んでいました。
大瀬崎もずっと私ひとりでした。小山の尾根が海中にまで落ち込んでいます。それが絶えず打ち寄せる荒浪に洗われ物凄い断崖絶壁になっています。
場所柄、日本海海戦の幕開け、「敵艦見ゆ」の電信を最初に受信したのはここにあった通信所だとのことです。いまは記念の石碑だけが残っています。
祈りの女神と刻まれたブロンズ製の像がたっていました。この大瀬崎で日本を見納め、二度と見ることのなかった数多くの兵士たちがいました。彼らの霊を慰め将来の不戦を祈るため女神像を建立した、と県知事さんのお言葉が刻んでありました。

この日の最後は福江市に帰り、武家屋敷、石田城を見ました。ここのお城の石垣は隅にだけ切り石を使っています。大部分は、丸っこい原石のまま積み上げています。野面積みというのだと思います。体裁より実用本位ですね。
お城の中に高校があります。こんなことは、むかしはどこでもちょくちょくあったものです。でも、時がたつにつれて学校は広い郊外に移転し、城跡は史跡として観光地化されるものです。
さすがにまだここ福江市は、かって殿様のものだった土地が、いまや我われ市民のものとして使えるのだとする段階にあるものと見受けられました。

●五島福江市から天草本渡市へ
福江港を朝7時50分にでて、天草のユースへ夕方16時に入りました。のんびりした行程ですが、たまにはこういうのも良いものです。

福江港を出て4時間、フェリーが長崎の港に近づきました。
右手に大きな工場が見えてきます。三菱重工の香焼島工場です。
もう40年近くまえ、この工場が新設されたときに、その披露があり、わたしが参加させていただいたことがありました。
わたしは、直前まで火力発電所の現場で、それこそ汗をかいて働いていました。それが急に本店に転勤になり、こんどは右も左も分からず神経をすり減らす日々だったのです。
その昔、香焼島工場には火力発電所のボイラー・チューブが山と積まれていました。
当時の国民所得の増加、消費の増加、生産の増加、電力使用量の増加、発電設備製造の増加という流れの中で必要となった工場だったはずです。
40年後のいま、所得の停滞、消費の停滞、生産の頭打ち、電力使用量の頭打ちという条件のもとでは発電設備製造はまったく不必要になっています。どんなに苦しんでおられるかと思いました。
大きなクレーンがあり、ドックに建造中の船が見えました。もともと巨大タンカーの建造も、工場新設の役目のひとつだったのです。
ともかく、香焼島工場を眺めながら、まるで自分のもののように、真剣にいろいろ考えさせてもらいました。
新築披露の見学会には、全国から得意先が招かれていました。その一日は電力関係者たちに割り当てられていました。そして、偉いかたがたのなかに、わたしのようなペイペイまで混じらせていただいたのです。

・エレベーター上司が乗るとお葬式   よみびとしらず

九州電力の重役さんだったYさんは、わたしの義父の部下だったことがありました。この見学会の食事のとき、わたしに話しかけて下さいました。時計を見ながら「いまもう、6時です。名古屋とくらべると明るいでしょう」、そんな言葉をいまでも覚えています。
Yさんには子供さんがありませんでした。それで、同じ社宅に住んでいたわたしの家内を子供のように可愛がって下さったのだそうです。だから、どんなお婿さんと一緒になったのかと、観察して下さったのでしょう。
そんな遠い日の思い出が浮かんできました。

前の日、ここ長崎の造船所で、試運転から帰った船が小火を出しました。ラジオでは「一昨年、建造中に火災を起こしたダイアモンド・プリンセス号の経験がまったく活かされていませんでした」と、まるで鬼の首でもとったように非難の口調で報じていました。

・ホステスのお目にかなった大会社    誠子

こんどの旅行の間に、年金問題で福田幹事長が辞めました。つづいて菅党首が辞めました。むしろ制度上の欠陥で払わない期間があったようです。悪意があったわけではないでしょう。あとから気がついても、払う道が閉ざされていたのです。普通のサラリーマンが所得税の年末調整を、専門家である自社の労務担当者にまかせ、自分で細かくチェックしないようなものではなかったかと思います。責任上、他人のせいにすることはできません。かといって社長がトイレットペーパーの使用量までチェックするため夜更かしをして、翌日の大事な会議で居眠りしたりすれば、頼りがいがあるリーダーだとほめる従業員はいないでしょう。
マスコミ感覚の異常さ、そして自分がその職業に就かなかったことのしあわせを思いながら長崎に入港しました。

長崎から茂木へはバスで、そこから富岡までは高速船、さらに天草の本渡市へはバスで入りました。

●ギャル・ライダー・イン・アマクサ
5月12日、朝、食堂で食事をしていました。
若い女の子が、ユースのペアレントさんと話していました。
ペアレントというのは、昔風にいえば宿のご主人ということです。
ユース利用族は、ご主人のことをペアレントと呼んで、まったく違和感を持っていません。でも、わたしはこの言葉から、どうしても英語の「両親」を連想してしまいます。ましてやわたし自身が高校生の孫を持つ身で、ほんとうのペアレントは96才の母なのです。
昨夜、このユースホステルに若い女性が泊まっているのは知っていました。彼女はわたしが夕食を食べているときに到着したのです。ペアレントさんと車の置き場所について話していました。口数は多くないようですが、なにごとも「はい、はい」と答えていました。素直な子だなあと思っていたのでした。

さて、ペアレントさんはこんなにいうのです。「この子も今日オートバイで回るつもりだったのだが、なにせこの大雨だ。車に乗せてやってくれてはどうだろう。レンタカー代もいくらか負担してもらえば、お互いいいじゃないか」。
若い女性を横に座らせるのだから、ホイホイOKしたとお思いでしようか。
マジな話、わたしはかなり困惑しました。
ふだん口にはしていませんが、わたしは自身を変人だと認めているのです。見てまわりたい対象は普通の人の倍ぐらいあるのです。おまけに走っている途中で面白そうなものが目に入ると、この年ではもう2度とくることはあるまいと、つい引っかかってしまうのです。そのうえ、ほかの人だと下らないと思うことでも、面白くなってしまうのです。
ですから、ほかの人と一緒に行動すると、お互い、なにか譲らなくてはならないぞと気が重かったのです。
計画を尋ねてみると、彼女は大江天主堂だけに行きたいのだといっています。ぼくはあっちこっち見るつもりだというと、どうせ今夜またここに泊まるのですから、行く先が増えるぶんにはかまいませんと言ってくれました。
それで、まあいっしょにゆくことにしました。

すごい大雨でした。天草本渡市の急な坂は小川になっていました。
見学は、濁流渦巻く町山口川にかかる祇園橋から始まりました。この橋は170年ほど前につくられた日本でいちばん長い石造桁橋で、国の重要文化財に指定されています。28.6mとのことです。天草の乱では戦場になり、屍が山を築いたとされます。
次は本戸城の趾に立てられた千人塚にゆきました。同行の彼女は口ばかりでなく、心の芯から、えっ、こんなものもあるの、といった感じでした。わたしは今度の旅で、もう何日もキリシタンの殉教漬けになっているうえ、激しい雨も降り始めたので、写真を撮ると早々に天草キリシタン館に逃げ込みました。
ここでの見ものは、なんといっても国の重文、天草四郎陣中旗です。1m角ほどの旗の中央に大聖杯、それを崇める天使が二人書かれています。
島原の原城で、天草四郎以下の反乱軍3万7千人が一人残らず殺されたとき、最後までひるがえっていた軍旗です。弾の跡、血痕が残っています。
そのときは佐賀藩士に持ち去られ、その後、数奇な運命をたどって、ここに寄贈されました。
現在、レプリカが展示され、本物は下の桐の箱に収めてあるとのことでした。
ジャンヌダルクの旗、十字軍の旗と並んで、世界3大軍旗と称され、戦後アメリカ人が食指を働かせたそうです。
ときの文化庁のある権威者が、もう国の重要文化財に指定されたから駄目だとか、呪いがこもっているからきっと祟るぞとかといって海外流出を食い止めたのだそうです。

すぐ近くの明徳寺にゆきました。
キリシタンに対抗するために幕府がつくった立派なお寺です。山門の額が「将家賢臣革政其除耶蘇邪宗」となっているのだそうです。読めれば、悪い耶蘇教を除くとわかるのですが、崩した漢字は苦手なうえ、字が剥げていて実は読めませんでした。このほか踏み絵とおなじ目的で階段に刻まれた十字架とか異人像とか案内書にはありましたが、なにせ雨がひどく早々に切り上げました。

さて、いろいろ話しているうちに、同行の彼女は半端なライダーじゃないことがわかってきました。
マシンはハーレー・ダビッドソン、エンジンは1400CC、あの腹にドッ、ドッ、ドッという排気音が響くすごい奴です。昨日も大分から300km飛ばしてきたのだそうです。
たいていの乗用車よりも高価だと聞いていましたので、恐る恐る聞いてみました。
「4年の月賦がやっと終わったところです。毎月、5万円ぐらいでした」との返事でした。
サニーに乗っている、このおじいさんとは格が違うのです。

・F1を1階フロアという課長   なるほど

一路、天草最南端の牛深港までゆきました。グラスボートが運行しているかと尋ねました。波の静かなところだけならゆけるとのことでしたので、やめました。昔、四国で同じような条件の日に家内と乗ったことがありました。そして、その日は海底が大波にかき回されて濁り、ほとんど何も見えなかったことを思い出したからです。

崎津という小さな村の教会を訪ねました。この教会は珍しく畳敷きなのです。でも、座ると膝が痛いという人も増えたのでしょう。鉄パイプ製の折りたたみ椅子が並べてありました。いまも信者の方が約400人、礼拝を守っておられるとのことです。

つぎは彼女がお目当てにしていた大江天主堂です。この教会は遠くから見えていました。
道の角に150m先を曲がると書いてありました。300mほどゆきましたが、あまりそれらしくない細い道しかありません。ともかく入ってみました。住宅の軒先みたいなところをすり抜けたりして崖を登ってゆきました。
気の弱いわたしは、あの角の標識から歩いて登れという意味だったのかしらなど、弱音を吐いたのです。
彼女は、自分のライダー仲間が教会の近くの駐車場にバイクを入れて撮った写真を見たから、絶対に上にゆけるのだと断固として主張するのです。
悪戦苦闘するうちに、ついにちょっとした広い道に飛び出しました。
先程の表示は、そのまま150m直進するのではなくて、左折してから150mゆけばよかったのです。
大江天主堂は、昭和7年、フランス人のガルニエ神父によって建てられたのです。明治になって信仰の自由が保証されたとき、このあたりへはフランスからカソリックの宣教師たちが入ってきたのでした。それまで300年近く隠れて信仰を守ってきた人たちを、正々堂々とクリスチャンに組み入れたのです。ガルニエ神父は強い信仰に支えられ、村民から慕われ、一生を日本のために捧げられたのでした。
内部は黒を基調にした、ごてごてとしない、簡素清潔な教会堂でした。
彼女はこの大江天主堂にだけ、とくにこだわっていました。だから先程「お友達のライダー」といったとき、お友達とは彼氏のことではないかと邪推したのです。
それで、この意地悪爺さんは「なにか、特別にお祈りしなくてもいいの?」そんなカラカイかたをしてみたのでした。

・セクハラと思ってくれぬ情けなさ   中年おじさん

くどくて恐縮ですが、大雨の上に霧も出てきました。
明治40年夏、北原白秋、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の五人が天草を訪ね、その紀行文「五足の靴」の中で西海に沈む夕日を讃えた、十三仏浦や妙見浦では、足下の海面さえも霞んでいました。
苓北火力発電所の煙突は、地表から30mほど上からは雲に入ってしまい、見えませんでした。この発電所は、わたしが電力会社を退くころ建設されたのでとくに親近感を持っているのです。
こうして意外に早く本渡市に戻ってしまいました。
思いついて、本渡市歴史民族資料館に行ってみることにしました。資料館と称するものには、よく雑然と古い物を置いているだけのところがありますが、ここは体系的によく整理されていて、内容も優品があると思いました。
石本家という資産家の所蔵品が展示してありました。
わたしは焼き物の海鼠釉というものは、植木鉢や便器にも使われるもので、そんな上品な物とは思っていませんでした。でも、ここで素晴らしい赤海鼠釉の香炉を見て、まるで宝石のようだと思いました。
美人の舞妓さんを見て京都弁が好きになるようなものです。

天草海軍航空隊の特攻作戦の展示もありました。最初は水上機の訓練の部隊だったようです。敗戦間際になって、背に腹は代えられず戦闘部隊になりました。水上機は大きなフロートがついていてスピードがでません。
数も少なく性能も劣った特攻機が、レーダーで情報をつかみ待ち受けているところへゆくのですから、アメリカ軍は七面鳥狩りと呼んでいたそうです。
ここ天草からは1945年5月と6月、闇にまぎれ、月の光を頼りに出撃したのでした。
そんな資料を見ているうちに、どうしても航空隊跡に行きたくなりました。
彼女とあちこちで道を尋ねながら探しました。「3っ目の信号を右」なんて明確に教えてくれる人もありましたが、いってみると話とは違うのです。

道端で働いていた地元の人に、航空隊跡と聞いても知らないというのです。
3年前、シンガポールで日本軍による虐殺で悪名高きチャンギ監獄を訪ねました。すぐ近くで道を尋ねましたら、知らないという返事でした。過去にこだわらぬシンガポールの人に出会い、戦後半世紀というイヤシの時間の経過に安堵を感じたことを思い出しました。

航空隊跡はオマケの見学先ですから、見つからなくてもいいやとは思っていました。でも、さすがに彼女もライダーなのです。彼女も私も、あるハズ、行けるハズのところに、行けないハズがあるものかと、ムキになって探し求めました。まるで、興味本位に数学の問題を解いているような気分でした。

終わり良ければ総て良し、こうして一日中ともに旅して、彼女もよかったと思っていることだろうと、ご報告しているつもりなのです。

・窓際で今日も乾かす濡れ落葉    柳川川柳

●熊本
最後の日は、天草からバスで熊本市に入りました。
熊本での見学場所は下記のとおりです。

県立美術館、熊本博物館、水前寺公園、下通り、上通り、小泉八雲旧居。

県立美術館を訪ねたのは、ここに装飾古墳の展示が揃っているからなのです。
たまたま2階で、「浮世絵の中の美人たち・熊本の作家」という企画展が開催されていました。
浮世絵は今西コレクションから43点、それだけで、わたしが一生のうちに見る大部分にあたるような予感がします。
絵の解説には、上品だとか、可憐だとか、女性に対する讃辞があふれていました。しかしわたしの気に入る美女は、ついにひとりとして見つかりませんでした。
実物の日本女性は、全部大好きだというワタクシメだというのにです。
その理由を考えてみました。
かって北海道松前城で、アイヌたちを写した絵を見たことがありました。日本の昔の絵師たちはかれらを、とても怪異な形相に描いていました。
また考えてみれば浮世絵の中の役者たちも観念的、画一的に、かなりデフォルメして描かれています。
同様に浮世絵のなかの美女たちもあまりに実物離れし、柔肌のぬくもりが感じられず、それで好きになれないのだと断言したいのです。
それともヤッパ、わたしの老化のせいでしょうか。

・敬老から軽老になるわびしさよ   ヨシ

それでもなお、モンゴル仏教の仏様たちが、怪物ないしは鬼のようなお姿をしているのにくらべて、日本の仏様は端正で大いに救われると思っているのです。

装飾古墳は地下のワンフロアを使って、6基の古墳を始めいろいろの遺跡がレプリカで造ってあります。装飾古墳は福岡県南部から熊本県北部にかけての地域を中心として発達した、日本でも特別な古墳なのです。
奈良盆地に造られた高松塚やチブサン古墳なども装飾古墳ですが、それらが朝廷と関連がありそうな精緻なものであるのとちがって、この地方のものは直弧紋という幾何学的なものや、稚拙というべき絵が描かれているのです。
考古学に関心を持ち始めた昭和40年頃、筑後川流域の装飾古墳を、わざわざ見に来たことがありました。そのころはまだ近所の個人が、国から管理を依頼されて番人を勤めておられました。
お宅へ伺って案内していただき、たしかタバコをお礼に差し上げた覚えです。いまの禁煙時代には想像できませんが、そんな目的にはタバコは便利なものでした。
わたしがここを訪ねた狙いはもうお分かりでしょう。平日、昼食時の古墳室のことです。あいかわらずたった一人の時間でした。甘くて満足感のある、センチメンタル・ジャーニーなのでした。

・ぼくの趣味部長が代わればまた増える  よみびとしらず

熊本城は以前に訪ねていますから、今回は水前寺公園にいってみました。
この名園は東海道五十三次を模したといわれるそうです。なるほど富士山らしい整った姿の山がいちばん高く造ってありました。明るくて気持ちのよい庭園でした。なにより池の水が透き通って奇麗なのが感激でした。だいたいどこでも都市の中の公園といえば、池の水は濁っているのが普通なのですが、ここは阿蘇外輪山からの湧き水が豊富だとみえます。
ここには観光客が一杯いました。韓国の人たちも2、3組おられました。
能楽堂のところで、韓国人のカップルにシャッターを押してくれないかと英語で頼まれました。撮り終わると女性のほうが日本語で「ありがとうございました」といってくれました。とっさに「ドント マインド」と返事してしまいましたが、日本語で「どういたしまして」とか、あるいは見当違いですが韓国語の「カムサムニダ」とでもいえば、マシだったかしらなど後智慧で悩んでおりました。

・オバタリアン三人寄れば暴力団    キティちゃん

こうして熊本交通センターを20時に出るバスに乗り、翌朝7時過ぎに名古屋に帰ってきました。

・辿り着く家にもいます管理職   辯敬

その後あちこちで旅行の報告をしておりました。
ある人が「天草か。むかしは天草女などといわれてな・・・」と、思い出したように口を開かれました。熊本に住んでおられた方でした。
夏休みは一家で天草に海水浴に行き、何日か滞在されたのだそうです。「夜になると村の人たちが浜に踊りの輪をつくってな。天草女といわれたほどだから、結構な婆さんでもみんな踊りがうまくて・・・」。
熊本辺りに出稼ぎに行って水商売で働かされていたものだと言いたいように見えました。
むかしは、なにもここ熊本だけではなく、江戸についても相模女とか房州女という言葉がありました。所得落差もさることながら、江戸ではまったくモテない連中が、地球の上のどこかでは出番もあるのではないかと、必死に蜘蛛の糸にすがろうとする、そんな男たちの哀しい念いも伝わってくるのです。
「山の彼方の空遠く 幸い住むと人の言う・・・」というではありませんか。

天草一揆の発端も、天草島は作物がとれないのに年貢の取り立てがきびしくて、と書かれていました。
訪日した宣教師たちが心を痛めたのは、間引き(食料不足のため生まれてきた嬰児を殺すこと)だったという、説明もありました。
外国との交易が盛んだった時期には、ベトナム、タイ、ボルネオサンダカンなどに日本人町ができていました。良い仕事があるからというような甘言で釣って、貧しい日本人男女を売り飛ばす商売人が、昔はいなかったと思うほうが難しいではありませんか。

もう20年も前のことです。仕事で紀伊半島のホテルに泊まり、2次会にホテルのラウンジに下りてゆきました。そこではじめてフィリピンから働きにきている女性を見ました。驚いたのは、彼女たちがテーブルの上のおつまみに目を輝かせたことです。
接客業の女性は、お客の前では食欲があることを見せないのが掟になっていると思います。それで、勤務の前には軽く食事をしたりするのです。
ともかくその夜は、体が小さく浅黒いフィリピン人たちは、お腹を空かせていました。実際、お腹がふくれて食欲がないのはわたしたちお客のほうでした。それで「食べていいよ」といって食べてもらいました。美味しそうでした。あとで彼女らがマスターから叱られなければよかったがと思っているのですが。

ともかく、地球上には沢山の人、いろいろの立場の人が、過去にも暮らしていましたし、また現在も生き続けているわけです。
17世紀に異国で、家庭的にも財政的にもしっかり根を下ろしていた「ジャガタラお春」「コルネリア」などのケースは、いまでいえば政治亡命に近い立場だったのでしょう。
でも、いま日本で働かされている「フィリピンお夏」や「ブラジルお冬」たちジャパゆきさんや、蛇頭にだまされコンテナに積み込まれてきた不法入国者たちのような、聞けば涙の物語のケースだってあったに違いありません。
豊かな集団があり貧しい集団がある、そこに欲の力が働くという図式は、古今東西を通じて普遍の法則でありましょう。
こんど訪ねた日本の西の涯の地域にも、天明の飢饉の時の東北地方とおなじような貧困の時期があったのでした。
いまはただ、日本が豊かなグループに入っている幸せを、感謝したいと思います。

それにつけてもこのところ、密告バヤリの世の中で、自分が打たれる時までは、他人を叩く快感に、浸る根性は気になります。
特捜部段ボール行列の、暗いニュースが続くのも、皆しあわせになり過ぎて、舞い上がるのを予防する、神のご配慮なのでしょか。

・持ち歌は「悲しい酒」と「廻り道」   ドサ廻り

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