題名:ニュージーランド南北両島18日間のひとり旅

(2003/2/26〜3/15)

重遠の入り口に戻る

日付:2003/5/10


●目玉をなくす
今度も、ひとり旅です。
旅の始めは、まず名古屋からシンガポールへ飛びました。ここでニュージーランドへの便がでるまで、約5時間待ち合わせ時間がありました。その時間を使って、航空会社が無料の市内観光ツアーを提供してくれているのです。
2月の日本から、赤道直下の国へきたのです。空港建物のエアコンは、やや暑く感じました。ましてや、これから市内へ出るのですから、着ていたフリースを脱ぎました。
無料ツアーのせいか、ガイドさんはすごく足早なのです。歩きながらフリースを脱いだのです。
入国審査を出て、自宅へ電話をしようと思ったときに、眼鏡がないのに気がつきました。首から紐でぶら下げていた老眼鏡を、フリースを脱ぐときに落としてしまったのです。
落とした場所から、時間にして5分、距離は100mほどですが、この場合は彼岸であります。
セント-サ島観光ツアーを終わり、2時間後再入場してから、遺失物係りに聞いてみましたが、該当品の届け出はありませんでした。

私にとっての目玉である眼鏡なしで、18日もの外国旅行はできません。早速、眼鏡屋を探しました。
各地の空港は、様々ですが、どこかの空港ではキオスクふうの店があった記憶があります。そういうところだったら、旅行用の安い使い捨ての眼鏡を売っているものです。
実は私は前科一犯なのです。オーストラリアで眼鏡を失くしたときは、そんな方法で補充し、それをいま日本で車に備え付け、重宝しているのです。
でも、ここシンガポール空港では、そんな店は見当たりませんでした。仕方ありませんから、ブランド品を並べた店に入って、安いのはないかと聞きました。一番安いのが100ドルだと言います。約7000円ですね。値段も気に入りませんし、大体、ブランド品にはアレルギーがありますから、そんなのを掛けるとジンマシンが出るような気がしたのです。買うのは止めました。
これから必要になるニュージーランドへの入国、税関などの申請書類は、周りの誰かに、最悪の場合は係官に、読み上げて貰うことにしました。世の中には、読み上げて貰っても、字が書けない人だって旅行しているわけなんですから。
でも、こんな図々しいヤカラが多くなると、空港のお役人もたまったものじゃありません。

ところが、なんとラッキーなことでしょう。このあとの飛行機で、隣の席が日本の若い女性だったのです。彼氏がウエリントンにいて、訪ねてゆくのだそうです。取得できた休暇では、たった3日しかいられないとのことで、私が18日も旅行すると聞いて、心から羨ましそうでした。そして「私の父親が、ひとりで外国に出たら、生きて帰れるとは想像できませんわ」そんなに言って、私の面倒を見てくれました。
彼女はオークランドの空港で、国際線から国内線までも案内して上げましょうといってくれました。ところが、例の荷物を受け取るターン・テーブルで、私の登山用の伸縮杖が見つからないのです。乗り継ぎの時間のこともあるので、先に行って下さいとお願いし、それで慌ただしく別れてしまいました。
杖は、名古屋空港のカウンターで、リュックから抜け出すといけないからと、親切に別に包装してくれたのです。
ところが、杖を入れた細くて長い箱は、ターンテーブルに乗せないで、ほかの所に置いてあったのでした。私も、どうにか乗り継ぎは間に合いました。

夕方、クインズタウンに着きましたが、ここは有名な観光地で、眼鏡を失くして困る老人など来るところではないようです。大抵の店では、格好良いサングラスばかり売っていました。
通りかかった観光案内所で「サングラスではなくて、普通のグラス、シニアグラスを売っている店はないか」と尋ねました。相談を受けてくれたのは賢い娘さんで「オー!オプティクス」と分かってくれました。眼鏡屋、直訳してグラス・ショップでは通じないんですね。
たまにしか使わないから安いのをと頼むと、約2000円ほどのがありました。ぶら下げる紐は、狡猾にも「どれも同じ値段か」と聞いたのですが、相手が事情を呑み込んでいて「いろいろだが、一番安いのはこれだ」といってつけてくれました。
後ほど、案内所の前を通ったときに、「目玉、買ったよ」と眼鏡を差し上げて見せました。案内嬢が2人、祝福してくれました。
この重ったくれ性格の私が、海外では、こんな軽くなるなんて、皆様に想像できるでしょうか?

・山の湖老貴婦人のごとき船
・太めなる女に犬の懐きたる
・冬の湖売り子腕振り急ぎ足

●地勢、人口、自然
ニュージーランドを紹介するのに、赤道を挟んで日本と反対側にある大陸のそばの島国、時差も少なくて、ともかく日本と似た国だ、とするのが多いと思います。
私もそんな認識だったのです。でも、折角、その土地に足を踏み入れたのです。自身の不明を恥じながら、改めて気づいたことを並べてみましょう。

いつも私は、横長の世界地図を眺めているので、ニュージーランドは日本の下で、わりに近い距離にあるような印象を持っていました。でも、直行便でも十数時間かかります。ですから、アメリカのデトロイト、ヨーロッパのフランクフルトなどとほぼ同じ距離で、結構遠いのです。
時差は3時間、ニュージーランドは東にありますから、日本の丑三つ時には、もう東の空が明るくなっています。3時間という時差は、西ならばインド、ミヤンマー辺りに相当するといえば分かりやすいかも知れません。つまり真南よりは相当東になるのです。日付変更線のすぐ近く、といえば分かりやすいかも知れません。
また、オーストラリア大陸からタスマン海を距てた島国には違いありませんが、タスマン海はアジア大陸と日本の間にある日本海に比べると、径約1900kmとおおよそ2倍ほど広いのです。
ニュージーランドは、緯度こそ南緯34度から47度と,日本でいえば北緯約34度の下関から、約45度の稚内までと似たような数値で、赤道から同じぐらい離れているのは事実です。
当然、夏と冬は反対になります。でも、月平均気温の内容を見てみましょう。

日本              冬      夏     夏冬温度差
北緯37度 新潟       2,1度  26,2度   24,1度
北緯41度 函館      ー3,4度  21,6度   25、0度
北緯43度 留萌      ー5,1度  20,6度   25,7度

ニュージーランド         夏     冬     夏冬温度差
南緯37度 オークランド    20,0度 10,9度   9,1度
南緯41度 ウエリントン    17,8度  7,2度  10,6度 
南緯43度 クライストチャーチ 15,7度  5,8度   9,9度

(月平均値、どの箇所も標高は低い)

ニュージーランドは、冬暖かく夏涼しい、穏和な気候であることが分かります。
ついでに、南半球のアフリカと南アメリカについても調べてみました。

                夏      冬      温度差
南緯34度 ケープタウン   20,4度  13,9度   6,5度
南緯34度 ブエノスアイレス 24,5度  11,1度  13,4度

北半球は陸半球、南半球は水半球ともいわれますが、陸地が占める面積の割合は下記の通りで、こんなにも違うのです。

北緯30〜40度 43%     北緯40〜50度 52%
南緯30〜40度 11%     南緯40〜50度  3%

海流の影響などもあり、気温が陸と海との面積比率だけで決まるわけではありませんが、この比率も大きな影響を与えているはずです。
日本に住み慣れて、夏は暑く、冬は寒いのが当たり前と思っていましたが、改めて調べてみると、日本はアジア大陸という冷蔵庫を抱えているから、冬に大層寒いのに違いなかろうと思われてきました。

日本列島の宿命として、東から太平洋プレートが押し、また南からはフィリピン海プレートが押してきて、アジア・ユーラシアプレートの下に潜り込んでいます。そのために火山が噴火し、地震が多発するという、プレート・テクトニクスの理論は今では常識になっています。
同じことがニュージーランドでも起こっているのです。
太平洋プレートがインド・オーストラリアプレートを押していることは同じなのです。
ところが、ニュージーランドでは、北島では太平洋プレートが下に潜り、南島では逆に、インド・オーストラリアプレートが下に潜っているのだそうです。
2枚の段ボールにハサミで切れ目を入れ、切れ目同士を組み合わせ両側から押している格好です。動かざること大地のごとしといいますが、地殻は段ボールよりも脆くて、がさがさ動いて辻褄を合わせているようです。
北島は阿蘇、久住に似た、火山地帯になっています。温泉も多いのです。
それに対して南島は、マウント・クックを始め、片麻岩など堆積岩がスイスアルプスのような鋭い岩峰を連ねているのです。

国の面積は27万平方キロで、日本の70%ほどです。人口は約380万人、日本の3%ほどです。
ニュージーランド滞在中、沢山の日本人に会いました。
よく日本人は平和呆けだといわれますが、私は環境呆けでもあるように思いました。
ニュージーランドに来た日本人から「マアー 素晴らしい緑の世界!環境保護が進んでいて、日本と違って自然一杯ですね」という賛嘆の声を聞きました。
国土は日本の70%の広さがあります。南島、北島と呼ぶので、実際以上に小さな島に思わせてしまうのです。その国土に、400万人弱、愛知県の人口の半分程しか人が住んでいないことが、自然一杯の基本的条件なのです。日本国民100人中96人に、あの世かこの世かはともかく、どこかに行って貰わなくては成立しない人口密度なのです。
私なら、今のように、家族や友人が周りにいてくれるほうが、幸せだと思います。
おまけに、ニュージーランドの国土のうち、本来の環境が破壊されていないのは20%に過ぎないのです。国土の80%は、原生林を切り倒し、牧場にしているのです。
日本人も環境問題について、安易に他人を批判することにより自己満足を得るのは止め、そろそろ、自分の目で見て、自分の脳を使って、どうあるべきか、自分の考えを持つべき時期に入っているはずなのです。

●ミルフォードトラック
ミルフォード・トラックは、世界で一番美しい散歩道と呼ばれている、トレッキングコースであります。
54キロメートルを3泊4日で歩くのです。
歩き終わった次の日に、ミルフォード・サウンドという、氷河が刻んだ入り江を船で見る観光がセットされて、ガイド付きのツアーになっています。
私は日本からインターネットで、このツアーの予約を取っておきました。
歩くコースはかなり平坦です。ただ、途中一箇所だけ、マッキノン峠という標高1000mを越える峠越えがあります。
この道では、入る人数を制限しています。一日当たり、ガイド・ツアーが48名、それ以外が40名です。
トレッキング・コースは、南から北へ抜ける一方通行になっています。
そのため、朝、出発する頃はともかく、しばらく歩けば早い人と遅い人とおのずから別れてしまいます。2〜3時間、誰とも会わずに、全くひとりで自然の中を歩いていたこともありました。
ガイド・ツアーに参加すると、シャワーや乾燥室のある快適な小屋に泊まります。夕食も、ビーフステーキ、サーモンステーキなど2種類のうちから好きな方を撰べる、歩く旅としては大変に豪華なものです。4泊5日で約11万円と、わりによいお値段でもあります。

この地方は、ニュージーランド最高峰のマウント・クックなどを含むサウザン・アルプスの南の端に当たります。説明によると、2万年ほど前、氷河によって刻まれた地域のようです。
私は今まで、キリマンジェロ、スイスアルプス、カナディアンロッキー、ヨセミテ、ヒマラヤなどで氷河に刻まれた地形を見てきました。
それらの氷河圏谷には、共通した点と、場所毎に特徴がある異なった点とがあるように思うのです。
氷による削られ方が違うのと、氷河が溶けてからあとの時期に、どんな変化を受けたかで違っているように思います。
このニュージーランド南島の西南部では、削られ方がひどいのと、その後の浸食変化が少ないのが特徴ではないかと思います。
谷の左右の岩壁が非常に急で、谷底が流れの方向にも、それと直角の方向にも非常に平らなのです。

現在でもサウザン・アルプスの西側には、フランツ・ジョセフ氷河、フォックス氷河などの氷河があります。これらの氷河は、こんな温帯の、標高300mという海岸に近く気温の高いところまで、流下してきているのです。
それは、西風が海から大量の蒸気を持ち込むため、年間10、000ミリという降水量があり、高い山脈の主稜線の降雪が深く、それが圧縮されて氷になり、急な斜面を融けるよりも早く流れ落ちてくるからなのです。
標高が高く気温が低いところにある普通の氷河、例えばこの地域でもタズマン氷河では、氷は1日に65センチの流速ですが、フランツ・ジョセフ氷河では1日に5〜6メートルも流れるのです。
また面白いことに、世界的には、近年の気候の温暖化により、氷河は短くなりつつあるといわれますが、ここの氷河、例えばフランツ・ジョセフ氷河は1989年から1996年の間に、400mも長くなっているのです。それは、近年、降水量が増加しているからなのであります。
こんな氷河では、谷の削られ方も激しいのだろうと思われます。ともかく、この地方に多い氷河が削ったU字谷は、まるで廊下のようで、床が平ら、左右に岩壁が垂直に立っていました。
そんな廊下の床に海水が入ってできたミルフォード・サウンド(サウンドは入り江のこと)の絶景と、その谷の奧に見つかったサザランド滝の観光に、陸上からのアクセス・ルートが求められていました。
1888年マッキノンという人が、そんな廊下のような谷のドン詰まりの峠を越えて、アプローチできるルートを見付けたのです。
その道が、現在のミルフォードトラックなのです。
現在ならば飛行機で飛び上から見下ろせば、おおよそのルートは推測可能でしょう。
でも、それができなかった昔には、どんなに大変なチャレンジだったろうかと、その苦労が思いやられました。
歩行可能なのは谷底です。そこはブナの木の林です。そして下草が物凄いのです。
日頃日本の山を歩いていて、日本では、水は十分あるし、気温も適温である、植物たちは日光の得られる限界まで茂ることができるのだと確信していました。でも、ミルフォードを歩いてみて、日本でももっと降水量があれば、今以上に下草が茂ることができるのではないかと思い直したほどなのです。
何日分もの食糧など重い荷物を担いで、こんな下草を分けながら、未知の地域に分け入った人たちの心根に脱帽しました。
こんなことを思うのも、私の登山スタイルが藪漕ぎ屋だからこそで、拓かれた道ばかり歩いている人たちには、考えられないことでありましょう。

・水鳥が水留りに来水を飲む、

●参加者たち
名古屋を午前10時に飛び立ち、翌日の午後4時にクインズタウンのユースホステルに投宿しました。
そして、6時半からツアー会社の説明会に出ました。この町にはステーションがないのに、事務所はステーション・ビルディングという建物の中でした。
ついでながら、この人口3000人の小さな町には、地下鉄がないのに、サブウエイというファーストフード屋もありました。

驚いたことに、説明会場に入ると日本人の団体が一緒でした。でもその構成が、女性7名、男性2名だったのには驚きませんでした。
そこで、日本人だけ集めて日本語で説明してくれたのです。
その後も、日本人が特別待遇を受けているのが良く分かりました。
たとえば、ホテルに入ると、食堂、洗濯室、などの案内が日本語で書いてあります。
バスに乗れば、途中のトイレ休憩、食堂、売店などが日本語で案内されています。トレッキング中でも、夕食後、翌日の行程をスライドで説明するのに、日本語の解説のシートを見せてくれます。
いろいろの店に日本人が雇われています。
これらは、日本人旅行者の数が多いのと、日本人にはニュージーランド英語が分からないからです。まことに、便利だと思いました。
ちなみに、ニュージーランド人の若い人たちの中では、習いたい外国語のトップは日本語だとのことであります。

私と同じ行程のツアー客の国籍は、次の通りでした。
オーストラリア人 16名
日本人      14名
アメリカ人     8名
ブリテン人     6名
ニュージーランド人 2名
ブラジル人     1名

コースといい、費用といい、わざわざニュージーランドまできて、時間をかけて歩こうという人たちです。
リタイアして、まだ元気のある夫婦が中心でありました。世界中の先進国から、ある程度お金を使おうという初老の人が集まってきたといったら当たっているかもしれません。メンバーたちは、ただのお金持ちではなくて、もうひとつ精神的に何か持っている、かなりインテリジェンスの高い感じがしました。
自慢だと取られると困りますが、私の趣味は山登りですと披露すると、大抵、良いご趣味ですねと言われて恐れ入っていました。でも、ここへきて、このツアーのメンバーを見ているうちに、頂戴したお世辞も、案外当たっていないこともないなと思ったのでした。

日本からのパックツアーの人たちは、ここでは、やや異色に見えたといってよろしいでしょう。
中国人、韓国人たちは、ここニュージーランドでも、いわゆる観光地では、その進出には目覚ましいものがあります。でも、まだトレッキングには影が薄いと見受けました。

15年ほど前、キリマンジェロにゆきました。その頃、ケニア、タンザニアなどアフリカの高原の人たちは、まだそんなに車を使ってはいませんでした。村人たちは、頭に荷物を載せて、さあゆくぞといった様子で隣の村に歩き出すのでした。
そのころ日本ではもう、歩くことは移動の手段ではなくて、ショッピングを楽しむ、会話を楽しむ、そぞろ歩きになっているとだなと、その違いを感じました。
アフリカの枯れ草色のサバンナに住んでいる人たちが、ニュージーランドの美しい緑の森の道を歩いてみたくならないとは思いません。でも、生活の手段として歩かなければならない人が、時間と金を掛けて、外国にまでトレッキングにゆく気にはならないでしょう。
だからこのトレッキングに参加するのは、自分たちが自然から遠くなってしまったと感じている国の住民に限られることでしょう。

また、韓国、中国から海外へきている観光客は、若い人がほとんどです。
これらの国では家族の絆が強くて、老人たちは子孫のために財産を残そうとしているのではないでしょうか。子孫に残すことを目的にすれば、蓄財は無限に意味を持ちます。老人に余裕は廻ってきません。
日本の私たちの周りでも、子供に教育を受けさせてやるだけでなく、自動車を買ってやる、家を建ててやるなどのことが、親の義務であると思っている家庭もあります。
でも、我々の世代からは従来と違って、子供は子供、自分の蓄えは自分たちで使って楽しもうという家庭もあります。過渡的な世代だといえましょう。
私がまだ20代だった頃、アメリカの喜劇役者のこんな話を読みました。
学費を補助してもらいたいと期待して「僕、大学に進もうと思うんだけど」と父親に口を切った。すると、それを聞いて父親は何て言ったと思う? こう言ったんだ「よかろう。俺は反対しないよ」。
この話を読んだとき、先進国では子供といえども、個人の自立がここまで進んでいるのかと、驚いたことでした。

・鯖雲をいつまでも見ていたりけり
・秋雲の広がりゆくに 飽きざりき
・雲遙か山遙かなり過ぎし日々
・登山基地娘ガイドらチョコを食う

さて、日本人14名の内訳は、パックツアー9名、夫婦2組、私ひとり、というわけで、日本もだんだんに先進国スタイルになってゆく兆候はあります。
このミルフォードトラックにパック旅行で参加しているのは、日本人だけでした。旅行スタイルだけではなくて、人間としても、ちょっと違う感じがしました。
言ってみれば、もしもアメリカだったら、外国にトレッキングにゆくなんて考えもしないような人たちが参加しているといったらよいでしょうか。
私はパック旅行というのは、均一製品の大量生産のような、非常に効率のよいシステムだと思っているのです。旅行の計画、手配、実施いずれをとっても共通のもので済むわけですから、1人と記入するところに、単に5人と書けばよいだけです。参加する方にしても、お金さえ払えば、それで全部済むのです。
パック旅行がなかったら行けない人たちが、参加できるのは素晴らしいことだと思います。
中国、香港、台湾、(怒らないで下さい。ニュージーランドの人たちが、このように分けて呼んでいたのです)韓国、日本などは、パック旅行を多用しているというか、むしろそれが主軸になっているといえるかもしれません。
そのほかの国では、モロッコを旅行したとき、フランスからきていたパック旅行の団体に気がついたぐらいです。
将来、中国、韓国が、このミルフォードトラックに、一時期はパックツアーを経由して参加するのか、それとも始めから個人スタイルでやってくるものなのでしょうか。
いろいろ、変なことを考えてしまいました。

●コケの森、羊歯、雨、滝
第1日は、クインズタウンから200kmをバス、30kmを船でゆき、そのあとグレードハウスまで、トラックの最初の1,2kmを歩きます。歩行時間20分と、ほんの足慣らしです。
宿舎に荷物を置いたあと、ガイドについて森に立ち入り、植物など解説を聞きました。
林床に、雀を一回り大きくしたような小鳥が、立ち止まっていました。スコットランドからきた小母さんが、驚かすなというように口に指を当て、小鳥を指差し後続の人たちに伝えました。でも、小鳥のほうは一向に気にする気配がないのです。
後日、本で見ると、これはウッド・ロビンという鳥で、人が靴で地面を掻いてやると、虫が出てくるのを期待して、寄ってくると書いてありました。
そういえば日本でも、耕耘機の後に鷺が付いて歩いている光景を見たことがあります。
このミルフォードでの小鳥との出会いは、相互理解がありませんでしたから、サービスしてやれませんでした。もっとも、地中の虫にとっては幸せでしたが。

・土掻けば小鳥寄り来る苔の道
・水何故に魚住まぬまで清らけき

第2日から、本格的なトレッキングに入ります。
この日の歩行距離16km、歩行5〜7時間とあります。
朝、7時スタート、良く整備された広い道をゆきます。道はクリントン川に沿っています。信じられないほど透き通った綺麗な水が流れています。
このトラックでは、苔の多さにまず度肝を抜かれます。細かに見れば、低い水際にある日本のものとソックリの水苔から始まって、木の上にゆくに従って途中何種類かに変化し、最後はいわゆるサルオガセになり糸のように垂れ下がっているのです。
当地では銀ブナ、赤ブナと呼ぶ木が森になっています。日本のブナの学名はFagusCrenato ですが、ここのブナはNotoho Fagusと書いてありました。
苔のついていない若い幹は、さすがに灰色をしていて、ブナを思わせます。もっとも、日本のブナは落葉樹ですが、ここのは常緑樹ですから、かなり変わっているといえます。
このブナの森に苔がびっしりと付着し、まるでモンスターといった様子を呈しています。
一般論として、高木、中木、低木とも、ほとんどが常緑のようで、かつ、どの種類も葉が小さいのです。
ビデオを後で見ましたら、私が撮りながら何度も何度も、上高地そっくりですとつぶやいていました。まさに、そんな道でした。
上高地の駐車場から、梓川がふたつに分かれる横尾までが約9kmです。このトレッキング・ルートでは、あのような道が54キロ、つまり松本から横尾まで続いているといったらよいでしょうか。
左右を標高差1200mといわれる高い岩壁が限っています。その空との境から、幾筋も細い滝が落ちているのが見えると、間もなくこの日の泊まりポンポローナ小屋です。最後はポツポツ当たってきた雨に追われるようにして、小屋に入りました。
夕食後、みんなが食堂の外のテラスでワイワイ言っていました。
行ってみると大岩壁から、幾筋も滝が落ちているのです。おまけに目の前の屋根に鳩ぐらいの鳥がとまっています。
地味な濃い緑色、曲がった嘴を持つ、ケアというオウムなのです。
出発前夜にあった説明会の最後に「そうそう、ひとつ言うのを忘れていました。泥棒がいますから気を付けて下さい」と、言われました。おばさんたちから、マア、イヤーダ!と、いっせいに声が上がりました。「オウムです。帽子でも登山靴でも部屋の外に置いたら、みんな持っていかれます」とのことでした。
ケアは人を恐れていませんから、近くに寄って見ました。わが家のやんちゃ坊主の犬のような、いたずらっぽい目をしていました。

・雪田は幽けき滝を落としけり
・オレンジを泥棒鸚鵡に啄まれ

第3日目は15km、6〜8時間の行程です。距離のわりに時間がかかるのは、途中、1000m強のマッキノン峠の上り下りがあるからです。
どの宿でも、前の日の夕食後、スライドを使って翌日歩く予定のコースの説明があります。
われわれのガイドは、若い女性3人でした。彼女らが、毎晩、交代で説明してくれました。なかなか、ユーモアのある解説のようで、言葉の分かる人たちはゲラゲラ笑っておりました。日本人には、おおよそ分かりませんから、日本語の説明書を別途用意してあります。これは、回収して何回も使うのです。
昨夜の説明では、マッキノン峠への岩壁が映し出されました。ガイドさんは、ポインターで凄い岩壁にトラバースルートをこともなげになぞり、ここからこうと険しい山の方を指し示しました。みんなが「えっ、あんなとこ!」と叫ぶと、「本当はここを」と、リーズナブルなルートを教えてくれたので安心しました。
また、最終日の前夜には、トレッキングの最終地点から、船で町に出るのですと言ってスライドを映しました。ミルフォード・サウンド観光に、たまたま立ち寄った、素敵な外航豪華船が映っています。みんな息を呑みました。
ガイドさんは、一呼吸おいて、われわれが乗るのはこれだと、海面に豆粒のように映った別のハシケのような船を指したのです。

この日は、出発前から猛烈な雨が降っていました。
この辺りの岩は固い片麻岩のようです。川には澄んだ水が流れています。
植生に関しては、日本との共通性は薄いようです。ゴンドワナ大陸が分離したのは約2億年前で、その頃の共通の祖先から、別々に進化してきているのでしょう。まったく同じに見えたのは、ミズゴケだけでした。

先日、日本のテレビのクイズ番組「クイズ日本人の質問」で見たランス・ウッドがあちこちで目に入りました。若い木、背の低い木では、葉がランス、つまり槍のように細く尖り斜め下を向いています。そして、背が高くなると、カシに似た薄くて広い葉をつけた普通の木になるのです。
クイズの解説では、人間に絶滅させられたモアという飛べない鳥がこの木を好んで食べるので、その鳥の首が伸びる3mに達するまでは、萎れて美味しくないぞと見せかけるためということでした。
現地のガイドさんも、同じ説明をしました。
私は幼木から成木へ変化してゆく様子を、ビデオに撮ろうと思って目を走らせました。幼木は、それこそ、いくらでもありました。でも、成木はなかなか見つからないのです。成木になる前に、樹木たちの間の競争で枯れ、消えてしまうようでした。この木に限らず、成人して子孫を残すことの難しさは、人間世界の常識と遙かにかけ離れたものであると思わざるを得ませんでした。
後日、ある植物の本で、ランス・ウッドは約20年経つと広い葉に変わるのだと書いてありました。要するに、あまり3mという高さとは関係ないようでした。
世の中で、もっともらしくもてはやされる地元の人の昔話など、必ずしも当てにならないとも思ったのです。
これも後日、オークランドの博物館で、モアという飛べない鳥の復元された姿を見ました。モアにも大小各種あったようで、展示されていたのはジャイアント・モアでした。
私は、飛べない大きな鳥として、駝鳥をイメージしていたのですが、ここの剥製では、足の筋肉がリュウリュウと太く、むしろサラブレッドの後ろ足に首を付けたような姿でした。

道はだんだんに傾斜がきつくなり、ジグザグで昇るようになりました。そして森林限界を超えると、猛烈な風雨になりました。草原状になった、このミルフォード・トラックの看板ともいうべきマッキノン峠は、吹きすさぶ霧の中でした。記念碑から最高点を越え、峠の小屋までゆく間は、ときどき立ち止まらずにはいられないほど強い風が吹きました。
昼食後、この小屋を出てから、今日の泊まりクインティン・ロッジまでの下りは、約3時間、抜きもせず抜かれもせず、一方交通ですからすれ違う人もなく、たった一人で激しい雨の中をひたすら歩きました。
小屋に着いてオレンジジュースを差し出されたとき、本当は熱い飲み物が欲しかったのです。すっかり着替え、熱いシャワーを浴びて生き返り、次々と到着する仲間に、ご苦労様と声を掛けて迎える気持ちは最高でした。
乾燥室は濡れた服で超満員でした。それでも靴下までよく乾いたのです。

食堂に入った途端、なんて明るい部屋だろうと感じました。天井の一部がガラス張りになっているうえ、壁も明るい色で仕上げてあるのです。
小屋の周りは素敵な景色のはずで、こんな造りの建物になっているのでしょう。
しかしガラスの天窓は、今日は激しく叩く雨足と,勢いよく流れる雨水を見せる役を勤めていました。
こんな中で、ビールを飲みながら、本棚から本を取りだして読むのは至福の時間でした。
ちなみに、ビールのお代は、ツアー終了後、まとめて支払えばよいのです。

2段ベッドが2つ、4人部屋でした。
同室者のひとりは、ピーターという名のオーストラリア人でした。彼はハンガリーのブダペストの生まれで、1956年、彼が22才のときソ連が侵攻してきたため、オーストラリアへ逃れてきたのだそうです。
そのとき私はアメリカのスケネクタディという田舎町にいました。まだ独身、26才でした。
そんな町にも、逃げてきたハンガリー人の受け入れを割り当てられました。私の友人が、女の子を2人連れた夫婦を世話したので、よく覚えているのです。突然降って湧いたことですから、難民家族は一人も英語は分からないのです。奥さんが一番早く英語を覚えてゆきました。
アメリカという国は彼らに部屋を与え、ガソリンスタンドの仕事を世話しました。いろいろ意見はあるでしょうが、今でも私には、困った人に温かく手を差し伸べる、こんなアメリカ人たちを、自分のことしか考えない日本人よりも好きなところがあるのです。
ピーターは、1990年、冷戦が終わってから、2度、ハンガリーを訪ねたそうです。
私も、一昨年ブダペストを訪ねています。
そんなわけで、不自由な言葉ながら、お互い人生の接点がありますから、内容のある話をすることができました。彼はこのミルフォード・トラックに、同じ時にハンガリーを脱出した友人と一緒に来ているのです。
ピーターも私も、お互いに、自分の人生はこうだったと宣言しても、今後、追加する項目は多くない年令です。
こんな経験ができたのも、何かの縁でしょう。

・二億年前に別れし草花よ
・行く先の雲間の峠雪を置く
・フィヨルドより北風パスを駆け登る、
・山小屋に解せぬ外語のガイドかな
・氷雨の日ホットシャワーを得たる幸

第4日目は、21km、6〜8時間のコースです。距離は長いのですが、全体的に下りですから、特別厳しいわけではありません。
昨日の雨の降りかたは凄いものでした。夜も降り通し、今日も朝から猛烈な降りで、例のガラスの天井を水がザーザー流れているのでした。
この辺りは、年間の降雨量が6000ミリだそうです。日本の平均が1800ミリですから、4倍近くも降るのです。
もうやけくそで、「雨が降らない日があったことを、幸せとするか」など言い合ったのでした。その6000ミリの雨量の一部を、私たちも確実に分担させて貰ったわけです。
普通の野外活動でしたら、当然日延べするでしょう。でも、ここは、もう次の日は次のトレッカーたちが歩き、泊まることになっているのです。
土砂降りの中に歩き出しました。ところどころ道が池になっています。小川が氾濫し、ジャボジャボ渡るより仕方ないところもありました。
名のある滝は、それこそ地響きを立てて地球を叩きつけていました。
川と川との合流点は、これもまるで白馬が狂い廻り、群舞しているようです。
こんな荒々しい水の狂乱劇を見られるのは、人生でこのときだけに違いなかろうと楽しんだのです。
そんな瀑布のひとつマッカイ滝が、腹に響く轟音を立てている近くにベル・ロックがあります。外見は直径10mほどの、変哲もない岩ですが、下に潜ってみると中が空洞になり、まるで鈴を地面にかぶせたようになっています。ベル・ロックと呼ばれる由縁であります。この岩が、かって上向きだった頃、岩の塊が水流の勢いで回転しながら穴を掘り、それがまた何かの具合で、現位置に伏せたように落ち着いたものなの
です。

・六千ミリの雨よ滝よ轟けり、

ニュージーランドの植生といえば、シダ類が有名です。
ニュージーランド航空の尾翼に画かれた会社のマークは、シダをデフォルメしたものです。
マッキノン峠から北では、一層、大小いろいろのシダ類が豊富になります。
言葉が分からなくてと、ぼやいていましたら、アメリカのおばさまが「私たちはシダをファーンと発音するが、ここではフューンというものね、私たちも分かり難いのよ」と同情してくれました。
でも、なんといっても英語は英語ですから、英語圏の連中はジョークにもよく反応し、私を羨ましがらせてくれました。
15時、とうとう54kmのミルフォード・トラックを歩き終わりました。
さすがに最後の日の午後、雲が破れて日の光が落ちてきた瞬間もありました。でも、雨はとうとう止みませんでした。

終点はサンド・フライ・ポイントという名の場所で、船着き場になっています。
サンド・フライというのは、ブヨのことです。確かに、砂粒のように小さな蝿という表現は、当たっています。
ミルフォード・トラックについてのどんな案内書にも、ブヨ対策について書かれています。
旅行開始前夜の説明会でも、動いていればよいが、カメラのシャッターを押すときなど、止まると刺される。刺されると大変に痒い。虫除けの薬を塗るのがよい。朝出発時に塗ると、一日持つのと、昼食時に追加して塗らないと防げないのがある。そして、もしも刺されてしまったら、かゆみ止めを塗るのが有効だ。日本のブヨと違うから、「ムヒ」を持ってきていても効かない。薬は階下の売店で売っている。そんな警告がありました。
私は過去の海外旅行にブヨ対策をとるように言われ、用意していったことが何回かありました。でも、実際に襲われたことはなかったのです。むしろ、アブにはかなり頻繁にやられた経験があります。そんなことから、刺されたって、死ぬことはあるまいなど勝手に決め込み、なにも買いませんでした。
ところが今回は、トレッキング開始から、終了した翌日のミルフォード・サウンドの観光船まで、間断なくブヨの襲撃を受けました。
前述した、トレッキング中の宿で行われた翌日の行程の説明会のあいだじゅう、ガイドさんたちは話をしながら、スラッとした脚や腕を襲うブヨを叩き続けていました。
その様子はあまりに自然に見え、私が子供の頃、身近にいた牛や馬が、なかば習慣的に、虻除けに尻尾を絶え間なく揺らしているのを思い出したのでした。
結局、点数としてはかなりの数、ブヨに刺されました。でも、ダメージはひどくありませんでした。むしろ、ミルフォードではない、よその所でなにかに刺されて、空港で痒い思いをしました。難行苦行のときは、痒がってなんか居られないのかもしれません。
こんなことを書くと営業妨害になるかも知れませんが、ある小母さんが「効かないわよ。塗ったすぐあとに、上を歩いてたもの」と言っておられました。
自然自然と騒ぎ立てる反面、自然の営みを憎み、抗菌仕様の器具に殺到する人たちに、ミルフォード・トラックは良い薬かも知れません。

翌日は有名なミルフォード・サウンドの観光船に乗りました。
この地域は、15000年前に、2000mの厚さの氷に覆われていたと書いた本がありました。200万年前と書いた本もありました。どちらがどうなのか、私にはこの地方については、まったく常識が働かないのです。
ともかく、一切の窪みは、氷河によって削られた、U字谷になっています。
昨日まで、ミルフォード・トラックではその谷の底を歩いてきたのです。そうして今日観光するミルフォード・サウンドは、その底に海水が進入してきているのです。
海面からいきなり標高1600mの鋭峰マイター・ピークが雪を戴き、そそり立っています。写真で見たとおりフィヨルドの象徴的な景色で、感激しました。
入り江の岩壁の上は雪の世界です。雪が融けて、直接落ちる水は細い滝になっています。また、途中にそれらをまとめる湖があれば、太い滝が堂々と海へ落ち、水煙を沸き立てています。まさに、絶景であります。
ここの観光は自分の足で歩くのと違って、料金を払い、船に乗っていればすむのですから、世界中から観光客が訪れています。
中国語のパンフレットを拾ってきました。「米爾福徳峡湾紅舟巡遊船隊」が、ミルフォード・サウンド クルーズ レッド ボートのことのようです。
この南島の南西部には、こんな氷河によって造られた入り江が、14箇所もあるのだそうです。

・フィヨルドの海に滝落つズッシンと
・フィヨルドの滝ドボドボと海に入る

●マウント・クック
朝7時、クイーンズタウンでバスに乗り、正午前にマウントクック村で降りました。
両方ともユースホステルの玄関前でした。ユースホステルでは切符の手配、遊覧飛行などアクティビティの予約なども総てやってくれます。
ここのマウントクックのユースホステルでは、日本山岳会会員であり、大学の講師をしておられるご夫婦とご一緒しました。
今度の旅をとおして、少なくともニュージーランドでは、ユースホステルは一人前の宿泊設備として認知されていることを感じました。
すぐにチェックインし、明日もう一泊したいのだがと、申し入れました。
ところが、今日はいいが明日は満杯で泊まれないとの返事でした。
これには正直のところ、ちょっとうろたえました。
「そこを何とか」とか「キャンセル待ちでも」とか「廊下の隅に寝袋ででも」というように、押して頼むことができない性格なのです。すぐに、一泊しか予約しておかなかった自分が悪いのだと、諦めてしまったのです。
どうも、私は「押しの強さ」を母の胎内に忘れてきたようなのです。そして、それを妹が2人分持って生まれてきたらしいのです。
かように申すと、妹が気を悪くするでしょうから、とりあえず男と女の性差なのだろうと訂正しておきましょう。
さて何年か前に、オーストラリアで宿探しに困ったことがありました。その時は夏の終わり、週末の海水浴場のことでした。だからなんとなく、あれは例外的な特殊事情だったと心の中で思っていたのでしょう。
実際、私のように、どこで寝ても平気といった旅行スタイルでは、ほとんどの場合、宿はなんとでもなる感じなのです。
レンタカー、登山というように、天候、道路条件など外的条件の影響を受けやすい旅では、途中で何が起こるか分かりませんから、どうしても交通手段や宿泊に自由度を持っていたいのです。でも、そうすると、あぶれる危険性も、ついて廻ります。
今回も、飛行機に乗る前夜の泊まりだけは、事実上決定しているわけですから予約していました。でも、そのほかの宿は、せいぜい2〜3日前に、適当に予約しながら旅していたのです。
このクック村は、村といっても実際はハーミテイジという会社がホテル、モーテルなど全部押さえていて、いずれも大変に高価だというのが定説になっているのです。ハーミテイジの従業員ですら、ちょっとした買い物は、外へ出たときに済ませてきますと書いているのを読んだことがありました。
その中で、ユースホステルだけが、例外的に営業を許されているらしいのです。
ユースのカウンターで、ほかに何か方法はないかと聞きました。
すると、なんでも3キロほど歩いていけば、ウニャウニャ小屋、そう聞こえたのです、が一軒あるとのことでした。料金はと聞くと、ここと同じぐらいだけれども、設備は全然違うよ、というのです。
その窓口の若い娘さんは、3kmをとんでもなく遠い距離と思っているような口振りでした。私にとっては3kmはそんな大した距離には思えませんが、荷物はかなり重いのです。
どうやってゆけばいいかと聞くと「ヒッチハイクでもしたらどう?」と教えてくれたのです。まさか、こんな汚い爺いではとても無理なことだ、暗い気持ちになってしまいました。

でも、こんな暗い気持ちを経験しておけば、今後、謡曲の「鉢の木」を、今までよりも感情をこめて謡えるようになるだろうと、やせ我慢して考えてみたのです。
謡曲「鉢の木」では、時は鎌倉時代、北条時頼が下情視察のため、僧侶の姿となり一人で諸国を回ります。
大雪の日の夕方、群馬県高崎市の佐野の渡りで、一軒の家に泊めてくれるように頼みます。主人は、こんな粗末な家ではお泊めできませんと断り、追い出します。
主人の妻は、お泊めしてこそ来世での極楽につながりましょうにと進言します。主人は追いかけ、降る雪の中で行く先も分からずに立ちすくんでいる僧を家へ連れてきます。
さて、夕食といっても米がないので、粗末な粟を炊いて出します。また、夜が津々と更け、寒さが襲ってきても薪がないのです。ついに、秘蔵に残していた梅、櫻、松の鉢の木(盆栽)を、イロリで燃やしてもてなしたのです。
後日、時頼は主人に、あの夜のもてなしは、とても忘れられないと礼を言い、3本の盆栽にちなんで、加賀の梅田、越中の櫻井、上野の松井田と3箇所の土地を与えたのです。
このフィクションのなかで、北条時頼もやはり、営業成績トップをとるセールスマンのような、押しの利く性格には画かれていないのです。

さて、行ってみると、小屋は、ニュージーランド山岳会の山小屋でした。
教えてくれたユースの若いお姉さんの発音が、どうしても真似できなかったので、紙に書いてもらいました。それはUAWIAと見え、とても発音しにくかったのです。ところが、実際、小屋に行ってみて、UNWIN小屋であることが分かりました。
アンウィン小屋なら、発音しやすいですね。アンウィンというのは、ニュージーランド山岳会カンタベリー支部の初代支部長さんの名前でした。
確かに設備、売店はユースほど整ってはいません。でも、簡素かつ清潔で、私好みの小屋でした。
宿帳を繰ってみましたら、日本からもマウント・クックを目指す本格的な登山隊などが訪れていることが分かりました。また、本棚を眺めていると、日本の高名な登山家から寄贈された、深田久弥著の日本百名山の本が目に入りました。
次の日は午前中、車輪とスキーのついた飛行機で、ニュージーランド最高峰マウントクック(3754m)の周りを飛び回り、雪原に着陸したりして観光に過ごしたあと、この山荘で読書三昧の午後を過ごしました。
ガラス張りの広い窓一杯に、氷河を従えたマウント・セフトン(3157m)が見えるのです。

こうして読んでいたのが、ハイネの詩集だったりしたらぴったりなのでしょうが、実は、江戸時代の法治事情だったのです。法律を運用する幕藩の役人たちの真面目さや、地区の寺々が檀家を抱え、区役所の住民課の役を勤めていたことなど、面白く読みました。

どこへ行っても、明るいうちは、ごそごそ動き回っているイメージの私にこんな面があるとは、意外に思われるに違いありません。
でも、この際は賢明にも、今度の旅の前半に歩いたミルフォード・トラックと、後半に予定している北島の登山の間の骨休みに充てたたのです。

・白き山白き雲ありこの読書
・大窓に雪嶺のある読書かな
・外国のソファに胡座し寧らけし
・雪嶺を終日眺め読書かな

このマウントクックのユースホステルは、部屋や廊下の壁に、木の肌が見えるように建てられた感じの良い建物でした。トイレの壁も木の肌でした。当然、落書きのオンパレードです。
でも、場所柄でしょう、下品なのは見当たらず、ほとんどが自分の名前のようでした。意味もありませんし面倒ですから、そんなものを、いちいち読むわけはありませんが、
大体はいわゆるアルファベットでした。そしてその中に、お隣の国の、人類が発明したなかで、もっとも合理的だと誇る例の文字が目立っていました。
それを見て、場所が場所ですから、アルファベットを使っている国は、書いたのがスペイン人かイタリア人か分からないのですから、恥さらしをしなくて済むわけで、幸せなことだなと思いました。
お陰様で日本のは見当たらないようでした。でも、幾つか目の壁には、日本人と大書したのが見つかりました。
要するに、あまり民族には関係なく、人口の何パーセントかは、こういう国威発揚型の人がいるのでしょう。

・U字谷雪のクックのそそり立つ
・クック嶺に虹掛かりたる寒さかな
・氷河湖の氷わが家の犬の顔
・離陸への呻りは高し雪上機
・岩壁の前に胡麻粒遊覧機
・一日中クック山見る旅なりし

●イングランド人
ニュージーランドは、第二次世界大戦まで、良くも悪くも「南洋のイギリス」を目指していました。現在は、もちろん独立国であります。しかし、英国女王を国家元首と戴く英国連邦の一員であります。
今回の旅行で、はっきりイングランド人を名乗る人に、2人会いました。

ひとりは私より少し若いぐらいの、品の良い紳士っぽい人でした。
マウントクック村で、レッドターンからセバストポールという山へ向かっていたときのことです。ミルフォードトラックと前日のフッカー谷トレックで疲れ、とぼとぼ歩いている私を、すいすいと追い抜いてゆきました。
その日の午後、バスに4時間ほど乗り、夕方、クライストチャーチに移動し、ユースホステルにチェックインしました。
クライストチャーチは大都市で、ユースホステルも167人収容の大きなものです。
ユースの受付は、一流ホテルのように、流れるようにはいきません。素人っぽいのが、さばいているのです。このときも、ちょっとした列ができていました。その日の朝、山道で私を追い抜いて行った紳士が,私の後ろに並びました。
そのうち、もうひとり受付のお兄さんがきて、受付を始めました。みんな、そちらへドット押し掛けました。私の後ろにいたかの紳士は、やはりそちらへ流れました。私は要領が悪いので、以前の列のままに並んでいました。
かの紳士は、自分の受付の番がくると、私に、お前のほうが前から並んでいたんだから、自分の前に入れと言ってくれるのです。
でも、私は急ぐわけでもありませんし、他人を喜ばせて上げたいようなムードの日だったので「どうぞ、お先に」と譲りました。
さてキーを受け取り部屋にはいると、かの紳士がいました。同室だったのです。それで、お互い今日の昼間に登った山や、次の日の話をしたのでした。
私はミルフォードトラックに行ったと話したのです。すると彼は、えっ、えっというように聞き返し、自分で Milford Track と言い直してから話に入るのです。多分、私の話す i や L がイングランド語と違うのでしょう。
私たちならば、たとえばアメリカ人と話すときに、彼らが彼ら流に、頭にアクセントを置いた「Tokyo」と言っても、私たちは日本流のフラットな発音の「東京」と言い直したりしないじゃありませんか。
なにかちょっと、こだわりのジェントルマンでした。

もうひとりのイングランド人には、ニュープリムスのユースホステルで会ったのでした。
この宿のおばさんはとても快活な人でした。私がエグモント山に登るつもりだと聞いて、夕食後、エグモント・ケーキを焼いてくれました。山の格好に焼いたチョコレートケーキの頭に、雪に見立ててシュガーを流したケーキでした。
彼女はソファで本を読んでいる若者に「あんた、今日エグモントに登ってきたんでしょう。シゲトオが明日登ると言ってるから教えて上げなさいよ」と水を向けてくれたのです。
その若者が、イングランド人だったのです。
登山の話題ですから「頂上付近の氷河の状態はどんなでした?」と聞いてみました。
そのお兄さんは、グレイシャー(氷河)のことをグライシャーと発音するのです。それだけでなく、全体に今までに聞いたことがないような言葉なのです。
彼の言葉は、オーストラリア、ニュージーランドで話されている英語、つまりオーケイをオーカイ、サンデイをサンダイ、テーブルをタイブルという、エイをアイと発音する流儀なのです。
本来、言葉は相対的もので、標準語とか方言といっても、どれが正しいというのは、単なる決め事だけの話です。
イギリス人がオーストラリア、ニュージーランへ進出した最初の頃、ロンドン市のうちでも訛の強い地区からきた人たちが多かったので、そんな言葉になったのだという説を聞いたことがありました。そういうわけで、その夜の若者の言葉を聞きながら、とっさにこれが元祖オーストラリア英語なのだろうと思ったのでした。
以前、文芸春秋のエッセイで、下記のような意見を読んだ記憶があります。
「英国は今でも階級社会であって、ケンブリッジ、オックスフォード出身者は、話す言葉からしてそれらしいものである。そして、ある人が話す言葉を聞くと、ロンドン市の中でも、どの辺りに住んでいるのかが、すぐに分かってしまう。某有名サッカー選手の英語なんかひどいものだ」。
この意見が当たっているかどうか知りませんが、このニュープリムスで出会った若者も、なにか他人と話したがらずに、ひたすら本を読んでいました。


●プロペラ機でロトルアへ
南島のクライストチャーチから、北島のロトルアまで飛行機で渡りました。
直線距離で750kmほどです。これぐらいの距離ですから、A T R 72というプロペラ機でした。巡航条件は、高度7000m、時速560kmとのことでした。ターボプロップですから振動もなく、地表が近くに見えて楽しい旅でした。
ロトルアは別府市と姉妹都市になっている温泉町です。
空港でレンタカーを借りました。予約してあったのに、デスクには誰もいません。案内に聞くと、電話しろと言うのです。言われたとおりにすると、相手は受話器を取るやいなや、こちらが何も言わない前に、分かったすぐゆくというのです。空港のどこかで油を売りすぎていたのでしょう。
現れたのは暢気な小母さんで、後日、私がオークランドで車を返すときの手続きを聞いても、オークランドに入ったら事務所に電話して聞きな、といった調子でした。

ロトルアでは、まず、レインボーファームという観光牧場にゆき、羊の毛を刈るのを見物しました。
観覧席は言語別に座り、イヤホンを使って自国語で聞くことができるようになっています。日本、韓国、中国で半分強を占めているようでした。
ショウは掛け合い方式でした。日本人は特別に恥ずかしがり屋で、自分から手を挙げることなどないことを承知の上で組まれていて、それにも興味深いものがありました。
ここで一番感心したのは、人間の手先になって羊たちをマネージする、犬の活躍でした。走る速さ、柵を飛び越える身軽さ、羊の行動の先読みなど、じつに素晴らしいと思いました。
猿に椰子の木に登らせ実を獲らせる、イルカに機雷を探させるなど、人間よりも優れた運動能力を利用しようという試みはありますが、羊飼いの犬ほど成功し、定着しているのはないのではないでしょうか。
前の日、南島のテカポという湖の岸に、犬の銅像が立っていました。埋め込まれた銅板には、今の我が国の繁栄は、このコリー犬たちのお陰だ、と書いてありました。そのときは、あまり気に留めなかったのですが、実際の活躍を見て成る程と納得しました。
コリー犬はイギリス原産で、牧羊犬として改良に改良を加えられた犬だそうです。

ここの牧場のコリー犬も大変賢く、私がどの程度カシコクない人間であるかをすぐに見抜き、首を絡ますようにして歓迎してくれました。その瞬間、ピカッとフラッシュが光り、写った写真を買わされる羽目になりました。
小生、なんか、目尻を下げて写っていますが、あまり後悔はしていないのです。まったく賢い犬ですよ、コリーって。

このロトルアの町では、ガイザーという間欠泉が案内書に出ていました。地図がはっきりしないので、白い蒸気が立ち上っているのを目印に車を走らせました。
大きな駐車場に沢山駐車してありましたから、入園料を払って入場しました。でもここでは、お目当てのガイザーは、遠くに見えるだけでした。そして、どうもここの遊園は、日本でいう地獄巡りが看板のようだったのです。
その後、大部苦労して、結局、ガイザーには行き着きました。外国の一人旅だと、どうしてもこういうところで、費用と時間のロスが出てしまいます。

・若草や豚の母さん子沢山

●ワイラケイ地熱発電所
この日はタウポという、これも温泉町まで、75kmのドライブでした。
途中、地熱発電所があり、これは日本を出るときから、一度は見たいと思っていました。
資料がなく、行き当たりバッタリの見物でしたから、随分時間を食いました。
結局、発電所はワイラケイ15万7千kwとオハアキ11万6千kwの2箇所ありました。それで全国の発電量の4〜5%を分担しているようです。
私が電力事業に入った頃、地熱発電所は世界中でイタリアのラルデレロの1箇所だけでした。それは30万kwほどで、地面の下から蒸気が出てくるのを使っていました。
資源のない日本にとって、羨ましい発電所でした。
でも、日本のみならず、大抵の所では、地面を掘ると、蒸気と熱湯の混合したものが出てくるのです。タービンに熱湯が入れば、壊れてしまいます。それだけでなくて、パイプの中を、気体と液体の混合物を流すだけでも、技術的に大変難しいことなのです。
入社してから5年経った1958年、ニュージーランドで地熱発電が成功したというニュースが入ってきました。そして、そこでは蒸気と熱湯が出てくるのを、分離して、蒸気だけをタービンに導いて発電できることを実証したのでした。
ニュージーランドでの成功の報に接し、これなら日本でも出来ると、色めき立ったのを覚えています。後年、研究所に勤務したとき、地熱発電に適した土地を探す仕事に従事しましたが、中部地方では日の目を見ませんでした。
ここワイラケイの案内所の資料で、このタイプの地熱発電所が、世界中あちこちにできたことを知りました。
自然エネルギー利用を良しとする立場から、地熱発電を地球に優しいなどと思っている人は多いと思います。
同じ自然エネルギーでも、現在、実際に役に立っている水力発電は、ダム、河川水利用の点で、環境破壊の部類として取りあげられているようです。
それに反して、とても戦力になるほどは作られていない風力、太陽光、地熱などは、まだ、観念の世界の殻の中にあるのですから、何とでも想像できるわけです。
ともかく、一回はここニュージーランドへ来て、石油化学プラントにあるような、銀色に光り、縦横無尽に走り回る、何本もの太いパイプラインを見てみてから、ものを言うべきだろうと思ったことでした。

もともと、ここのタウポ湖は、面積619平方キロ、琵琶湖とほぼ同じ大きさです。
それが、A D186年に噴火した火山の、カルデラ湖なのです。落ち込む前に、地底から噴出させた火山灰、溶岩の体積は60〜100立方kmといわれ、ベスビオス火山の20〜30倍、セントヘレナ火山の60〜100倍という、膨大なものだったのです。それなのに、ここの地熱発電能力の合計は25万kw、原子力発電所1台分の五分の一の電気しか出てこないのです。

2つの発電所の名前のうち、ワイラケイは地名です。もうひとつのオハアケは原住民マオリ族の頭の名前であります。
発電所の説明書には、マオリのオハアケ王がこの土地を提供してくれたと記載してあります。
この発電所の看板はほんの一例で、ニュージーランドの各所で、大変、先住民マオリ族に気を遣っているのに、気づきました。
ニュージーランドへ、17世紀にきたヨーロッパ人にとっては、300年前の14世紀に渡ってきたとするマオリは先住民であります。でも、マオリがこの地に渡ってきたときには、さらに600年前、8世紀頃に渡ってきた先住民が住んでいたのです。
オークランドの博物館の資料では、さらにその前、B C 200年頃にアジアからニューギニアを経由して人類が入ってきていたと書いてありました。
オーストラリアへ人類が渡ってきたのが5〜6万年前という説を信じれば、ニュージーランドへも、もっと古くから人類が入ってきていた可能性は高いと私は推測するのです。
人類の歴史では、こんなことの繰り返しです。そして、ある時点から、新しい土地を発見し、移民する行為を、侵略と呼ぶことになったわけです。
1840年、マオリと英国との間で、ワイタンギ条約が結ばれました。
そのとき、権利の譲渡を決める文言が、英語版では総てを含む「主権」となっていますが、主権の内容を表わす言葉がマオリ語にはなかったのです。そこで、マオリ語版の契約書では「監督、統制」を意味するカワナリンガという字句を使ってあるのだそうです。マオリ側は、土地を所有するのは自分だと思っているわけです。当然、行き違いが何度も顕在化しました。
さはさりながら、いつまでも理屈なんか捏ねずに、ある時点での先住民族に、ことあるごとに感謝の念を表し,補償するニュージーランドは、賢明な道をとっているといえましょう。イスラエル、パレスチナのようにこじれるより、遙かに悲劇は少なくて済みます。

●ルアペフ登山
ニュージーランドの最高峰、マウントクックは、標高こそ3754mと富士山とほぼ同じですが、緯度は北海道の天塩岳と同じ、相当、北なのです。気温は低く、かつ槍ヶ岳、穂高岳と似た岩稜からなる厳しい山容です。とても老人の手には合いません。
せめてのことに、北島の最高峰、ルアペフ山(2796m)に登りにゆきました。
北島の山は、ほとんどすべて火山だといえましょう。ルアペフも1990年噴火しました。頂上付近は立入禁止であります。
素敵なホテルのあるファカパパという観光基地から、さらに道路の終点まで車で入ります。
そこは、スキー場のリフトの乗り場なのです。リフトを2本乗り継いで降り立ったところは、もう標高2200mほどです。
かなり大きな岩がゴロゴロした稜線を登ると、リフトの小屋があります。この間は、ルートといった定まったものはないと同然であります。
私が行ったときは、そのすぐ上からは、ずっと雪の詰まった谷になりました。頂上のクレーターに出てからは、見通しが利きましたので、5人の登山者を見ましたが、この雪渓登りの間は、まったく人ひとり見ませんでしたし、トレースも最近のものはありませんでした。
キックステップで、雪を蹴り込んで登る体力はありません。雪の登りの最初からあっさり、用意した軽アイゼンをつけました。
地図、情報のない登山ですから、雪渓登りの最後の頃は、目の前に続くこのスロープを登って見渡し、もし、その上が変だったら撤退しようと思い続けていました。でも、かといって登れないわけでもないので、ノロノロと登っていました。
頂上には大きな火山湖があり、雪が一杯詰まっていました。そして地熱の高いところだけ雪が解けていました。

・夏にして雪神々しルアペフは
・とぼとぼと雪渓をゆく吾が心
・雪渓や今年また吾衰えし
・老いの山一目散に尻セード

下りのリフトでは、精神的な余裕から、ここをスキー場として眺めました。日本の常識から見れば、大きな岩がゴロゴロしていて、滑るところがあるのかしらと思えるほどでした。よほど沢山雪が積もって岩を隠すものなのでしょうか。

47年前、アメリカでバーモントのスキー場にゆきました。そのとき、森の中の細くて急な斜面に出会いました。日本では見たこともない厳しいコースだなと思いました。
自然保護の考えが、今とはまったく違う時代でした。今の日本でしたら、自然を活かしたとか、自然に優しいとかいうのでしょう。でも、基本的に、必要最小限のコースだけは造るよ、でもあとは、なにもスキーにこなくてもよいし、難しいところを滑って貰う必要はない。自分の技量を考えて自分の責任で滑りなさい、そういった思想であったろうと思います。

オーストリアのインスブルックでは、リフトの頂上駅の看板に、ルートの危険性を警告した掲示があり、最も危険なコースでは、何年度には何人死んだと表示がありました。このときも、海外の厳しい自己責任を感じました。
それに反して、日本では、なにかあるとスキー場側が安全管理責任を責められることになります。その結果、まるで舗装道路のようなゲレンデばかりになっているのです。
近頃の若い人は真綿にくるまって育てられているから、と嘆きの言葉を投げかけても、今度はその真綿と言う言葉を解説しなくては意味が分かってもらえない時代になっているのです。
ルアペフ山のスキー場で、衝突すればタダでは済まない岩を見ながら、現役を退いてから、しきりに地球を彷徨う自分の来し方行く末を思ったのでした。

・ビール酌む一つの山を終りけり
・富士山の妹山や時雨来る
・外国の宿に半月眺む秋
・春寒や慰め難き話かな

●トンガリロクロッシング、
車でルアペフ山の登山口から少し下ると、もう雨に巻き込まれました。
50kmほど走り、今夜泊まるツランギのユースホステルにチェックインしました。
昨夜この宿を予約したタウポのユースホステルから連絡が入っていたのでしょうか、先方から次の日にトンガリロクロッシングへ行くのだなと話が出ました。私は「なにせ、天気が良くなさそうだから」とボヤキました。すると受付の女の子は「予報なんか信じなさんな。もう、もう3日も雨が降ると言い続けてるけど、この天気見てよ」というのです。たしかに、ここは日が照っていました。
このポジティブ思考のお陰で、トンガリロクロッシングと呼ぶトレッキングも楽しむことができました。
トンガリロは、前日登ったルアペフ火山の北の火山群です。このあたり一帯は火山地帯ですから,赤く焼けただれた噴火口や、エメラルド色の火口湖などを縫って歩くのです。17kmを1日で歩く多少ハードですが、ニュージーランドで人気のトレッキングコースなのです。
この日、バスが6台ほど入っていましたから、200人ほどでしょうか。
歩く方向はどちらでもよいのですが、殆どの人は標高差が少しでも下りになる方向を選んでいます。
朝、8時過ぎ、登山口標高1100mから歩き出しました。そして、12時少し前、最高点のレッドクレーター1985mに着きました。
トレッカーたちは若い人ばかりで、私は飛び抜けた高齢者でした。おまけに前日、雪のルアペフに登っているのです。持ち前のスローペースはさらに遅く、ここまでの登り道では、ダントツならぬダンビリでした。
後半は長い長い下りでしたが、下山口標高850mに着いたのは15時、登りと違って、今度はトップから三分の一あたりでゴールしました。なにも私が快速なのではなくて、ユックリ座って休むような話し相手のない単独行者が早いのは普通のことなのです。
下山口でバスを待っている間に、もう雨が降り始めました。
雨は、約1日降り続いていましたから、ここではとてもラッキーだったといえます。

・忽ちの霧間に赤き噴火口
・遙かゆく色とりどりの登山者ら
・秋天下見下ろす湖はエメラルド

●そしてエグモント
6時にニュープリムスのユースホステルを出ました。まだ、夏時間でしたから真っ暗でした。7時過ぎに、冷たい霧が吹き付けている登山口の駐車場に車を置き、歩き始めました。私一人でした。夕方は8時ごろまで明るいので、こちらの山屋さんたちの朝の出発は遅いようです。
強い風に霧が流れ、樹々がごうごうと鳴っていました。
1時間弱登り、森林限界を抜けましたら、猛烈な風で動けなくなりました。細い火山灰の尾根道がとても危なく思われたのです。
台風じゃなければ、強い風はそんなに長い時間続くものではありません。
すこし下がった風の弱いところで、来月、仕舞の地謡をやることになっている「敦盛」「えびら」などの暗記をやっていました。
約1時間後、また登ってみました。風は相変わらずで、ちっとも衰えてなんかいませんでした。
昔、北海道の羊蹄山で、強風にあったことがありました。気分はまるで、ジェット機の翼の上にいるようでした。そのときに独立峰における風の強さを、骨身に沁みて感じたのでした。
折角のエグモント山ですが諦めて降り、遭難碑の写真を撮ろうと思って振り向きました。なんと、富士山によく似た山容のエグモント山が見えているではありませんか。
あと半日も待てば登れる状況になるだろうにと、後ろ髪を引かれる思いで、そこを立ち去りました。
先刻述べましたように、北島では太平洋プレートが沈み込んでいます。その境界面が東のルアペフ、トンガリロでは地下75km、このエグモントでは200kmだそうであります。エグモントでは地下のマグマが途中の地殻を長時間溶かし込みながら上がってくるので溶岩が粘っこくなり、富士山型になるのかしらなど考えました。

・エグモント一会の山に振られけり
・野分して一期一会の山断念

●ドライバーたち
レンタカーを借りて自分で運転すると、その国の人たちの運転の態度、ひいては生活のルールが分かるような気がするのです。
そもそも、私が今まで訪ねた国で、自分で運転したくないと思うのは、インドと中国の重慶です。
インドでは、人間以外の動物たちも、道路に対して、それ相応の権利を持っているかのようで、理解しがたいルールでごちゃごちゃと溢れているからです。
また、重慶では、ともかく厚かましい者でなければ、通行権が得られないルールのように思われるからです。

そんな中で、先年オーストラリアでは、アングロサクソンの規律と遵法に目を見張らせられました。
ニュージーランドでも、アングロサクソン流のルールが色濃く出ているのでした。
大まかにいえば、ほとんどの場所は、時速100キロ、街に近づくと70キロ、街に入ると50キロという速度が表示してあります。
それを見事に守っているというのが印象です。
一番強く感じたのは、道路工事をしているところでした。相当前から30キロ表示が出ています。
こんな場合日本でしたら、これは工事のため働いている人がいる、あるいは道路が凸凹になっている、だから速度を落とせといっているのだと解釈します。それで、差し当たり気をつけて進み、実際に工事現場に差し掛かれば、それなりにスピードを落とすのです。
それに反して、ニュージーランドでは、現実に工事が行われていようがいまいが、なにはともあれ、表示が30キロになっているから、30キロに速度を落とすといった様子なのです。

モロッコでも、市街地に近づきスピードダウンが表示されると、まさにスピードを落とします。でも、モロッコでは本当に村ごとに警官がいて、身分証明書だ、積み荷だと、チェックするのです。とてもスピード違反などできる雰囲気ではありません。毎日が「事故ゼロの日」といった様子でありました。

日本には日本のやり方があります。国によって歴史があり、事情がありで、軽々に正邪を論ずるべきではないでしょう。
自分は、子供の学校の先生に付け届けをするけれども、マスコミのやり玉に挙げられた賄賂には、もっての外の行為であると眉を釣り上げるのは、ダブルスタンダードではないかというお堅い理屈があるかもしれません。でも、そこには、どこまでならマアマアという、世間に暗黙の了解があるのです。
でも、もしも日本で、全部のドライバーが本当に表示された速度を守るとしたら、一体、どんな表示になるのしらと想像してみると、興味深いものがあります。

●土ボタル
北島のワイトモというところにある洞窟で、土ボタルを見ました。
土ボタルは、英語ではグロー・ウオーム、光る芋虫といいます。ホタルのように点滅はせず、連続して光っています。
土ボタルというのは、蚊によく似た虫の幼虫で、ブルーの光りを出して、餌を誘っているのだそうです。また、土ボタルの幼虫は、獲物を捕まえるために細い糸を何本も垂らしていて、それを懐中電灯で照らして見せてくれました。
無数の細い糸が、まるでガラス細工のように輝いて神秘的でした。
卵、幼虫、さなぎ、成虫と移り変わる一生を、11ヶ月で終えますが、そのうち9が月間、幼虫として光っているのだそうです。
もちろん、洞窟の中でなくても住んでいるのですが、洞窟の中ならいつでも光っているのが見られます。観光地テアナウ始め、あちこちでも見ることができますが、ここワイトモのものが一番見事なのだそうです。
1886年、地元の人が筏で川を下り、探検に出ました。川は山にぶつかり、山腹に吸い込まれていました。きっと山の向こう側に流れ出ているに違いないと思い、洞窟に入りました。しかし、水が洞窟の天井まで支えてしまい、抜けることはできませんでした。でも、こうしてワイトモの洞窟、しかも土ボタルをとても見事に見せてくれる洞窟が発見されたのです。最初の頃は、見物したい人は泳いで見にいったといわれます。
今は歩いて入り、鍾乳洞を見学したあと、地下の川に浮かぶボートに乗ります。天井にワイヤーが張ってあり、ガイドさんはワイヤーを手で手繰ってボートを進めます。
こうすることにより、静かで、かつ虫たちの生活環境に与えるインパクトも小さくできます。
短いツアーですが、満天の星どころではなくて、天井が一面にブルーに光り、掛け値なしに神秘的、幻想的な経験をすることができます。
北島は、全体的には火山地帯ですが、このあたりは、動物の殻、骨が積もってできた大層厚い石灰岩でできています。
ここの石灰岩は、3000万年ほど前に海底に堆積したのだそうです。
最初、泥岩かと思ったぐらい、茶色っぽいのです。日本でしたら石灰岩は灰色で、白っぽかったり黒みがかっているのですが。
そしてここワイトモの鍾乳洞は、今まで見た鍾乳洞のうちで、内部が一番乾燥していました。したがって、鍾乳石、石筍はあまり発達していません。

・田舎町のスーパーに入りてみたりけり
・この国は北上すると暑くなる
・生きること悲しからずや土蛍

●海洋民族
旅の最後の日、朝一番にオークランド市の国立海洋博物館へゆきました。有り難いことに朝9時から開いているのです。
オークランドはヨットの盛んな街で、5〜6人にひとりはヨットを持っているといわれるほどです。市の中心に立つスカイタワーの186mの展望台から港を見下ろすと、広いヨットハーバーを、ごま粒のようにヨットが埋め尽くしています。
日本の半分ほどもある大きな北島が、ここオークランドで、西のタスマン海、東の太平洋に攻められ、チョン切れそうになっているのです。歴史時代になってから出来た小さな火山丘が点在しています。これらがなければ、本当に切れていたかも知れないと思うぐらいです。
複雑な入り江が絶好の静かな海面を提供しているのでしょう。
さて、この日は好天で、海洋博物館の窓の外は、青い海に白い船、絵に描いたような港の風景でした。博物館にはマオリたちが使っていた丸木船、航海術の変遷、漁業、豪華客船など、海に関する広範囲の展示がありました。
前日、オークランド博物館を見ました。一般論として、オーストラリアで見た博物館と似た感じでした。つまり、あまりアカデミックぶらないで、万事承知の上で、多少新旧ごちゃごちゃに展示していうような気がするのです。
一階は、ポリネシア、ミクロネシア、メラネシアの、太平洋島嶼民族についての展示に力を入れています。
二階は普通の理科というか、普通の博物の展示があります。
三階は戦争記念館になっています。ここには、ほとんど無傷の日本のゼロ戦が展示されています。そして反対側には英国のスピットファイア戦闘機が展示してありました。
また、ベトナム戦に至るまでの幾多の戦いに命を捧げた、ニュージーランド人たちの名前が壁に刻んであります。

飛行機が交通の主力になる前は、ニュージーランドはイギリスからは地球の裏側の、とんでもない遠い国でした。それなのに、イギリスの戦争に自分のことのように、誠心誠意協力した忠誠心は、恐ろしいまでに強かったのです。それはその頃のニュージーランド人たちが持つ、誇り高きアイデンティティの発露だったのでしょう。
ともかくそこに、「この壁が、戦いで死んだ人の名前で、埋め尽くされることのありませんように!」と書かれていました。私も同じことを祈りました。

確かにニュージーランドは、キリバス、サモアなど太平洋に点在する島々の、実質的に盟主のポジションにあるといえましょう。
この地域における前史時代の人の流れは、アジア大陸からインドネシア、ニューギニア、さらに東に動き、ひとつの枝は北に向かいハワイへ、別の枝がニュージーランドへ伸びたことが示してありました。
博物館の一階には、太平洋に点在するいろいろの島の生活器具が展示されています。
それらは、お互いの間に強い関連があることを示しています。
また、ニュージーランドの地名は、主な街、主な道こそ、キング、クィーン、ウエリントンなど、英国関連の名前がついています。しかし、それよりローカルなレベルになると、ロトルア、トンガリロ、ワイトモなど、マオリ人か先マオリの言葉と思われる名前が残っています。そしてそれが、ハワイの地名とかなり似ている感じがするのです。
そのよう条件から、人の流れは、博物館の説明のとおりで間違いないと思われます。
さて、海洋博物館のオリエンテーションで、ひとつの島から次の島まで移住する家族の物語の映画がありました。
映画では、3〜4才の子供を持つ若い家族が、新天地を求め、召使いの一団や家畜まで引き連れ、村の一族に見送られて船出します。船は甲板が平らで、小屋がついた大きな双胴船です。かれらは、夜、星座を見て方角を定めます。静かな日、嵐で荒れ狂う日、そんな幾日かを過ごし、最後に新しい無人の島にたどり着きハッピーエンドとなりました。
マオリの神話には海に関するものが多く、航海については世界のトップであるという自負心がありました。後からきた英国人も海洋民族としての誇りがあります。それらがうまく融合して、ニュージーランドでは、いまだに「吾は海の子白波の・・」という気概が高いのを感じました。

でも、私はこんな映画を見ながら、ついいろいろのことを考えてしまうのです。
人間はいざとなると、大変、保守的なものです。だから、短い周期で噴火や地震に襲われることが分かっていながら、喉元過ぎれば、次の災害が起こるまで元の所に戻って住み続けるものなのであります。
そんな人間にどんな強い力が働いて、未知の海に乗り出させたのでしょうか。島の限られた土地の中で、人口増加という現実に会って、食べるものが得られずに野垂れ死にするか、それとも新天地に賭けるかのアドベンチャーだったのでしょうか。それとも、戦に破れた結果、敗者として追放されたのでしょうか。

九州から台湾までゆくのならば、天気の良い日には次の島が見えそうですから、なんとか渡ってゆけそうに思われます。それから先の、フィリッピン、ボルネオまでもその方式で辿って行けるかもしれません。
でも、南太平洋の島々についての私の知識は貧弱です。はたして、太平洋に散在する島々を、視認しながら渡って行けるものなのでしょうか。
食糧、水を十二分に持って行けば、最後は南か北か、ともかくアメリカ大陸にぶつかるでしょう。でも、そこには先住者がいるはずです。それで、目的を達したと言えるのでしょうか。
移住者が100組出発したとき、果たして何組が生き残ったのでしょうか。

航海にはいろいろの危険がつきまといます。
航海中に遭遇する嵐と大波に対してならば、船を頑丈に作ればよいでしょう。また、帆船は無風に出会うと、まったく動けなくなります。こんなトラブルに対してならば、食糧を沢山持って行けばよいでしょう。
最大の問題点は、航海術だと思うのです。
あなたは、太陽と星しか目立つものがない、ひろい空間に投げ出された経験を持っているでしょうか。
最初は、どの方向にゆけばよいかを決める「目的地の選定」が必要です。
次には、「その方向へ進む手段」が要ります。

もしも私が天狗様にさらわれて、モンゴルの大草原に落とされたとします。
そうなったら最初は、ともかくも小高い所に登ります。そしてぐるっと360度を見回します。
その観察結果から、山裾や凹みのような川がありそうな場所を目標にするでしょう。
流れる水があれば、植物、動物がいることが期待できるからです。
地上ならば、ある決めた方向に進むことは、そんなに難しくありません。
吹雪や霧に会わず、太陽や星が出ていれば、かなり正確に決めた方向に進めるでしょう。
なによりも、地面があれば、同じ場所に止まっていることが出来ます。

次ぎに、今度は天狗様が海に落としたとします。短期間の食糧と帆船などの移動手段はあるものとします。
大洋では、見渡す限り水平線しか見えませんから、まず目標を決めるのに悩みます。
納得できる選択方法はないのですから、箸を立てて倒れた方向を選びます。
あるいは、この際、西方浄土は縁起が悪そうですから、神武天皇にならって、日の出る方に進みます。
方角さえ決まれば、天体が見えていれば、陸上と違って海は凹凸がないだけ、一定の方角に進むのは楽でしょう。
でも何日か航海して、何もなければ、悪い方角を選んでしまったと後悔し、もう一度箸を立ててみる気になるかもしれません。
なによりも、海の上では、感知できない風や海流に流されているので、同じ場所に止まっていることができないのです。
方角しか分からないと、進んだと思っている努力の結果も、海流で押し戻されて、まったく動かないと同じ結果になっているかもしれません。
最初に世界一周をなしとげた大航海家マジェランでさえ、風や海流は読み切れず、かなり行き当たりバッタリの航海だったと伝えられます。
自分の現在位置が分かるようになったのは、正確な時計、クロノメーターが使えるようになってからだとのことであります。

こうして比べてみると、陸上の登山よりも航海の方が、はるかに心理的なプレッシャーは強そうに思われます。
大洋に挑むとき、とくに一人の時はどんなにか心理的プレッシャーが強かろうと、山男の端くれの私は、この海洋博物館で、海の男たちのロマンをゾクゾクとするほど強く感じたのでした。




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