題名:沖縄紀行

重遠の入り口に戻る

日付:1999/3/8


(98/12/14〜19)

沖縄本島の那覇市には、私が前に勤めていた会社の支社がありましたから、仕事では10回ほど訪れたことがあります。でも、真面目というのか甲斐性がないというのか、観光としては、首里城しか行ったことがなかったのです。

市の中心から数キロ北にある沖縄電力の本社にお邪魔するたび、その道中の車窓から、あの熾烈な戦闘が行われたのは、どこだったのだろうかと眺めていました。

しかし戦闘の事について、だれも、一度も話してはくれませんでした。

半世紀前、中学生だった私は、アメリカにじりじりと攻められたことを良く覚えています。その頃はもう、膨大な物量を持つアメリカ軍の前には打つ手がなく、攻められれば 玉砕(全滅)するのが、ほぼパターン化していたのでした。とくに沖縄では、地形が変わってしまうほどの砲撃と爆撃を受けたのだと聞きました。

負けた側の国民のひとりとして、一度、現地を自分の目で見ておきたいと思っていたのです。

さて、この紀行を書き始めましたが、途中で何回もつっかえてしまいました。気分転換にと、ほかの文章を2つ書きました。それでもまだ、指は進まないのです。

でも、予定していたインドへの旅が容赦なく迫ってくるので、追われるように完成を目指しました。

暗い言葉が、次々と、しかも循環・迷走気味に吐き出されます。

とても重い重い文になってしまいました。

ひめゆりの塔に眠っている御霊たちと同じ世代の我々は、沖縄について、いま世間で言われているのとは、ちょっと違った気持ちを持っているよ、と言いたいところがあるのです。

その口に出せないことを、あえて書いてみたと言ったらよいのでしょうか。

そんな妄言を、我慢して読んで下さったら、誠に有り難いと思います。

 

●戦争記憶の風化

南部戦跡めぐりのバスが最初に訪れたのは、小禄の旧海軍司令部壕でした。

沖縄本島にいた海軍の兵力は約1万人でしたが、もともと地上で戦うのには適した戦力ではなかったのです。正規の軍人はたった3分の1、地上戦の訓練はほとんど受けておらず、第37魚雷整備隊などでは兵隊の数が小銃の数の3倍だったと言います。

それでもあえて戦うのが戦争というものなのです。今では、そんな無茶苦茶なことには想像さえ、つかない人も多いでしょうが。

沖縄戦で最も重要だった首里もすでに奪われた1945年5月末、海軍に新しい守備戦線へ移動するよう指示が出されました。ところが行ってみると、とても戦うのに耐え得る場所ではなかったのです。それで青年将校たちは、自分たちが折角築いた海軍壕に戻ることを主張しました。そして約2000名が、この小禄の陣地に戻ったのでした。

そこで約2週間、死闘が続きました。アメリカ軍にも1600人余りの死傷者がでました。

最後の時の近づいた6月6日、太田司令官は東京にいる海軍次官に次のような文意の電報を打ちました。

「沖縄県民の実状については、本来は県知事から報告するべきです。しかし、県も沖縄総司令部も、すでに通信の手段を失っているようです。それで、私から報告します。

県民は老幼男女、国のためにその身を捧げました。

具体的には、・・・・

糧食は6月一杯しか支えられないと言われています。

沖縄県民はこのように戦いました。沖縄県民に対して、後世、特別に配慮を払って下さい」

 

海抜60メートルほどの丘には、延長約450メートルの洞窟陣地が掘られていたのでした。

当時、中学4年生だった私は、今更ながらこの電文を、この地下壕の中で読んでは目が潤んで来るのでした。

はっと気がつくと、我々のツアーご一行の姿はありません。そうです、大抵の人にとっては、ここも熱帯の花の溢れる植物園や、イルカのジャンプのような、観光の対象になっているのでした。

むしろ、若いアメリカの兵隊さんたちのほうが、熱心に見ているようでした。自分がそんな立場に立たされたらとでも思っているのでしょうか。

 

ひめゆりの塔の隣の平和祈念資料館に入りました。戦争に巻き込まれ、戦い傷つき命を落とした、私と同じ年輩、つまり昭和ひと桁前半生まれの沖縄の生徒たちの記録が並べられていました。

家はおろか木や草までも残らず吹き飛ばし、焼き尽くす、まるで毛布を敷くように行われたアメリカ軍の砲撃、爆撃の様子がビデオで放映されていました。

生徒たちの作文も、私たちがあの頃に書いていたような、元気で真面目、一生懸命な文面でした。

展示品の説明には、彼らが、なんの法律的根拠もなく戦場に駆り出され、と書かれていました。また「真実から目を覆われ、人間らしい思考や判断も、生きる権利さえももぎ取られ」そんなふうにも書かれていました。

そのことは名古屋にいたも私たちとて同じことだったのです。日本中そうだったのです。生徒だけではなく、老幼男女ひとり残らずそうだったのです。

私の場合、始めは、一家の主人が戦争に行って働き手がなくなった農家に、稲刈りの手伝いに駆り出されました。そして戦局が厳しくなるにつれ、全く学校には行かず、毎日、毎日工場で飛行機の部品を作っていました。

その工場が爆撃で壊されたあとは、軍の飛行場で土運びをしていました。そのとき私たちの世話をしていてくれた兵隊さんは、アメリカのP51戦闘機の機銃掃射で亡くなりました。

今、なにげない顔をしている私の妹は、爆弾に吹き飛ばされた土で生き埋めになり、掘り出されて助かったのです。13才でした。学徒動員で大曽根の近くの工場で働いていたのです。

豊川にあった海軍の工場が爆撃され沢山の生徒が亡くなりました。子供が帰って来ないので、翌日親が探しに行き、亡骸を背負って、混雑する飯田線の普通の電車で、家へ連れて帰ったのでした。この話は同じ電車に乗り合わせた人から直接聞いたのです。

沖縄の惨禍は決して他人事ではなかったのです。

 

アメリカのレポートにはこう書かれています。

「8月15日、九州攻撃作戦も近ずき、アメリカ全将兵が、全力を挙げて作戦準備をしている最中、突然、全く信じがたいような'戦争は終わった'というニュースが飛び込んできた。」

 

そうなのです、半年か、一年先には我々にも同じ運命が待っていたのです。

ただ一つの、そして決定的な相違は、その間に日本が降伏したことなのです。

 

悲惨な戦争を体験した人は少なくなりました。こんな過去を抱いて、ひめゆりの塔に頭を垂れる人が、ここを訪れる人のうちに何人いることでしょうか。

 

バスガイドは、今も道路の工事をしたら、どこの誰とも知れぬ人骨が出てきたとか、いかにも悲惨さを強調して説明するのです。でも、東京、広島を始め、どの都市でも、同じようなことはあったのです。

 

つい最近も、イラクで大量破壊兵器製造設備への攻撃がありました。でも、あれは目標を決めたピン・ポイント攻撃です。先の大戦はそんなものではありませんでした。

戦闘機を作る人も、その人に食事を作る人も、工場まで運ぶ人もみんな戦争当事者とみなしての無差別爆撃が行われました。名古屋の愛知電気機械のケースでは、アメリカの爆撃機の編隊は、いったん養老から西へ向かうように見せかけ、人々が工場に戻った頃を見計らって名古屋に反転し爆撃しました。死者2700,負傷3500人という殺人作戦だったのです。一晩で8万人焼き殺した東京も、一瞬に8万人の命を奪った広島もみんなそうなのです

 

苦しくなると、勝つためには非戦闘員除外規制からの逸脱、やりたい放題をやらざるを得なくなるのです。アメリカの名誉のために付け加えますが、アメリカはその点で、世界中で最も良心的だったと言えると思います。他の国は、もっともっと早くからやりたい放題していたのですから。

 

つまるところ、戦争というものは、無茶苦茶なものなのです。悲惨な大戦が終わってからもう半世紀以上経ちました。

いまはもう、狂気と切り離せない戦争の本質を体験したことはなく、無責任かつ一方的な、いわゆる正論を吹き込まれ、相手も規則通りやってくれるような気になって、深く考えることもしない人たちの世代に入っているのです。

そのことについて、幸せなような、危険なような気持ちを抱きながら、沖縄の戦跡を巡っていたのでした。

 

?終戦日知らぬガイドに諭さるる

 

●沖縄ドライブ

名古屋へ帰る船の上で沖縄の人と話していて「小さい島だから、運転は楽だったでしょう」と言われました。

正直な話、道路はとても分かり難かったと思っています。それで、帰ってきたいま、他人には、レンタカーはナビゲーター付きのを借りた方が良いと勧めています。

分かり難かった理由はいくつかあると思います。

沖縄本島の中でも、とくに南部地域での話ですが、人口が稠密なので、道はごちゃごちゃと一杯あります。

そして、交差点の標示が殆どないので、自分が今どの辺を走っているのかを知るために、バス停の標示を覗かなくてはいけません。

そして、われわれにとっては、嘉、座、志、城、比、与、などの字の付いた馴染みの薄い地名が多いために、一宮、三好などと違って、事前に地図を頭に入れておくのがなかなか難しいのです。

ドライバーたちのマナーについて言えば、横の信号を見ながら、早めに飛び出すフライングにはお目に掛かりませんでした。しかしそれとは逆に、信号が赤になってからも、いつまでもズルズルと入ってくるおばさんたちは気になりました。

それはアメリカ人が持ち込んだ習慣とは思えません。むしろこのような、よく言えばおっとりした、悪く言えば努力しないで図々しい習慣は、沖縄が全国一の長寿地域であることと関係があるのかもしれないと思っているのです。

 

?横文字の看板並ぶ冬の浜

 

●与那覇岳(ヨナハダケ)

折角ですから、沖縄の最高峰である与那覇岳に登ってきました。三角点は498メートル、最高点は503メートルです。

国頭村(くにがみそん)の役場で、道を教えてもらいました。舗装された林道が海抜三百メートル強まで登っています。あとは標高差百メートル強、荒れた林道と山道の往復で、約2時間の散策です。標識もしっかりしているので、なにも問題はありません。

 

しかしそれでは面白くありませんから、問題を二つ考えました。

植生に落葉樹は見あたらず、本州とはかなり変わっています。ショウガやミョウガを思い出させるような草、シキミのような木、笹の代わりの矢竹の群落、そんな植物が続く細い径を歩いていると、道ばたの木の幹に「この辺りが最高点503米」とマジックで書かれた板が括りつけてありました。

そうなんです、この辺りの山は、中腹より下は、まあまあの傾斜がありますが、頂上付近は本当になだらかなのです。そして常緑樹が生い茂り、周りが見えません。とても槍ヶ岳でピークを特定するようには明快にはいきません。最高点を決めるのに大変「難しい山だった」に違いないと思いました。

三角点ピークはそこから5分ほど離れたところにありました。こちらは、周囲からは一寸登ったところにあります。周りは密林で、まったく展望はありませんから、西と東の景色を見られるように、6メートルほどのアルミの梯子2本を常設してありました。

三角点というものは測量のために設けられているのですから、測量時は見通しを得るために周りの木を切らなくてはいけません。もしも、ここ与那覇岳の三角点ピークで3百本切らなくてはならないとすると、先ほどのなだらかな最高点では3万本切っても、まだ見通しが利くかどうか分からないほどフラットなのです。

よその山でも、たまには最高点より明らかに低いところに三角点が置かれているケースがあります。決して一般論とは言いませんが、ここの場合のような理由もあるかもしれないという点で、大変に説得力にある与那覇岳でした。

 

もう一つの問題は、沖縄の山へ登ると言うたびに、みんなに脅されたハブのことです。

ハブは寒いから出ないよと、役場でも、民宿でも言ってくれました。私はずっと半袖で通していたぐらいの暖かさでしたから、沖縄のハブは寒がりに違いありません。もちろん影も姿も見ませんでした。

日本だけでなく、外国でも沢山の山に登っていますが、蛇を見たのはその数パーセントのように思います。マムシに噛まれたこともありません。沖縄の新聞には、ハブに噛まれた記事が出ることがあるそうですから、機会がないわけではないのですが、確率は非常に低いのでしょう。

 

?ハイビスカス冬に咲をり和みけり

 

 

 

●基地

普天間基地は移転問題で時の話題になっているのですから、ぜひ見ておきたいと思っていました。なるほど、周りには住宅がびっしり建っていました。

また、嘉手納基地は、ここ以外では一寸見られないアメリカの軍用機が見られるかと思って訪ねました。ガイドブックにあるサンパウロの丘に行ったのです。

同じ見物目的のグループが3組もいました。テントの店ではお土産用に、ミリタリー・グッズまで売っていました。でも、残念なことに、肝心の米軍機は見えませんでした。しばらく立っていても、名古屋空港にもいるCー130が数機と、Fー15が2機ちらっと見えただけのことでした。大いに期待はずれでした。

ほかの基地のことは頭になかったのですが、なにせレンタカーで走り回ったので、ごく自然に、いつか耳にしたことがあるハンセン、シュワブ、の両キャンプや、海兵隊のホワイト・ビーチにも出くわしました。

ホワイト・ビーチから那覇に向かっているとき、カー・ラジオのニュースがこんなことを言いました。「ホワイト・ビーチにいた海兵隊の特殊部隊2000名は、今回のイラク作戦に参加しているということです。同部隊は2週間前に出発し、中東方面で民間人の救出訓練を繰り返していました」。

このニュースの中に出てきたホワイト・ビーチは、つい先ほど通ったところなのですから、特別の感慨がありました。

海兵隊の兵士2000人の一人一人には名前があります。

地元の勝連町の人たちにとって、ボブは、いつも店に買い物に来る奥さんの旦那さんでしょう。ジョージはよく一杯ひっかけてはカラオケに興ずるお兄さんかも知れません。フィリップは息子の小学校の同級生のお父さんだったりします。

できれば、特別サービスで日本人も救出して欲しい。そんなようなことが、生きた人間の偽らぬ感情でしょう。

実際、沖縄のラジオのアナウンサーの声には、海兵隊を身近な現実の人間と見ている暖かさが感じられました。

ところが、遠くに住んでいると、いつの間にか「基地撤廃」だけが、沖縄の人たちの合い言葉であると感ずるようになっています。たしかに外国人も悪いことをしますが、でも外国人でなければ悪いことをしないでしょうか。それが一旦、報道のまな板に乗ると、ニュースバリューがある米軍人の場合だけ、ひき逃げしたり暴行したりと取り上げられることになり、あとには鬼畜米英的なニュアンスを残すことになってしまうのでしょう。

先の大戦でも、こんなふうに煽られ、いつの間にか米英打つべしが大衆の声となり、それに迎合して始まった面もあったのではないでしょうか。

人の世は、どこまでいっても所詮そんなものなのでしょう。

人気は得られなくても、本当に世界のこと、日本のことを考える人たちに頑張って貰いたいと祈る気持ちです。

 

基地でもうひとつ感じたのは、素直に見て基地だけが自然破壊から辛くも免れた貴重な緑だということでした。同じ緑を奪っても、個人が住宅を建てる場合を自然破壊と呼ばないと言うのなら別ですが。

軍事基地は戦争が起こるとミサイル攻撃などの対象にされるので、好ましくないのは良く理解できます。

でも普天間基地がもっとも典型的なケースですが、基地を追い出して、その跡を一体どうしようというのでしょうか。

みんなが楽しめる公園にするのならば、文句はありますまい。

沖縄の現状を見て「アメリカ人は広々とした緑の芝生の中に家を建てているのに、塀の外には粗末な家がひしめいていて、住民は虐げられていると思います」と仰るのを聞いたことがあります。

沖縄にあるアメリカの基地に住んでいる人たちは、アメリカン・スタンダードの基地生活様式で暮らしているように思います。私がアメリカで見た軍用地は、どこでもあんなように家が並んでいたのです。土地が十分にあるという、どうにもならない、運命的なことが、羨ましい種なのです。

基地撤去という第一弾のあとには、緑を守れと言う第二弾が続くのでしょうか。

 

?イラク撃つ基地の街にて聞く聖歌

 

●戦跡はいま

特別に保存されたところ以外は、戦争の爪痕は残っていないように見受けました。一番の激戦地であった辺りは、いまはすっかり家で埋め尽くされていると言ってよいでしょう。なにせあれから、もう半世紀経ったのです。

名古屋の大空襲の翌日、友達に誘われて焼け跡を見に行きました。滝子の坂の上から、はるかに続く焼け野原の向こうに、中味の焼けてしまった松坂屋の抜け殻を見たときの感慨を、いま話しても実感を呼ぶことは出来ないでしょう。そこは今では一面の住宅で、すぐ足許の坂の下さえ見えません。

僅かに、白鳥の川の堤防の爆弾の跡のようのところが残っているだけなのです。それにしても、沖縄本島南部の住宅の密集している様子は、戦跡と思って見れば見るほど凄まじいものでした。

アメリカ軍との死闘が続いていた頃はどんな様子だったのでしょうか。

 

沖縄、琉球は14世紀に交易で繁栄したといわれます。そして、その後、島津藩の重税により窮乏したと書いた本があります。でも、公平に見て沖縄が繁栄の中心になり続ける条件は乏しいと思われます。現実は、よその過疎地と同様、お金の流れは、政策的によそから流されて来ているのでしょう。

でも今の沖縄、そして日本の繁栄、民の竈の賑わいは疑いのないところです。

戦前、沖縄の人口は60万人弱でした。今は130万人に近いのです。

未曾有と言われる今の不況の中で見ても、沖縄は比較的活気があるように思われます。過去の大戦で、あんなひどい目にあった沖縄がです。

世界的に見ても、あんなに徹底的に破壊し尽くされた、日本とドイツが経済的に繁栄していると評された時代がありました。

こんな事をいろいろ考えると、人間はマクロに見て、そんなに残酷に徹することもなく、また、相当にしぶとい生物だと言えましょう。

その結果、たとえその争いの過程で、数え切れない個人的な悲劇が起こっても、マクロに見て某民族とか、何国民といったレベルでは、そう悲劇的に深刻に考えることはないのかもしれません。

逆に考えれば、何はともあれ、直接目にする個人的な不幸を回避することを、最優先させるべきなのかもしれません。わたしのように、公益事業に長年いると、つい大所高所が気になってしまうのですが、実はそちらは、ほどほどで良いのかもしれないと思いました。

 

?木枯らしに黍の穂の指す激戦地

 

●沖縄の人の心

沖縄本島の北部は、山原、やんばると呼ばれ、人口が少なく、手つかずの自然が、まだ残っている地域です。見渡す限りの照葉樹の天然林の眺めは見事です。

それでもまだ西海岸には、狭い平地と集落とを貫いて、北のはずれの辺戸岬まで立派な国道が走っています。ところが東海岸は、山が断崖となり直接太平洋に落ち込んでいるので平地が少なく、河口などに小さな集落が飛び飛びにあるだけなのです。

これらの小さな集落には、たいてい一軒だけ共同売店がありました。

そんなところには、小さい単位の人間集団の生き方が、いまも残されているように見受けられました。

多分、これらの小集団の中では、お互いのけん制が強く行われているのでしょう。具体的には、よそでは買い物をしない、商店も利潤を最小限に抑制するというようなことをしないと、とても成立しないと思われます。

南下してちょっと大きな集落になると、当然のように複数のお店があって、お互いの自由競争になっていて、違和感はありませんでした。

北部の集落の人たちでも、現在の車と道路の状況からすれば、住民の相互けん制さえなければ、好きな店で、好きなものを好きな値段で買うことは十分可能と思われます。つまり住人は、相当無理をして昔の体制の延長線の上で生活しているように見受けられたのです。

以前に、沖縄の人たちは、年寄りを大事にして、まるで昔の日本のようだと言う話を聞いたことがあります。

この辺りの事情は、どうも我々のほうが、違って来てしまっているようなのです。

 

もうひとつ、沖縄ではお墓が驚くほど大きいのです。

場所により亀の甲の形をした亀甲形、普通の住居の形をした破風形がありますが、いずれも数平米の土地に、山男なら中で暮らせると思うほどの大きさの、石造りの立派なお墓なのです。

亡くなった人のお正月と言われる旧暦1月16日には、一族がお墓の前の広場でご先祖様を囲んで会食するのだそうです。

「この日に旅行する人は大変です。食堂はお休みです。コンビニもみんな閉めています。でも、心配することはありません。お墓へ行けば、お客さんとして、一緒に飲んだり食べたりできますよ」そんなふうに、面白可笑しくバスガイドに聞かされたことがありました。

いろいろの理由はあるのでしょうが、お墓にこれだけのお金を使うのは、沖縄以外の人にはちょっと理解できないと言ってもよいでしょう。

 

今度、沖縄に着いた日、空港から市内に入るバスの窓から、軍港の一角にテントを張って、待遇改善のストライキを打っているのを見たとき、奇異な印象を受けました。

我々の周りにこんなストライキ風景がなくなってから、もう相当長い年月が過ぎました。いつごろ、どうしてなくなったのでしょうか。

社会主義国家、計画経済の実体が次第に明らかにされたのが原因のひとつでしょう。

組織があまりに巨大になると、組織の中の各部分の相互の因果関係が見え難くなってしまいます。

例えば旧国有鉄道があります。旧国鉄はストライキの展示場のようなものでした。ことあるごとにストライキを打ち、車体にペンキでスローガンを書きなぐり、その乗せてやる意識は国民の顰蹙を買っていました。もっともマスコミは、政府対労働者の場合は、必ず後者につくので、最後まで分割には批判的でしたが。

いざJRとして分割されたあとは、収入と支出が見えやすくなり、お客様あっての事業であるとの認識が高まり、サービスが格段に良くなったのでした。

今のところ、雇用関係で最大規模のものは国家でしょう。昔「親方、日の丸」という言葉がありました。どんなに野放図に金を使っても、後ろに国がついているから大丈夫という、因果関係の薄さを言った言葉なのでした。

旧国鉄の分割の頃から、国民全体の意識が変わって来たように思います。

そしてあれほどマスコミにもてはやされた、いわゆる進歩主義者たちが賛美した、社会主義体制が崩壊しました。

その上、この不況です。経営の苦しさを知っていては、ストライキなど打てるものではありません。

組織が大きくても、しょせん理屈は同じです。いまは公務員だって、親方日の丸など思ってもみないでしょう。

もう、みんな目の見える大人になったのです。

 

何十年か前までは、甲州商人、江州商人、伊勢乞食など、土地と人の性格とを関係づけて言う風習がありました。

新幹線、高速道路などの交通機関の発達、ラジオ、テレビ、ひいてはインターネットなど情報手段の浸透、そして年月の経過などにより、日本人の考え方はかなり均一なものになって来たと言えましょう。そんな平均的日本人とは、沖縄の人たちには、表面はともかく、心の底に異質なものがあるのを、ときどきふっと感ずるのです。

本当はどうか分からないのですが、マスコミを通じて知る限り、沖縄には、なにかまだ因果関係の認識に希薄な点があるように感ぜられます。

いっそ外国人なら気にならないのに、なまじっか同じ日本人であるために、ほんの一寸した違いが気になるのかもしれませんが。

 

前沖縄知事は前北海道知事と同様、ある時点までマスコミの寵児でした。お二人とも、何か似たようなムードをお持ちだったように思います。

お互い、内閣にとくに開発庁が設けられているという、似たような地方の立場に立っていると、それが票集めに有利なかもしれません。

とくに沖縄の場合は、その歴史から、余計に、よそ者に指図されるのが屈辱に感ぜられるのでしょう。

一日も早く沖縄の人が、国の政策実行側の中枢に入り、沖縄県人の目で見て、日本として、沖縄として、本当にどうしたらよいのか、自身の口から話すようになれば、県民感情は段々変わって行くことでしょう。

以前、鹿児島市に行ったときに、あの明治の元勲たちが、ほんのひとつの学区ぐらいの狭い範囲から続出していることにびっくりしました。

沖縄だって人材は居るに相違ありません。難しいでしょうが機会さえ作れば、出来ないと諦めることはないでしょう。

 

?亀甲墓いくつか見えて山眠る

 

●国、国民、歴史そして性格

太平洋戦争中、連合国から見た場合、日本侵攻は沖縄、九州の順とされており、沖縄と本土とは、日本の領土という点で差はなかったのです。また当時の沖縄の人たちは、私たちが攻められたらすると同じように、国のために命を賭して敵に抵抗したと私は思っています。

しかし、半世紀を経た現在では、当時の実状を体験したことがなく、敗戦国日本という環境の中で教育を受けた人が、国の人口の約80パーセントと大部分を占めるに至っています。

その結果、自分の外の存在としての昔の「日本」のせいで、ひどいことがあったという心情が何となく底流にあるようです。

 

そんな思いから、いろいろなパターンを書いてみました。

 

第二次大戦終了前には同じ日本人だったものが、その後、あるいは国籍を異にし、あるいは外国に統治され、また、あるいは内戦を戦うなどして、半世紀の時間が過ぎたのです。

現状をみると、色々のことが頭に浮かんできます。

これをどのように解釈するかは、一人一人、それぞれの体験や、考え方によって違ったものがあるでしょう。

 

☆私は、まず、この悲劇がさらに50年前に起こっていたら、どうだったかしらと思ってみました。

私の父は盛岡・南部藩、母は弘前・津軽藩、ひと昔前まで敵味方でした。その頃は誰も皆、日本人という気持ちが、今よりも希薄だったろうと想像されます。

そうだとすると日清戦争の頃、子供を戦死させた親は、戦争をさせた日本人、つまりこの場合は、長州人あるいは薩摩人に、自分の息子を殺されたという意識があったのでしょうか。

あったという記録は知りません。当時は明治体制になって日も浅く、日本人意識を作るための強い言論統制があったのか、それとも天皇の求心力が意外に強く、すでに自分たちの国、日本のために捧げたと諦めていたのでしょうか。

あるいは運良く勝利を得たため、国のため正義のための尊い人柱と、納得したのでしょうか。

 

☆また、沖縄を日本へ返した、アメリカという国は凄い、という気がするのです。

沖縄の人は、日本に復帰したほうが良かったのでしょうか。

日本は、沖縄を返還されて良かったのでしょうか。

過去をひもとくとアメリカ人も、前世紀、メキシコのほか、今の概念でいえばインデアン国を次々と侵略、奪取し領土を拡大したのでした。

その国が今度は12、520人の自国民の血を流して占領した土地を日本に返したのには、色々の事情があるのでしょう。でも、たった2週間の参戦で、ほとんど労せずして手に入れた土地を、返したがらない国だってあります。

アメリカは、なにせ凄い国だと思わざるを得ません。

 

☆日本は沖縄戦で勝てるとは思っていませんでした。してみれば、その目的は、アメリカ軍に手ひどい損害を与え、講和あるいは降伏の時、少しでも有利な条件を引き出すことにあったのでしょう。

最後は、原子爆弾が決定的な決め手になりましたが、アメリカとしても本土に上陸すれば、沖縄戦以上の抵抗を受けると思えば、気が重かったに違いないでしょう。

そのため、嫌々ながらソ連に参戦させたとの説もあるそうです。

もともと日本は第二次大戦中、ミッドウエイ海戦、ガダルカナル戦と大損害を出し、時とともに勝てる望みは薄くなる一方でした。

もっと考えてみると、最初から勝てる見込みはなかったのでしょう。

ドイツのヒットラーやイタリーのムッソリニも、組むべき相手だったとは思えません。

勝てない戦に突入し、多くの国民を犠牲にし、国土を焦土にしてしまったのは返す返すも残念なことです。

でも、勝てる戦ならやっても良いというものではないはずです。

 

☆戦争は常に、両方とも正義であり、たとえ遠回りな理由付けであっても自衛のためなのです。

そして人間は、常に争いをしたがる動物なのです。家庭内でも、隣家とも、他派閥、他国とも、他民族、他宗教ともマッチ一本ですぐ火がつき、燃え広がりたがるものなのです。

大きな戦争を防ぐために、小さな戦争をするのも必要のようでもあります。歴史に「もし」はありませんが、人それぞれ「もし」を考えて置くことが大事かも知れません。

平和憲法を貫くためには、その対価として相当の犠牲を払う覚悟が要ります。その覚悟をした上で、不戦を腹に据えなければなりません。

美味しい話や、景気の良いすっきりした話は、すべて危ない話だと心得るべきでしょう。なにせ相手のあることです、理不尽に思われることや、損することにも、我慢するのが平和なのでありましょう。

 

?冬入り日沈みきるまで見ておりし

 

●バスガイド語

最近では、お堅いNHKでさえ、あの語尾を上げて切ってしまう妙な日本語を話す人を、たまには出演させるようになりました。言葉は所詮、動いているものなのですから、その善し悪しや、美醜を言うのは私の趣味ではありません。

面白がっての議論なのですが、バスガイドの言葉が、相当変わった、不思議な日本語として定着しているように思えるのですがいかがでしょうか。

私はやくざ屋さんにつき合いがありませんので、バスガイドこそは言葉を聞いて、最も正確に職業を当てられる分野だと思っています。(最近、医師たちが'障害する'とか'肥満する'など医師語を使っているのに気がつきました。これは定着するでしょうか)

昔、江戸・吉原の花魁たちはアリンス語を使っていたといいます。それを話す女性たちは、当時の男たちの憧れの的でした。一説によれば田舎から出てきた女性たちが「そうだんべぇ」など田舎言葉を話して男たちを幻滅させるのを避けるために、特殊な職業語を教えたというのですが、はたして本当でしょうか。

バスガイド語は、このような考えからすると、あまり中身がない状態で、絶え間なく喋っているために考案されたのかもしれません。

バスガイド語は、基本的には二本の柱で構成されています。

ひとつは、方、ホウという単語を入れられるだけ詰め込むことです。

「今日のお天気のほうは」で、20パーセントほど増やすことが出来ます。「ご見学のほうにかかる前に、ご参拝のほうをお願いします」ここでは10パーセントほどしか増えていませんが、無意味な発声を入れることにより、頭の中の回転の遅れを取り戻すことが出来るのと、なんとなしに職業的な自信を持てるのでしょう。

もう一本の柱は、無闇に敬語を入れることで、しかもその入れ方に、ひと工夫してあることです。

「入り口で皆さんにキップを戴けるまで、私が連れて行きますから」というように使わなくてはいけません。「気をつけて、歩かれて下さい」なども、いけるくちです。

お客さんに敬意を表している気持ちを分かってもらうと同時に、面白さも提供しなくてはいけないのです。

お客さんの反応が、いまいちのときには「さっき私が仰ったように」と言うところまで念押ししなければいけないのです。

今回のガイドさんは、利発な子で、上手にバスガイド語をマスターしていました。お陰で雨がひどくて、景色がよく見えない半日のツアーを、楽しく過ごすことができたのでした。

 

?沖縄の棕櫚に滴る寒の雨

 

●船旅

往きは飛行機を使いましたが、現役を退いた今は時間の余裕があるので、前々から狙っていたフェリーボートで帰りました。

那覇新港から名古屋港まで約1,300キロ、31時間の航海です。有村産業が所有する飛龍というクルージング・フェリーで、乗用車100台、乗客424人を乗せることができます。総トン数は1万トン、全長167メートル、13,500馬力のディーゼルエンジン2台、巡航速度25ノット、軍艦で言えば巡洋艦といったところです。

岸壁から本船に乗り込むと、思っていたようにタラップを登るのではなく、エスカレーターが上階へ運んでくれました。上がりきると、目の前にはホテル同様のフロントがあり、キーを渡されます。

赤い絨毯を踏んで部屋へと、なんともデラックスなムードであります。まるで結婚式へ出席するような気分がしました。

思えば、本格的な船で、本格的な海を航海するのは、サンフランシスコから横浜まで帰ったとき以来、ちょうど40年振りです。

あのときと比べると、船が揺れないのと、客室にいるとエンジンの音が全く聞こえないのにはびっくりしました。

夜中に乗船し、まず眠るところから航海が始まり、2泊しました。居室にいたのが15時間、外を歩き回っていたのが16時間、あれやこれや大変忙しい船の生活でした。

お陰で天気が良く、奄美大島の山々、種子島の人工衛星打ち上げ基地など望見することが出来ました。

まるでインクを流したような黒潮の色は、昔と同じでした。黒潮とは、実によくつけた名前です。あるときは余りに色が濃くて、物を落としても沈んで行かないのではないかと思うほど堅い物のようにも見えました。でも、砕ける波の白さは、それと見事なコントラストを見せてくれます。その黒に近い藍色の大海原に、真っ直ぐな、どこまでも真っ直ぐな航跡が伸びてゆきます。

パノラマ・サロンでコーヒーを飲んで、ママに乗組員の勤務形態を聞きました。

自動販売機では、浮き世よりもちょっぴり値段の高いジュースを飲みました。

チョコ・アイスもかじりました。

私の沖縄旅行も、もうこれで終わりですから、カフェテリアでは、ゴーヤ(ニガウリ)定食を食べました。はじめの一口はちょっと苦いと思いました。でも、私は山菜が好きですし、山菜は大抵ちょっと苦いのが多いのです。すぐ馴れてしまいました。そしてそのあと、食べるご飯が、何となく甘く、ご飯だけ食べるのがとても美味しく感ぜられるのでした。

プロムナード・デッキのチェアに座り、謡曲の豆本を見ながら、丸暗記に励みました。その途中で、うとうと夢路に遊ぶ心地よさも、船旅だからこそです。

ヒュー・ガオー・ダダダとけたたましい音が耳を聾するアミューズセンターにも何回か行ってみました。いつ行っても遊んでいる人はいませんでした。

そもそも、学校が正月休みになる直前の、沖縄への旅行者が一番少ない時期を選んで行ったのですから、船の乗客自体が少なかったので当然のことですが。

日没は四国の南の海上でした。上空の薄い雲を金色に染めて、太平洋に大きな太陽が沈んでゆきました。

それを見ていて、思わず、謡曲の千秋楽が口をついて出てきました。船客が少なく、また風の冷たい後部デッキには、誰ひとり人がいなかったのが幸いでした。こんな芝居がかった瞬間が、起ころうなど、それまで思ったこともありませんでした。

 

朝6時、まだ暗い伊良湖水道を通過しました。それから2時間半、名古屋港の岸壁に横付けされるまで、デッキできょろきょろしては、ビデオのボタンを押していました。

小学生のころから慣れ親しんだ野間の灯台を、海上から見るのはひとしおの感慨でした。

2年間勤務した知多火力の横を通過するときには、背後の丘で平安時代の土器を収集したことや、当時まだ副長で、家族運動会の裏方を勤めたことなどの懐かしい思い出を反芻していました。

年をとり、思い出の種が増えて行くことは、大きな幸せであります。

 

これからは、知多半島をドライブするとき、私の目は自然と海に向い、あの自分が乗った大きなフェリー「飛龍」を探すことでしょう。

それはもう、ただ行き交う沢山の船のひとつではありません。

純白な巨船の大きな煙突に、Aの字をみつけたら、あの日の航海のこと、そしてまた白い家のひしめく沖縄の旅を、懐かしく思い出すに違いありません。

 

?オリオンが横ざまに落つ太平洋

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