題名:仕事を辞めること

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日付:1998/10/4


いよいよ,サラリーマンをやめることになりました。

1953年からのことですから,44年もサラリーマンをしていたことになります。

やめることになってから,いろいろな今までなかった経験をしています。そのいづれについても初めてのことで,不慣れなことばかりなのです。

このサラリーマン稼業から足を洗うことについては,よく言われるように,身近に先輩がいて,手をとり足をとり教えてくれることではないのですから,諸事、本人の裁量で,さばいていくより仕方がありません。

退職が決まってから、退職後一年の間に起こったことどもを、書き連ねてみたのです。

 

●最後の職は,二つの事業本部の管掌という職でした。

管掌というのは,ライン職位である本部長のように、業務を決定したり許可したり,つまり判を押すのではなくて,判を押す人を把握,指導する役目ということでしょう。現実にどの深さまで把握指導するかについては決まった定めはなく,やり方は、まったくそこにいる人によることになります。ですから、事細かく管掌したい人の下に,万事自分勝手にやりたい人がいるような組み合わせだったら,毎日が修羅場になってしまうことになります。

ましてや退任が目に見えた時からは,管掌が居ること自体が、沢山の部下にとって同じ説明を直属長と管掌の二人に、二度しなくてはならないなど,ある意味で非効率と同義語になってしまうことは、避けられません。

だから,こんな立場になってからの退職であることの難しさを痛感しました。

そしてあるときは,工場で自分の手で物を作っている工員さんだったら,どんなに恰好良く退職できることかと羨むことさえあったのです。

というのは,もしも自分が現場勤務でしたら,退職する日まで会社に忠実に勤め,つまり具体的には自分が長年の経験から得たノーハウを周りの後輩に伝授し,最後の日には、旋盤を停めて職場をきれいに掃除して,皆さんにさよならを言う,そんなしんみりとした終わり方ができるでしょうし,それが実直なサラリーマンの退職の理想像であろうと感じたこともあったのでした。

 

●わたしの立場は変なものでした。

いろいろな動きの中で、わたしは素直に,今期かぎりで退任しようと決意していました。それでも,最後の2カ月は、いい加減,息が切れてしまいました。

山に登るときの心得として,最後まで足元を見つめながら足を運び,これ以上高いところがなくなったらそれが頂上だ,という着実な登り方をしなくてはならぬと言われます。

それなのに,わたしの取締役退任の最後の時期は,何回も山頂を見上げては,あと幾ら,あと幾らと顎を突き出し,ぜいぜいいっているような体たらくになってしまいました。

 

●そんな折,新日本製鉄の社長が、次の総会で退任する予定の取締役については,約2か月前から副社長などというような肩書をはずし,社長付取締役にしたという記事を新聞で見付けました。

それに対してマスコミは、人情として,ぎりぎりまで役職名を残してやりたいところを,組織の効率的運用を優先させ、よく社長は英断したという、好意的な取り上げ方をしているのが殆どでした。わたしにとっては、この方が本人にとっても,好ましいことのように思えるのでした。

 

●引き出しに一杯あった名刺を整理しました。よくもこんなに沢山集まったものだと今更ながら感心しました。同じだけの枚数を、相手にも差し上げていたことになるわけです。

今回、最後に処分した名刺は、今まで何回もあった整理の機会にも、いづれは役に立つこともあろうと思はれ,残されてきた分なのです。

また、中には亡くなった人の名刺が結構入っていました。それは今までの整理では,亡くなったことを知っていても、懐かしくて捨てられなかったものなのでした。

名刺を見ていると,若かった頃に頂いたものほど,相手の顔がありありと浮かんでくるのでした。そんな名刺を見ていて,サラリーマンの出世の難しさを改めて思わされました。出世に熱心だった人も,恬淡としていた人もありました。いづれにしても,誰もが青雲の志を抱いている年頃でした。あの人は,あの地位まで行ったのだなあなど、次々と感慨が浮かんでくるのでした。

本人の健康,素質,周りの条件,運などいろいろな要素が出世を決めます。

出世を人生の第一の目的としている人は,その上役にとっては便利で使い良いのですが,上役以外にとっては迷惑であることが多いのです。昔の人も「頼もしきは曲者」と言っているではありませんか。

名刺一枚いちまい,つまり人一人ひとりが,今、何処かで、それなりに自分の人生に満足し,それなりに不満足に感じているのだろうと思はれてきます。そして、満足度と最終地位とは,あんまり関係がないのじゃないのかしらなど思ってみました。

スナックやクラブなどの女性がくれた名刺も沢山ありました。この種の名刺を貰い始めたのは,昭和40年代の中頃からであったように思います。昔は女性の名刺は小さくて,角が丸くなっていたものです。

初期には珍しさでキープしておきました。その頃のもので、広島で貰った,チイママという当時の新語の肩書きを,昔あったブルーのインクのボールペンで書き加えたのもありました。

いつの頃からか,女性のこんな名刺を捨てないで持っていると,幸運がつくのではないかという迷信に捕らわれたような気がするのです。貯まった女性の名刺の枚数の多さは,そのまま,私のオツムの目出たさを示しているのが哀れでした。

最後の頃は,いくら美人の名刺といえども,とんどん捨てたのですが,それでも記憶の薄いのが一杯貯まっていました。

それもこれも、いよいよ終わり、老幼男女,誰のも彼のも,きれいさっぱり全部破って捨ててしまいました。

 

●退職の日が近づくにつれて,たまたまNHKラジオの深夜便で聞いた「肩書を捨ててスッキリスニーカー」という川柳の気分が盛り上がってきました。

 

●ある銀行にあった借金を,退職金で返済したいのですがと申し入れました。手続き上,返済期限が3日ほど遅れるかも知れないので、その場合つなぎ融資などしてくれる方法はありませんかと聞くと,返済遅れの利率は罰則的な年率14%だとの返事でした。しかし,相手の女性は,上司と相談して見ますと,仕事のなくなる老人に対して,すこぶる同情的に対応してくれて、大変に気持ちが和みました。

 

●辞めるひと月ほどまえ,能楽堂で道成寺の能を見ていました。能はこんなストーリーです。

昔,鐘の供養の日,寺の境内は女人禁制,つまり、どんな理由があっても、女性は絶対に入れてはいけないと寺男は指示を受けていました。しかし,美しい舞姫が来て,鐘を拝ませて欲しいと頼むのです。寺男は、しおらしい娘のたっての願いに目がくらみ、聞き入れて通してしまいます。女は舞を舞っている最中に,突然鐘に飛び入り,同時に鐘が鐘楼から落ちます。寺男の責任が問われることになります。

後事を託する事業本部長とは,先日,仕事の引き継ぎを済ませ,意見の一致をみていました。だから,一応はこれで仕事は済みなのですが,あることについて、やっぱり社長にも話して,彼の意見も聞き,納得を得ておくのが責任というものではないかと思い始めました。

そうすると,いま見ている能の間にも,その件について,一刻も早く社長に話したいと思い続ける羽目になってしまい、楽しめませんでした。

後日,その件について社長も同意見であることを確認し、やっとほっとしました。

 

●前々から会社勤めを辞めたら,取り組みたいと思っていた仕事が幾つもありました。あと4つの登頂を残すだけになっている日本百名山の完登,モンブランへの再挑戦,中国謡跡巡り,アメリカの旧友訪問などがそれです。

早速,スケジュールの立案やら,チケットの予約手配などを始めました。

いざ、それらを始めると、その後,会社の会議に出ていて,奇妙なことに気がつきました。経理,資材,人事、そしてややこしいシステムなどの話を,頭がぜんぜん受け付けなくなっているのです。

これは,まったく予期していない現象でした。まさに,人間,自分がその立場になってみなければ分からないという感を新たにしました。

38年間,電力会社に勤務しているあいだにも,異動のたびに頭の切り換えは必要でした。

とくに発電所の現場から本店の企画部へ転勤したときの戸惑が大きかったことは,今でもはっきり覚えています。

第2の勤めとしてメーカーに転職した時の違和感も,相当,大きかった筈です。

ところが,今回の現象では,それらの時とは、また大きく違って,あたかも脳の思考活動のゲートが,自分にとって興味のあることや好きなことしか通さないという,今までとは全く異質の,気楽なものに変わったように思われるのでした。

その状態になってからは,これは覚えておかなくてはいけないとか,これは必要だという義務的な項目は、何回睨み付けても結局頭に入っていかないのです。

どうも,こういうことの延長が,ボケにつながって行く気配もするのです。

ボケが進むと,周囲は迷惑でしょうし,自分でも将来その時になって,これはしまったと後悔するのかもしれませんが,目下のところは,まことに気楽でいい気分なのです。

努力を必要とする情報を頭が受け付けない状態を,自分なりの感じで記述してみますと,プログラミングのようなソフト上の変化から起こっているのではなく,脳の神経細胞が、意志など入る余地のないようにハード的に,ネットワーク構成のレベルで変わってしまったような気分がするのです。

人間の脳を構成する神経細胞の数は約100億個あり,毎日10万個ほど死んでゆきます。そして神経細胞は新しく出来ることはないそうですので,総数は減ってゆく一方だとのことであります。

脳細胞の数だけをいうならば,生まれたばかりの赤ん坊がが一番多いのです。しかし事実は,人間らしい脳の活動は,成長するに従って備わってきます。従って脳の性能は,脳細胞の数よりも細胞の働き方が決定要素になっているのです。つまり、そのときの舞台に上がって,演技している脳細胞が、どれだけ上手に演ずることが出来るかが問題なのです。

さて脳細胞が1日10万個減るとして、1年の減少数は3650万個,70才でも25億5千5百万個しか減っていません。つまり75パーセントも残っているのです。

してみれば,耄碌するのは,舞台に上がる役者の数が、足らなくなるために起こるのが主因ではなく,脳細胞、つまり舞台に上がった役者の腰が曲がり,「どっこいしょ」と声をかけないと立てなかったり,よたよたしたりしているせいなのではなかろうかと推測されます。

長年続けてきたサラリーマン生活をいま終わって,私の脳,つまり舞台に上がった脳細胞たちは、演ずる脚本が,言ってみれば,股旅ものからミュージカルに変わったような,相当、根本的な変化を感じているのだと解釈されます。ともあれ、自分の脳の機能の変化は、わたしにとって大いに意外に感ぜられるのでした。

もしも辞めずに現職を続けて勤めていたり,あるいは第3の類似の職場に移っていたとしたら,脳はいったい、どのように反応していたのだろうかと,「もしも」のケースに思いを走らせるのも一興です。

その意味では,サラリーマンが職を辞めることは,人生に何回もない、特別に大きなストレスなのかも知れません。

 

●いろいろの会議に出ていると,最近とくに販売先からの値下げの要求が強くて,コストダウン,つまり、いかに材料費と工数を減らして受注を続けていくかという話ばかりに花が咲いているのが印象的です。

わたしのように,これからサラリーマンを辞め,消費専一の生活に入れば,物の値段が下がるのは,裏表なしに,無条件で歓迎です。

働き盛りの人たちが,リストラに巻き込まれて失職すると騒ごうとも,こちらは始めから収入源となる仕事なんかないのです。

かって植木等が歌っていたスーダラ節ではありませんが、そのサラリーマンよりも、もっと気楽な稼業ときたもんだと言うわけです。

こうして,気楽を謳歌しながら,呆けが加速されてゆくのだろうと思います。

そうそう,それにしても「最後は,なにより健康」の言葉の重さが身にしみます。

 

●いままでは,先輩たちが呆け防止に,何かを,たとえばNHKでフランス語を勉強しているなどという話を,抵抗なしに聞いていました。しかし,自分のこととして,いまさらに考えてみると,呆けは、そんなに防止したいことなのだろうかしらと思われてきました。

いつまでも呆けないでいたいということは,なんとかいつまでも仕事していたい,いつまでも生きていたいということに通ずるのではないでしょうか。

逆に考えれば,それは、社会に役立つ仕事をしていなければ,そして他人からサポートされるようになったら,その時点で死んだほうがよいということにも通ずるわけです。

確かに百年前までは,実際,ほぼ,そういうことになっていたと言えます。ほぼと断ったのは,いつの世にも、明らかに社会に有害な人間さえ,ちゃんと生きているからです。

この年頃,経済が豊かになり,環境が改善され,寿命が伸び,その結果,社会のサポートを必要とする弱い者も,生かしておけるように変わってきています。

その変化の程度は大変に大きく,極端に言えば,いまの社会で本当に役立つ仕事をしている人は何人いるだろうかと,改めて考えさせられるほどであり,随分と、いい加減な人間でも生きられるようになっています。

わたしの引退も,能力と報酬とのコスト・パーフォーマンスガ低下してきたことは間違いないのですが,かといってその面でまだ働いている人たちが,とくに優れているわけではなく,やはりまずは順番だから後進に道を譲るというのが,もっとも素直な理由であろうと思はれます。

してみれば,気楽に呆けて,本人がみっともないことを嫌がらず,恥ずかしがらずに世辞のひとつも言い,周囲に快感を与えているのなら,呆けは人間の当然の権利,ないしは人生の一過程として好ましいことである,と言っても言い過ぎにはならないと思います。

我が国の経済を繁栄させたのも,社会が快適な環境を手中にしたのも,本当は各人が本人とか自分の家族とかの安楽を目的として努力した結果であって,見ず知らずの老人の余生のことなど知ったことではないのかもしれませんが,だれもそうは言わないのですから,私も甘えて良いはずだと勝手に思っているのです。

 

●退任を意識してから,趣味の山へ登りにゆく回数が激減しました。近くに住む母親が弱ってきて頻繁に訪ねてやるようになったのも一因ですが,むしろ休暇を取ると言いだすのが非常に心苦しくなってきたのが主因です。

サンデー毎日の日が,もうそこまで来ているのに,なんでいまさら休暇など取るのかと,他人の目も見るでしょうし,むしろ自分自身の心が,絶えずそう囁き続けてているのが,なんとも侘しくてなりません。

「私用だが銀行に寄ってから出社する。会議は10時からにしてくれ」そんなことを堂々と言っていた日々が懐かしく思われます。あの頃は,本当に仕事をしていて,自他ともに必要な人だと認めていたのでした。

いま老残の身となっては,出社の目的が変わって来ているのです。仕事をすることから,会社で椅子に座っていることにと。

私が過去に「あんな仕事の出来ない社員を,頭数に入れて期待するのはおかしい」などと喚いて,不運にも力を出せないでいる他人を,いじめ過ぎたのではなかろうかと,今になって反省するみたいな妙な気分になってしまいました。

 

●そうこうする内に,新進党から細川元総理が離党しました。その評判は良くありません。

彼の性格では、自分からは悪いことはしないだろうが,いくら清潔な理屈をこねても,たったひとりで政治ができるものかということなのでしょう。

わたしは父や母から,意地悪をしてはいけない,威張ってはいけない,悪いことをしてはいけない,ならぬ堪忍するが堪忍,右の頬をうたれたら左の頬を出せ,そんな教育を受け、そのように育ちました。だから,どうしても細川さんが受けているような批判から逃れられそうにありません。正直なところ、やはり坊ちゃんといった人種なのです。

ある人が、悪いことに、どう対応するかということの,軽いレベルでの判断は,煙草を吸うかどうかでしょう。いまや喫煙が,軽い社会悪とされているのは常識です。しかし,世間の大勢は、煙草の煙で他人を苦しめることなど苦にするようじゃ,政治家としては失格だよという判断なのだと思います。

昔,私が煙草の煙に顔を背けたとき,スナックのママに言われたことがありました。「いくら部下に評判がよくても,上の人に良くしないと出世はできないよ」と。

私が世渡りについて、そんなに興味を引かなかったのは,DNAのせいなのか,それとも親の教育のせいなのでしょうか。

善し悪しでもなく,損得でもなく,多分10才ぐらいまでのわたしに刷り込まれたものの,必然的な結果なのだと思います。

 

●こんなふうになってきてから,極端に無口になっているのに気がついています。他人が間違ったことを言っていても,違ってるよと言ってやるのが億劫になっているのです。勝手に言わせておけ,そう思って口をつぐんでいます。

わたしは小学校までは,本当に目立たぬ子でした。

この歳になって、また、そんな頃のわたしに帰ったようです。裸のわたしの本質はこんなものだったのかしらという気もするのです。

それでも子供の頃には,わたしに優位を感じさせてくれる妹や弟がいました。その後の,学校や会社では,立場だとか地位だとか,そんな外的条件が,わたしの本性にそむいて,口を開かせていたのかもしれません。

いま改めて世間の人たちを見ていると,平均して今の私よりは,もうちょっとは余分に喋っているようです。

今はいささか,一時的な鬱病寄りの状態になっているのかもしれません。

 

ごく最近、大学卒業45周年の会合をやりました。卒業の時に作った記念誌を持って来た友がいました。その中に「個人寸評」と言う欄があって、私の評に「無口で気味の悪い奴」と言うのがありました。若いということは、恐いものなしだとも、44年間よくも本性を隠して勤めて来たものだとも思ったことでした。

 

●今後の生活設計のデータ取りを画策し,銀行に行って新しい口座を開きました。手続きを始めたところ、途中で印を忘れて来たことに気がつきました。いつもは背広に入れていたのに、今日はラフな服装で来たために忘れたのです。

思えば,長い「判つき人生」でした。欧米などのサインの社会では,自分を証明するためにサインする指が体についているように,判つき社会、日本に住んでいる私は、いつも背広のポケットに印を入れていたのでした。

非常勤監査役をしている会社から,今度来る時には書類に判を欲しいので印を持ってくるようにと、よく電話がありました。そのときは,なんでわざわざそんなことを言ってくるのかと,不思議に思ったぐらいです。

今回は大急ぎで家へ戻り、とってきて判を押しました。つくづく判を眺めると、何十年も使ったので,周りが擦り減り中凸になっていました。

昔,父の判がそうなっていたことを,急に思い出しました。思えば「判つき2代目」だったのです。

 

●歓送迎会のあとで,馴染みのスナックへ,暇乞いに参上しました。

歓送迎会というものは,新しく着任して来る人の関係で,どうしても時期後れの感じとなるものです。既に退職し家に引き籠もっている者にとっては,やや無慈悲な感もあるのですが,その代わりに席上ではベタ誉めしてくれます。

とくに社内の転勤ではなく,退社ともなれば,あと腐れがないから褒め放しです。いわば葬式と同じことなのです。

さて,その夜訪ねたスナックのママも,始めは「えっ」から始まって,わたしが、もう年だから仕方ないよと言うと「でも幾つなの」,「知らなかったわ。まだまだお若いのに」というような,多少こわばったやりとりがありました。やがて酔いが回るにつれて,「でもいいわねぇ,年金が一杯あるんでしょ」と言いだしました。すると周りのお客さんたちも話の輪に入ってきて,ひとしきり年金とか健康保健の話になりました。「あんたは山男で病気と縁がないはずだ。医者にかかったときの当面の負担は多いが,当座は払込額の安い国民健康保健に入っておき,3年後に安い老人医療につなげたほうが有利だ」と助言してくれる物知りがいたりして,大いに盛り上がりました。

そのうちに,お客のひとりが,なんでスナックで飲んでいて,こんな年金の話をしなくちゃいいかんのだと言い出して,一同大笑いをしたことでした。

先日,梅の花の咲く里から,道なき道の藪を漕ぎ、やっと辿り着いた山頂での憩いのひとときに,失業保健が300日だとか,その延長の特例がどうやらとかいう話になって,折角山に登って俺たち何を喋ってるんだと大笑いしたときのことを思い出しました。

ともあれ、めでたい長寿社会ではあります。

 

●いままで同窓会費などの振込は家内にやって貰っていましたが,退職後は頼む理由がなくなりました。だから、自分でウィークディの午前に郵便局に行きました。

男の老人が何人かいましたが,みんな枯れた感じで,いかにもそれらしい人たちばかりでした。わたくし本人としては,まだ、ちょっと場違いのような気がしたのでした。家に帰ってその話をすると,家内は,あなたの年の男の人は,まだ何かをしているのよと言うのです。

 

●地下鉄に朝9時半に乗りました。やはり,わたしと同じ年配の人が,何人も乗っています。いよいよ,お仲間に入ったのだと思いました。総会直後の時期だけあって,中には心なしか仲々威厳のある人もいるように思はれました。

わたしよりもちょっと前の世代の人たちは,こんな暑い時期でも,会社時代と同じように,ワイシャツ,ネクタイ,背広から離れ難いように見えます。

われわれ世代は,さすがにもっとラフなのですが,それでもカッターシャツあたりまでのくだけようで止まっています。それは,まだ、いささかワイシャツへの郷愁を残しているからだと見ました。

わたしはと言えばポロシャツ。これでも山へ行く時のTシャツにトレパン姿よりは,余程フォーマルなつもりなのです。まったく、よくぞ山男に生まれけるでした。

 

●信託銀行へ行きました。これも平日の午前でした。この時間に来るお客に対応するマニュアルでもあるのでしょうか。孫のような可愛い行員が,この欄は何株と書きなさい,ここは何枚ですと,まことに親切に教えてくれました。もっとも、たまには間違えて教えたりもするのです。

教えられているほうが,つい先週まで「この数字の間違いは何だ」などとわめいていた本人なのですから,宇宙人が見ていたら,さぞかし可笑しかろうと思いました。

愛される老人になって,若い人たちのやる気を引き出すのが世のためでありましょう。早く,演技力を身につけなくてはいけないと思いました。

 

●89才の母から電話が来ました。,小諸へ行くから,JRの切符を買ってこいとのことです。

まだ先のことでしたから,今までだったら,なにかのついでの時に買ってくるのが普通でした。しかし考えて見れば,浪々の身の上では,今すぐにでも行けない理由はありません。

早速,駅まで行き買ってきて,一時間あとには母親の家へ行き,失くするんではないよと念を押し渡してきました。

途中でいつものように,地下鉄の駅の登りのエスカレーターを駆け登り,ルーズソックスの子供たちを追い抜きました。

敬老パスと健康とのお陰で,金と時間の負担なしで飛び回っていて,まるで鈞斗雲に乗った孫悟空のようだなと思ったことでした。

 

●銀行から金を出してきました。わりとピンとした札でしたが,良く見ると新札ではなく,皺が伸ばしてありました。

「銀行には,皺を伸ばす機械があるんだろうな」と言うと,聞くなり女房は「そんな物ないよ」と答えました。女房は銀行の各支店に,皺とりの機械があって,お客が自分で入れて伸ばすと想像して言っているのです。

「だって俺のように折り畳んだ皺だらけの札じゃ,自動機では使いにくいから,回収した札をどこかで伸ばしているんだと思うよ」と私の考えを言いました。

もはや稼げなくなった男を,妻は自分より一段と能力が低い存在,ものを知らないと見ているのです。毎日会社に行っているうちは、こんなことはありませんでした。

最近ことごとに、こんな妻の態度を感ずるようになりました。これはメスの遺伝子に書き込まれている、強い者に従うという本能の発現なのだろうと思うのです。

退職して、今日で、すでに一ヶ月が過ぎたのです。

 

●退職してからは「お暇が出来て,さぞかし,ひんぱんに山へ出掛けているでしょうね」と人に言われます。

10年ほども前のことですが,ある旅行業者が「休みの日にスキーに行くのはもう古い。貴女が行こうと思った日がお休みなのです」と宣伝していたことがありました。

当時としては,大変ユニークな言葉でした。それでわざわざそのパンフレットを切り抜いて,会社の机の上のガラスに入れておいたのでした。

事実、過去何十年かは,休みの日に山へ行こうとするから,天気の悪い日にも山へ行ったのでした。

でも今は,自分の都合だけで、天気予報の良い日に山へ行ける身分になれたのです。そして,いざそんな境遇になってみると、案外,そういう日は稀なものだということに気がついているのです。

 

●やはり,お別れに行った別のスナックのママが言いました。「聞いていました。聞いた瞬間,その人と私と同じことを言ったんです。何だか分かるでしょ」と切り出しました。

自由に山へ行く時間が出来て,幸せでしょうねと言ったのだというのです。

本人の気持ちは,もうちょっと複雑なのですが,まあ,そういう面があることも確かであります。

 

●昨日まで会社へ行っていたのに,明日から来るなと言われるのは,本人が健康であれば、年令に関係なく、一種の失業感があるのは自然でしょう。

でも,私の場合、本人から失業したと言い出せば「いったい何才だと思っているんだ」と言われるだけのことであります。

そして,そうこうする内に,意識も実体も,ほんとの隠居になって行くのでしょう。それにしても,健康であることを,なによりも有難いとしなくてはなりません。

 

●嗽石の坊ちゃんを,また買ってきました。もう何冊目のことでしょうか。私の読書はソフト本位ですから,いつも文庫本で求めることにしているのです。

この小説では登場人物が単純に類型的に描かれていて面白いのです。

中立派として,校長,うらなり君がいます。校長のタヌキは,規則,道徳がフロックコートを着たような男です。そしてうらなり君は,ただ大人しいだけで,他人に婚約者を盗まれるお人良しなのです。

悪役の筆頭は教頭の赤シャツ,恋敵を左遷させることを画策するような悪者です。また彼にくっついて,出世のために歯の浮くような追従をするおべっかの「野だいこ」がいます。

また、正義派としては,百万人といえども我行かん型の数学教師の山嵐と,ストーリーの主人公で思ったママを口にし,いいと思ったことをやる,自然人丸出しの,わが「坊ちゃん」がいます。

 あなたはこの小説の中のだれが好きで,だれが嫌いでしょうか。

 

●いまや余るほど時間のある生活,時間大尽です。時間はかかりますが、料金の安い東名高速バスに乗ってみました。昔,子育てに追われ懐がぴーぴーしていた頃に、このバスで何度東京との間を通ったことでしょうか。

沿線の風景を眺めていて、東京に近いところほど、変化が激しいのに気が付きました。

あたりを観察しながらのんびり席に座って行きました。頭の固い大人たちには評判が良くないようですが、茶っ髪の若者が,結構きっちりと時間を守っているの感心しました。

また若い人たちが短い時間に、上手に昼飯を調達してくるのも偉いものだと思いました。

浜松の辺りで高速道路のセンターライン工事があり、渋滞に巻き込まれてしまいました。ちょうど良い機会だと思って,隣り車線の車を覗いて時間をつぶしていました。

大型トラックを、なんと若い女性が運転していました。ところが、この運転手,携帯電話で延々と喋ってるいるのです。どんな話なのでしょうか。客先と納品の時間でも打ち合わせているのでしょうか。でも多分、渋滞の時間つぶしの、ただのお喋りであろうと想像しました。もしもそうなら、付けを払わされる会社は、全くたまったものではありますまい。

予約制の高速バスに予約なしで来て、撥ねつけられても怯まない旅慣れた若者もいました。そして、とうとう何とかかんとか言って、希望した便に乗ってしまいました。これには私にはない能力だと、尊敬させられました。

 

●退職してから1ヶ月は、送別会その他で、なにかとスケジールが詰まっていました。

それらをすませたあと、すぐに北海道へ山登りに行きました。そして2週間で8山に登りました。そのうちの4山は日本百名山でした。そうして百番目を利尻山にして、とうとう日本百名山も終わってしまいました。

 

●時間のたっぷりある時間大尽の冥利で,ほかに予定がなくて天気の良い日に巡り合うことができました。そこで平日に御嶽山に登りに行きました。

その帰り道を選ぶのに,年金生活に入った今、時間があって金がない生活の象徴として、高速道路に乗らずに中津川から19号線で帰ることにしました。

中津川と恵那の間で大渋滞に巻き込まれました。なんということもなく自然渋滞なのです。この辺りの国道19号線は二車線になったかと思うとまた一車線になり、とても走りにくいのです。よく事故にならないと思うぐらいです。大型トラックは、それをちゃんと心得て車線を選んで走っているようでした。

今までいつも通勤の帰りに、勝川橋の辺りで出会っていた、平日夕方の車の列は,あの大渋滞の洗礼を切り抜けてきたドライバーたちだったのかと,いまさらながら,プロドライバーたちに敬意を表する気持ちになりました。

引き続いて、8月15日には富士山に登りに行きました。

これら2つの登山は、すぐ後にモンブランに行くので、高所順化のためなのでした。

 

●富士山から帰って10日ほどして、今度はヨーロッパのアルプスへ行きました。前の年にモンブランに登り損なった復讐戦なのです。この度は予備日を有効に使って、予定どおり登ることができました。

 

●スイスから帰って、家に3日いて、以前いた会社の人たちと一緒に中国へ謡跡巡りに行きました。

もっとも、その日本にいた3日の中の1日は関西電力の人と、やはり洛南の謡跡巡りに行ったのです。

これはあくまで、行けたから行ったのです。

 

●中国から帰って4日目に、年に1回の謡の発表会がありました。熱田神宮の能楽殿の舞台で、プロの能楽師たちに囲まれて、砧(キヌタ)を謡いました。

 

●今度はその後、約半月家にいました。そして、次はアメリカに飛びました。

40年前に知り合った旧友たちに会いに行ったのです。

昔、1年滞在したニューヨーク州・スケネクタデイで、得難い、心の通い合う友達たちと、楽しい4日間を過ごすことができました。

かの地の、もう82才とか90才とかの古い友たちたちが、意外に元気でそれなりの青春を楽しんでおり、私ばかりが年寄りぶっているのではないかと、反省させられる思いがありました。

その帰り道に、カナディアン・ロッキーに行きました。カルガリーで車を借り、カナダ第2の高峰、ロブソン山の麓まで行ってきました。

 

●そうこうする中に11月になりました。退職に当たって頭に浮かんでいたスケジュールは、一応全部こなしてしまい、さて次はということになりました。

しかしこの頃になると、こんなに楽しく遊んでばかりいていいのかという気分になってきたのです。

旅行中にメモを書き貯めた手帳を、他人に見せられるような文章に整理しなくてはと、何かに追われるような気分になったのも自然なことです。

どうも私の本来の性格からして、じっと座って文章を書いているよりも、忙しそうに飛び回っているほうが、楽なのです。

 

●とうとう観念してワープロの前に座ることにしました。

最初は、中国謡曲旅行の報告に取りかかりました。これは謡曲の雑誌に投稿する期限があったので、待ったなしだったのです。

次いでモンブラン登頂記録に取り付きました。これも、山仲間の会合に間に合わせたかったからです。

そうこうする中に、文章作りも結構面白くなってきて「アメリカの旧友」には、自発的にスムースに入ってゆけました。

 

●このような文章作りをしていると、8年間使ったワープロの液晶画面が、いよいよ暗くなってきて、読みにくくなりました。

そこで、子供に後継機を相談したのです。この時代ですからパソコンに変えることにしました。

キーボードの指使いは、今までのオアシスの親指シフトから転向することになるのですが、いままでオアシスでも、たまにはローマ字で打っていたので、たいして抵抗はありませんでした。

使ってみると新しいワープロソフトは、いろいろな機能がついていて、大変に便利でびっくりしました。

また、今までの文章の入ったオアシスのフロッピーからの読み込みも、子供がインターネットでうまいソフトを探して、インストールしてくれたので助かりました。

過去に書き貯めておいた雑文の整理にかかっていると、あっと言う間に時間が過ぎていくのでした。こんなにして、あれやこれやで、一時はパソコン屋になってしまいました。

 

●近くに住んでいる母親は、私が退職してから、前よりも頻繁に顔を出すのを喜んでいました。また私の運転する車で送ってもらうと、タクシーに乗った時のように、いちいち行く先までの道順を言わなくても済むのを得としてくれました。

家内は、もちろんお抱え運転手ができたことを、大歓迎でした。

素直に考えてみると、私はいわゆる二代目サラリーマンなのです。他人に無理難題を頼み込むよりは、頼まれたことを気持ちよく引き受け、いい人だと言われてきたのが実体でした。

だから、母や家の者に有り難うと言われながら、お抱え運転手を勤めているのが、とても幸せに思われるのです。

 

●文章書きは、いじりだすと際限がなく、結構面白いものです。そして、たまには図書館に行って調べ物をしたりするのも、新しい興味の種です。

そして、その合間には、いい子になって運転手を勤める、こんな生活もなかなか乙なものです。

作った雑文は、プリンターで印刷し、近所の文房具屋でコピーしては、家族や気の置けない友達に押しつけています。

こんなにして、原稿を売って生活費を得る必要のない、勝手気ままな文士にでもなったような気分を味わうこともあります。

これはもう、一種の天国的な境地と言ってもいいのではないかと思うのです。

 

●思えば、サラリーマン生活の殆どの期間、私は会社に行くのが大好きでした。停電作業だ、台風だなどと早朝、深夜、休日の出勤も、当然のこととして、張り切って職場に駆けつけたものでした。

ところが今は、今日は会社に行かなくて済むという、それだけのことで、とても幸せに感じられるのです。つまり、最後の時期には、会社へ行くことが、すっかり嫌いになったのでした。

私は15才のときに敗戦を迎えました。B29の爆撃にやられ、なにもかにも壊滅した名古屋での生活のなかで、食べ盛りの私たち兄弟は、貴重品の牛乳や卵をちびちびと分け合っていました。それを見ていなくてはいけない親たちにとっても、さぞかし辛い日々であったことでしょう。

それから半世紀、私たちの一族にとっては、美味い不味いは別として、口に入るものさえあれば幸福に感ぜられるのです。短期間の苦労が、運良く、その後の長い期間、ずっと満足を与えてくれているのです。

私は、これからどれだけ生きるかはわからりませんが、いまは一日でも長く、会社に行かずに済む幸せを享受しようと思っています。

こうして、すでに会社を辞めて、半年が過ぎたのです。

 

●非常勤監査役の仕事が、まだ一年残っています。通常の手段で監査の仕事をすることは当然のことですが、それだけではなく、もう一寸会社に役に立つことをしていないと、皆さんの前に顔を出しにくいという意識はずっと持っていました。

第一線を退いても、なんとか会社に役に立ちそうな情報を手に入れようと心がけていましたが、これが意外に難しいことが分かってきました。特定のテーマについて調べることは、有り難いことに過去の人脈による手段があります。しかし特定のテーマに絞らず、情報を広くスキャンしているには、やはり四六時中、世間と接触していることが必要なのです。

忙しい人の時間をとって煩わし、なにか種がないかと嗅ぎ回るのも、せっかく仕事を辞めた者がするべきことではないと思えるのです。

すでに余所の会社で閑職についた人の時間を貰って、情報を仕入れようとしたこともありましたが、これは私の不徳のせいで、すぐ登山の話に曲がって行ってしまい、成功しませんでした。

とうとう思いあまって、私をこの会社に紹介してくれた方に「もう一寸業績に寄与できないと、給料を貰うのは後ろめたいので、辞めようかと思う」と相談しました。

そうしたら、貴方の性格はよく承知しているから、お好きなようになさって下さいと言われました。

 

●三月下旬になると、例年のように我が家の庭のパンジーが、わっと活躍を始めました。去年までと違って時間があるのですから、いままでは妻に言いつけていた花殻を摘む仕事を自分でやりました。ちゃんと手入れをしてやれば、理屈どうりに、何時までも元気に、美しい花を咲かせてくれるのです。

花殻を摘むときに、有り難う、ご苦労様と声をかけて摘みました。本心、そう思っているのです。

気が付くと、去年までに比べるて摘み取る基準が、変わっているのです。つまり、去年までだったら、まだ残しておいた程度のものも、今年は大胆に摘み取るようになっていました。

ご苦労様と言う心の中には、はずしてやったほうが、疲れた花も喜ぶだろうと思う気持ちが湧いているのでした。一日余分に勤め、老醜をさらさせるより、ゆっくり休ませたほうが親切なのだと思うように変わってきているのです。

言うなれば、弔辞の最後に、どうぞ安らかにお休み下さいと述べるのと同じ気持ちなのです。

今までは、弔辞の場合、お休み下さいの前に「逝去された今となっては、」と言う言葉が省略されているものと勝手に解釈していましたが、実は本人も本心から、ゆっくり休みたいと思う場合もあり得るものだと、やっと思い至ったというべきなのかもしれません。

昔、研究所にいたとき、S先生に顧問として指導していただいていました。大学でも教えていただいた恩師でした。

ある日、先生が私に「もう高齢になったから、辞めさせて貰いたいと思う。会社の中で相談してくれませんか」と仰っしゃいました。もちろん、御意志の通り相談はしましたが、顧問を継続してお願いしたいと思うと私の意見も付け加えて相談したのでした。

それは必要上のことも当然でしたが、そのほかにも先生に失礼なことはしたくない、先生に良かれと思う気持ちが全くなかったと言えば嘘になります。

今になって振り返ると、先生は本心からかなり強く、顧問を退きたいと希望しておられたのかもしれません。

私が、そんなことを思うのも、現在のように、仕事を退いた生活に、安らぎを感じているからなのです。

部下に退職を申し渡していた立場の気分のままだったら、パンジーには、もう一日、もう一日と疲れた日々を勤めさせていただろうと思うのです。

自分が会社を辞めたことで、他人の退職について、こんなに気楽になれるとは、想像もしませんでした。

 

●ゴールデンウイークともなると、庭の木々がジャングルの趣を呈してきます。

もともと我が家の庭は、木を沢山植え過ぎなのです。

今日は、とうとう見かねて、鋏を入れることにしました。ジャングルになっているのですから、彼らが一番欲しがっているのは太陽の光なのです。

隣の木との間の、光の配分の調整が私の仕事です。

「わるいけど切るよ。気持ちはよく分かっているけど、ほかの木のこともあるから」鋏を持っているあいだ中、私はこの言葉を絶やしません。

人を採点し管理する立場は、係長になってからですから36年間やっていたことになります。在職した会社の定例の異動は、株主総会に合わせ毎年6月末でした。だから毎年、新年を迎えると、人事異動のことを思って気が重くなったものでした。そして、人事異動計画が実質的に終わるゴールデンウイークまで胃の痛む日々が続きました。

「わるいけど待ってくれよ。気持ちはよく分かっているけど、ほかの人のこともあるから」心の中では、そう言い続けていたのです。人事の問題では、それを口に出せないだけ余計に負担が大きかったのだと、今になって思うのです。

言い訳を口にして木を切りながら、こんなに気が弱くては、自分は人の上に立つべき性格の人間ではなかったのかもしれないなどと考えたりするのです。

切るのが人でなく、木の枝である今が、とてつもなく幸せに感じられます。

樹木の形などどうでもよい、なんとか折り合いをつけて、まんべんなく下枝まで日が届いているのを見るのが、一番楽しいのです。

 

●結構、忙しい日が続いていましたが、ゴールデンウイークに入って急に暇になりました。実はこの経験は去年からのことだったのです。

この時期の特徴は、多くの人が、職場とのリンクが薄くなる点にあります。

それと反比例して、家庭でのリンクが強くできるというわけです。

私は去年から職場とのリンクが切れかかっていましたし、今年はもう完全に切れているのです。

会社を退いてからも、ゴールデンウイーク以外の時期は、ゴルフ、能、俳句、同窓会、一寸した仕事などが、適当に詰まっていました。

ところがこのゴールデンウイークの時期には、一応は、その分野に関わる人たちを、家族に奪られたと言う格好なのです。もっともその人たちだって、とくに家族となにかをしているとも限らず、ただ、ぼさっとしていることも十分あり得るのではありますが。むしろ、ゴールデンウイークには、定例的なことは休むことにしていると言った方が、正鵠を得ているかも知れません。

そして、他の時期にでも歩き回ることができる私は、この時期しか動けない人たちに伍して、混雑に拍車をかける気にはならないのです。

昔、飲み屋やクラブの女性たちが、ゴールデンウイークは退屈だと、こぼしていたのを思い出しました。彼女らは、ゴールデンウイークにはお客さんが来ないのですから、可哀相ですが、こっちは今日はどこへも行かずに済む、庭木でもいじろうかと思うと、なんだかほっとするのです。

精神病院の患者さんで、新聞を読むでもなく、テレビを見るでもなく、ただボーットしている人があるのだそうです。その人に、あなたは退屈ではないかと聞くと「少しも退屈ではない、朝飯を食べて、ふっと時計を見るともう昼になっている」など言う人がいるそうですが、やや、その境地に近づいているのでしょう。

世間であれこれ批判されながら、仕事にしがみついている根性は、もとより持ち合わせていません。やろうと思うことの量と、こなす能力のバランスで、不満がないというのは、幸せなことではないでしょうか。

 

●このところ、畳の上で死ぬという古風な言葉が、妙に気になっています。

先日、静岡の単独行主体の変人の山登り小父さんが、80才を過ぎて亡くなりました。追悼文の中で山の友達から、彼は単独行で周囲を心配させたが、なんと奥さん孝行なことに、ちゃんと自宅で亡くなったと書かれていました。

こちらは私、先日、霊仙岳の隣の阿弥陀峯と言う山に登ったとき、こんな道がなくて人が入らない山でなにかトラブルがあったら、非難されるだろう思いがふっと湧きました。

畳の上で死ぬためには、死因がガンや肺炎ならば安心ですが、脳梗塞や心筋梗塞では、全く打つ手がありません。

そして、最近も自分の身の廻りにI 先生や、大学同期のI 君のように、脳梗塞に襲われた人を見ているのです。私にだって、何時巡ってくるか知れたものではないのです。

私の過去にもそれなりの理由で、問題にされそうな単独行があるのです。昨年からの、トムラウシ、後方羊蹄山、ブライトホルン、アラリンホルン、槍が先、左門岳、阿弥陀峯、蕎麦粒山などがそれです、なんか意外に多いですね。

天気が良くて、人の沢山登っている山ならば、突然病死しても、それはたまたま場所が畳の上でなかっただけで、そう非難されることもあるまいと思います。

しかし、天気が悪かったり、人がいなかったりすると、非難は厳しくなるでしょう。発見までに手間と時間がかかるからです。

ましてや、山を舐めてかかって行き先を書き残してなかったり、途中で行き先を変更したりして、どこへ行っているか分からず、人目に触れにくい林道の奥に駐車してある、銀色のデボネアの捜索から始めなくてはならないとしたら、相当厳しい非難を覚悟しなくてはならないでしょう。

その上に、道のない山だったりしたら、この馬鹿、なんで一人でこんな所へ来たのかと罵声を浴びせられることでしょう。

現代では、交通事故なども、あるにはありますが、昔と比べれば、畳の上で死ぬことの出来ない不幸せへの恐怖は、遙かに希薄になっています。むしろ、病院のベッドで、スパゲテーのような酸素のチユーブで、十重二十重に囲まれるところまで面倒を見て貰えるのです。

ともかく私は、ごく普通に畳の上で死にたいと願う気持ちでは、日本人の中で人後に落ちないように思っています。

そうは言っても、四六時中畳の上にいるわけにもいきません。また実績として、大体の場所には行けますし、何才になったら、どんなところへ行っては駄目だと決められることでもないと思うのです。

運良く、テレビで相撲を見ていたりして、普通のことをしているときに死ぬとか、あるいはガンのような、ゆっくりした病気で死ぬことができれば一番問題がありません。

しかし万一、運が悪く、最悪のケースとして、迷惑をかけてしまうような場所で、突然死んだときでも、選択肢がいろいろある中では、まあ、ましな道を選んだとして、勘弁して欲しいと願っているのです。

 

●先刻、玄関で、母が家内を捕まえて、なにか演説をぶっていました。

私は丁度、外出の準備で忙しいところだったので、帰ってきたあとで顛末を聞きました。

先日、私が「失業者落花を浴びて立ち尽くす」いう句を詠んだのを見て、母はその失業者を私だと思って「あの子は可哀相な子だ、運の悪い子だ」と言っていたのだそうです。

大学を出るときに、役所にも他の会社にも合格したのに、あの会社に入ってしまったばっかりにとか言っていたそうです。

大体、もう私は失業者など言える歳ではありません。失業手当は貰えないのです。

問題にされた俳句だって、山崎川の岸で、若い失業者風の男を見かけて詠んだだけのことです。

私のサラリーマン生活は、自分自身でも随分と運が良かったと思っている位ですから、他人から見れば、不公平なほど、運に恵まれていたと妬まれていることだろうと思っているのです。

しかし母親の身なれば、能の文句のように「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷うとは」になっているのです。これもメスに組み込まれた遺伝子活動の発露なのでしょう。

考えてみれば、過去には、世間に仕事が多いのに人口が少なくて、働かなくては具合が悪い時代もありました。また、なんとしても、給料を貰わないと、生きて行けない時代もあったでしょう。それらは、いわば生涯現役が美徳とされた世代です。

しかし今のように、成熟した低成長時代ともなれば、高齢者は早く仕事から手を引き、あとは最小のエネルギーで息だけしているのも、一つの方法として認められているのです。

この二つの考えの狭間にいるのが、我々の世代です。

私が40年前に1年間滞在した頃のアメリカでは、早く仕事を辞めて年金で暮らしたいという人が沢山いました。Happy retirement という言葉も知っていました。

その点で、私は年相応よりも、多少次の世代に近い感覚を持っているのだろうと思います。

もう仕事は、若い人に譲ったのです。そして彼らは彼らなりに、うまくやっているように見ているのです。

それなのになんで、お節介に手を出すことがあろうか、年寄りは、限られた収入の中で、自分のやりたいことをやれば良いではないかと私は思っているのです。

定職のないことを気の毒がられたり、折角のキャリヤーを勿体ないなど、お世辞を頂戴することもありますが、本当に役に立つのならば、世間は放ってはおかないはずです。

現世から本当に消えて行く前に、消えかかった状態があることは、別に異とすることではないと思うのです。

 

●サラリーマンをしている間、年に2回の健康診断を受けていました。母の健康のことで、近くの医院へ行ったとき、壁の張り紙で、市が老人対策として健康診断をやっていることを知りました。

年に2回ならば、その一回は誕生日にするのが良かろうと考えました。

医院で健康診断をお願いしたところ、済んだ後で看護婦が、先生に老人健康診断と言ってもらいましたかと聞きました。医者は市の健康診断ではなく、一般の病気の診断として伝票を回したようなのです。私はそのとき、医者だって儲けたいのだろうと邪推しました。

1週間後に結果を聞きに行きました。従前は血液検査のデータそのものを、本人にくれたのですが、町医者ともなると、データは自分だけ見て、コレステロールが高いようだからと、大衆である患者に解説する態度なのです。私も、今日からは大衆、やがては物わかりの悪い老人になるのだと観念しました。

私は昔から、コレステロールと血糖値は高いのです。そしてその中で、いわゆる、善玉コレステロールが高いことも分かっていました。それは90才の母もまだ高いのですから、多分、遺伝なのでしょう。

コレステロールの値は、10年ほど前に2週間キリマンジェロへ行った後、疲労が激しかったときに下がったことがありました。

しかし、医者の立場になれば、コレステロールが高ければ、下げる薬を投与するのが当然なのでしょう。そうしなけてば、何かあったときに責任を問われることになるからです。

指示どうりに薬を半月ほど飲むと、値は少し下がりました。

そうこうするうちに、先年から脳梗塞で療養中の友人が亡くなってしまいました。相次いで、大学時代の先生が脳梗塞で半身不随になられました。

私もそれを見て気弱になってしまいました。毎朝、医者のくれた薬を飲むことにしています。

医院に顔を出すたびに、医者は胸をとんとんと打診していましたが、さすがに、3度目ぐらいには、これはもういいですかと言いました。もちろん、やって頂かなくて結構ですと返事しました。

サラリーマン時代には、健康診断はポピュラーなものだと思い込んでいましたが、巷ではまだまだ、医者の門をくぐると言うことは、やっぱり本当に病気になった後のことなのかなあと思いました。

 

●朝の散歩は、サラリーマン時代には土、日曜日には1時間、それ以外の日は20分にしていました。今では毎日1時間にしていますし、また、昔のように二日酔いで休むこともありません。

そのため、顔見知りは、人間だけではなく犬のほうにも出来てきました。もっとも犬を飼う習慣も、年々拡がってきたようにも思えるのですが。

犬という生き物は、面白いものだと、つくづく思って見ています。

犬の顔つきや態度が、自分の飼い主によく似て来ているのは可笑しくなるほどです。また、犬のほうも、四六時中、主人の意向を汲むのに、汲々としているかと思えば、主人と一緒にいる安心感から、主人が丁寧に挨拶をしている人にも、そ知らぬ振りをしたりしています。

自分の糞を、ご主人が片付けてくれているのを、申し訳なさそうに見ているのは何とも可愛いものです。

 

●5月末、少々株を持っている会社から株主総会の通知が来ました。

スケジュール的には出席可能です。株主の側から、総会を見るのは、去年まではできなかったことなのです。出来ることは、何でもしてみようと言うわけで、スケジュールに入れました。

当日の朝になりました。ところが、なんとも気が重いのです。

私が会場に向かうのを見て、総務の担当者が予定してない人が来ていますと御注進に及ぶ、重役たちに緊張が走る、いざ着席してみると周りは会社側の人ばかりで異分子に冷たい視線を注ぐ、そんな予感が、だんだん強くなってきたのです。大きな会社であれば、その他大勢の株主の一人として、ぼうっとしていれば済むのでしょうが。

母に電話してみました。もしも、どこかに行きたいから車に乗せていって欲しいと言われれば、すぐにそちらに鞍替えしたい気持ちでした。ところが残念ながら、何にも用はないとの返事です。

気が重かったのですが車で出発しました。

始めて訪ねる場所ですから、きょろきょろしながら行きました。背広の男たちが、いかにもどうぞといった仕草で、誘導してくれました。それで、ついつい、駐車場に車を入れてしまったのでした。でもまだ開会の30分も前でした。通知に書いてあった会場の4階に目をやると、こちらの駐車場を見て、話し合っている男たちが見えました。

総会は、会社側の布陣も進行も、もう全くマニュアルのとおりに運ばれました。

出席の株主は約60名、2割ほどが女性でした。株主席の前部2列ほどには、社員株主たちがガードを張っている様子でした。

議長である社長が、ところどころで一段と声を張り上げましたが、予め、そうするようにと示唆されているのが見え見えで、私は彼の真面目さに好意をもって見ていました。

最初の議決のときには、私は拍手するのを、つい、ためらってしまいました。これは、今回始めて株主の側の席に座ったので、ついどぎまぎしてしまったのです。2回目からは、私も拍手に加わりました。お祭り気分で、なかなか良いものであります。

無事終了したときは、なんだか私まで、ほっとしたような気分になりました。

 

●今朝の明け方近く、こんな夢を見ていました。

なにか会社の慰安会の夕方なのです。「自分はどこに寄道して来た」とか「だれそれはまだ着いていない」などの言葉が飛び交っていました。

そのうちに、明日、なにか重要な行事があるから、今夜はここで缶詰だということになりました。もうもうたる煙草の煙に辟易しながら、しまった、こんなことなら文庫本でも持ってくれば良かったなど思っていました。

トイレに入って、小用を足しているとドアを開けて女性が入ってきました。「あ、大坪さんですね」そう言って直ぐに出て行ったのです。なんでもトイレで怪しからぬ相談をするといけないから、見張れと言いつけられているような雰囲気でした。彼女は昔、秘書をしていてくれた女性なので、私の場合は形式だけチェックさせて貰ったということのようでした。

その内に、集会が解散になって駐車場に行きました。駐車場には、昔乗っていた軽乗用車スバル360のドアが開け放しになっていました。乗り込むと、さらに二人、僕も僕もと乗り込んできました。こんなに重くなっては、今日は、ローギヤで走らなくちゃと思案していました。生憎、車は渋滞中の急な上り坂にさしかかりました。つい、ぐっとアクセルを踏む足に力が入るのです。

夢のことです、なんと次のシーンでは、自分の足で歩いて急な坂を登っているのです。意外に息は苦しくありません、どうせ長く続く坂ではないのだから、そんな見通しでぐんぐん登っていきます。良かった、坂が終わった・・・・。

 

父は享年90才で亡くなりました。亡くなる前の一月ほどは、うとうとと夢の世界をさまよっているようでした。

そんな中で、私が最後に聞いたのは「有り難うございました」という言葉でした。非常に固い調子で、いかにも会社で部下から報告を受けて、それに応えているという様子でした。

 

年間、8760時間の中、目が覚めているのは約6000時間、そのうちで会社にいたり、会社のことを考えていたのは、何割ぐらいになることでしょうか。

週休2日になってから、もう長い年月が経ちました。当然、父よりも会社との関係は薄いわけですが、私も、人生の最後のときに会社の夢を見るものでしょうか。

今でも頻繁に会社の夢を見ます。はっと気が付くと、もう予定の会議に間に合わないと焦っている夢があります。また、書類がよく読めなくて、困惑している夢もあります。

しかし、会社の夢は、もっと見続けていたいと思うような、懐かしい夢のほうが多いように思います。

私の最後の時の脳のスクリーンには何が映っていることでしょうか。

 

●60の手習いという言葉があります。私は70才を目の前にして、能の仕舞いを習い始めました。このことはどうも、段々に老化が進み、孤立感を強めて行く、人生の1過程のようにに思われるので、書き留めておきます。

昔の上司に誘われて、社交ダンスを始めてから9年になります。その中で、実に沢山の事を学びました。外見は同じ人類でも、踊り方に驚くほど相違があることや、二人が組んで踊ることがこんなにも難しいことかと思い知らされるなど、ダンスを始める前には想像もしなかったことがあったのです。

あるダンス教室で、ウインナワルツ(3拍子)を教えられていたときのことです。先生から「違います、右足の次は左足でしょ、ダンスの基本じゃありませんか」と、きついことを言われたことがありました。そこの所が、どうしてもできないので、レッスンが終わってから一人で、右、左とやっていると、先生が「3拍子で2ステップを踊るんだよ」とサジェストしてくれました。

その夜、みんなで一杯呑んでいるときに、その話を出すと、ある人が「あれはブルース(4拍子)じゃないのですか」と言い出しました。

それを聞いて、私は目から鱗が落ちる思いがしました。要するに、その人は、いつも音楽のリズムとステップとを関連させずに、踊っているようなのです。そう思ってみれば、私たちが行くダンスホールでも、ルンバの曲がかかっているのに、委細かまわずワルツを踊ったりしている人は結構多いのです。

ところで、私は耳に入ってくる音楽が気になる方で、はずれていると何とも気持ちが悪いし、その内に足が止まってしまうのです。もっとも、踊るのではなくて、ステップを覚えるだけに足を動かすときならば、耳に入る音楽を無視して動くことはできるのですが。

この私の因果な習癖は、私が電気の技術者として、長年、電力系統の安定度など担当していたのが祟っているとも思われます。電線で繋がっている発電機、つまり世の中で運転中の殆どの発電機は、我々が50ヘルツとか60ヘルツとかの周波数と呼んでいる同じ音楽のリズムにステップを合わせて、回っています。これを同期して回っていると言っています。

たまたま故障などで、回転機同士のステップが狂うと、過大な電流が流れ、停電してしまいます。この現象を専門語では脱調、英語ではステップアウト現象と呼んでいます。

美空ひばりとか森伸一とかは、感情を出すために、微妙にリズムをずらして唱っているのだそうです。メトロノームのリズムぴったりでは、小学校唱歌になってしまうのですから。

まったく何と言うことでしょう、私は上手な踊り手には合わせられず、石頭のカタカタ動くだけのロボットと踊る運命に生まれついていたと知ったのでした。

またダンス、とくにワルツとかタンゴとかのモダン系統のものでは、こんなに厳しく相手に縛られるものだとは思っていませんでした。

人が二人で共同して何かをする場合では、、例えば会社の仕事上の社長と副社長とかの関係では、むしろ硬軟相補うなどの誉め言葉が思い出されますし、そのほかの関係でも付かず離れずが望ましいとされることも、ままあります。

また、カラオケのデュエットでは、相手の歌い方は気にはなりますが、なんと言っても物理的な接触があるわけではありませんから、どんなときでもそれなりに付き合ってゆけます。

ところが、ダンスでは真っ直ぐ行くのか、左、右へ回るのかをリードするのに、体全体を使うことが必要だと言われます。そして、私のようなと下手くそでも、回転のときに二人の体が離れていては、とてもクルリとなど回れる訳のないことは分かるのです。

不思議なことに、組んで踊っていると、相手に気合いが入っているかどうかも、すぐに伝わってくるものです。私など、昔、会社の仕事が忙しかった日には、ついつい踊りのペースが早くなってしまい、相手に迷惑をかけているのが、自分でも分かることがありました。

古い言葉で、乗馬の名人が名馬を駆る有様を「鞍上人無く、鞍下馬無し」と、表現したものですが、ダンスにもこのレベルの一体感が必要なのだと、つくづく思うのです。

そんなわけで、気むずかしい私が、気分良く踊ろうとするのならば、気の合う相手と、固定的に組んでいなければならないことになります。

こんなことを考えていると「それで、一体、今のお前がどうなると思っているんだ」と心の中に住んでいる、もうひとりの年寄りの私が問いかけます。そして「社交ダンスとは、パーティを開き人が集まり、国家や企業の陰謀を企んだり、異性をゲットしたりするものではなかったかね」そんなふうに、どちらにも縁のない老人のハートの痛みを突っつくような意地悪を囁くのです。

そんなことで、私がダンスにどこまで熱心になれるのか、また、この先どうなってゆくのかと、半分諦めのようなムードが漂い始めていたのでした。

そんな心境のなかで、能の舞である仕舞いならば、一人で舞うのですし、合わせなければならない対象は、謡という空気を伝わってくる音なのですから、結合の程度はそんなに厳しくはないだろう、そんなことを考えて仕舞いに入ってみたのです。

 

●会社を辞めてから2度目の東名高速のバスに乗りました。のんびりした気分の時に、やりたいことがあるのは嬉しいことです。この次は、ひとつ、中央線経由で、沿線の山を見ながら帰ろうと思っています。

バスは二階バスでした。席は先着順で、早く行ったので良い席に座ることができました。

久しぶりでもありましたし、二階バスで視点が高かったのと、梅雨で遠くが見えず、勢い近くに関心が集まったのが原因で、車窓からの景色は新鮮でした。。

富士の裾野を走っているときに、谷の奥まで民家や工場が入り込んでいるので、今更のように土砂崩れの危険を感じました。

富士山のような、新しい第4期の火山では、その裾野の谷は出来たばかりの開析谷で、豪雨、地震などの自然現象で作られたことがよく分かります。

崖崩れ、土石流がなければ、こんな谷が出来るわけはありません。そんな所へ進出することは、災害に遭いに行くようなものです。

災害は、恐らく100年に1回は起こるでしょう。千年間ならば数回は起こるに違いありません。

そこで、こんなことを考えてしまいました。

現存する人間は、その寿命から大まかに100年人間と言って良いでしょう。仮にその10倍生きる1000年人間というものを、想像すれば、今ほど車窓から眺めた土地は、しょっちゅう災害の起こる危険な土地と認識するに違いありません。

逆のケースも考えて見ましょうか。高速道路の上り線のバス停から、下り線のバス停に車線を横断して走って行くことは、危険で、なすべきでないことのは、われわれ100年人間なら誰でも認めるところでしょう。

ところが1秒が天寿である1秒人間から見れば、前の車が通り過ぎたのは先々代のこと、次の車が来るのは曾孫の代ということはありうるでしょう。

われわれ現存の人間は全員、肉体的には100年人間と総括できますが、時間に対する観念の面では、一言では言えないように思います。50億年思考の学者もいるし、人の噂の75日思考の人もいるように思われます。

ともあれ、私は比較的長期思考です。100年人間の70年を走り過ぎたいま、自分の人生は、過去に生まれて死んでいった数知れぬ数の人間の中で、普通か、それよりちょっと幸せな人生を送ることが出来たと評価しているのです。

 

●千葉県に住んでいる娘の家に泊まりました。朝、娘婿が勤めに「行ってきます」と言うのを聞いて、ご苦労様、僕の年金を稼いで下さいと、送り出しました。そのやりとりを娘が聞いていて、身近に年金を貰う人がいると成る程と思うわねと言いました。

私は、母の年金を自分が稼いでいるという気になったことはありませんでした。やはり自分自身が一番身近なのです。

年金の問題も、不景気も、基地も、自衛隊も、廃棄物も、どんな難しい問題でも、みんなお互い同士を身近だと感ずることのできる50人ほどのコンパクトな社会だったら、考え易いに違いないと思うのです。

 

●大先輩のTさんが87才で亡くなられました。

だれにも愛されるお人柄で、数々の要職のほかに、千代の富士の後援会長、鷲鷹センターの理事長、名古屋フィルハーモニーの理事長だとか、まったく意外とも思われる色々の分野で貢献された方でありました。

私が謦咳に接したのは、昭和34年に1年の米国留学から帰国したときに、昼飯をおごって下さった時でした。

仕事上では、電力設備の故障で、お客様にご迷惑をかけたときに、Tさんが朝、出社されるのを待っていて、イの一番にご報告するのを日課にしていた時期がありました。

ある時、近くの山から飛び出したハンググライダーが送電線に引っかかりました。幸い、近くにクレーン車がいて、すぐ救出され、当事者は手を擦りむいただけの軽傷で済みました。

電線にぶらさがって(ハング)している写真をお見せして、これが本当のハンググライダーですなど、洒落を言っているうちは良かったのですが、停電の時は、ご心痛をおかけしました。

「どうして、トラブルが無くならんのだ。無くせるなら、部のひとつぐらい作ってやるぞ」そう仰ったこともありました。

現実は、スイッチの故障に対策を打つと、送電線で故障が起こりました。その対策を立てると、今度は変圧器がおかしくなりました。故障が起こる確率は、どの部分でも非常に低いのですが、どこでも決してゼロではありません。馬鹿正直の私は、馬鹿正直に申し上げて、いつまでもご心配をお掛けしたのでした。

Tさんは心筋梗塞を持病にしておられました。当然、食事には気を配って居られました。そして若いときのように、カツ丼をもりもり食いたいと、よく言っておられました。栄耀栄華を極めても、人の欲望とは、そんなものだろうと、コレステロール過剰の私も、妙に納得して聞いていたものです。

ご葬儀で、ひとつの時代が終わったねと、ある人が言いました。焼香をすませ、昔、秘書をしていた友人の隣に座りました。たまたまそこは名妓連とかクラブの女性の多い一角でした。

葬儀が終わり、来賓たちがぞろぞろ出てきました。そしてテントの前を通るとき、反射的に、やはり見知った顔に会釈して行かれるのでした。

知事や市長に、頭を下げられて、私はなにか変な気分で座っていました。

 

●昨年までは、出席するべき株主総会が3つあり、その中の2つは、同じ日の同じ時間に重なっていました。だから当然、常勤の会社の総会に出席していたのです。

今年は、もう常勤の仕事はないのですから、非常勤のほうに出ました。総務課長さんが、今年の総会は、役員オールキャストですと紹介しました。

かくして、とうとう1年が過ぎたのです。

 

専務取締役を退任したときは、いざこそリタイアと力んだのでしたが、一年経ってみると、辞めたのは、決まった会社に毎日行くことだけだったような気がしています。

一年、暮らしてみると、気楽ではありますが、まだ、人任せにせず、自分から新しい事へチャレンジする生活が続いています。

今の実感は、某株式会社から大坪重遠という個人業に転職したようだと表現したら良いのかと思っています。

これからも、間違いなく年はとりますし、外界の状況も変わっていくでしょう。

今後、時の経過とともに、だんだんと引退、隠居と言う気分が湧いてくるものでしょうか。

 

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