題名:ランタン渓谷・ルンルン気分

重遠の入り口に戻る

日付:2002/1/2


●日本山岳会東海支部40周年登山

支部40周年記念行事のヒマラヤ・トレッキングのうち、ランタン・ヘリ・トレックに参加したのは、女性9名、男性5名、計14名でした。

名古屋から中国の重慶までは、中国南西航空の定期便、B737機で約4時間の飛行です。

重慶で一泊し、翌日、チャーター機でヒマラヤ山脈を越えました。世界の最高峰のエベレストと第3位カンチェンジュンガの間を抜けてカトマンズに入ります。この約3時間のヒマラヤ越え飛行が、旅のひとつのセールス・ポイントなのです。

チャーター機といっても、B757機ですから、大きなジェット機です。

このチャーター機には、われわれ東海支部のメンバー約60名のほか、アルパインツアー社の団体なども一緒に乗っていました。

席には余裕がありました。みんな山の好きな人たちですから、核心となる巨峰群が見えたときなど、機内を右に行ったり左に走ったりしました。重量配分が急に変わるのですから、パイロットはさぞかし苦労しただろうと思います。

 

11月は現地の乾季です。行きも帰りも、素晴らしい眺望を欲しいままにしました。

高度約10000mを飛ぶのですが、エベレストの高さは8848mもあるのですから、すぐそこに見えるのです。

文字通り、絵にも描けない美しさ、言語に絶する光景でありました。

そう書いたうえで、文字を弄するのは、愚かなことでありましょう。

 

一番高いエベレストあたりの山々は有名ですが、その高まりが東に延々と伸びている様子が、これほどまでの規模だとは知りませんでした。

ほんのちょっと誇張すると、重慶のすぐ西まで伸びてきていると言えるほどの長さなのです。

ミニア・コンカやナムチャバルワなど、この地域の山の名前を聞いたことはありましたが、こんなに凄い山々が無造作に犇めいているとは、実際に目にして驚かされました。

飛行機が通ったところだけについていえば、カトマンズから重慶に向かって3分の2ほど飛んだあたりに、険しい雪の山が集中していました。槍、穂高のような山群が広がっているのですが、10や20ではなく、恐らく100倍の規模はあるでしょう。

こんな地域には、足を踏み入れるだけでも大変なことですから、ほとんどが無名峰なのだろうと思います。

そう思って世界地図を見直すと、なるほどミヤンマーの北あたりは、標高の高い色で塗りつぶされています。

実際に自分の目で見るということは、私にとっては価値のあることなのです。だから私はいつも窓際に座って、下界ばかり見ているのです。それが何の役に立つのかと聞かれると困ります。決して他人に吹聴したいわけではありません。まあ、好奇心という奴でしょうか。

そういえば、ヒマラヤの北、チベット高原の標高の高いところに大きな湖水があるのが見えました。これも、帰ってから地図で確認しました。

天と地のあいだには、まだ知らないことが、いっぱいあるものです。

 

私たちが今度入ったランタン国立公園は、ネパールの首都カトマンズから直線距離にして約100km北の山域であります。カトマンズからは主峰ランタン・リルンが雪をまとい、常時、真っ白に見えます。いわば首都カトマンズから一番近いヒマラヤなのです。サンスクリット語で、ヒマは雪、マラヤは住みか、つまりヒマーラヤは「雪の住みか」なのです。

ランタン渓谷は、ランタン・リルンという美しい響きの名前を持つ、標高7225mの山を仰ぎ見る感じの谷です。

1949年イギリスの探検家ティルマンによって「世界で一番美しい谷のひとつ」として紹介されるまで地図の空白部分だったのです。

そして、1971年、この国で最初の国立公園に指定されました。

こうして、世に知られた最初から、近代的な自然保護思想に守られているのです。

標高3000mあたりを境にして、上と下で谷の様子が分かれています。

それから下は、樹高30mほどもある高木の森になっています。谷は激流に刻まれた、深いV字谷です。

3000mから上は、一転して低木、そして間もなく草原になります。地形も氷河に削られた広いU字谷で、ところどころ溜め池の堤防のような氷河の末端にできるモレーン(堆石)があります。

人類に何回も襲ってきた氷期のうちで、一番過酷だったウルム氷期(約2万年前)には、標高約3000mまで氷河が押し寄せていたのが分かります。

現在、氷河の末端は、このあたりで標高4300mぐらいでしょうか。その高さまで人間は進出し、放牧を営んでいます。

 

●カトマンズ

ネパールの首都カトマンズの緯度は北緯28度、奄美大島とほぼ同じです。

標高が1300mなので、そんなに暑くはありません。

一年の平均温度が18,6度、一番暑い8月の平均が24,0度、一番寒い1月が9,7度です。

気温は年によって変わりますから、比較は難しいのですが、仮に年平均で似た18.8度を示した1990年の鹿児島は、最高が8月の29,0度と5度暑く、最低が1月の8,1度と1,6度寒いのです。

日本のように温帯に属し、夏は暑く、冬は寒く、四季それぞれの変化があるのは素晴らしいことです。

しかし、他方、エアコンの効いたビルの中のように、夏涼しく冬暖かいのも、快適な環境とされているのです。

赤道を挟んで、台湾中部を通る北緯23,5度の北回帰線と、南米ブラジルのサンパウロを通る南緯23,5度の南回帰線との間で、標高1600mぐらいの高さの土地が、後者の意味での快適な環境のように思います。

 

首都カトマンズもかなり快適な環境で、ネパールの国の中でも、山岳地帯の人にとっては温かく、また低い川沿いの平野に住む人にとっては涼しい、理想の土地なのです。

 

入国した日の午後、半日の観光ツアーに参加しました。

市の西にあるスワヤンブナート寺院を訪れました。ここは、昔カトマンズ盆地が大きな湖だったのを、文殊菩薩さまが水路を開き水を流し出したときに、最初に丘が現れて光を発した聖地であるとの伝説があります。信州の松本平にも似た伝説があるのを思い出しました。

大きなストゥーパのほか、神仏のお像が沢山あって、仏教とヒンドゥー教が素直に混在しています。

尊いお像の横で、それこそ宗教とは関係なしに、親猿が子猿の毛繕いをしていました。

カトマンズにある仏教(ラマ教)のストゥーパは大変に変わっています。ストゥーパとは仏塔のことで、卒塔婆(そとば)の原語だとされています。

円形のドームの上に、帽子をかぶった人の顔のようなものが乗っています。その顔の、ギョロッとした目が、不気味にも見えます。二つの目の上で帽子に隠れているところに、もうひとつ目があって、第3の目が人々の行いの善悪を判断しているのだそうです。四方に顔があり、逃げ隠れはできません。

個々人の行いを、いつも仏様が見てござるという、話のつながりになっています。

市の東北にあるボダナート寺院も訪れました。ここには世界最大のストゥーパがあります。赤い布を体に巻いたラマ教(チベット仏教)のお坊さんや信者たちが、ストゥーパの周りを時計方向に回りながら、お経を刻んだマニ車を回していました。

バナナやミカンなどの果物を一杯売っている屋台の前で、中学生ぐらいの年頃のお坊さんの卵たちが買い物をしていました。

日本では、若いとか幼いお坊さんを見掛けることは、ほとんどありません。

そのカトマンズの若いお坊さんたちを見ていて、自分がその年頃だったときは、戦争末期で食べるものがなく、まるで餓鬼のように腹ぺこになっていたことを思っていました。

そしてまた、謡曲「弱法師」に出てくる、四天王寺で夕日を拝んでいる若い信者のことを連想していました。

 

この日の観光の最後、薄暗くなりかかった頃、市の南東にあるヒンズー教のお寺にゆきました。

お寺には入れないのですが、横に流れている小さな川のほとりで、ヒンズー教の火葬が行われていました。

赤い火がチョロチョロと燃え、もう4体が焼かれていました。煙も時々は流れてきます。

死期を迎えた人は、川縁にある石で囲まれた部屋で、その時を待つのだそうです。亡くなった人は、まず川で洗います。私たちの前では、足のあたりを、かなり形式的に水に浸し拭いていました。

枕木ほどの太い材木が、人の肩ぐらいの高さまで積み上げられていました。川で清められた遺体はその上に安置され、火が点けられました。勢いよく、ぱっと燃え上がりました。

 

水は、ヒンズー教で聖なる川とされるガンジス川に、精神的につながっていればよいのでしょうが、ここカトマンズの川は、物理的にもガンジス川の支流なのです。孫の、また孫のような関係ではありますが。

このカトマンズの町は、インドのカルカッタの北北西600キロほどの位置なのです。

 

火葬の様子は写真に撮りませんでした。私の年頃の日本人には、こんな場面を写真に撮ることは、死者を冒涜するような気がして、気が咎めるのは共通のことではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 

●トレッカーたち

もともと、このランタン渓谷に来るのは、先ず日本人、次ぎにアメリカ人、そしてドイツ人の順だとのことでした。

そのなかで、ぞろぞろと団体できているのは日本人だけでした。

ほかの国の人たちは、家族、友人同士、夫婦、2〜3組の夫婦など、気の合った仲間で来て、旅行全体を自分たちでマネージしているようです。

また、とくに休日が多くはない11月上旬でしたから、日本人は定年後の年配の人が主体でした。しかし、外人たちは若者から老人まで、あらゆる年齢層が来ています。

私たちは毎晩、ポーターたちが運んでくれるテントに、1張りに2人ずつ寝たのですが、外人たちはたいていバッティと呼ばれる茶店に泊まりながら旅しています。

前もって予約するでもなく、その日の自分の疲労度や時間を見て、気に入ったバッティに泊まるのです。この方法だと大変に経費が安くあがるそうです。

 

いつも感じているのですが、外国では、観光客とトレッカーとは別の人種だと割り切っているように思います。

日本の場合は、観光客がたまにはトレッキングに行ってみようか、ということも可能なのです。

団体旅行という護送船団方式が、それを可能にしているのです。

日本でお金さえ払えば、アシもアゴも、通訳もガイドも、みな旅行社が調え、トレッカーはお客さんになって、ただ、ついてゆけばよいのです。

護送船団方式という言葉は、いまの日本では印象がよくありませんが、過去の戦争の修羅場では被害が少ないというメリットがあったからこそ採用されたのです。

ともかく、われわれ東海支部のグループは、根っからのトレッカーたちでした。出される食べ物を次から次へと「おいしい」「うまい」と、パクパク食べたのでした。

観光客ならば「匂いがある」「脂っこい」から始まって、皿の上の魚の盛りつけが、横でなくて、泳いでいるように縦に置いてあったので気持ちが悪くて箸をつけられなかったなどおっしゃるものなのですが。

 

われわれがテントを張っている隣のバッティに、単独行の白人女性が泊まりました。

久しぶりに洗濯したのでしょう。下着を、運動会の万国旗のようにぶら下げて干していました。

「困っちゃうな。目のやりどころがなくて」。男というものはチラチラ目を走らせながら、こんなふうにボヤいてみせるのです。

それこそ、困ったことなのですが。

 

こんなこともありました。

私たちが茶店で休憩したときです。

当然のことですが、茶店はちょうど休みたくなるような間隔に配置されています。そして、そんなところは、小広くなっているので休みやすいのです。

その茶店に、以前から座って休んでいた白人が「 I don't like the Japanese way 」 、日本人のやり方は嫌いだよと言っているのが聞こえました。

大勢の団体とすれ違うときに、長く待たされるのが嫌いなのかしらと聞き流していました。

わたしは汗びっしょりでした。風が冷たくて、われわれのシェルパが「こちらへ来て座りなさい」と、風の当たらない椅子を勧めてくれました。ご好意に甘えました。

茶店の女性が「なにか飲みますか」と言ったようでした。私は「ノー・サンキュー」と断りました。本心から、飲みたくなかったのです。

同行のコックさんが何時も何か飲ませてくれて、名古屋の水道水をペットボトルに詰めていったのを、3口飲んだだけで、また名古屋まで持って帰ったぐらいでしたから。

そして、前の茶店では、仲間の女性たちが、われもわれもとお茶を注文したのでした。

こんども、そんなことになるだろうと思っていたのでした。ところが、ここでは女性たちは、われもわれもとノー・サンキューと言っているようでした。

私はそれを見てから、シェルパ頭にお茶を注文してくれるように頼んだのです。彼は、カトマンズの日本語学校卒業で、日本語ペラペラなのです。

注文してくれて「20ルピー(約40円)です」といいました。それなら相場の値段です。

そのうちに、喧嘩が始まりました。われわれのシェルパ頭が白人に殴りかかっているのです。われわれの仲間の女性が「だれか止めて頂戴!」と悲鳴を上げました。

その夜、シェルパ頭に何が起こったのか聞いてみました。

殴られた白人は「茶店だって営業で開いているのだ。日本人たちは休むだけで何も買ってやらない。そんな連中を連れ込んでいるのは誰だ」。「私からは30ルピー取ったお茶を、なぜ日本人には20ルピーにするんだ」とも言っていたのだそうです。

そのうちに、コップに4分の1ほど残っていたお茶を、シェルパ頭の顔にぶっかけたのだそうです。それで頭に来てぶん殴り、押し倒そうとしたときに女だと気づいたのだそうです。たしかに、男か女か分からない針金のように痩せた白人でした。

こんな気の強い人は、ぞろぞろの団体旅行には入れないでしょう。

もっとも、日本人にも単独で来ている人がありました。かなりの年輩の男性で、カトマンズから登山口まで140キロ、タクシーを飛ばしてきたという元気な人でした。

 

●ランタン発電所

ランタン渓谷のランタン村は、標高3400m、石造りの伝統的な民家のほかに、観光客目当ての小綺麗なホテルもある、全部で90戸ほどの、この谷で最大の集落なのです。

むかし電気屋の私の目に、この村で、まず、電線が目に入りました。

低圧で、太いアルミニウム線なのでしょう、白く輝いていました。

見渡せば、岩壁に、鉛筆のように細い水圧鉄管がへばりついているのも見えるのです。

この管の中を激しく駆け下りる水が、水車を回し電気を起こすのです。

話の種に、ぜひ見ておきたいと思いました。

うまいことに、仲間たちもそちらへ行こうというのです。

皆さんのお目当ては、ヤクの乳を原料にしてチーズをつくっている工場で、それはガイドブックに出ているのです。

なにせ目標の工場の屋根が遠くに見えているので、やみくもに草原を歩いてゆきました。

途中、いかにもチーズ工場からの帰りらしく見える白人女性に、どう行ったらよいか道を聞きました。

彼女は道順のほかにも、チーズ工場でチーズをパンに乗せて、焼いて食べさせてくれると付け加えました。女性たちの目が輝いたことは申すまでもありません。

私といえば、発電所が動いているかどうかを、知りたくて仕方ありませんでした。

 

7年前、やはりヒマラヤのアンナプルナ・トレッキングに参加したときに、ガンデルンという村で見かけたことを思い出していました。

日本の自然保護団体が、この村を環境保護に手を貸してやるべき場所として撰んだようでした。

 

20年ほど前だったでしょうか。ネパール自身が、我が国こそ世界で最後の手つかずの自然が残された楽園、さあ、お出かけ下さいと宣伝し、世界中がなにかそんな気分になって、ヒッピーたちが押し掛けたことがありました。

もしも、土を耕して畠にすることが自然破壊でないのならば、それはそうかもしれません。しかしこの国は、斜面という斜面は段々畑に覆われているといってもよいほどなのです。残されているのは、人間では手が着けられない場所だけなのです。

教条主義者でなければ、人間が手で耕した畠は自然で、機械で耕した畠は自然破壊だとは信ずるのは難しいでしょう。

 

ともかく、ガンデルン村の瀟洒な建物のショウルームには、自然保護のビデオが観賞できますと案内が張り出され、日本の一流メーカー製のテレビ、ビデオが置いてありました、埃をかぶって。

ガラスのショーケースの中には、太陽熱で煮炊きできるという凹面鏡が展示してありました。

 

水力発電所は、本来、こんなお遊びとは違って、実際に役に立つものです。

しかし、発展途上国では、そんなに複雑でもない機械でも、技術との相性が悪くて、たとえばネジ一本抜けても、直しもせずに放棄される例が多いといった苦労話はよく聞くのです。

 

パン工場には4人ほどの人が働いていました。電気のことを聞いてみました。

お互い片言の英語でのやり取りです。

発電は順調で、夕方18時から23時までは村の家々の電灯に送電し、23時から翌日の夕方まではパン工場で使っているのだということがわかりました。

しかし、なんといってもお互いの言葉の壁の穴は狭く、どんな故障がどれほど起ったかなど、細かいことを尋ねるほどの根気はありませんでした。

ともかく、完全に実用設備として、村人が頼りにしながら、働かせているのには感心しました。

その建物を辞する段になって、玄関の脇に新聞が張ってあるのに気がつきました。日本の中日新聞です。

こんなことが書いてありました。

人口400人ほどのこの村に、観光客やシェルパ、ポーターたちが年間2万人も押し掛けるようになり,従来の薪に頼る生き方では森を丸裸にしてしまうので、ネパール政府が観光客を立入禁止にすると脅かしたのだそうです。

それでエネルギー源を水力発電に求めました。

名古屋の人たちが日本政府に働きかけ、日本から90%弱の資金を提供し実現に漕ぎ着けたのだそうです。

地元の村が負担した10%も、ネパールの人たちにとっては大変な額であり、どんなに熱い思いを抱いているかが分かるような気がします。

 

明け方近くテントを出てトイレに立つと、電気がきていないはずの時間なのに、民家の石積みの壁の窓に電気の明かりが点っていました。

また、電線は村の中心から数百m離れた分村まで伸び、スクールと書かれた、小さな建物で終わっていました。でも、その建物はとても学校とは見えませんでした。シェルパも学校じゃないと言いました。

多分、知恵者が、学校まで電気を引くという大義名分を立てたのだろうと、私は邪推しました。かなり距離がありますから、きっと電圧が下がってしまい、薄暗い電灯なのでしょうが、それまでにしても電気を欲しいという熱い気持ちが伝わってくるのでした。

 

新聞によれば本村には6キロワット、2つの分村にはそれぞれ1キロワットの発電機を置く計画となっていました。

でも、現地で聞いたところでは、発電機は本村に1台しかないといっていました。機械をお守りする手間は、発電機の容量が大きくても小さくてもほぼ同じだけかかりますから、3台あれば3倍手間がかかるのです。

ここランタン村では、たった1台、6キロワットの電気を、90戸の民家とパン工場で分け合っているなんて可愛いではありませんか。

私の家など、たった一軒で、いま、16キロワットの契約になっています。

 

ランタン渓谷のような小さな世界では、発電所ができて、電線を引いたからこそ電気が使えるのだなど、説明するまでもないことであります。

小さな社会では、因果応報がすぐ現れます。それですから、ある行為の結果を事前に容易に予測することもできるのです。

村が財政支出を抑制すれば、誰の収入がなくなるのか、そしてその人がどこの店で買い物をしていたのか、すぐに予見できます。

社会が巨大になるほど、因果関係はピンとこなくなります。

小泉さんが念を押した構造改革の痛みとは、自分たちの家族が勤める会社の倒産と失業のことなのだと、現実にその目に会うまで予測していなかった人は、多いのではないでしょうか。

 

このささやかな村に、もしも過去に、発電所や電線をつくることに反対した人が住んでいたとしたならば、その人たちは、いま、ほかの人と同じにように、電気の恩恵を受けることは、恥ずかしくてとてもできないことでしょう。

 

ともかく、ランタン村へ発電所を提供したことは大変に価値のある、成功した事業であります。

これをきっかけにして、ネパールの人たちが、やがて、自分たちでエネルギーや環境保全を考え、計画を立てるようになれば、日本が貴重な種を播いたことになるわけです。

 

●ランタン・リルン峰や氷河を眼前に仰ぐコース

なにか長ったらしい名前ですが、ガイドブックにこんなように書かれているのです。

最終キャンプ、キャンジン・ゴンバ3800mに着き、昼飯を食べた後、このコースに挑みました。われわれ4名に、シェルパがひとりついてくれました。

ゴンバというのは、チベット仏教であるラマ教のお寺のことです。ゴンバの横をとおり、広い本谷から左手の谷に入ってゆきました。

ゆるやかな登りですが、なんといっても富士山の山頂よりも高い、空気の希薄な道です。

私の名前、重遠は、父が徳川家康の遺訓「人生は重きを負うて遠くを行くが如し。急ぐべからず」からとったのだそうです。

私は、心掛けというより、体質的にスピードが出ないのです。

私が、列の一番前に入りましたから、あとの3人は私についてくるよりしかたありません。

前を行くシェルパが、不満そうに振り返り振り返り、立ち止まるのを知りながら、自分のペースでゆっくり、ゆっくり登って行きました。

今回、ランタンに入った14人の中で、過去に一緒に山へ登ったことがあったのは、隊長さんひとりでした。

でも、今日まで3日間一緒に登っていて、皆さんの登るペースは分かったと思っていました。馴れない人たちは、後ろを見ないで、ただひたすらにシェルパの後について行きます。なにせシェルパは薄い空気に馴れており、また若いのです。そのため、急傾斜の登りでは、われわれにとってオーバー・ペースになっていました。とくに列が長くなると、前をゆく隊員が平地に出て速くなっているのに、列の後ろはまだ急斜面にいることになります。それなのに無理に前について行こうとして、余計オーバーペースになっているのでした。

その反省から、傾斜によって極端にスピードを変える、私流のコンスタント・パワーのペースを作っていたつもりです。もちろん、うしろから来る人の様子も見ながら加減していたのです。

右も左も、氷河に削られた広い谷の底の、緩やかな良い道でした。

1時間半ほど歩いたところから、突然、道は右手の崖にジグザグにつけられた急な登りに変わりました。

標高4000mを越した頃から、隊列が乱れ始めました。

私は最後尾に入り、偉そうに講釈を始めたのでした。

「人間も自動車のような機械と同じですよ。ペースを落として使うエネルギーを減らし、大きく息をして酸素を沢山取り込めばいいんですよ」。

「1,2,3,ストップ。 1,2,3,ストップのペースで」「早い、早い。もっとゆっくり」。4歩目にストップを入れると、エネルギー消費を25%減らすことができるのです。

そんな歩き方をやってみながら、みなさんはソシアル・ダンスのステップでも学んでいるように、苦しいのを忘れてしまったようでした。

そんなようにして、間もなく崖の上に飛び出しました。

左手には、雪が凍りついた7225mのランタン・リルン主峰が、まるで壁のように立ちはだかっています。また正面には、ところどころ氷がブルーに見えるキムシュン氷河が、文字通り目の前まで迫っていました。

まったく、息を呑む感激の一瞬でした。

わたしは、隊員4人、揃って登り切ったことがとても嬉しかったのです。

 

「高山病は下りに出ますよ。ときどき意識して、荒い息をしてください」。

そんなベテランぶった口利きを許して下さった仲間に、いまでは恥ずかしく思っているのです。

ゆっくり展望を楽しんでから下り始めたつもりでしたが、ガイドブックに往復4時間とあるところを3時間30分で往復したのでした。

 

 

●高山病

名古屋を出てから、海抜400m弱の重慶で一泊、翌日約1300mのカトマンズで一泊、ここまでは高山病とは縁のない世界であります。

3日目にヘリコプターに乗り30分弱の飛行で、標高3010mのゴラ・タベラへ入りました。薄い空気に体を慣らすために、教科書通り昼食の前と後に付近を散策しました。

ここでの滞在では、だれも異常はありませんでした。

4日目には、3400mのランタン村まで、緩やかな登りの道をゆっくり4時間ほどかけて登りました。

ここでも高度順化のため、テント場に着いたあと、さらに200mほど高いところまで往復しました。

5日目の朝になりました。ここランタン村の3400mの高さに、20時間ほど滞在したことになります。ひとりが頭痛を訴えました。

軽い頭痛を感じていた人は、幾人かいるようでした。

この日は3800mのキャンジン・ゴンバまで、やはりゆるい登りでした。

ここは、もう空気の濃さが名古屋に較べて3分の2まで減っているのです。普通に息を吸っても、酸素は67%しか入ってこないのです。

先頭は4時間ほどで着きましたが、遅い人はそれよりも約1時間遅れて着きました。

そして、先着組から「よく頑張ったね」と拍手で迎えられました。

でもその頃は、調子の悪かった人の「ゆっくり登るのが、好きなんです」、そんな言葉が素直に聞こえるほど余裕があり、元気に見えたのです。

元気な連中は、午後、2組に分かれ、4000mを越す高さまで登り、展望台やピークハントに約4時間を過ごしました。

3800mで一夜を過ごした次の日の朝、高山病は進んでいました。

頭痛の1人は「高山病の特効薬は高度を下げること。少しでも下がればそれだけ楽になる」という言葉を頼りにして、積極的に下山を始めました。

その後、彼とは離れてしまいました。後で様子を聞いたのですが、標高が下がっても、なかなか思った通りには体調が回復しなかったのだそうです。

前日から、ほとんど食べられなかったので、それが影響していたのではないかと、私は想像しています。

ともかく、彼は標高3010mのゴラ・タベラまで、歩き通しました。

そしてその日の夕刻、ヘリコプターでカトマンズ空港に着いたときには、頭痛は、もう、すっかりよくなっていたのだそうです。

 

もう1人は、朝、テントの入り口に座っていて「手を引っ張って立たせて下さい」とおっしゃるのです。引っ張ってあげると、まるで立つ気持ちがないようで、とても重かったのです。そして、ふらっとテントの方に倒れそうになるのです。平衡感覚に異常があるようなのです。びっくりしてしまいました。

食べ物は受け付けず、先程吐かれたとのことでした。

唇が紫色になっていて、少しでも早く空気の濃いところへ、連れていって上げなくてはと思いました。

体に少しでも酸素を入れようと思って「大きく息をして! はい、イチ、ニッ」など励ましても、なにかよく通じない様子なのです。

下山の始めは、体を動かした方が酸素が入って良いのではないかと思い、シェルパに両側を支えてもらって、歩いて下り始めました。

登るときは緩やかな道だと思っていたのですが、こんな状態で下ってみると結構急な坂もあるのです。

1時間ほども歩いたでしょうか、シェルパ頭は、もしも転んで怪我などしては大変だと思ったのでしょう、シェルパが交代で背負って下りることになりました。

ネパールの人たちは、背負うときには、背負紐を額に掛けるのです。

病人は、ぼんやりした意識の中で「わたし歩いてゆきます」と遠慮されるのです。「いいから、負ぶってもらいなさい」と言われて、「私、00キロもあるんですよ」と、シェルパをいたわるように言われたときは、とても優しい人だなと思いました。

シェルパはこんな荷を背負って、すごいスピードで下るのです。

登りに4時間かかったランタン村との間を、2時間ちょっとで行ってしまいました。

若いガイドが、交代交代で背負うのです。降ろしたときに、病人に話しかけるのですが、400m下がっても、ちっとも良くなったようには見えませんでした。

この村で、ガイドが交代していたときに、通りかかった単独行の韓国のトレッカーが、親切に「これを呑みなさい」と、錠剤をくれました。

最初は「負ぶってもらってから、とてもいい気持ちなんです」と言っていました。そのうちに、だんだん眠りこけたようになり、隊長が「僕、誰だかわかる」と意識を試してみたほどでした。

途中で、別の日本隊、アルパイン・ツアー社のリーダーが、パルス・オキシメーターという計器で、患者さんの血液中酸素濃度を測ってくれました。

通常の人が平地にいるときは、100%弱の数値を示すのです。それが65%にまで下がっていました。でも、大きく呼吸するとすぐに80%まで上がります。早く高度を下げるのが先決であることを示しているのです。

 

標高が600mほど下がったバッティで休んだときに、笑顔が戻ってきました。呼吸方法も、始めて両腕を開いて、大きく空気を吸い込んでくれたのです。

唇の色も戻ってきました。

大きく呼吸すると元気が出る。元気が出れば大きな呼吸ができるという加速的に好転する状態になったのです。

私が下手な軽口を叩いて冷やかしました。「さっき隊長が、僕、誰だか分かる? て聞いたの覚えてますか。あなたは、おとうさん! 助けて、って言ったんですよ」。

それも嬉しかったからのことなのです。

その日の夕刻、カトマンズの病院でレントゲン写真を撮ったのだそうです。肺に少し水がたまっているのが分かったのでした。

でも、翌日夕方に開かれたサヨナラの宴会には出席されましたし、みんなと一緒の飛行機で日本に帰ってきたのでした。

 

後で聞いてみると、症状が重かったときのことは、覚えておられないようでした。傍から見れば、まともに見えていたのですが。

そのときは、一生懸命考え、応対しておられたのでしょう。後になってから、過去の記憶が薄れたのかも知れません。

でも、もし今後、私が高山病の人を介護する機会に出会ったら、あまり患者の言葉に引っ張られずに、良いと思うことをどんどん進めて行くのが、結局本人のためになるように思えるのです。

 

●往きはよいよい、帰りは恐い

往きは標高1300mのカトマンズから、トレッキングの出発点ゴラ・タベラ(標高3010m)まで、ヘリコプターを使い30分弱で飛びました。

帰りには、そのゴラ・タベラから、シャブル、ベンシ(標高1430m)まで、徒歩で1日半、そしてシャブル・ベンシからカトマンズまでバスで9時間かかって出てきました。

 

バスの旅は、140kmを9時間かかったのですから、時速16km弱になります。

ランタン渓谷が本流に流れ込む斜面の中腹に、シャブルという昔からの村があり、そこから200mほど下ったところ、谷底に近い位置にシャブル・ベンシの集落はあるのです。

ネパール語で「シャブルの下」というような意味であります。下までは車が入るので、次第に、本村よりも交通の便利なところが栄えるという、日本に鉄道が通った頃の事情に似ているようです。

シャブル・ベンシを、われわれ一行は専用バスで出発しました。しばらくは谷底の道を下流に下ってゆきました。約30分ほどは日本の林道を走っているようなものでした。

やがて橋を渡ると、ひたすら斜面を登り始めました。ジグザグに登るので、何時までも谷の向かい側の同じ景色を眺め続けていたのでした。

道のまわりは、行けども行けどもアワを栽培している段々畑です。道は狭く、すれ違う車は結構多いのです。

ジグザグの角を曲がるときには、左側に岩、右に崖があって、あわやあわやの切り返しが連続しています。命は、もう、まったく運転手まかせです。

結局、標高約2000mあたりまで登り、それからほぼ水平に進むようになりました。

向かい側の斜面を見ると、昔から人が歩いていた道が、どんなふうにつけられているか、よく分かりました。幹線道路は、標高2000mあたりに水平につけられ、段々畑の配置に応じて、上と下に枝道が出ているのです。

シェルパ頭はまだ自動車道路がなかった頃に、向かい側の道を歩いてランタン谷に入ったこともあったと言っていました。その頃はランタン谷へ入り、出てくるのに往復2週間かかったそうです。なんとわれわれは、日本を出てから帰るまで、たったの9日間だったのです。

今、私たちが車で走っている道も、昔は対岸と同じ様な、かぼそい道だったのですが、途中にドウンチェという比較的大きな集落があるために、こちら側の道が拡張され、車道になったのでしょう。

日本やスイスでも、斜面が段々畑とか放牧だとか人間が使用できる程度であれば、自動車乗り入れ以前の道や集落は、多くの場合谷底や尾根ではなくて、斜面の中腹に配置されているのです。

谷底は案外狭く洪水の危険があって、道路や住居には適していないのです。

 

そんな道路を走っているうちに、道路に遮断機が下りていました。お客は下りて、歩いて検査所を通るのです。

バスには係官が入り、検査したあと通らせます。

ここで、入山料の1000ルピーを払ってあるかどうか、ビデオカメラの持ち込み料金(約2万円)を払ってあるかどうかをチェックしているのです。ビデオカメラの不法持ち込みがばれると10万円ほどの罰金を科せられると聞きました。

 

なんといっても観光客の落とす金が最大の国家収入なので、観光客からどれだけ金を取るかは、国家として極めて重大な問題であります。

エベレストに登ろうとすると入山料だけで、ひとり約100万円必要であります。

なぜビデオカメラ持ち込みが2万円で、普通のカメラがタダなのか問うのは、野暮なことでありましょう。取れるところから、取れるだけ取ろうということであります。

高くしていって、これ以上取ると観光客が減る、というところまでとるのが経済原理でありましょう。

 

そういえばカトマンズの半日ツアーの料金が3000円でした。生活費ベースで換算すれば、日本の5万円ぐらいの感じでしょう。

馬鹿高いと思いましたが、ほかに手段もなかったので、このツアーには参加しました。

ついでながら、帰路に立ち寄った重慶の夜景観光は、2時間半、丘の上の展望台に上がるコースということで、やはり3000円とのことでした。

これも馬鹿高いのです。

ここまでやられると、日本人の観光客は、せっかく来たのだからと、高いと思いながらも3000円なら参加する、5000円だと止めたという人が出てくると踏まれているのだと感じました。

実際、客観的に見れば、まあ良い線を行ってるように思います。

私は、いかにも馬鹿にされているような気がしましたので、重慶の夜景観光はパスしました。

 

貧しい人にお金を流すのは、必要なことであります。

でも、日本人以外の地球上の人は、寄付ならしますけれども、不当な取引には応じないと私は思っています。

 

今年2月に、カトマンズにあるネパール王宮の中で、王様始め王族多数が銃で撃たれて亡くなった事件がありました。

ネパールは、必死になって治安は回復し安全だと宣伝しました。私たちの泊まったアンナプルナ・ホテルは、王宮から300mほどの距離でしたが、確かに静かなものでありました。

 

もうひとつ、ネパールでは毛沢東を信奉するという「マオ・イスト」という反政府組織があるのが、心配の種とされています。

あちこちで「彼等の標的は政府と警察、軍隊である。国が観光で成り立っていることは彼等も十分承知している。トラブルを起こせば、国民の支持を失う。だから、外人観光客は最初のマオ・イストとの接触でお金を払えば、あとはその領収書を見せればフリーパスだ」という話を聞きました。

この意見が、国としての統一見解になっているようです。

 

入山検査ゲートの話から、大部脱線してしまいました。

ここで、兵隊さんが11人、里まで乗せていってほしいと言いました。

彼等のうちバスの車内に座ったのは上役4人、あとは屋根の上でした。ここでも兵隊さんはつらいものなのです。

こんなにして標高2000mほどの斜面の中腹を走っていました。3時間半ほど過ぎると、今度は急に下り始めました。

ご承知と思いますが、インド大陸は昔のゴンドワナ大陸が2億年ほど前に分裂し、アフリカやオーストラリアと分かれた切れ端のひとつであります。それが北へ動いて、いまユーラシア大陸の底に潜り込んでいるのです。われわれは先程まで、その力で押し上げられた古いアジア側の地盤の上を走っていたのです。

いまここで急降下して、インド大陸側に下り始めたのです。

ここはトランス・ヒマラヤと呼ばれる地域で、二つの大陸が衝突している現場ですから、両方の地質が混ざり合い、ごちゃごちゃと出てくるのが眺められました。

20分ほどの間に、高度が標高500mまで下がりました。ひどく暑くなり、畠と民家が急に多くなりました。出発したときのフリースとヤッケは脱ぎ、Tシャツ一枚の夏姿になったのです。

気温が高いということは、こんなにも生活しやすいことなのでしょうか。

トリスリというかなり大きな街で、昼飯を食べました。万キロワットに届きそうな大きな水力発電所もありました。ここからカトマンズまでは、もう舗装道路なのです。

 

カトマンズまで、こんどはまた800mほど登るのです。それがまた、台地の縁にほぼ一定の角度でつけられた道を、ジグザグではなしに、同じ方向に登って行くのです。

JR篠ノ井線は稲荷山から冠着まで同じように登りますが、あれの何十倍というスケールの感じで、段々畑の中を集落を縫いながら登って行くのです。

 

ヒマラヤの山々が偉大ならば、このあたりの段々畑も偉大であります。

日本には千枚田といわれるところがあります。千の千倍は百万です。ここネパールの眺めは、そのさらに100倍の億枚田と言ってもまだ足らないに違いありません。

 

バス旅行の時速16キロ、9時間のなかには、凸凹の山道のほかに、カトマンズ市内の大渋滞も入っています。

この尾張一宮市に似た規模の都市には、交通信号がありません。個人の意志がぶつかり合う交通の混乱は凄まじいものです。ともかく誰もが、自分は早く向こうへ行きたいのだという住民投票的な発想で動いているのです。

それぞれの意志はもっともなのですが、社会全体として足し合わせると、うまく機能する話ではありません。

交通信号というものは、社会全体のことを考えてルールを決め、みんながそれを守ってゆこうという人類の知恵なのだと、改めて思いました。

植民地化の波に晒されず、西欧社会のルールを押しつけられなかったこの国が、これから国民の力を方向付けし、協力して発展してゆくには、どこから手を着けたらよいのだろうと、頼まれもしないのに考えてしまったのでした。

 

●俳句教室

こんどの旅でも、私が手帳に頻繁に書き込んでいるのが、皆さんの目についたようです。

この習慣は、何時からのことだったのでしょう。

1983年、台湾の玉山に登りに行ったときに、私が一番頻繁にメモしていると言われたのを思い出します。そのときは深田クラブという物書き癖のある集団のメンバーでしたから、全員、メモをとるような人種ばかりだったのですが。

正直に告白すると、私のメモは大したことは書いていないのです。

たとえば

9’36”〈3100〉一本 ラリグラス

10’00”〈3375〉ランタン くすりもらう

というような調子で、そんな役に立つ代物ではないのです。

むしろ現在の私の状況は、ケータイを握って親指を動かしている若者と同じで、なにかペンを走らせていると気が落ち着く、つまりメモ中毒といった状況なのです。

 

今度の旅の4日目だったでしょうか、隊員がお互いに親しくなってきたころです。

「何をメモしていらっしゃるんですか」と聞かれました。

「大したことは書いていないんですよ」とは答えましたが、素敵な女性たちが一杯いるのですから、それだけで会話を終わらせるのは、もったいないような気がしたのです。

そこで「たまには俳句なんかも書き留めますけどね」「どんなのか教えて下さい」「登山路に 女性おしゃべり 果てもなや」と会話が続きました。

「僕は長年、句会に出ているのですが、もともと感性のある詩人じゃないので、ろくな句が出来なんです。ところで、貴女は今どんなことを感じているんですか?」

「わたし、この牛たちがこんなに寒い山の中で、今夜、屋根のあるところで寝られるかどうかと心配しているんです」。

それじゃ、貴女の優しい心を、こんなに言ったらどうでしょう。「ランタンの 牛の夢路に 霜や降る」。

次の休憩のときに「高山病恐がりゆっくりゆっくり行く」と作ってみました、と言われました。そこで私は、それは「高山病 恐れてゆるり ゆるりかな」でどうでしょうと直してみました。

 

さて、このやりとり読んで、皆様のご判断はいかがでしょうか。

実はそのとき、不遜にも、このグループでなら、オレでも先生ができるかなと思ったのでした。

そもそも、私が句会に出ているのは、会のあとに、みんなでワイワイお酒を飲めるからというだけのことなのです。それで、毎月の句会では、まともな俳人たちの中で、私はいつもコンプレックスの塊になっているのです。

でもここヒマラヤの登山路でなら、センスはともかくとして、「このデータ 明日朝までに 持ってこい」というように、言葉の並べ方だけは五,七,五にしたりして、なんとなしに、俳句に馴れているらしいと認めていただけるでしょうか。

 

「何時までも月が昼間の空に残ってる」というヒントをいただいて、次の休憩地点まで歩きながら「ランタンの 蒼空になお 昼の月」としてみました。

蒼空と同じ意味の蒼穹という言葉もあります。なんでもこの句の原作者によると、スバルの歌詞では蒼穹になっているようでした。

蒼穹といってしまうと、なにかガリレオ的、概念的な気がして、目の前に見ている空は蒼空のほうが良さそうだと、私には思えたのでした。

 

そんなやり取りをしているうちに、隊長が「俳句教室が始まったな」と冷やかすのです。

このあたりが隊長のお人柄なのです。私は何だかウキウキしてきたのです。

そもそも、このトレッキングに参加したのも、40山ラリーに参加したのも、みんな隊長と話しているうちに、つい、その気になったのでした。

私は気軽に踊りの輪に加われるような性格ではないのですが、隊長と話していると、つい、オミコシを担いでもいいような気分になってくるのです。

 

あれやこれやで、俳句モドキ、川柳モドキ、短歌モドキが、ヘロヘロと出てきたのです。ルンルン気分のまま、恥を横に置いて、お目にかけようと思います。

 

・天高し吾が足元のエベレスト

・折り紙を広ぐる如し雪の襞

・折り紙の折り目見るごとヒマラヤは

・屍を焼く火見入るや秋の暮

・わが邪心ギョロ目の仏に冷汗す

・テント張る谷間に寒く朝日差す

・氷河より吹く風揺すラマ幟

・ランタンの岩角にある小春日よ

・日傾き雷雲谷を駆け下る

・登山路に女性お喋り果てもなや

・土産店女性の足のはかどらず

・買い物も楽しランタン登山路は

・ポコポコと囃し歩調をせき立てる

・病むを負ひシェルパ下るや矢のごとく

・下り来し茶店にて笑(えみ)戻るなり

・老人は稀よヒマラヤ山村は

・登山路とインターネット英語が主

・御代なれやポーターだけがタバコ吸う

・ランタンの岩壁幾段滝落とす

・霜月のランタン造花ラリグラス

・秋思あり白人女性眩しくて

・引き出されやがて楽しむ踊りの輪

・さりげなく登るポーター脚細し

           筋肉の束くきと見せつつ

・高山病癒え饒舌の夕餉かな

・宵なるに早や疎らなる秋灯

 

こんな五目雑詠をご覧になって、俳句の先輩が

 

・天高し吾が足元のエベレスト、を

        【ヒマラヤ・フライト】

・見下ろせばきらめく神のエベレスト  と直して下さいました。

 

また、

・屍を焼く火見入るや秋の暮、は

   

   【カトマンズにて】

・屍を焼く火に見入るそぞろ寒  に直して下さいました。

 

たしかに「そぞろ寒」とすると、死は自分もいつかはたどる運命なのですから、それを思い鬼気迫る感じが出てきます。

 

●重慶

例のごとく地球儀の上で、名古屋とカトマンズの間に糸をぴんと張ってみました。こうすると、最短距離のルートがわかるのです。

途中の大きな街として、重慶と成都があります。名古屋から三分の二ほどのところです。

重慶市の緯度は、種子島ぐらいですから、どちらかというと暑いのです。

ホリデー・インという立派なホテルで泊まりました。

往路は二時間の仮泊、復路は夕刻到着、早朝出発でした。

重慶市の人口は3200万人、広さが8万平方キロ(日本全土が37万平方キロ)と、大変なスケールです。

 

滞在時間も短く、見た範囲も狭かったのですが、感ずることは、とても多かったのです。

 

往復の飛行機は全部、中国の南西航空でした。

今の言葉でキャビン・アテンダント、昔の言葉でスチュワーデスさんたちは、率直にいって我が国のそれより真剣に努めているように見えました。

 

世界中で、日本の中部電力にしかないと思っていた、縦配置の複導体の送電線にお目にかかったのもショックでした。

 

空港から市内まで高速道路が通じています。

驚いたことには、日本でも最近採用されたばかりのETC(電子自動料金徴収システム)も目にしました。

 

市内の混雑は大変なものです。そして、弱肉強食そのものの、車の割り込みには、思わず手に汗させられます。

ガイドは「街の中では、前を見ていない方がいいです」とリコメンドしました。

 

他国の優れた点は、素直に認めて、取り入れるべきでしょう。

第二次大戦後、我が国では昔の複雑な漢字を簡略化し、通常の場合における使用を限定した、「当用漢字」を決めました。

中国でも同じ動きがあり、中国の方が簡略化・効率化の程度は意欲的であったと思います。

重慶の慶が今の中国では、応(心の代わりに大)になっています。

そういえば日本でも、学生たちが「応(心の代わりにK)応(心の代わりにO)大学」など、書いていたことがありました。

 

早朝発の飛行機に乗るために、まだ暗い早い時間なのにバスは空港に着きました。

着いても、空港のドアが開いていないで、バスの中で30分ほど待ちました。

それは、行きも帰りも同じでした。どうやら、そうしないと空港の係員の機嫌が悪くなるようで、よその車も待っていて、仕方ないやという感じでした。

どの社会でも、いろんな人がいますから、単純に感心したり、かたくなに嫌がったりすることはないものです。

 

重慶市の中心部は、あちこちに岩の崖が顔を出していて、堅固な岩盤の上にできた都市だということが分かります。

凄い高層ビルが林立し、なによりも建設中のビルが多いのには目を奪われます。

誰かが「オリンピックの前の日本みたい」だと言いました。

二言目には、デフレ・スパイラルの恐怖、景気の回復と喘いでいる日本経済とは対照的であります。

 

以上、幾つかの管見を羅列しましたが、全般的に、前向きの意欲、活気が、今の日本とは違うのです。文化大革命の頃そうだったと伝えられたような無気力さは、昔のことになってしまっているのです。

やる気のある人たちが、繁栄するのは当たり前のことでありましょう。

 

重慶で、林立する高層ビルや建設工事のクレーンに驚かされたのは事実ですが、大きな国ですから、まだ近代化と縁のない地域があることも耳にします。

いろんな地域を、どのようなステップで近代化して行くかは中国の内政の問題であり、干渉するべきことではないでしょう。

われわれの視点は、中国の我が国との関わり合いがどうであるかについて判断すればよいといえます。

 

いたずらに反感を煽るのは、両国にとって益のあることではありません。

しかし、中国は日本からの資金援助を受けながら膨大な軍の増強を行っているように見えます。そして、領土の拡張に強い関心を示し、台湾、フィリピンなどとの間に緊張を招いていると見られています。

このような情勢から見て、現在、日本が中国に提供するべきものは、巨額の資金援助ではないように思うのです。

むしろ、いま、日本として中国に提供するべきものは、進行中の大規模な開発、環境破壊は、ほどほどに止め、地球規模的な義務として自然環境保護を果たせるようにするノウハウでありましょう。

そのためには、オオタカ、シデコブシ、ハマナツメのように、なにか事業を始めようとすると、どこでも必ず現れて、プロジェクトを中止に追い込む「分布の広い貴重な絶滅種」を中国でも発見し、その保全を推進するチームを派遣することにしてはいかがでしょうか。

 

半世紀前、日本軍は明確な先の見通しがあるわけでもないのに、中国の奥深くまで戦禍を持ち込み、蒋介石が立て籠もった重慶にも爆撃を行ったのでした。

重慶では、市民たちが防空壕に逃げ込み、閉じこもって濁った空気の中でパニックが起こり、多数亡くなったという話を聞いています。

重慶市の岩の崖やトンネルを見ながら、そのことを思い出していました。

日本人として、冥福を祈り手を合わせたいと思い、案内人にそのことを話しました。

案内人さんは、その悲劇を知りませんでした。そして「私は重慶に住んでいません。仕事のため、成都から来ました」と言いました。

日本でも中国でも、過去の記憶の風化は進んでいます。そして、新しく教えられた話が、過去の歴史になりつつあるのです。

大事なのは過去ではなくて、将来なのであります。でも、昔を知っている私は、ここ重慶で、ひとり適当に鎮魂の黙祷をさせていただいたのでした。

 

              

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