題名:どっこいサイゴン

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日付:1999/12/8


?なんでベトナムなどへ

家内はベトナム・ツアーなんかに行く人の気が知れないと言いました。

正直なところ、私も、もっともな疑問だと思いましたから、旅行中、ことに触れ同行のメンバーから、なぜ参加したかを聞き出すように努めました。

それにしても、まずは自分のことから書くのが順当というべきでしょう。

 

私は、完全に骨休めのつもりで参加したのでした。

今年1月に能楽の先生から、舞囃子をしてはどうかと勧めていただきました。そのとき真剣に迷いました。

謡曲はもう何十年もやっています。

でも仕舞へは、つい半年前、現役を退いてから、やっと手を出したばかりのところだったのです。

昔、仕舞をなさっていた大先輩が「最後のことを、これでお仕舞いと呼ぶとおり、素人には仕舞が行き着くところだよ」と言っておられました。

今と違って、昔は舞囃子など、遠い遠い存在だと思っていたのでした。

それなのに仕舞を始めて、一年も経たないのに、舞囃子を舞うなど、とんでもないことだと思ったのでした。おまけに、その日は数時間前に、弟子仲間の前で始めて仕舞を舞ったところ、緊張してしまって、扇子を持った手が自分の意志とは無関係にぶるぶる震えて、まことにみっともない有様で、恥をかいたばかりだったのです。

うろたえた私は、諸先輩に「私にできると思われますか」と問いかけました。だれも出来るとも出来ないとも言ってはくれませんでした。

ということは、先生が薦めている手前、出来ないとは言えないわけで、本心はまだ早いと思っておられたに違いありません。

数日考えた挙げ句、もうあと何年もこの世界にいることもないだろうとも思い、また、会の財政に貢献できるのも、今のうちのことだとも思い、一応やってみることにしたのでした。

「日本で一番下手な舞囃子をやる」と宣言したのは、自分としては本気でもあり、また客観的には妥当至極のことだったと思います。

 

1回目の稽古の後で、先生に「本当にものになるでしょうか」とお尋ねすると「本気でやればな」と厳しいお返事を頂戴しました。

 

 

本番は10月24日でした。熱田神宮能楽殿の舞台で観客の目に晒されると、自分の体が自分の頭の指令を受け入れなくなり、足が思ったように動かず、冷や汗びっしょりで、まさに宣言したとおり、日本で最低の舞囃子になってしまったのでした。

いわば、車のブレーキを強く踏みながらアクセルを床まで踏み込んでいるような気分で、すっかり疲れてしまいました。

終わった直後には、舞なんか、もう2度とご免だと思ったほどでした。

でもその後、私の舞について皆様からいろいろのご批評を頂戴しました。

最も納得のできたのは、つぎの2つのご意見です。

「バック・グラウンドのお囃子に合わせようとして、聞き過ぎているように見えた」「舞ほど性格の出るものはない」。

私は確かに監査役は勤めています。監査役は英語で、Auditor、つまり 聞く人という任務なのです。小心な私の心を、見通されたと思いました。

そして、今になってやっと、来年、もう一回だけチャレンジして見ても良いなと思い始めているところなのです。

 

そんな、舞をひかえていた夏前、新聞でベトナム旅行の広告を見ました。

舞の苦行が終わったら、万事、他人任せで済む気楽な旅で、思いっきりのんびりしたいと思って申し込んだのでした。

そう言うわけですから、いつも私の旅行記の中で読む人を悩ませている、あの稚拙な俳句モドキも、今度の旅では綺麗さっぱり忘れることにしました。

 

私の質問に対して、ベトナムが好きだから来たのですと答えて下さった、奇特な女性もいらっしゃいました。

 

また一行の中には、小父さんたちが5人、団体で参加しておられました。

その中には「巨鯨百川を呑む」という言葉通りの酒豪もおられました。

そしてその小父さんたちは、見学先がお寺だと聞くと、入り口の山門の下で記念撮影をなさると、そのまま全員バスへ踵を返されるのでした。

ベトナムを見に来たという感じはなくて、なんで来られたのか、ついに分かりませんでした。

 

今回参加した23名のうち、とびっきり若い二人の女性に、どうしてこのツアーに参加したかを聞きました。

「今、旅行雑誌にはベトナム旅行のことが沢山書かれています。だから若い人が一杯いると思ってました。それなのに、来てみたら年輩の人ばかりでびっくりしました」というのが、その答えでした。

私が無事に帰ったと電子メールで子供たちに通知したところ、娘から「ベトナムは物価が安くて面白そうね」とメールが返って来ました。どうやら、そんな記事が載っているようです。

 

 

上記以外の人たちは、もう世界中、あっちこっち旅行して、ほかに行くところがなくなってしまったのでベトナムに来たという感じでした。

出発の当日、バッタリ出会った旧友のMさんなどは、今度の旅行から帰った次の週に、またすぐに中国へ行くという精勤ぶりなのです。

それだけに添乗員さんも気を使って、いろいろの注意事項を言う前に「皆さん旅慣れていらっしゃるので、失礼と思いますが・・」を、枕詞のように言っていました。

 

食事になると、皆さんの蘊蓄は大変なものでした。

私のように、いつも登山が主目的で、ドサ回りばかりしているものは、今回の旅行中、いつも「はあ、そうですか」としか言う言葉はありませんでした。

くやしまぎれに、こんな妄想を巡らしていました。

 

あそこであれを食べた。ここではこれを食べた。あれは美味しかった、これは不味くて食べられなかった、そういうことを言っているのは、山屋があの山に登った、この山にも登ったと言っているようなものではなかろうか。

山ならば、困難度を示す物差しの一つとして、標高という数字がある。

しかし、食い物を美味いとか、不味いとか言う場合は、客観的な基準はなくて、主観の固まりなのではなかろうか。

今この食卓で、みんなが美味しいと言って食べている肉料理は、私にとってはちょっと塩辛く感じられる。

たとえば、塩味をゼロから段々増やして行くと、ついには超塩辛くなる。その途中のあるところに、50パーセント以上の人が丁度良いと思うところがあるであろう。

その点を、美味しいと言っているだけのことではないのか。

 

コクだとか、キレだとか風味だとか高級なことの分からない私は、こんな変なことを考えてしまうのです。

でも、ほとんどの食べ物を美味しいと感ずる側の味音痴なのは、有り難いことだと、感謝せずにはいられません。

 

それにしても海外旅行の普及と、日本人の国際化には目を見張らせるものがあります。

背広にネクタイでも、あるいはTシャツにジーパンでも、どちらでもちゃんとサマになっているのです。

 

向田邦子さんが書かれたような、旗を持った添乗員さんに連れられ、自分の行き先がサンパウロなのかリオデジャネイロなのか、何回聞いても覚えられず、機内では、ただ眠りこけていたという農協さんの時代は、もうすっかり昔のことになったのです。

 

 

?ベトナム

ベトナムの国土面積は、日本から九州を除いたぐらいの広さです。

人口は約7000万人です。識字率は90パーセントといわれており、また彼らの勤勉、穏和な性格を考え合わせると、潜在的な国力は相当なものだと思わせられます。

国土は南北約1700キロ、これは青森と鹿児島ぐらいの距離です。幅は中ほどの一番狭いところでは40キロほどしかありません。

北にはハノイ市を中心とする紅河の平野、南にはホーチミン市を中心とするメコン川の平野を持つ、細長い國なのです。

國の歴史は、ちょっと囓っただけの勉強では理解できませんが、初期に人間の集団が段々大きくなっていった様子は、どこの國とも同様のようです。

中国はベトナム北部を、雲南地方から海に出る道として魅力を感じており、北の地域をBC111年から約1000年間支配していたそうです。

いろいろの王朝の交代、栄枯盛衰の末、1428年にベトナムとして統一されたとされますが、それはまだ、今でいう北半分のことだったようです。

その時、将来一番豊かな地域になる南部は、まだクメール人の國でした。その南部まで取り込み、現在の大きさとなった1800年代には、すでにフランスの手が伸びてきています。

それまでの様子を見ていると、ヨーロッパ流の、他人の土地を奪って人が入ってゆくという感じが薄いのです。むしろ、有り余る広い土地にバラバラと人が居着いているそれなりの社会を、自分の子分にする感じと言ったらよいでしょうか。

自国が世界の中心で,周りは属国であると見なす中国の伝統的な中華思想を、ベトナムの人たちも踏襲していたという説もあるようです。

その後は、フランスによる植民地化、第2次世界大戦中の日本の進駐などの経過を経て、日本が無条件降伏した後は、北部は中国、南部はイギリスが武装解除する取り決めになりました。

ところが、イギリスの後押しでフランスの再侵略が始まったと、ものの本に書いてあります。

その後は、いろいろの紛争が続き、熾烈なベトナム戦争につながってゆきます。この辺りの動きは、大きく見れば、ベトナム国民の独立と統合の意志が、旧ソ連を軸とする共産圏の進出圧力と、それを食い止めようとする自由主義圏との確執の狭間に、翻弄されたといってよいでしょう。

1975年4月30日、南ベトナムは崩壊しました。南の大統領官邸に北側の戦車が突入する様子は、テレビで放映されましたので覚えている人も多いと思います。

その後にも、今度はベトナムがカンボジアに侵攻し、それを制裁するという名目で、1979年8月、中国がベトナム北部に侵攻し、紛争状態となったことがありました。

こんなようにして、ベトナムがカンボジアから撤退した、ほんの10年前まで、戦争に次ぐ戦争で、息をつく間もなかったようです。

 

そのほか我が国との関係では、17世紀、中部の街ホイアンに日本人約1000人が住み、日本人町を形成していたと言います。タイのアユタヤ、フィリピンのマニラなどと同様、交易の拠点だったのでした。茶会で使われた「安南絞り手」と称する焼き物は、この頃ベトナムから伝わったもので、安南とは、ベトナムのことであります。

 

今でも、ホテルのテレビ・チャンネルには、英語、フランス語、中国語が入り込み、なにか過去の諸外国の残した影響が残っているように感じられました。ついでながら、NHKの衛星放送も入っておりました。

 

?どっこいサイゴン

ホーチミン市とは、昔のサイゴン市のことであります。

公式文書とか、営業停止が恐い観光業者は別として、だれもが昔の名前で、サイゴンと呼んでいます。このことは、インドのボンベイ市をムンバイと改め、当局がそう呼ばせようとしても、みんなが無視しているのと同様であります。

入国申請の記載例もサイゴンになっていました。その通りサイゴンと書いて無事通過したことはいうまでもありません。

 

市の人口は約600万人といいますから、巨大な都市であります。

フランスの手にかかっているだけ、中心部は広い道路に亭々たる街路樹がそびえ、美しい街です。

バイクが100万台走っていると言われ、交通手段の中心になっています。6人に1台ということになります。

午後3時頃のサイゴンの町の道路は、バイクの洪水です。活気はあるのですが、その様子は、この街の人は、ほかの仕事をしないで、バイクを運転するのを仕事にしているのではないかと思うほどなのです。

家の中にいると暑いから外を走っているのだとも言いますが、それにしても凄いものです。彼らの大きな流れが、交差点、合流点などで、ローカル・ルールにしたがって、混沌、かつスムースに流れてゆくのは、芸術的といえるほどです。

かなりの数の女性ライダーたちが、三角巾でマスクをしているのに気がつきました。日焼けしたくないのだろう、女心はどこの土地でも可愛いものだと思いました。ところが、三角巾は男にもいるのです。ほこり除けのマスクかも知れません、でも、断然女性が多いのは事実です。

バイクに一家4人乗りといった様子のもあります。法規では2人乗りまでは、合法なのだそうです。

この街の重要な交差点では、たびたび起こる停電で信号灯が消えたとき、手信号で捌くのに備え、警官が常時待機しているのだそうです。その連中が、暇にまかせて違反者を捕まえるので、先読みするのが大事だとの解説がありました。

 

昔の大統領官邸が、統一会堂という名前で公開されています。沢山のベトナムの人が見物にきています。

また、戦争犯罪博物館では、ちょうど小学生の団体が来ていて、先生の指示にしたがい、行儀良くしゃがんで、お姉さんの説明を聞いていました。

写真に付けられた説明を、一生懸命帳面に書き写している子もいました。

もちろんアメリカから持ち込まれた武器だけが展示され、アメリカ軍の残虐行為の写真が展示されています。

また構内には、南の側の監獄の展示があり、ギロチンも置いてあります。

我々の仲間のある女性が「貴方たち、アメリカが悪いって言えばいいじゃないの」と口走りました。

この博物館を見ていればそんな雰囲気になります。

でも、アメリカ軍と戦っていた相手は誰で、その兵士たちはどこの國が送り込んだ武器を手にして戦っていたのでしょうか。

今となっては、あの戦は、南ベトナム解放民族戦線とサイゴン政権との戦いで、売国的なサイゴン政権をアメリカが支援したという格好になっています。

しかし、解放民族戦線の後ろに,北の政権、ソ連の全面的な、そして一時期は中国の、強力な後押しがあったことは、常識と言って良いでしょう。

確かにアメリカは手を焼いて撤退し、その支えを失ったサイゴン政権は、あっという間に崩壊しました。

勝った北の共産政権は社会主義政策を進め、ボート・ピープルに象徴される混乱と疲弊を生み、その後ドイモイ(刷新)政策に転換することにより、政治は社会主義、しかし経済は資本主義という現在の姿に変わってきています。

 

1960年代に、社会主義圏による世界制覇の動きを、アメリカはあんなに頑なに恐れる必要性はなかったのではないかと言う意見も、仮定としては成立するでしょう。

しかし、日本人としては1945年に、ソ連が北海道の占領を要求したときに、断固はねつけてくれたアメリカのマッカーサー将軍に感謝せずにはいられないはずであります。

 

わたしは戦争を憎みます。しかし、勝者が敗者を戦争犯罪人呼ばわりして、その犯罪人さえいなければ、悲惨な戦争が起こらないと言わんばかりの単純な思考体系には、どうしても同感できないのです。

 

ここの一角で、水上人形劇というものを見ました。10mx5mぐらいの池の水面で、人形がマスゲームのようなことを演ずると言えば説明になるでしょう。

人形劇それ自身は、そんなに面白いと思ったわけではありませんが、終わった後で、水面に垂らした簾の奥から、腰まで水に浸かった操り師が4人現れて挨拶したときには、その技能には心から拍手を送りました。

なんでも、棒と糸とで演ずるのだそうですが、ちょっと想像できないテクニックがあるようでした。

 

中央郵便局へも行きました。なんで郵便局が観光地なのかと不審に思っていましたが、行ってみると、実に洒落た綺麗なドームを持った建物でした。

ホー・チ・ミンさんの大きな額が掛かっているのが、共産国らしい雰囲気です。

今回ベトナムにゆくまでは、正直言って、ホーさんにそんな関心を持っていたわけではなかったのです。

でも、今度いろいろ読んでいて、彼はなかなかの人物だと思いました。

肩をいからせた教条的マルクス主義者とは、正反対の人だったようです。

よくあるような難解な言葉を使う共産主義者と違って、まるで子供に話しかけるような分かりやすい言葉でメッセージを送っています。

目的は民族の独立と統一で、共産主義はそのための手段だと考えるようなタイプの人に思えるのです。

 

大聖堂にも行きました。人口の約10パーセントいるカソリックの総本山です。丁度、結婚式があったので、新婚さんの写真を撮らせてもらいました。

時間があったので、しばらく敬虔な時間を過ごしたいと思って、椅子に座りました。すると、横にいたおばさんが、禁煙主義者が横で煙草を吸われたときのように、なんだか非難がましい様子で席を移っていってしまいました。未だにどうしてなのか、分からないでいます。

この大聖堂では、なんと、マリア様の像の頭の上の光の輪が、ほんとのネオン・サインで出来ていて、紫色に輝いていたのでした。

 

 

?市場

サイゴン市内の市場へ連れられて行きました。

100メートル四方ぐらいの大きな建物を中心にして、拡張部分はテント張りです。こんな市場が、市内、何カ所かあるのだそうです。

ベトナムでは、まだ家庭に冷蔵庫が普及していないので、市民にとって毎日の生活に必要な市場なのです。

人がすれ違うのがやっとの細い道の両側に、いっぱい店が出ています。

正面を入って右へ行くと,布地屋さんが並んでいます。どうでしょう、ざっと50軒ほどの同じ大きさの店が、同じような布を並べて商っているのです。

干した魚やエビを売っているところには、そうとうの異臭が漂っています。クサヤ同様、食べたらきっと美味しいのでしょう。ここも布地屋街と同様に、同じような店が何十軒と固まっています。

陶器の食器も、靴やサンダルも、なにも、かにも、同じ種類のものを売る店は何十軒も固まっているのです。そして、並べている商品は、どの店も同じとしか見えませんでした。

私たちが見物した時間のせいかも知れませんが、お客さんはそんなに来ているようには見えませんでした。あんまり売れていないのではないでしょうか。

 

考えてしまいました。

ここへ魚の干物を買いにきた人は、どの店に入るのでしょうか。

並べてある商品に差があるようには見えません。

 

日本の小売店は,家からの距離とか、顔見知りだとか、そんなことで、それなりの分布で生活を営んできたのだと思います。

それが、車の一般化で、距離の条件が希薄になり、価格の要素が決定的になって、巨大店との競争で苦境に立たされています。

ベトナムの大きな市場の中の店同士では、距離の条件は事実上ありません。

お客は、気が弱くて通り過ぎることができなくて、取っ付きの店に入ってしまうのでしょうか。それとも入るのは可愛い看板娘のいる店でしょうか、あるいは律儀なお爺さんの店でしょうか。

ともかくも、現実に人がいるのです。みんなが生活費を稼ぎ出して、生きてゆかなくてはならないのです。

売り上げがある特定の店に偏ったら、大変なのではないでしょうか。

安売り競争に走ったら、病気の親を抱えた年端もゆかない孝行息子の店など、生きて行けない人が出るに違いありません。

 

40年ほど前のことですが、ニューヨークのレストランで、閉店間際にウェートレスさんたちが、もらったチップを出し合って、みんなで均等に分け合っているのを見たことがありました。

 

ベトナムの市場では、布なら布地組合というようなものがあって、その中でみんなが生きて行けるようなことを考えているのでしょうか。少なくとも、値下げ競争になってトータルの売り上げが減り、飢え死にする人が出るようなことはしていないでしょう。

それは、いわゆる談合のプリミティブな形態と言うべきかもしれません。

 

それとも、出身地とか親族関係とか、ベトナムには私の知らない要素があって、それなりに今の形態に落ち着いているものなのでしょうか。

 

?クチ・トンネル

クチ・トンネルはベトナム戦争のとき、南ベトナム解放軍のゲリラたちが立て籠もった、全長250キロといわれる地下トンネルであります。最後までアメリカ軍を悩ませた現政権側の金看板であります。

サイゴンから西北西へ約70キロ、車で2時間、そろそろカンボジア国境に近くなった辺りにあります。

一面の水田の中に、森が見えてきます。

周りの水田よりも、約4メートルほど高くなった、これもまた、あくまで平らな水平面があります。この台地は比高差が少なく、かつ平らなので、浸食谷は殆ど見られません。

 

この高くなった部分は、柔らかい砂岩でできていて、簡単な手鍬でも掘りやすく、またいったん掘ってしまえば、枠など作らなくても、崩れてこないのです。

周囲の水位より高いので当然水利の便は悪く、表土は薄くて、貧弱な雑木がひょろひょろと生えているだけの土地であります。

 

クチ・トンネルは、ちょっとした観光地になっています。

説明用の藁屋が何軒かあって、訪れた人によって、その国の言葉で解説を流していました。

最初に通り過ぎた藁屋では、韓国語が流れていました。

ベトナム戦争には,韓国から5万人強が参戦していたのです。南の軍隊の10人に1人は韓国兵だったのです。

女性の説明員が説明してくれました。説明が始まってほんの30秒もすると、その説明員が一言二言口を動かすと、私たちの通訳が直ぐ引き取って、えんえんと説明するようになりました。

そりゃあ彼は日本語は得意だし、説明のメニューは聞き慣れているどころか、彼自身、もっと知識があるようではありましたが、なにか正規の説明員に気の毒なようで、聞き苦しい思いをしてしまいました。

説明が終わった後に、解放軍の健闘・勝利とアメリカ軍の残虐行為を画いた白黒の映画が上映されました。音声は日本語でしたが「B52戦闘機」と言っていました。この言葉は、ホーチミン市の戦争犯罪博物館でも使われていました。

申すまでもなく、あの巨大で大量の爆弾を運ぶ飛行機は、B52爆撃機と呼ぶべきです。

戦闘機というのは、軽くて早くて敏捷で、相手の飛行機を打ち落とすのを主目的にした機種なのであります。

現在、ベトナムの中のこの種の宣伝で横行している日本語は、きっと本当の戦争を知らない日本人が作った文章なのでしょう。

もうひとつ、映画の中で「銃先」という字を「つつさき」ではなく「じゅうさき」と言っていました。

こんなように言うのは、戦争を体験した人とは思えません。戦争を外から概念で捉えている世代なのでしょう。

もっとも、ついでながら私のパソコンも「つつさき」と打ち込んで変換すると「筒先」しか出てきません。

戦争を概念で捉えれば、双方、いたる所で非人間的行為をしていることになります。

もともと基本的に、争いでは、相手を沢山殺した方が勝者になれるのです。

 

沖縄、那覇の海軍壕のイメージは、ここでは全く外れました。

コンクリートなど使わない、肌理の細かい砂岩の、掘りっぱなしのトンネルなのです。

 

そうして、断面が、ぜんぜん小さいのです。

腰をかがめてヨチヨチ歩くのがやっとなのです。現場では測りませんでしたが、いま自分に折り尺をあてがってみると,縦90センチ、横80センチといったところだったでしょう。

何でも、大きなアメリカ兵が入れないように、とくに細くしたところも作ってあるとも言っていました。

無警戒に、すとんと足を着くような場所に落とし穴を設け、その底に尖った棒を植えてあったりします。

5000年前、八ヶ岳山麓で、縄文人たちが猪を捕らえるのに使ったのと同じ仕掛けですが、尖った棒の材料は縄文人が使った竹槍ではなく、ここでは鉄の槍でした。

 

相手が攻めてくれば、トンネルへ逃げ込み、夜など隙をみては攻撃を仕掛け、ある時は農民となって食料生産に励む,そういった「逃げ城」を使う戦術は、ある意味ではよくあるパターンでありましょう。

歴史に「もしも」はありませんが、もし九州の太宰府が中国軍に解放されていれば、天智天皇軍は裏山の大野城に逃げ込み、同様のゲリラ戦に入る心算だったように思われます。

 

あなたが南ベトナム政府の側にいたら、こんなゲリラに、どう対応したらよいとお考えでしょうか。

こんな状態では、村中、男も女も老人も子供も、ゲリラの一員と見なしたくなるのではないでしょうか。

村人だって一人ひとりは、本当は戦いなどなければ、どんなに良いかと思っていたことでしょう。

でも、現実には「自分たちの言うとおりにしなければ、どんなことになるか分かっているだろうな」というような脅しや見せしめは、あったに違いありません。脅かしている方だって、そうしないと自分の命が危ない情勢にあったのでしょう。そんな風にして戦争は戦われるのです。

でも、現実に自分を攻撃してくる相手を,放っておく訳にはいきません。

自分を守ろうとすれば、まず目前の危機を切り抜けるより仕方ないではありませんか。

 

「日本人には、不便だらけの、こんな戦争はできないな」と、一行の中の誰かが呟きました。

半世紀前、ろくに食べるものもなくて,敵機に追い回されて、ベトナムの人に近い経験をしたことのある私は、何とも言えない変な気がしました。

そうなってしまえば、それなりに何とかやるより仕方ないが、そんな目には会いたくもないし、他人にも会わせたくない、そんな気持ちだと言ったらよいでしょうか。

 

 

あの細いトンネルだって、もっと細い粗末なのを見たことがあるのです。

東海地方の、氷河期の前の地層に、尾張挟炭層というのがあります。薄い亜炭の層が粘土に挟まっているのです。

燃料不足の時代には、これも大事な資源でした。人力だけで掘り出すのに、最小限の断面を掘って仕事をしたものでした。

腹這いになって掘り進むのです。そのまま後ずさりして出てきては,あとから竹の籠に入った亜炭を、ロープで引き出したものです。

信州の和田峠で、黒曜石を採掘するのもその方法でした。

多分昔から、相当一般的な方法だったのでしょう。狸穴を掘ると言っていました。

 

ここクチ・トンネルの征伐に手を焼いたアメリカ軍が、毒ガスを使ったとも書いてありました。

それで、毒ガス(化学兵器)の話題を思い出しました。

昨年、沖縄の白百合の塔を訪ねたときも、アメリカ軍が毒ガスを使ったと書かれていました。

また湾岸戦争のとき、イスラエルの国民が、イラクの化学兵器攻撃を心配して、ガスマスクを持って地下壕に逃げ込んでいる様子は、何回もテレビで放映されました。

クルド人に対してイラク軍が毒ガスを使ったと、報道された記憶があります。

オウムが地下鉄でサリン・ガスを使い、無差別殺人を行ったのは、大事件でした。

このほか、わりに最近では、中国に日本軍が残してきた、毒ガス弾の処理が話題になっています。

 

私見を言えば、化学兵器は殆どの国が所有していると思います。

しかし、いったん使うと、国際社会から、どんな制裁を受けるか読み切れないので、自分から先には使わないでいるのでしょう。

また、地下壕に対する攻撃では、藁や生木を燃やし、煙で燻すことは普通に行われることでしょう。

トンネルの中にいて燻される方にしてみれば、言ってみれば、それも一種の毒ガスと言えるかもしれません。実際、咳き込む、涙が出るなどの肉体的障害は起こるのですから。

沖縄でもクチ・トンネルでも、本当の意味の化学兵器は使われなかったのではないかと思います。

クルドの場合の真相は、どういうことだったのでしょう。真偽のほどは、われわれとしては知る由もありません。だれかがそう言っていると、センセーショナルに報道するだけでなく、ことの真偽のほどを追求してもらいたいものです。

伝聞として報道し、あと口をつぐんでいるということは、多分実際には使われなかったのだろうと、わたし1人で推測しているだけのことです。

 

ベトナムでは、戦争が終わってから約10年です。

日本では、もはや戦後50年、幸せを噛み締めました。

 

?メコン川クルーズ

ベトナム戦争などの相次ぐ戦乱、その後の社会主義の強行、カンボジアへの侵略に対する国際的制裁などにより、1980年代始めには、ベトナムの国力は疲弊し、食料を輸入する金もない状態だったのだそうです。

それがドイモイ政策(刷新)によって蘇り、現在は右上がりの経済で、まことに活気があります。

そんなメコンデルタ地帯を、サイゴン市から約2時間半南東にドライブしました。

海抜ゼロメーターの土地が、果てしもなく広がっています。人工の堤防などないのですから、氾濫で運ばれた土が、自然に水の上に姿を見せている、本当のゼロメーターなのです。

そんな土地で、人工的に土を移動させ、しっかりした土地を作っては、人が使っています。

外国からの進出工場もありますが、打ち放しのゴルフ練習場や大観覧車があったり、どこの國もそれなりに楽しんでいる様子でした。

 

ベトナムでは土葬なのだそうですが、北部では土地が少ないせいか数年後に洗骨して纏めて、再度埋葬するのだそうです。

南部では、土地は無限に近いので、次々に新しい場所に埋葬するのだと言っていました。いずれにしても、新しい土地を作ろうとすると、掘ったところが、やたら池になってしまうのは困ったことのように思われます。

日本では、神戸のポート・アイランドの場合のように、土を移動させると、水の中に新しく土地が生まれ、他方では山が削られて貴重な平地が得られるのです。

メコンデルタのように、近くに山がない、広大な沖積平野というものも不便なものだとも思いました。もっとも、現地の人にすれば、われわれと違ったスケールで、山が近くにあると思っているかも知れません。

そして、土を取った池は、日本人に食わせるエビを育てるのに使う、貴重な養殖池になっているのかも知れません。

 

こうして、ミトという町に行きました。

そして、ここにある永長寺というベトナムのお寺にゆきました。200年ほど前に建てられたものだそうです。

この地方が開けたのは、たかだかその頃で、これより古い旧跡はないとのことでした。

建物の外側は西洋風ですが、中は真正真銘の仏教のお寺でした。黄色の衣を付けたお坊さんたちが、勉強しておられました。10人ほど集まっておられたでしょうか。年かさのお坊さまが、講義をしておられました。

脇侍の仏様たちの乗り物が、獅子、象なのは日本と共通ですが、水牛や馬、豚に乗っておられる方もおられました。

脱線しますが、ベトナムにも十二支があります。そして、日本のウサギが猫、猪が豚になっているのだそうです。

お寺で一番変わっていたのは,仏様の光背が色ガラスできていたことです。その赤、青、黄などモザイクが、電灯で照らされてとても綺麗でした。

また、仏壇の天井にクリスマス・ツリーと同じような点滅電球がピカピカしていました。

前述した大聖堂にあるマリア様の頭上のネオンのリングといい、柔軟な頭の持ち主たちなのでしょう。

土地古来の神様と仏様とが、一軒の家のなかに祭ってあったりするそうです。

 

この辺りのメコン川は、河口まで約50キロ、川幅は3キロ、水深は8メートルとのことでした。約40分ほど船で遡り、沢山ある島のひとつ、竜島に上陸し観光しました。

この島で、フルーツ食べ放題のサービスがありました。旅慣れた人のお話では、こういうのが危ないので、うっかり食べると下痢にやられかねないのだそうです。例えば、フルーツを切る包丁をどんな水で洗っているかというようなことが問題なのです。

抗菌社会漬けになっている我々は、世界じゃ普通には通用しないようです。

 

ベトナムには美人が多いと、ガイドブックに書いてありました。

前夜のディナー・ショーでも、沢山の美人を見せてもらいました。

一生懸命ビデオに撮りました。それで、日本に帰ってからそのビデオを見ていて、はっとあることに気がつきました。

要するに、ベトナムの人たちの容姿は、とても日本人に似ているのです。

通訳のスンさんも、日本人と全く見分けがつかない顔かたちでした。

人の顔は、一人一人違うので、民族の容貌を、正確に、違うとか同じとかいうのは難しいのですが、全体の感じでは、距離的にはもっと近いところに住んでいる人たちよりも、もっと日本本土人に似ていると言えるでしょう。

男の子というものは、潜在的に母親タイプの女性を恋人に選んでいるという話を聞いたことがあります。

われわれがベトナム美人を褒めそやすとき、日本の女性と似ているのを潜在的に綺麗と受け取っているというのが正解ではないでしょうか。

そんなわけで、茅葺きの休憩所で民族音楽の披露があったときに、私は鼻の下を長くしてベトナム美人を眺めていたのです。

ポカンと口を開けていた可能性も否定できません。

ふっと目が合うと、彼女は早速、カスタネットを持ってきました。彼女が歌うときに、それで拍子を取れということなのでしょう。

 

 

美人というのは、しょせん外見だけのことで、中身とは無関係です。

だから、やたら目尻を下げてはいけません。まさに心すべきことでありました。

古希になって、こんなことを言っていれば、まったく世話はありません。

彼女には、旅慣れたお仲間の真似をして、チップを添えてカスタネットをお返ししました。

 

ベトナムの人たちの身長は、平均的にやや低い感じです。

もっとも、民族の身長は割と早く変化するもののようです。日本のデパートでエレベーターに乗ると、若い人たちの背が高くて、見通しが悪いのを感じます。ベトナムの人たちも数十年経てば、やはり背が高くなるのでしょう。

 

ここ竜島の細い水路を、小舟で下りました。地元のおじさんやおばさんが船頭になり、4人のお客を乗せた船の前後両端に1人ずつ付きます。

ベトナム旅行中に、何か、土地の人にお金を落としてあげたいとは思っているのです。でも、欲しい物がないのと、吹っかけた値段から値切るのが不愉快で、結局、ここまで何も買えないでいたのです。

この島のクルーズで、日本語など縁のない、地元の人たちに喜んで貰えたらと、巨大なホテイアオイの生えた水路を、旦那気分で流れに乗っていました。

 

?ことしも暮れる

 

往路では、名古屋空港の滑走路を14時40分に離陸しました。

実飛行時間は6時間半ばかりなのですが、ソウルの金浦空港で4時間余の待ち合わせ時間がありました。

結局、ホーチミン市のタンソン・ニエット空港には、次の日の朝の1時半の到着です。時差が2時間あるので現地時間では23時半になります。

大型バスでホテルに向かい、なにやかにや、寝たのは日本ではもう明け方の頃でした。

バスにはガイドさんが二人乗りこんでいて、挨拶がありました。

二人とも、ソンさんでした。年輩のソンさんと若いソンさんです。

その後、ツアーの行程の70パーセントは若いソンさんが説明しました。

彼の日本語は、とても分かりにくい日本語でした。「80パーセントが仏教です」と説明してくれていても、彼の「仏教」が聞き取れないので、お客の方が80パーセントの方から逆に「仏教」と推測し、「それ、仏教て言うの」と声をかけるぐらいでした。

日本からの添乗員さんに、あの日本語は分からないよとクレームをつけましたが、地元雇用確保のため、外人はガイドをしてはいけないことになっているとのことでした。

別の時のことですが、ホテルのロビーで、英語の通訳さんが白人を案内していました。その英語も、とても分かりにくい英語でした。

なにせベトナム語には母音の音調が6種類もあるとかで、とても発音が難しいと言われています。そのことが逆に、ベトナム人の日本語や英語を聞き難しくしているのかもしれません。

 

ところが年輩のソンさんの日本語は、流暢なものでした。日本を訪ねたことがあると言っていました。

なにせ彼は、モスクワ大学に留学したというエリートなのです。

ソ連は一時期、毎年約5000人、ベトナムの若人をモスクワ大学に留学させていたと言います。ソ連では、教育に力を入れると決めると、社会主義国であるだけに、思い切ったことが可能なのであります。このような日本が見習うべき点は、素直に認識するべきでありましょう。

さてソン小父さんは、我々の帰りの出国手続きのとき、部長だからとか言って、相当奥の方まで一緒に来てくれました。

また、別の時「私は北の人間です」と言っていました。そして、北の人らしく、アメリカに非難の言葉を投げかけていました。

考えてみればどんな場合でも、観光のガイドさんというものは、角の立つ意見など、あまり言わないものではないでしょうか。

昔、能登半島の観光バスで、運転手さんがガイド役も勤めていました。そして「個人的には、原子力には反対です」と言ったときに「えっ」と感じたことがありました。

それはともかく、帰ってから、ベトナムの本を読んでいましたら、その中の政府機関の項目を読んでいて、はっと思いました。

 

本にはこんなことが書かれていました。

戦争に勝った北側は、南の行政や学校の重要ポストに北の人を送り込みました。

そして共産党の一党支配のもとでは、政府機関のポストの人選は、公募とか資格審査で選ぶのではないそうです。

内戦というものは、勝ったほうも、アメリカが置いていった戦車や大砲の武器以外、土地や財産といった価値ある物が手に入る訳ではありません。

それで、論功行賞として政府機関のポストを与えて、功労に報いるより仕方なかったのだといいます。

野戦の中で、小舟を繋いで仮の橋を作った功績者を橋梁局長に任命、それの代理職を作る、更に次長を付けるという具合で、広範囲、恒常的に人員は過剰、そして必用な人材は不足している状態なのだといわれます。

なにせ社会主義国ですから、土地は國のもの、作業は共同作業、集団で得られた成果は全員で配分するのが建前です。したがって、税の意識も、その徴収、執行の手段も不完全なのだそうです。

各省庁は行政活動で得た所得の一定割合を国庫?に納め、残りで自分のところが抱えている人員を養わなくてはならないのだそうです。

 

 

したがって、儲かりそうな仕事は自分の実行能力など無関係に抱え込む反面、儲からないと見ると、他省庁に押しつけるとか,放っておくのだそうです。

軍や、公安(警察)、エネルギー省は、プロパーの守備範囲の外に、旅行業を手がけ、車の手配、ホテル、レストランを経営しています。それは、外国からの客の入国から出国まで一貫して世話することにより、余剰人員を活用し、莫大な利益を独占できるからなのです。

 

そんなことが書かれていました。

ひょっとして、ソンおじさんは、そんな人のひとりだったのでしょうか。

 

なんと言っても、ベトナムは人口7000万人の大国です。

国際社会の中で、相応の大国として振る舞うのには、それなりの社会システムが必用です。

解放当時、北の兵隊たちは、圧政に苦しみ暴虐にあえいでいる南の同胞を「解放」すると信じて、ジャングルから出てきたら、自分たちよりもずっと豊かな消費生活を享受しているのに驚いたと聞きます。

そして今でも、南北格差は大きいのだそうです。

失礼ですが、東ドイツが西ドイツを併合したら、どんなになっただろうと思わずにはいられません。

ベトナム政府や世界のマスコミは、独立何周年とか騒ぎますが、南の人たちは,北側の勝利による独立・統一の祝典に、意外にシラットしていたとも聞きました。南の人の心の問題もあるに違いありません。

なんと言っても長い外国支配が続いていたので、今まで、自分たちが独力で国の運営を取り仕切った経験があるとは、とても、言えないでしょう。

 

問題は、将来です。

アジアの中の社会主義国である、中国,北朝鮮、ベトナムと並べてみると、ベトナムは経済面では、失敗に終わった社会主義を早々に見限り、資本主義を取り込みました。

土地は個人の所有でこそありませんが、使用権の売買という形で実質的な個人所有となっているのだそうです。

そういうことによってやる気を出した人たちが、繁栄を支えいます。

かっては食料の輸入国だったものが、1989年から輸出に転じ、今やアメリカ,タイに次いで、世界第3位の米輸出国になっているのです。

先に述べましたように、マリア様や仏様の像に、ネオン・ライトを添えたりして、物事に頑なに拘らない柔軟な考え方の出来る人たちのように見受けます。

また、広く世界に門戸を開き、かっての敵、アメリカや韓国にも柔軟に対処しています。

頑なに門を閉ざし、自分だけの論理に閉じこもっている国より、希望は持てます。

 

歴史に終わりはありません。無限に流れてゆきます。

ベトナムの人たちがこのまま、攻められることも、攻めることもなく、平和に繁栄を続けてゆくことを祈りたいと思います。

 

さて、今年の外国旅行は、インド、カムチャッカ、バリ島に続き、今回のベトナム・ツアーで終わりです。

私にとっては、どこを訪ねても、過去の戦争のことを思い出さずにはいられませんでした。

これは、最も感受性の強い時期に戦争を経験した、昭和ひと桁生まれの、どうしようもない性だと言えましょう。

 

今年は、山の友達を二人、病気で失いました。

戦争を知っている日本人も、今や段々少なくなってゆきます。

この私だけが、いったい、いつまで突っ張っていられるものなのかと、思わずにはいられないのです。

 

 

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