題名:マウント・ホイットニー登山/そして旧き友

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日付:2003/9/4


●マウント・ホイットニー

最初に、マウント・ホイットニーに登りにゆくことになった経緯から、書き始めてみましょう。

今年始め日本山岳会東海支部の新年会で、鈴木さんがホイットニーに登りにゆかないかと誘ってくれました。鈴木さんは雑誌「岳人」の最近の記事を読んで、食指が動いたのだそうです。

そのとき私は、この山については、ほとんど知識はなかったのですが、取り敢えず、まずイエスと答えました。

その後、資料類を見ているうちに、だんだんに、ちょっとシンドイ山だなと思い始めたのです。

誘ってくれたのは、私が海外登山の経験者で、通訳として役立つだろうと買いかぶってくれたのだろうと推察しました。私は本性がバレルのを恐れ、ひたすらに隠しておりました。

それに騙されて、鈴木さんがすっかり手続きをしてくれたのです。


7月4日、名古屋空港に集まったのは、鈴木さん65才、堀さん64才、中村さん60才と、かく申す私でした。全員、同じ職場の山好き男たちです。

さらにロスアンジェルスで、もうひとりのメンバー、辛島さん、32才が合流しました。

彼は海外ボランティア活動に参加するなど、新しい時代の若い人の生き方を実践している好青年です。今回も先発していて、メキシコの農場で働いたり、コロラドの山に登ったりしてから合流したのでした。

余分に荷物を持たされるほかに、年令が違い、ともすればセンスがずれそうな老令者と会話するだけで、結構負担になるはずなのです。彼の敬老精神を、今の若い人たちにぜひ見習って欲しいものです。

ロスアンジェルスに着いてレンタカーを借りるあたりから、「いまの英語、なんて言ったんですか」と聞かれても、私は返事ができませんでした。

こうして、私に英会話の能力がないことが、いっぺんにバレてしまったのです。でも、もう手遅れですから、帰れとは言われませんでした。

そんな私でも、相手がいま、どんなことを要求しているかは、だいたい推測がつくのです。それで、なんかそれらしい行動を起こせば、相手がノーとかオーケーと言ってくれるのです。

私のひとり旅でしたらそれで通るのですが、今回は、みなさん、さぞかし頼りなく思われたことでしょう。

ともかくこうして、フォード社製ウインドスター車はクールで緻密な堀さんのハンドルさばきでロールアウトしたのです。

このマウント・ホイットニーのあるインヨー国立公園では、自然保護のために入山者の人数を制限しています。

その数字は、資料によって多少違っているのですが、そのひとつをあげれば、1日あたり山中宿泊50人、日帰り120人です。

日帰者の人数まで制限しているのは、アメリカの国立公園でもここだけだとのことです。

毎年2月にその年のシーズン中の全申し込みを受付け、そこでくじ引きになるのです。

公表された当選確率は57パーセントですが、日によっては10倍も申し込みがあるとも聞きます。

3月中旬になっても、その当落の通知がなく、随分ヤキモキしました。

最後は、鈴木さんの銀行預金口座から1人15ドルの入山料が引き落とされているのを見て、当選したようだと推測したようなわけでした。

入山前に登山基地ローンパインにある管理事務所に出向き、ひとりひとり荷札のような許可証をもらいました。許可証は入山日によって色が変えてあるのです。その荷札を、リュックなどの見やすいところにつけ、ヒラヒラさせながら歩くのです。

山中、キャンプ場は2箇所指定されていますが、山小屋はありません。

キャンプ場にはトイレがあり、太陽電池で発電した電力で乾燥させ処理しているのだそうです。トイレでの小用は禁止、使った紙は持ち帰りです。

廃棄物は道路、水際から100フィート以内には出すな、15人以上グループで行動してはならぬなど、みんなで気持ちよく使うための決めがあり、それが繰り返し繰り返し目に入るような仕組みになっています。

なんといっても少ない人数に制限され、「みんなで渡れば恐くない」的雰囲気がありませんから、ゴミひとつ落ちておらず、美しく守られています。

アメリカ全土としての最高峰はアラスカ州にあるマッキンレー山(6,194m)です。この山は、高いうえに北極圏に近いので、大変に厳しい登山になります。あの有名な探検登山家、植村直己氏もここで遭難死してしまいました。寒さ、それに信じられないほど強い風が吹くのだそうです。

では、アメリカ本土の最高峰はどこでしょうか。

アメリカ本土(メイン・ランド)というときは、アラスカ、ハワイ両州を除きます。

昔、この二州は準州といっていました。それらが州に昇格した今でも、その名残が残っているようです。

本土の最高峰はマウント・ホイットニー、標高14,494ft、4,418mです。

カリフォルニア州にあります。大雑把にいえば、サンフランシスコの南東400km、ロスアンジェルスの北280km、太平洋岸から300km内陸に入った、といった位置にあるのです。

本土の最高峰が、なんで有名なロッキー山脈にないのかと思われるかも知れません。

日本では、その高さでも姿の美しさでも、また昔から詩歌に賛美された歴史からも、富士山と肩を並べる山はありません。でも、マウント・ホイットニーは、ほかの山から飛び抜けて高いわけではありません。14,494フィートですが、標高14,000フィートを超える山は、シエラネバダ山脈、ロッキー山脈などには、文字通り犇めいています。

つまり、どんぐりの背比べの中での第一位なのです。

北米大陸では、太平洋岸から東に向かうと、まずコーストレンジ(海岸山脈)で高まり、そしてサンホアキンバレーに下ります。そしてシエラネバダ山脈、大盆地、ロッキー山脈と上下し、中西部の大平原穀倉地帯とつながってゆくのです。

シェラネバダという名は、ヨーロッパ人として最初当地に入ってきたスペイン人たちの呼び方で「雪の山」を意味します。彼らの祖国スペイン南部にも、地中海に沿って3,000mを越す峰を連ねたシェラネバダ山脈があります。なんと言っても、文字を持つ人たちは優位に立つのです。

シェラネバダ山脈は、ロッキー山脈と比べて名を知られていませんが、南北600km、東西130kmもあります。日本の北アルプスが南北約90km,東西30kmほどなのと比べれば、どんなに大きいかわかっていただけると思います。

もともと、カリフォルニア州の大きさが、日本の本州とほぼ同じですから、アメリカの広さには圧倒されてしまいます。

この山脈は、サンフランシスコに近いヨセミテ国立公園あたりでは、標高4,000m弱ですが、ロスアンジェルスに近い南端で、ぐっと高度を上げます。そしてそこにマウント・ホイットニーがあるのです。

これら南北に連なる山脈や谷は、日本と同様、太平洋からプレートが押してきて、大陸プレートの下に潜り込むとき、押し上げられてできた構造なのです。

このあたりは、基本的には非常に白っぽい花崗岩で成り立っています。

マウント・ホイットニーの稜線は、東側から眺めると、牙のような山容が垂直の壁になっていて、とても歯が立ちそうには見えません。しかし、稜線の西側、太平洋側は、

岩石累々とした比較的緩やかな斜面になっていて、そこに山頂に達する登山道がついているのでした。

全体に、東側の谷は一気に駆け下っています。急な斜面を過去に氷河が磨いた硬い岩が、谷を形作っています。それに反して、西側のセコイア国立公園側は谷が道草を食いながら、ゆっくり下ってゆきます。

このシェラネバダ山脈の東側がデスバレーにあたります。デスバレーは正断層で地盤が落ち込んだ低地だとされています。ホイットニー山の東側が急斜面なのは、その断層面にあたるからだろうと思われました。

谷には美しい湖が多いのですが、それらは氷河期の盛衰によるモレーン(堆石)によるものではなく、氷河が削ったときのいろいろな条件でできたもののようであります。


Mt. Whitney 日本ではホイットニーと書いています。

でも、地元カリフォルニアでさえ「ホイットニー」と言っても、ほとんど通じませんでした。

ウイスキーはWhiskyと書きます。昔の小説には、ホィスキーと書かれていた記憶があります。

結局のところ「マウント・ホイットニー」も「ウィットニー」と発音したほうが通用しやすいことがわかりました。

でも発音が通じたとしても、日本人が日本内地で一番高いのは富士山だと知っているほど、アメリカ人がアメリカ本土で一番高いのがウィットニーだと知っているとは思えません。

後で訪ねたメイン州の米国人の友人は、何回訂正しても、私を紹介するのに「こいつはマッキンレーに登ってきたんだ」と繰り返しては、私を当惑させておりました。


●セコイア国立公園

私たちは、6月4日夕方に成田を出て、同日午前10時過ぎにロスアンジェルスに着きました。

実際は10時間弱かかっているのですが、日付変更線を通過しているのでこうなるのです。

6月5日(金)朝、ロスアンジェルスを出て、340km〈名古屋ー郡山〉北のセコイア国立公園を見物し、さらに西へ100km〈名古屋ー藤枝〉走り、この日はフレズノという街でモテルに泊まりました。


(今回文中のkmは走行距離ではなくて直線距離です。また、大きな縮尺の地図から拾ってあります。概略位置を示すために使っているので、決してドライブには使わないで下さい。たとえば名古屋ー東京は文中では250kmに相当しますが、JR営業距離では366kmとなっています。)


さて、世界で一番大きな生き物は何だかご存じでしょうか。

体長30m、150トンといわれるシロナガスクジラじゃありません。

それは、セコイア国立公園に立っている「シャーマン将軍」と名付けられたセコイアの大木なのです。

樹高84m、直径11m、重量は実に1,385トン、推定樹齢2,700年といわれます。この一本の木を材料に使えば、5LDKの家が40戸建てられるそうです。


このセコイア国立公園は、日本でもあまりに有名ですから、ここではトピックスを拾ってみましょう。


セコイア、Sequoiaはスギ科の大木です。スギ科の植物は地球的に大観すると、衰えつつある樹種なのだそうです。

日本には、スギ科の木は沢山あります。このカリフォルニアにも日本と似た降雨量の多い場所には、種類も個体数も沢山あります。セコイアやレッドウッドの外にもコンシャス・シダーとかいうのもありました。それぞれ、日本だったらサワラに相当するのかしらなど考えながら見ていると、木曽五木を思い出させられます。


世界一背の高い木は、同じくカリフォルニア州ホワイトマウンテンにあるスギ科のレッドウッドで、高さ112m、直径6mとされます。セコイアは幹の先端近くまで相当の太さがあるのに反して、レッドウッドは全体的にスラッと細長いので、体積と重量ではセコイアに敵いません。

世界には、一番太い木といわれるのもあります。メキシコにあるトゥーレ・サイプレスで、幹の直径がなんと14.9mもあるということです。

当然、日本人としては屋久島の縄文杉が出てこないのに、がっかりされるに違いありません。でも縄文杉は全然敵わないのです。

屋久島の杉が大きくなれないのは、台風に襲われやすい海中の孤島で生きてゆかねばならないかしらと、素人考えをするのです。

セコイアはどこにでも生育できるわけではなく、シェラネバダ山脈西面の標高1,500mから2,300mのあいだに活きているのだそうです。

これより下は乾燥がひどいし、これより上は寒過ぎるのだとのことです。

国立公園に指定される前には、この大きな木を切って木材として使ったのです。幹をくりぬいて、そのトンネルを車が通り抜けている写真を見たことがありました。あの木は、枯れて、倒れてしまったのだそうです。

国立公園になってから暫くは、自然に発生した山火事まで、ジャイアント・セコイアを守ろうとして、消したのだそうです。でも、研究が進むに従って、山火事のお陰でセコイアは生きて来れたことが解ったということでした。

つまり山火事は、セコイアと生存競争を戦っている背の低い木たちを、焼き殺してくれていたのでした。そのために、樹皮の厚いセコイアは生き残って来れたのでした。いまではプラニング・ファイアといって、人為的に小規模な山火事を起こしてまで、セコイアを保護しているのだそうです。

・啄木鳥や幹を巡りて身を隠す

大きな目立つ木には、シャーマン将軍はじめ、いろいろな将軍の名前がニックネームとして贈られています。

シャーマン将軍は、南北戦争のとき北軍の総司令官でした。彼の前任者、グラント将軍は、リンカーンの信任が厚く、後に第18代大統領になった人です。グラント将軍の名を貰った木は、大きさでは第3位だそうであります。

南軍の総司令官であったロバート・リー将軍の名前を貰った木もあります。

このほか、ジャクソン、エイブラムス、シェリダン、パーシングなど各将軍の名のついた木もあり、それらを訪ねるのも、アメリカ人たちには興味深いのでしょう。公園を通っている曲がりくねった車道も、ジェネラル・ハイウエイと名付けられていました。

7月6日はフレズノからマウント・ホイットニーの登山口までの移動日です。

登山口は、セコイア国立公園とはシェラネバダ山脈を挟んで、東側にあります。

直線距離は40kmほどです。実際、西のセコイア国立公園側からの登山道だってあることはあるのです。でもそれは、何日もかかる大変長い道のりになってしまいます。西穂高岳を挟んだ上高地と新穂高温泉のような関係です。でも、ここは自然保護思想のご本家アメリカです。ロープウエイもトンネルもありません。

車で南へ170km〈名古屋ー熱海〉、そして東に80km〈名古屋ー磐田〉、さらに170km北上してローンパインという信号灯が一箇所しかない小さな町に着きます。大変な大回りです。ここで国道から分かれ、山道に入ります。

一般的なマウント・ホイットニーの登山口は、標高約2,548mのホイットニー・ポータルです。ここまでは舗装道路が上がっていて、キャンプ場や売店、駐車場があります。

・熱砂来て針峰望む地に至る

キャンプ場には15時頃入りました。

アメリカの国立公園で、キャンプ場に泊まるのは始めてのことで、物珍しかったのです。ここでは次ぎに述べるようなシステムになっていました。

キャンプ場の入り口に、利用方法の説明書がありました。

まず、キャンプ場に使用可能なスペースがあるかどうか車で回ってみます。

もう、使用者が決まっているキャンプサイトには、予約の場合は、レンジャーが発行したカードが掛けてあり、当日確保済みの場所は、紙切れが挟んであります。

私たちは車でぐるぐる回って、たまたま空いているとおぼしき場所を見つけました。

でも、そこには先客が岩に座っていて、もうオレが取ったぞという仕草をしました。

幸運にも最後の一箇所だけ空いていました。私が車を降り、先程見た男のように、場所の確保係を勤めたのです。

皆さんは、また車で入り口に戻って行きました。

キャンプ場の入り口には、直径20cm、高さ1mほどの鉄製の柱が立っています。

それには、郵便ポストみたいに口があります。

備え付けの封筒に使用料金を入れて投入します。そして封筒の半券を持ってきて、自分のキャンプサイトの前の柱にぶら下げておくのです。

キャンプ場の管理者は随時回ってきて、ポストの中の料金と、現場の表示を照合すればよいのでしょう。ここには7月6,7日と2晩、テントを張って泊まったのでした。

●デスバレー国立公園 

7月7日(月)ホイットニーの麓、ホイットニー・ポータルのキャンプ場にテントを張り放しにして、デスバレー国立公園に日帰り旅行をしました。

デスバレー国立公園は、マウント・ホイットニーから東へ約120km〈名古屋ー塩尻〉ほど離れています。

前日、ローンパインに向かい北上する車の左手、西側にシェラネバダの高まりが見えてきた頃、溶岩原のような平らな崖が見えてきました。それが近くに見えるようになると、まさしく溶岩であることがわかりました。引き続き北上するうちに、典型的な姿のクレーターまで見え始めたのです。

アメリカ西部の、こんな所に火山があるなんて、私にはまったく予想外でした。

ひとつひとつのクレーターが小さいのか、噴出物がサラサラして高く積もらないのか、ともかく完全な火山地域なのに、かなりフラットな地形でした。

マウント・ホイットニーはそんな火山灰の堆積平原から、花崗岩の壁になって突きだしているのです。

ともかく山へ入る前日、登山基地ローンパインの町から、そんな火山地帯をデスバレーに向かい車を走らせました。ゆるく大きくうねった大平原を、舗装道路がどこまでも一直線に続いているのです。そんな道を時速100km/hを超す猛スピードで突っ走るのです。

間もなく、送電線の下を通ります。この送電線は普通のものとは変わっているのです。

ここでは、、平行して2ルートあります。

1ルートは、どこでも見掛ける電線を3本ぶら下げた3相交流の送電線ですが、もう1ルートは複導体を2対ぶら下げた直流送電線なのです。

ここへ来て実物を見て始めて気がついたのですが、これが20年以上前、電力送電技術の話題をさらったパシフィック・インター・タイ(太平洋岸南北連系線)なのです。

豊水期には北部の水力発電の電気を南に送り、渇水期の重負荷時には南から送電するという目的で作られました。

直流送電の技術は大変に難しいものです。でも、それなりに人為的にいろいろのコントロールができるのです。

交流側の送電線の荷が重くなり、フラフラしだしたときに、それを制動するように直流側でコントロールしてやれば、両方で大量の電気を送ることができるのです。

とはいうものの完成した頃には、州の電力政策の失敗から南部では慢性的な発電能力不足になり、常時北から南への一方交通になっていると、風の噂に聞いていました。

その後も長距離、大電力送電の要求があると、このデリケートな送電手段が検討はされましたが、実現したとは聞いていません。

・送電線灼ける砂漠に耐えてあり

しばらく走ると、がけの上から前方に広い谷が見えました。谷底に一直線の道が見え、向こう側の崖に登っています。

みんなこれがデスバレーだと思ったのです。「まあ、向こう側に登るところまで、谷に入ってみましょうや」、そんなように誰かがいいました。

底に下り、回りの崖を見回したとき、私はこれは阿蘇山のようなカルデラの、南側が抜けたような地形だろうと思ったのです。

でも、広いアメリカでのドライブです。向こう側の崖にもどんどん登り、とっとことっとこ走り続けたのでした。そこはまだ、デスバレーのほんの入り口でした。

プールや昔風のジェネラル・ストアがある、ちょっとした観光地のようなところがありました。そこはストーブパイプ・ウエルという、聞くだけでなにか汗が出てきそうな場所でした。

そこの土産屋には「今年の9月まで休業」と張り紙してありました。

夏期には、あまり暑いので、観光バスは運行されていません。

この日、7月7日午前9時に、もう気温は39度もありました。

このデスバレー国立公園は、南北200km、東西100km、長野県とほぼ同じ面積です。

年間降雨量は50mm、これは日本の平均の僅か3パーセントに過ぎません。1994年には、48.9度C以上の日が31日、43.3度C以上の日が97日、最高気温が53.3度Cだったと聞いては、お土産店が休業するのも、もっともなことと思いました。

昔、ゴールド・ラッシュの頃、西部を目指した人々のうち、この谷に迷い込み、何人かが命を落としました。幸運にも脱出できた人が振り返って「デス・バレー(死の谷)」とつぶやいたところからこの名になったというのです。多分、作り話でしょうが。

ともかく私としては、死んだ人ばかりではなく、生き残った人がいたと聞かされて、昔の人は強かったと、ひたすらに感動するのです。

ところで現代では、折角、新技術を開発しても、資金不足などの原因で製品開発に結びつけられずに埋もれてしまうことを、デスバレー現象と呼ぶのだそうです。

ここの博物館に入りました。

地質の解説で、シェラネバダの山と、ブラック・マウンテンに正断層が生じて、このデスバレーが落ち込んだのだと書いてありました。

確かに、北半球の土地としては最低の地点、海面下85.9mはここにあります。

昔、ふたつの地盤が引っ張られて、あいだの土地が落ち込むのが正断層、ふたつの地盤が押し合って競り上がるのが逆断層、日本では九州の阿蘇だけが正断層だと本で読んだことがありました。

私の中学生時代は戦争末期でした。工場へ連れてゆかれ戦闘機ばかり作っていて、勉強はしていないのです。それから後の学校では、地理なんていう授業はなかったように思います。

ともかく、今の学説で、断層はどう説かれているのでしょうか。

最近の大陸移動説では、中央海嶺からマグマが上がってきてプレートが押すので、いたるところで地球の皮が余って押し合っている印象です。ということは、殆どの断層は逆断層になるわけです。そんな意味からも正断層というのは珍しいのではないでしょうか。

また、このデスバレーでホワイト・ゴールドの採鉱が行われたともありました。

ともかく、ここを訪ねて、私はゾクゾクするぐらい米州大陸の地質に興味をかき立てられたのです。

もっとも昔の商売柄から、この博物館の電気はどこから持ってきているのかと聞くことも忘れませんでした。

なにせ年間降雨量50mmと極めて天気の良い土地ですから、世界中で、こんな太陽光発電に適した場所は、よそにはないでしょう。きっと、太陽電池のメーカーが、たとえ赤字になったとしても、自社の宣伝のため売り込んでいるに違いないと推測したのです。

でも答えは、町から電線を引いて送ってきているとのことでした。

「停電はどれぐらいあるのですか」と重ねて聞いてみましたが「別に気にならないよ。予備電源もあるし」とのことでした。これではぜんぜんフツーじゃありませんか。

・夏の日に乾き切ったる塩湖かな

●ホイットニー山の道

7月8日7時30分、いよいよマウント・ホイットニーに向かって登り始めました。テント、食糧など重いものは、本当に若い人や、比較的若い人たちが担いでくれました。

登山口のホイットニー・ポータル(海抜2,548m)までは舗装道路があります。

そのあとトレイル(登山道)を歩くことになります。

足で登るのは標高差1,800m余、距離35キロメートルです。ただし、標高は4,418mと富士山頂よりも高く、空気は平地と比べて3分の2以下と薄くなっていますから、そう楽な歩行ではありません。

最初の日は寝袋など、キャンプ用品もかついで標高3,350mのアウトポスト・キャンプという地点まで上がりました。

日本の春山程度の装備を持っていったのですが、現地で夜も経験し、ほかの登山者の様子などを見ていて、予想外に気温が高いことがわかりました。

高い木がなくなる森林限界は、日本の中部山岳地帯では、おおよそ2,500mです。

ここではそれよりも500mは高いようです。

前にも書きましたが、マウント・ホイットニーは、東側から眺めると、白っぽい花崗岩の垂直の岩壁が牙のように連なっていて、とても取っつき難く感じますが、岩壁の裏側、つまり稜線の西側は岩塊がゆるい傾斜で積み上がっています。そこに道が刻んでありました。

・牙なす山針なす山に夏日降る

マウント・ホイットニーは、確かに米国本土の最高峰です。しかし、日本の最高峰である富士山(3,776m)が2位の北岳(3,192m)を大きく引き離しているとは違って、数十m低い山なら、それこそ近くにごそごそ犇めいているといっても過言ではありません。

私たちは、日本にはない4,000mピークだからと思い、敬意を表しながら登りに行ったのです。でもアメリカの人たちは、山といえば大体そんなものだ、この山は道がちゃんとついているし、おまけに一番高くもあるから、まあ、手頃な山じゃないか、そんな気持ちで登っているようでした。

ともかく、この山の登山道は、今まで私が経験したことがないものでした。

なにせ傾斜が緩やかで、しかもコンスタントなのです。つまり急な坂がないのです。

正確にいえば、例外的に多少急なところがあり、そこには手摺りがついていました。

でも、その距離は全体の1パーセントもありません。

緩い坂道は、体力のない私には、登りでは大変有り難く、感謝しました。

でも、下りには、歩けども歩けども、はかばかしく高度が下がらず、大変にじれったい思いをさせられました。(こんな偉そうなことを、言ってもよいものでしょうか)。

ものにはワケがあると申します。私はなぜここにこんな緩い道が作られたのかと、そのワケを考え考え歩いていたのです。

日本も含む旧世界では、中央政府の管理がおよぶ前に、すでに土地の人の生活がありました。そして山には狩猟だとか山菜取り、あるいは信仰などで人が入る道がもう出来ていました。そんな場所が国立公園に指定されたとき、土地の人は「山のことは我々が一番良く知っている。お金だけ出しなさい、口は出しなさんな。そうすれば、ちゃんとした道を、値打ちに作ってあげるよ」。そんなにして道が出来たのではないでしょうか。

ところが新世界アメリカでは、この地域は、ほとんど手つかずのフロンティアでした。

国立公園にするにあたって、経験のない、理想に燃える若いお役人が「登山道の傾斜は3度以下とすること。この条件に外れる場合は、事前に申し出で指示を仰ぐこと。条件または指示に違反したときは、工事費を支払わないことがある」というような、工事仕様書を作り、それに基づいて契約したのかもしれません。

賢明な読者にはすでにお分かりでしょうが、スイスイ登ったとは書けない老人の悲しさに、かようなご託を並べているのです。

この時期、この地域はカラカラに乾燥し切っていました。

例外を除いて、道に湿り気というものがまったくなかったことにも、日本の山との大きな相違を感じました。

でも、風化した花崗岩の砂が主体ですから、もうもうと土煙が立つ状態ではなく、快適でした。

●ホイットニー山の熊

7月8日、山に入った私たちは、3時間半登り、アウトポスト・キャンプという地点にテントを張りました。

テント場では、ゴミは袋に入れ、木の枝にロープで吊り下げました。この方法は私たちが最初に使ったのではなく、前の人がやったらしいロープも残っていたのです。

「今夜、木の下で、ズシンズシンと音がしたら、熊が取ろうとして飛びついているんだよ。きっと」。

こう言ったとき私は、冠をつけ直衣を着たヤンゴトナイ姿の小野道風が、蛙が柳の枝に飛びつこうとしているのを見ている絵を連想していたのです。蛙が何度失敗しても諦めずにトライし、ついに成功したのを見て、道風も練習に練習を重ね、ついに天下の名筆になったという物語だったと思います。

月の光の中で、黒い熊がズシンズシンと、大木の枝にぶら下がった包みに、何回も懲りずに飛びついている情景を想像すると、ちょっと微笑ましくありませんか。

もっとも次の日の夕方、レンジャーのお姉さんがきて、枝にぶら下げるのは止めろと指示しました。

気の弱い私は、ただ「そうですか」と受け入れましたが、今になると、その理由を聞いておけば良かったと後悔しているのです。

木の枝が傷むからという理由なら常識的ですが、熊が足を挫くと可哀想だからという理由だったら、さすが自然保護のレンジャーさんじゃないですか。

ここのキャンプ場や登山の案内には、熊への対策がしっかり書かれています。

日本の山のことを思うと、この地域は熊にとって住み易いところとは思えません。下れば砂漠、登れば岩稜、その途中にだけ木がショボショボ育っているのです。

熊たちは、食べ物に事欠いているに違いありません。

日本の熊たちが、自然林が破壊され食べ物が少なくなったので里に出て人間の畑を荒らすのだ、と弁明したら、ホイットニーの熊たちは、なんという贅沢な言いぐさだと思うことでしょう。

オレたちよりウワテの猛獣である人間がはびこっているから、という理由を述べるのならば、アメリカの熊たちも納得するでしょうが。

ともかく、この地域にはブラックベアという熊がいるのだそうです。

もっと北にいる、ヒグマに似たグリズリーは人を襲うのだそうですが、ブラックベアはちょっと小柄で、人は襲わないのだそうです。

でも、食べ物には執着心が深く、普通考える食糧だけではなくて、化粧品や歯磨きまでも狙われたことがあるそうです。

自動車の中にそんなものを置いておくと、かなり手ひどく壊すそうで、被害写真が示されていました。

食べ物を奪って味を占めた熊は、犯行を繰り返すようになるので、射殺されるのです。

人間の食糧+熊=熊の墓 

という方程式になるので、熊を殺さないで!と訴えています。

登山口のキャンプ場には、金属製のベア・ボックスが備え付けられ、食べ物はその中に仕舞うようにしてあります。

山に入るときは、ベア・キャニスターと呼ばれる直径25センチ、高さ60センチほどのプラスチックの容器を持ってゆきます。食糧やゴミを入れ、蓋をして硬貨でロックすると、スベスベした円筒になってしまいます。これは登山口の売店で借りてゆきました。

「キャニスターは、おれのテントの近くに置くなよ。熊が開けようとしても開かないのでフラストレーションを起こし、腹いせいに近くのテントをバンとやるかも知れないからな」などいって楽しみました。

先日、ホイットニー・ポータルのテントで最初の朝を迎えたときのことでした。

朝飯を食べていると、キャンプ場を管理しているレンジャーのおばさんが回ってきて「昨夜、お前らは何ともなかったかい?あっちのほうで車が熊にやられたんだよ」といいました。

「そういえば、夜中に犬が吠えてたから、あれはきっと熊だったんだ」、朝食を食べながら、そんな話題が弾みました。単なる脅しではないのです。

北海道の山では、熊を本気で怖がっている人によく会います。

1970年7月、カムイエクウチカウシ山で福岡大学生5人のうち3人が熊に殺されました。熊にとられた食糧を取り返したので怒らせてしまい、それで退路を断たれ、執拗に襲撃されたといわれています。

でも、たまたま運が悪くて、性格の悪いヒグマに出会った可能性も考えられます。

当節の人間界の様子を見ていると、そんな感じがしないでしょうか。

外見や平生の態度ではわかりませんが、現実に異常としか思えない人間が混じっていて、街では随分と残忍な殺人事件が起こっていますね。

ともかく、1970年以来30年以上、日本では登山中の熊による事故はないのだそうです。山菜取りの人が襲われるのは、毎年のことだそうですが。

・滝の音テントの夜を通しけり

●アメリカの気候 

頂上アタック日の7月9日、午前9時、マウント・ホイットニー登山路の3,700mを超える地点に達しました。

右側にそそり立つ白い花崗岩の断崖に目を走らせていました。その上の抜けるような青空に、刷毛で掃いたような小さな絹雲が見えました。

これがアメリカに着いてから始めて見た雲でした。

7月4日にロスアンジェルスに着いたのですから、5日目のことです。

まったく、くる日もくる日も好天でした。

・岩壁の上の夏空青きかな
・夏空の下の岩壁白きかな

日本の登山では、明日の天気が最大の関心事です。

それについても、私が長年お世話になった職域の山岳会のことを思い出します。

昔は、天気図の下の方、つまり日本の遙か南に台風の渦巻きが姿を見せると、ほぼ自動的に登山計画を取りやめた時代がありました。

その後、ゴアテックスはじめ、雨具の装備が高性能になりました。そして、いつの間にか、雨が降っても計画中止にはならないようになりました。

須原から小糸山へ登ったときなど、登山口で車を降りるときから猛烈な降りでしたが、登山を決行し、雨の中、立ったままで昼飯を食べました。下山してから「仲間のだれかが止めようと言ってくれないかと期待してたが、誰も言い出さなかったからなあ」などと、多少自慢っぽく話し合っていました。

雨天決行が当たり前になってしまって、計画書にわざわざ「今回は雨天決行ではありません」と書き加える人が出てきたほどでした。

いずれにせよ、こんど経験したロスアンジェルスからサンフランシスコにいたるカリフォルニアの登山と観光では、連日好天で、もしも明日雨が降ったらなど、考えたこともありませんでした。

これは始めての経験でありました。


ある日、朝飯に入ったファーストフードの店で、ハンバーガーを頬張りながら、芝生で遊んでいるリスの数を数えていました。その日もカンカン照りの晴天でした。

その時ふっと、12年前、カリフォルニアにいた息子を訪ねたときのことを懐かしく思い出したのです。「今降ってる雨、お父さんは何も不思議そうにしていないけど、この土地の人たちは、夏に雪が降ってるぐらい珍しいと思っているんだよ」そんな風に言われたのでした。

その息子も昨年結婚し、つい先日孫が生まれたのです。

年を取るということは、どこに行っても思い出があるということです。


カリフォルニアにいるあいだじゅうは、いつも喉が乾いていました。気温が高く、湿度が大変に低いからです。

ガソリンスタンドに止まるたびに、自動販売機でなにかを買って飲んでいました。私のことですから、毎回、違った飲みものにトライしたのですが、いま思ってもどれがとくに気に入ったという記憶はないのです。

夕食の時なら、もう寝るだけで運転は必要ないので、ビールが飲めます。

渇いた喉にとって、ビールほど美味しいものはありません。

あんな美味しくビールが飲める、カリフォルニアの人は幸せです。その幸せのためにならば、ほかの時間、ずっと喉が乾いていても,十分引き合います。

山に登っていても、体が要求する以上に、喉が水分を要求していました。

そのため1日の夕食時に喉を越す少量のビールは、まさに珠玉の味わいでありました。

山へ入った最初の日は、たった3時間半登ってテントを張りました。

ここでテントを張って泊まったのは、重い装備を持ち上げるのですから作戦上の選択ですが、ともかく、夕食までの時間は長いし、喉は鳴るし、ついつい登頂後に乾杯する予定で持ってきたビールで喉を湿らせてしまいました。

グループのひとり中村さんは、マラソンランナーです。今度の旅でも、時間を見付けては走っていました。彼はこのキャンプ場に着いたときにも「いい道ですね。これなら走れる」と言っていました。

そして、ほんとに駆け下って、麓の売店でビールを1ダース買い、駆け登ってきたのです。

昔、北アルプスに喜作新道を開いた小林喜作が、殺生小屋でお客が多くて米が足らなくなったとき、夜中に里に下り、翌朝までに米俵を担ぎ上げてきたという話を伝説のように聞いていました。

また、稜線のテントの中で酒盛りをしていて「オイ若いの。足らなくなったら、お前が里に買いにゆくんだぞ」など、ジョーダンでいうのは、まあ、普通のことです。

でも、本当に買いに行くなんて、まったく、世の中には想像を絶する人がいるものです。


「アメリカの気候」といっても、なにせ広い国です。

みなさんと別れてから、大西洋岸、ボストンから160kmほど北の、メイン州フリーポートに飛びました。

そこでは、朝夕はポロシャツを着ても、小寒かったのです。

土地の人は、こんな気候に馴れているようでしたが、私は雨の日には、家の中でも寒く感じました。体が暑さに適応してしまっているのか、年をとったせいなのでしょうか。多分、両方なのでしょう。ともかく遠慮なしに、山用に持っていたフリースを着込みました。

それでも、まだ寒かったのです。中型のプードル犬を可愛がるように抱いて、誤魔化していました。

アメリカの気候についてのこんな報告が、帰国した後「アメリカの天気はどうでした。暑かったですか」と、聞いて下さった方たちへのお答えになるものでしょうか。

・犬に添い座ってみたり寒き夏

●ホイットニー山の水

標高4,000mあたりまで登ると、道端に残雪が残っていました。

前章でも触れましたが、今回の経験ではこの地域は大変に乾燥した気候でした。

車を運転していても、本当に体が水分を要求している以上に、喉が乾いている感じがしていました。よほど空気が乾いているに違いありません。

ましてや山を歩いているとき水を飲むと、思わず「甘露、甘露」と言わずにはいられないほど美味しかったのです。

ここホイットニーまで、山に登りにきたのか、それとも美味しい水を飲みにきたのか、と思うほどの感激でした。

そうなると、何時までも美味しい水を飲むためには、のどの渇きを何時までもキープしていることが必要です。

そのためゴクゴク飲み下さず、喉を細くしぼり、少量の水をできるだけ長い時間かけて流し込むようにしていました。

道の脇に残雪が現れてからは、雪をペットボトルに落とし込みました。冷たい水こそ、一層美味しいのです。

通りかかった外人が「ここいらの水は要注意だよ」と声をかけてくれました。

なるほど、ここインヨー国立公園のパンフレットには、この地域の水には人間に寄生するジアーディアという病原性原虫がいる、だから生水は、煮沸するなりフィルターで濾す、沃素剤で処理するなどしてからでなければ飲んではいけないと書いてありました。

私たちもテント場では、雪渓から流れ出る玉のように清冽な水を、煮沸したり、沃素の錠剤を加えたりして使ったのです。ついでながら、沃素錠剤を加えた水は、最初こそ恐る恐るススリましたが、湯冷ましよりも冷たいだけに美味しく飲めました。

さて、寄生虫についての外人登山者の忠告は有り難く承りました。でも私は、この場合雪と水では大違いだという理由と、所詮、大したことがあるわけないという私の常識による判断から、依然として雪を加えた冷たい水を賞味するのを止めませんでした。

ジアーディアは、卵、成虫などの生活サイクルのどこかで哺乳動物が絡んでいることでしょう。そのため、高所にある雪は、まず汚染されていないだろうという理由です。

もうひとつは、私が長い年月生きてきた常識によるものです。

つまり原生動物のようなものは、似たような条件の場所には、世界中どこでも住んでいるに違いありません。そして人間は、数百万年もの間、つい最近の数十年を除いて、生水をそのまま飲みながら増殖してきたのです。

水の中にはいろいろの生物が生きているのです。魚もいます。トンボの幼虫だっています。原虫、細菌がいるのは当然です。

悪くすると、アミーバ赤痢や0ー157など、強烈な病原菌だっているのです。

海水は、塩漬け保存との連想から清浄だと思われるかも知れませんが、実はスープのように栄養分がいっぱいあるのです。だから、大はクジラから小は大腸菌まで、無害のものから、極めて有害なものまで、いろいろのものが住んでいるはずです。

インヨー国立公園当局のジアーディアについての警告は、正確であり必要であることを疑っているのではありません。

でもそれは、たまたまジアーディアについての研究が進み、問題として取りあげられているだけで、その危険の程度は、私は自分の常識で、そう大したことはあるまいと判断していたのです。

よしんば、インヨー国立公園以外の場所の生水に住む生物が、いま現在無害だとしても、今後、エイズや新型肺炎のように、遺伝子の変化で、いつ有害になるか知れないではありませんか。

ともかく、アメリカのスポーツ用品店では、西部のみならず東部でも、生水濾過処理の道具がずらっと並んでいます。相当な規模の産業になっている様子でした。

もともと、なにかの生物が入っていない水というものは、非常に不自然なものなのです。その生物の善悪は、人間の側で勝手に決めているのです。

先の大戦で日本軍の戦病死が多かったのは、生水を処理せずに飲んだことが大きな原因でした。他方、生水を処理しながら戦ったアメリカ軍の余裕と凄さを感じます。同じ「自然が貴重」といっても、日本では「生き物の命は地球より重い、長く生きて来た木を切るのは可哀想」と情緒的で優しいのです。でもアメリカでは「自分たちのための自然保護」と、はっきりしていて小気味いいところがあります。

帰国してから調べたのですが、やはりジアーディアは、世界中、水質を調べたところには、およそどこにでもいるようです。

日本のある県では、河川の40パーセントで発見されたという報告が出ていました。

塩素処理では効果がないとのことです。

運悪く発病すると、わりと短期間で腸炎になるそうですから、私の場合はセーフだったようです。というより、よほど運が悪くなければ問題ないのでしょう。

ジアーディアだけに焦点を合わせて騒ぎ立てるのが、バランスの取れた判断だとは思いません。

でも、人間の歴史に、バランスの取れた判断の時代があったとは思えません。いまのアメリカは、水に特別に神経質な、そういう時代なのだと思いました。

またまた脱線です。
ヨロヨロと歩く牛のテレビ画像に脅されて、すでに買ってきた今夜のすき焼きの牛肉まで捨てさせた狂牛病、でも、食肉からの感染で死んだ人は、世界に何人いたのでしょうか。

スペイン風邪、アジア風邪などの悪性感冒は、風邪ではすまされないほど恐いものです。今回流行した新型肺炎でこそ1,000人弱の死者で済みましたが、過去には、いったん流行すると数千万人の死者を出しています。

狂牛病と悪性の風邪では、人類に与えるダメージには、大きな違いがあります。

そんな意味で、人間に有害な事象について、伝染力、発病の可能性、症状の激しさ、治療の効果、後遺症などを総合的に表わす指標があると、大衆にとって判断の助けになるように思うのです。

単位としては、身近な喫煙なら害の程度が分かりやすいでしょうから、煙草1本分の悪影響を1シガレットとしてはいかがかと思うのです。

たとえば、狂牛病なら100シガレット、新型肺炎なら1メガ・シガレットという調子にです。

インヨー国立公園で1リットルの水を飲む危険度を、たとえば0.1シガレットというように表現したら、恐ろしさを定量的に表すことができるのではないでしょうか。

このような言い方をすれば、北海道の沢水を飲んでエキノコックスという寄生虫を取り込む危険性は、ジアーディアより危険で、0.5シガレットぐらいになるように思われます。

(もちろん、こういうシステムにしたら分かりやすかろうと提案しているだけですから、数字は私が当てずっぽうに書いたので、絶対に信用してはいけません)

人類一般に対する悪影響が無視できるほどでも、かけがえのない自分自身が運悪く当たってしまうようだったら、絶対避けるべきだという本音も理解できます。そして、そのように主張しながらも、毎日20シガレット分の害があるとされるシガレットを吸っている人が、5人に1人いるのも現実であります。

それが人間というものでありましょう。

●オールモスト・ゼア

長い長いつづら折りの登り(スイッチ・バック)を終わり、Crestつまり稜線に着きました。標高はもう4,100mを超えています。

ここで始めて、西側、太平洋側が眼下に見えてきます。足下に稜線に沿ってU字谷があり、その底に水をたたえた湖が見えます。今までの登りの苦しさが、この絶景を見る喜びを一層高めてくれます。

ここは地図で見る距離ではまだ行程の半分です。気を緩めるなと自分に言い聞かせます。

でも、今までは登りで、ジグザグに道がつけられているのですから、実際の歩行距離は相当長かったはずだと、本心の方は思っているのです。

ここで腰を下ろし、水羊羹を食べました。

これからは、子供連れの家族と相前後しながら最後の登りに入りました。

向こうから最初の下山者が降りてきました。先方から「ここまでくれば、もう登れますよ」と声を掛けてくれました。昨夕、いろいろ話し込んだ20年前アメリカに帰化した中年の日本の人でした。彼は今日中にロスアンジェルスまで帰らなくてはいけないといっていたのでした。

「あと、どれぐらいでしょうか」と尋ねると「3/4マイル、40分ぐらいでしょう」

との返事が返ってきました。

山に登っているときに、あと、どれぐらいですかと聞かれるのは普通のことです。

私は若かった頃には、この質問を受けるのが好きではありませんでした。

御在所岳あたりで、およそ山登りらしくない服装をした人からこんな質問を受けると、山へ登るのなら、ちゃんと調べてから来るものですよと、内心で思いながら返事をしていました。

でも、だんだん年をとるに連れて、相手の様子を見て「あと30分ほどでしょう。いったん下った次のピークが頂上ですよ。ゆっくり行けば大丈夫です」など、大変優しくなってきていたのです。

現役を離れ平日登山になってから、ほとんどすれ違う人もない淋しい山が多くなりました。そんなときは作為的に声をかけなくては、なにか相手に気まずさを感ずることもあります。「どちらから来られましたか」「何時に登り始められましたか」などと声を掛け合うのです。あるとき、なにかの折りに、私のほうから「あと、どれぐらいですか」と聞いたことがありました。もちろん、答えはわかっていたのですが。

そのとき、下山中の相手の顔がパット明るくなりました。先輩が後輩にモノを教えるときの快感といったらよいでしょうか。

登山の場合、山頂を経験した先輩と、登山中で未経験の後輩との関係は、世間の地位とはまったく無関係であり、かつ、極めて明白であります。

このマウント・ホイットニーでも、私は「あと、どれだけですか」を多発し、相手を喜ばせていました。

みんな「オールモスト・ゼア(すぐ、そこさ)」と、善男善女の顔を見せてくれました。

最後のジェントルマンは「アバウト・200ヤーズ」と答えました。

え?それじゃ、オレのドライバー・ショットではないかと、今まで足元ばかり見ていた目を上げると、もう頂上の観測所の小屋が大きく見えていました。これは、ちょっと、やり過ぎみたいでした。

今となっては、私が英語でなんといっていたか憶えていないのです。

「ハウ ファー トゥ ゴー」、あるいは和製英語で「ハウ マッチ トゥ ゴー」

といっていたかも知れません、もちろん青息吐息でです。

この日の頂上は、私よりうしろには先程の家族連れともう一組、私はビリから3番目だったようです。キャンプ地から8時間もかかっています。同行の皆さんには、だいぶ待たせてしまいました。

●下山の日

7月10日、山中最後の夜が明けました。

夜中から強い風が吹いていました。

朝食はラーメンの予定でしたが、強い風のため鍋が冷やされ、なかなか沸き立ちません。そのうちに燃料ガスが終わりになってしまいました。

パンを一切れ食べ、下山を始めました。

駐車場に着き、荷物を詰め替えました。全員、トラブルもなく登頂できたので、こんなにして文明の世界に戻ったときの気分は最高なのです。

私の大きなダッフルバッグを見て、色の浅黒いお兄さんが「オー、レイカーズ」と叫んで自分の二の腕の入れ墨を見せました。

しばらくして通りかかった、がっしりしたお姉さんも「アイ アム ファン トゥー」と声をかけました。

若い辛島さんが「あの人たち、ロスアンジェルスのバスケットチーム、レイカーズのファンなんですね。地元ですから」と解説してくれました。

なるほどダッフルバッグにはレイカーズと大きく書かれ、エムブレムもついていました。

私は機能以外のこと、たとえば意匠のことなど、まるきり分かりませんから、このバッグも家内に頼んで買って貰ったのでした。

家内だって、星条旗のデザインが気に入って掴んだので、レイカーズって何だか、いまだに知らないだろうと私は想像します。

縁は異なもの乙なもの、というのはこのことでしょう。

下界は灼熱の世界でした。

ローンパインの町でコイン・ラウンドリーに飛び込み、汚れた着物を一切合切、洗濯機に放り込みました。

前に読んだ紀行文には、近くに温泉があるとのことでしたので、みんなでキョロキョロ探しながら走りましたが見つからず、私たちの体のほうはクリーニングできませんでした。

ローンパインの町から遠からぬマンザナというところで、第2次世界大戦中、日系アメリカ人たちが強制収容されていたキャンプ跡を訪ねました。
灼熱した不毛の原っぱに、白い慰霊塔が建っています。お賽銭がバラバラと散らばり、紙の折り鶴が置いてあるのが、いかにも日本的でした。

開戦と同時に、日系アメリカ人を街なかに住ませておくと、スパイ活動など反アメリカ行動をとると疑われ収容されたのでした。

実際には、ヨーロッパ戦線に投入された日系人の部隊が死にものぐるいに戦い、かえってアメリカへの高い忠誠心をアメリカ人たちから称揚されたのです。

このように書くと、アメリカ人ってなんだろうということになります。

日系アメリカ人、中国系アメリカ人、アイルランド系アメリカ人、イングランド系アメリカ人などが集まったものがアメリカ人のはずです。

しかし、日系人だけがここに強制収容されたケースでは、強いていえば、非日系アメリカ人たちだけがアメリカ人だったことになるのでしょう。

いまさら還らぬことですが、開戦までの日米両国のこじれ方は、皮相的な非難だけでは済まないものだったに違いありません。

大衆の認識は、報道機関の報道に依るところが大きいのです。

報道機関は世の中のこと全部を報道するわけにはゆきません。ある特定のこと、たとえばある人の話のうちのある部分を報道することしかできません。

どの部分を取りあげるかは、報道機関のさじ加減です。

多くの場合、大衆が好むように取りあげることになります。そして、いつでもどこでも、大衆というものは、客観的な事実よりも、悪いのは相手で自分は正しいと言われるのが好きなものなのです。

1935年頃から10年間の日米の報道を経時的に分析すると、両国民が次第次第に悲劇に吸い込まれてゆく過程が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

こうした事実に基づいた平和喪失への反省の方が、教条的な平和憲法擁護の掛け声よりも、はるかに有効な平和運動だと思うのですが。

日本へ帰国後、私がこの収容所跡の写真を見せていましたら「アメリカには脱出不能な収容所を作る場所はいくらでもあるよねえ」と感想を漏らされた方がありました。

ともかくここは、マウント・ホイットニーの麓の、灼熱の原でした。


●ヨセミテ国立公園 

リー・バイニング町のモーテルでは、シャワーを浴び、ベッドで寝ました。テントで4泊したあとですから、みんな天国にきたような気分になりました。

7月11日(金)、リー・バイニングから走り出し、ヨセミテ国立公園を見物、風力発電の風車が林立するアルタモント・パスを経て、鈴木さんのお嬢さんが留学中のスタンフォード大学に寄り、サンフランシスコのマリオットホテルに投宿しました。

この日の移動は、300km〈名古屋ー新潟〉ほど離れた位置関係になります。


リー・バイニングはモノ湖のほとりの小さな町です。

モノ湖は、2,000年ほど前にできた火山のカルデラに水が溜まった湖とのことで、ロスアンジェルス市の水源になっています。

ロスアンジェルスまでは、直線距離でも450km〈名古屋ー下関〉もあります。

世界中旅行してつくづく思うのですが、日本以外、世界のたいていのところでは、水は大変に貴重なものであります。

ともかく今回のアメリカ西海岸の約1週間の旅行の間、水とその周りの緑を見ると、心がすっかり和むのを感じました。まったくの砂漠、荒れ地ではなく、ところどころに水気のある「メドウ」が存在する地域なのでしょう。

キリスト教の舞台になった中東は、まだ訪ねたことがありません。

聖書の中には、meadow、メドウ、草地が賛美の響きをまといながら記述されています。

ユダヤ教、キリスト教が生まれたのは、こんな風土であったのかしらと思いながら、窓の外に流れる景色を眺めていました。

ヨセミテ国立公園は今度で3回目です。最初訪問したときは、まさか再び来ることはあるまいと思っていたのですが。

私が何度も来られるなんて、日本も豊かになったというべきでしょう。

そういえば、アメリカもくるたびに豊かになっています。

とくに今回は車がみんな綺麗になっているのに驚きました。

最後にきたのは6年前ですが、その時はまだ、ボデーにぶつけた傷のある車を、そんなに気にしないで走らせていたように思います。もっと昔は、窓ガラスに透明なビニールシートを、ガムテープでとめて走っていたのもありました。

今回の訪米では、そんな車を見掛けた覚えがないのです。

アメリカは世界経済の中でひとり勝ちの様相を呈しています。

私は経済のことには暗いのですが、アメリカは、あまり根拠のない自国のルールを他国に押しつけ、マネーゲームを有利に進めていると説く人もあります。

日本がアメリカに製品を買って貰って景気を維持しているのは疑いのないところで、ひとり勝ちの国にうまくフォローし、私ごときが、この素晴らしい景観の国立公園を何回も楽しむことができたのです。

この素晴らしい景観の谷を、最初に自分のものにしていた人類は、ヨセミテ・インディアンだったのでしょう。

始めて白人が入ったのは、19世紀になってからでした。

いまは、アメリカ合衆国が所有管理する国立公園を、世界中の人が楽しんでいるのです。

こうなるまでには、人間の集団のあいだで摩擦がなかったわけではありません。でも、現在、アメリカの国立公園が利用の方法を厳しく限定して、自然を残そうとしているいるのは厳然たる事実で、尊敬するべきだと思います。

人類の歴史は、マクロの目で見て判断することが必要です。

進入だ、いや侵入だと、自己の主観を正当化しようと血眼になっているのは、ミクロの世界観でありましょう。

100km〈名古屋ー藤枝〉西へ走り、マーセドという町で辛島さんと別れました。

彼はグレイハウンドバスでロスアンジェルスに向かいました。

さらに西に走り、行き交う車が多くなった頃、風力発電の風車が林立しているのが目に入りました。アルタモントパスです。12年前、最初にここを通ったときのことを思い出しました。

昔々、海外出張が稀であったころは、本人が帰国したあと、海外視察報告はお付きの人とか資料を預かった部下とかが作成するものでした。それだけ忙しく、かつ地位の高い人しか海外へは行けなかったのです。

あるとき、私の上司が経済団体のメンバーとして海外視察に行かれました。報告書作成の役は当然私に回ってくるものと、自他共に思っていました。

でも、上司は自分でお作りになり、経営会議で報告されました。スピードと効率を改革するべきだというお考えを、率先実行されたのです。

私も、研究所にいたときカナダとアメリカに出張しました。私も非才ながら先輩上司にならい、帰国の翌週、自分の下手な字の報告書で報告をすませたのでした。

その報告の中で、風力発電をトピックの中心に取りあげました。

カリフォルニアの西岸を南下している冷たい北太平洋海流が、冷えた重い空気、太平洋高気圧を作っています。一方、内陸部の砂漠では昼間酷暑になり空気は熱せられ軽くなり上昇気流を生じます。このため高気圧から海岸山脈の切れ目になっているアルタモント・パス(峠)を通り、集中して風が吹き込む場所であることを説明しました。

そして、砂漠の広さが、日本本土と似たようなオーダーであると説明すると、みなさん、改めてアメリカの大きさに吐息をつかれました。

今度見た様子をその頃と比べると、当時、いろいろな方式の風車がありましたが、現在では大型の3枚プロペラのものに収斂しています。

古いものは全然動いていないグループもありましたが、新しいグループはよく動いていました。

このあと、スタンフォード大学へ行きました。

鈴木さんのお嬢さんが、現在留学しておられるのです。

12年前、当家の息子が留学していて、家内と一緒に案内して貰った懐かしい大学です。

公園のような美しい芝生の前庭で、息子の跡継ぎの若者たちがフリスビーを飛ばして遊んでいました。

来し方、行く末を思わせられた、スタンフォードの夕方でした。

こうしてサンフランシスコに入り、観光、そして最後の夜はフィッシャーマンズワーフで、鈴木さんのお嬢さんも加わり豪華な夕食をしました。

幸福感に満たされ、ビールに陶然となりながら「山を下りる朝、燃料のガスが底をつき、パン1枚だけですませたのとは、まさに天国と地獄だね」と語り合ったことでした。

サンフランシスコの最後の夕食の席で、鈴木さんがつくづくこう漏らされたのです。

「今年始め、マウント・ホイットニー登山の計画を口にしたときは、ほんとに実現するかどうか自信がなかったんですよ。無事終了してとても嬉しい。なにせ最後まで文句をいう人が、ひとりもいなかったからなあ」。

これが私たちのパーティを表わす、もっとも端的な表現だと思いました。

翌朝、空港で、皆さんは日本へ、私はメイン州フリーポートの友人のもとへと袂を分かったたのでした。


●旧き友

サンフランシスコからシカゴのオヘア空港までが、4時間弱のフライトでした。驚いたのは、オヘア空港ではポートランド行きの乗客とホワイトプレイン行きの乗客を、同じ時間に同じゲートから出しているのです。そして2機の飛行機の近くまで歩いたところに小母さんが立っていて、チケットを見ては、お前はこっち、あんたはあっちと仕訳しているのです。あまり珍しかったのでビデオを撮っていましたら、ぐずぐずしないでさっさと歩けと、警備員に恐い顔をされてしまいました。

メイン州ポートランドの空港でゲートを出ると、47年来の友達、アンドリアセン氏の顔が見えていました。

彼は数年来、いろいろの病気に悩まされ、昨年末には心筋梗塞に襲われ、最近、調子が良くないと聞いていたのです。

寝ているはずの彼が来てくれたのは、まったく意外でしたから、私はすっかり感動して、涙ぐみながら握手しました。

年をとると涙もろくなるのは当たり前のことです。私も最近では、涙ぐむことがちっとも恥ずかしくなく、それもいいじゃないかという心境になってきているのです。

客観的に見れば、彼は無理して出てきてくれたとも見えましょうが、実は本当に嬉しくて、喜んで来ているのです。

付き添っている娘に言わせると「もう待ち遠しくって待ち遠しくって、じっと座ってられなくって。何度も覗きにいったのよ。1マイルは歩いたと思うわ」だったそうです。

47年前、ニューヨーク州北部にあるスケネクタディ市のYMCAのすぐ西、モホーク川にかかる橋の上で、アンドリアセン氏が車の中から私に声をかけてくれたのでした。

その時、私はこの町にあるジェネラル・エレクトリック社の工場に、勉強にきていたのでした。

第二次世界大戦中、日本の火力発電技術はアメリカよりずっと遅れてしまったのでした。それで戦後、新しい技術を取り入れた効率の良い機械を輸入したのです。何人かの若手の技術者がその関連で渡米していたのでした。

アンドリアセン氏は、1945年、連合国占領軍として日本に駐留していました。当時、もう30才になっていた彼は、戦争末期になってから軍隊に入ったのでしょう。

フロリダで戦闘の訓練は受けましたが、実戦に参加する前に日本は降伏したのです。

日本の降伏があと1年遅ければ、彼は日本人と砲火の場でまみえたでしょうし、私だって命を失っていた可能性はかなり高かったのです。

降伏した日本は、物質面でこそスッカラカンでしたが、最近のアフガニスタンやイラクとは違って、秩序あるまとまった国でした。

ともかく、占領軍兵士であったアンドリアセン氏は、日本人に好意を持ってくれていました。

彼の家族は熱心なクリスチャンです。聖書では旅人に親切にせよと教えています。橋の上で声をかけられてから日本に帰るまで、ほぼ1年間、私はアンドリアセン家の家族の一員のような顔をしていました。

アンドリアセン氏の口コミで、日本の若者を食事に招くのが、彼の教会のメンバーたちの間で流行になったといっても言い過ぎではないほどでした。

当時の日本は大層貧しくて、1人あたりのGDPは、アメリカの10分の1しかありませんでした。

外貨は持ち出せませんでしたから、私は実習費、1週間63.7ドルで生活していたのです。

そんなわけですから、あちこちの家庭にお呼ばれし、食事にありつけば大いに助かります。

終戦前後の数年間、日本には必要なだけの食べ物がありませんでした。一番食欲が盛んな時期に、私たちの世代はみんな飢えていたのです。

そんな私たちにとって、アメリカの食卓は、まさにパラダイスでした。こんなに食べてもいいかしらと、遠慮がちになる私たちに「イート ゼム アップ」(みんな食べちゃえ)と彼らは囃し立ててくれたのでした。

また、奥様たちは、自分が作った料理を残らず食べてくれると、大層喜んでくれました。

本音を告白しますと、アメリカ人たちに、あんなに親切にされたのは、私の性格が好かれたのではなくて、私の胃袋が評価されたに違いないのです。

大袈裟にいうと私の胃袋外交がきっかけで、スケネクタディ市、ジェネラルエレクトリック社の工場につながる、東京電力、中部電力、関西電力、東芝などの人たちが、アンドリアセン氏グループのお世話になったといってよいでしょう。

20年ほど前、アンドリアセン夫妻が日本にきました。

在米中お世話になった沢山の人たちが、東京、名古屋、京都で、それぞれ歓迎したのでした。

アンドリアセン氏と奥さんは、子供の頃の同級生でした。二人揃って、もう88才、このところ病気勝ちなのです。

そんなこともあり、とうとう1年半ほど前、ニューヨーク州スケネクタディ市から、下の娘リサのいるメイン州フリーポートに引っ越してきたのです。

今の彼らの住まいは老人用のコンドミニアム、2層の18戸建が3棟ありました。

ついでながら、スケネクタディのジェネラル・エレクトリック社の工場は、もはやメーカーではなくなってしまい、最盛期には54,000人いた従業員が、いまでは僅かに5,200人、町は寂れ、家の買い手がなくて売値の倍額で、ここの老人ホームを手に入れたといっていました。

上の娘シンシアも、今年3月、車で30分ほどのポートランド市に引っ越してきました。彼女は教師の仕事を定年退職、ほぼ同時に離婚もしたのです。そんなことはアメリカじゃ珍しくないのかも知れません。

こうして、両親と娘二人のアンドリアセン一族は、フリーポートに全員集合となったわけです。

いま一家は、アンドリアセン夫妻の下の娘、55才、Better Life Freeport 社社長のリサが中心になって動いているのです。

フリーポートは人口8千人、銀行にゆくと、行員が「グッドモーニング・ミスター・アンドリアセン」と声をかけてくれます。こんな小さな町は地図で探してもまず見つからないでしょう。

車で30分ほど南のポートランド市は、大学もあるメイン州最大の街ですが、それだって人口はたったの13万人です。メイン州も人口は130万人、名古屋市よりも少ないのです。

ボストン市の北、約160kmですから、あの広い広いアメリカの右上の隅っこになるわけです。

なんで、そんなところに住むようになったのか、ということになります。

それには、リサの話をしなくてはなりません。

私がこの前リサと別れたのは1957年、もう46年も前のことです。彼女はまだ小学生でした。

なかなか利発な性格のようで、メイン大学で二つのドクターコースを取りました。

その頃得られた唯一の勤め先が、メイン州の病院だったのだそうです。

ダウン氏症候群などのいわゆる知恵遅れや、ともかく精神面で問題を抱えた人たちのための病院でした。

1万人の患者を千五百人の職員で、ケアに当たっていたのだそうです。

あちこちの州から収容したのかと聞きましたら、各州でそれぞれ、そういう病院をもっていたのだとの返事でした。でも、メイン州の人口はたったの130万人ですから、患者の数としてはちょっと多いように思いますが。

そんな施設が、小さな政府、民営化、きめ細かいケアの要望など、時代の流れの中で、グループハウスなどのシステムに変わってゆき、大きな施設は閉鎖されたのでした。

遣り手のリサは、そんな動きの中で、州政府の福祉政策立案のコンサルタントの仕事を引き受け、プランを作ったり、受け入れ企業の管理職を教育したりする会社を設立したのです。

小柄でやせっぽちだったリサが、いまでは55才の小母さん社長で、私のスケジュールもプリントしてみんなに配り、また、家族もなかば冗談半分で「イエス・サー」と軍隊式の敬礼の真似をしてリサの命令を聞いていました。

アンドリアセン夫人はこう言うのです。

「リサは小学生のとき、学校のサマースクールにゆくのが恐いといって、私の脚にしがみついて大泣きしてたのよ。それがなによ、これが同じ人だと信じられる?」。

私はリサ本人が弁明するとおり、テキパキことを運ぶ彼女の内面に、昔の気弱さが潜んでいると思うのです。

リサはこの年まで、まだ結婚していません。

そして、養子を二人養っています。16才と17才、どちらも黒人で、なかなかの才能を持った男の子たちです。

行ってみると、私はリサの家に泊まることになっていました。

「この部屋をお前にやるよ」。「でも、帰るときには、返してゆけよ」、そんなリサの言い方も、私にはとても暖かく感じられたのです。

第1日目の午前、88才のアンドリアセン氏は自分で車を運転し、公園へ連れていってくれました。

午後はリサが別の大きな自然保護緑地に連れていきました。そこは大西洋岸の入り江で、鷹の一種ミサゴが巣を作り、レンジャーが双眼鏡で見せながら説明してくれました。

2日目はリサの運転でしたが、ほぼ一日いっぱいのドライブで、ニューハンプシャー州のマウントワシントンまで付き合ってくれました。

その日の夕食のとき、アンドリアセン氏は、明朝は自分の家でパンケーキを食わせると言ってくれたのです。

・一日のドライブの果て海霧(じり)の街

その3日目、朝、リサがアンドリアセンの家まで送ってくれました。

リサが「それじゃ、昼過ぎに、またくるからね」そういって出て行くと、アンドリアセン夫人は私に向かって「主人は病気なのよ」というのです。

なんでも、このところ、私が訪問するのがあんまり嬉しくてはしゃいだせいなのでしょうか、昨夜吐いて、今日は起きられずに寝ているというのです。

そして、パンケーキを焼くのは、いつも主人の役で、自分が焼くのは始めてだがといって焼いてくれました。

「病気のことをリサにいうと、仕事を休むというかもしれない。よしんば仕事に行ったとしても、午前中一杯、父親のことを心配し続けると可哀想だと思ってね」、夫人はそんなにいうのです。

夫人は、旦那の病気が前日食べたものが悪くて、それに当たって、それで吐いただけなのだと思いたがっているようでした。

私はそれだけでなくて、吐いた原因が、ほかの病気であるケースも考えた方がよいのではないかと思いました。

それで、パンケーキをいただきながら、とうとう「医者に相談した方が良いのじゃないでしょうか」と切り出してみました。

アンドリアセン氏は数年前膀胱癌で手術し、排泄管をつけているのです。

その症状からは出血のリスクがあります。

また昨年末には、狭心症に襲われました。こちらの予防には血行をスムースにする必要があります。

そんな矛盾の間で、先日、ある薬が一方には良くて他方には悪かったことがあったようです。

ものごとをストレートにいう夫人は、その処方をした医者に向かって「どんな人間でも、自分が思っているほど良くはないものじゃありません」というようなことを言ってしまったようです。医者はそれ以来、顔を合わせてもツンと横を向くのだそうです。

だから、医者に口を利きたくないのですね。

こういうこじれた話になると、なかに入ってどうのこうのなど、私の立場と私の英語では、もうなんともなりません。

こうして、内心、ご主人のことを心配しながら、私をもてなそうとしてくれている夫人と、会話を続けるよりほかにありませんでした。

夫人が、日本の女子高校生の援助交際問題に触れました。アメリカでも有名になっているらしいのです。私が「この問題も例のごとく、どの民族でもどの時代でもある人間の営みを、ジャーナリストが大きく取りあげたひとつの例ではなかろうか」との見方を投げかけてみました。

実はアメリカでも現在、ある落ち目の女性歌手が同性愛だとかで大きく取りあげられ、テレビではイラクのゴタゴタより先にトップニュースとして出てきていたのです。

昨夜も、そのニュースに関して、夫人は「バカバカしいわね」、リサ「あれはジャーナリストが煽るビッグ・ショーよ」というやりとりがあったばかりなのでした。

ともかくこの際、私としては、夫人が「現代は、あまり親が子供の面倒を見て物を与えすぎるから、若い人が駄目になっちゃう」と、話にムキになってくれたので、内心ほっとしたのです。

こうしてなんとか午前が過ぎ、リサ社長が顔を出してくれました。

彼女は来るやいなや、医者からの指示も受け取り、父親にシャワーを浴びないこと始め、幾つかの禁止事項を約束させ、相変わらずテキパキと命令を下したのです。

でも運良く、翌日、アンドリアセン氏はかなり落ち着いた様子でした。
私たちはみんなで、彼の居間にくつろぎ、日本のわが家の様子、うちの犬たち、アメリカにきてからのマウント・ホイットニー登山などのビデオを見て、安静にしていました。

・夏風邪や外人仰臥鼻ツンと
・繰り返し足組み替える寒き夏

●老老介護

6年前、常勤の仕事を退いた年に、私は彼らを訪ねました。

それから何度も、また訪ねて来るようにいってくれていました。

私が、あちこちの外国の山に行った様子を書いた便りを出すと、アメリカにはお前が登るような山がないからなあ、など書いてきたこともありました。

昨年6月、私はハワイへ行きました。でも、ハワイだけで2週間余りの旅でしたし、距離もメイン州はハワイまでの倍以上あります。それで同じアメリカ旅行ではありましたが、彼らのところへは行きませんでした。

お互いにだんだん年をとり、病気勝ちになっていくのですから、次回チャンスがあったら、是非寄りたいと思っていたのです。

その後、「行くよ」「来いよ」というやり取りがあってから、夜中など、よく考え込んでしまったのでした。

お互いに、前回会ったときのイメージで話をしているけれども、月日は容赦なく過ぎているのです。

今、95才の私の母も6年前は89才、いまから思えば若かったのです。私だって6年前は67才、まだ、世間の話しにどうやらついてゆけたのでした。

今、私の母のところへ昔の友人が訪ねてきたらどんなかしらと想像しました。

もてなしたい気持ちは、昔よりもなお一途になっているでしょう。でも、体も頭もそれについてはゆけないのが現実です。

ましてや彼らは病気持ちです。

介護している娘のリサだって、大変な毎日に追われているに違いあるまい、と考えました。そんなとき訪問して、迷惑を積み重ねる訳にはゆきません。

そこで偉そうに、ちょっとでもサポート側に回りたいと思ったのです。

物理的、精神的な助けは貴重なものであります。

「今度は国際免許を持ってきたよ。スーパーに買い物に行ってあげよう」。夜中に考えているときには、本気でそう言って助けてやろうと思ったぐらいでした。

訪問を終わったいま、振り返って考えると、プラスの面は思ったより大きく、ディスターバンスは予想外に小さくすんだと思います。まことに幸運でした。

一番大きな理由は、88才の両親を55才の娘が面倒見ているという、年令の低さです。これはどうしようもないことです。

彼らと別れ、一月近くたったいま、つくずく考えるのは、リサがその道の専門家だったことがあるように思われるのです。

彼女も早起きで、毎朝6時から犬を連れて一時間弱、一緒に散歩しました。

その間に交わした会話は、彼女を助けるどころか、私が彼女に教えられ、助けられたような結果になったと思います。

もちろん英語ですから、私は殆ど喋っておらず、相槌を打ったり、質問を投げかけるため、単語を口にしていただけといってよいでしょう。

そういえば今回の半月の旅行を通じて、5つ以上の単語を並べて文章にして口を動かしたことは、まあ、なかったのではないでしょうか。

ちゃんと文を構成して話した記憶がないのに、今回の旅行でアンドリアセンと過ごした日々では、相手が伝えたいと思っている内容はよくわかりましたし、私の言いたいことも分かってくれたと思っているのです。

真面目くさった私のジョークにでも笑ってくれたのでした。

リサを見ていて、何ごとも専門家というものは凄いと思いました。

各種の症状、いろいろの家庭条件など、沢山のケースを知っているだけに、メンタル・リターダー(知的障害者)への考えには基本軸がしっかりしています。

大規模病院時代には、職員たちはついつい、患者たちの心がけが悪いかのように考えてしまい、矯正を指向し勝ちであったそうです。でも、本質的には決して患者の罪ではなく、客観的に見れば本人たちだって、どんなに普通の人になりたいと思っているかという彼女の意見は、私の持論でもあるのです。

目が霞み耳が遠くなる、足腰が弱くなるといった、加齢による運動機能の低下を、本人の努力不足だと思う人はないでしょう。

メンタルな能力の低下だって、同じことであります。事実をあるがままに認めることが、尊厳を損ずるものではないはずです。

ベキ論でいうならば、加齢によってメンタルな能力低下に陥っている人は、温かく介護されるベキであります。また、本人も素直に介護に身を任せるベキであります。

ところが幼児と違って、人間の老人の場合は自尊心が強く、スムースにゆかないのもまた避けがたいのが現実であります。

フリーポートは海岸町ですから、この時期クラム・フェスティバル(ハマグリ祭)が開かれました。小規模な遊園地、夜店などが出るようです。

その最初の夜、19時から3時間だけは、高校生以下の子供でも、大人の付き添いなしで、お小遣いを握り、自分たちだけで行ってもよいという決めなのだそうです。

千葉に住む当家の孫など、中学生同士でディズニーランドにゆき、真夜中近くまで遊んでくるのと比べれば、遙かに古典的です。思わず、マークトーウェン画くところの、トムソーヤーとベッキイを思い出してしまいました。

そのお祭りの日、リサのところの夕飯にも、近所の男の子と女の子がきていて、家の子と一緒に車に乗せて行くことになっていました。

ところが、夕食後、アンドリアセン夫人が皿を洗い始めました。

リサの方は、子供たちを19時に公園入り口へ下ろして、22時に銀行前で拾ってと計画があり、皿洗いなど後で自分がやった方が、万事、ずっとスムースにゆくのです。

一方、夫人の方は、自分がまだみんなのために役立てることを示し、かつ、良いことをしようと努めているのです。まことに健気なのです。

ともかく、介護する方と介護される方の、価値判断が分かれるひとつの例でした。

リサが話してくれた極端な障害者の例です。

発声に障害を持つ、リサはその障害をダム(唖)といいましたが、インディアンの娘さんが施設に連れてこられたのだそうです。言葉というものに触れる機会がなく、また眼病のため目もよく見えない状態で、16才になって始めて他人の中に出たのだそうです。恐れ、苛立ち、まるで野獣だった、とリサは表現しました。

苦労して、言葉というもので意志が伝えられることがだんだんに会得され落ち着くようになったとのことで、それも貴重な体験談でした。

病気にせよ、怪我にせよ、加齢にせよ、障害者は運命の被害者といってよいでしょう。

被介護者も介護者も苦労なことです。

そんなことがなければ、それに超したことはありません。

でも、現実にあるのです。

ウォームハートを持って接する以外に、人間にできることはありません。

そのような考え方は、私も前から抱いていました。

でも、沢山の事例、極端な例、そして実践と、やはり専門家と話していて得るところは大きかったのです。

リサの介護疲れを助けにゆくつもりでしたが、かえって私が癒されて帰ってきたのでした。

【基本的には、何ごとにもワケがある、そのワケを冷静に考えることが必要だ。介護の分野でも例外ではない】とでも言ったらよいでしょうか。

別れの日、空港へは半病人のアンドリアセン氏、腰の痛い夫人も見送りにきてくれました。

アンドリアセン氏は私を抱え、頬を寄せました。

彼の補聴器がハウリングし、ピーピー鳴りました。「これがオレのアイラブユーなんだ」そんなことを彼は言いました。

夫人は「これがお前の最後の訪問だろうね」と言いました。もちろん私から、またくるよ、元気にしていてね、という答えを引き出そうとしているのです。

でも、私は90パーセントぐらい、最後の訪問になるだろうと感じていました。思ったことが、すぐ顔に出てしまう私は、その気持ちを見透かされていることも分かっていました。

でも、かろうじて「リサが、今度は山登りじゃなくて、スキーにおいでよ。メイン州には良いスキー場が沢山あるよといってるから」と、60パーセントぐらい再訪するような返事ができたのです。

普通、外国人との交際は、国際交流促進というインテリジェンス、アート、ホビーなど、なにかが、そのベースにあるのが普通のように思われます。

でも、アンドリアセン氏は占領軍の一兵士として日本にきて、帰国、除隊になってからは保険の外交員でした。権力者でも富豪でもなく、市井のまったくの普通人といってよいでしょう。

今回の訪問に際して、私はたしかにお土産として、自分の好きなフランス製の紅茶を持って行きました。

でも、6日間、世話になりながら「有り難う」のひとことだけで帰ってきたのでした。

金品を取ってくれなどといったら、間違いなく彼らは気を悪くすると感じています。

親切というものはそういうものだと思います。

これからも、私は他人からの親切は素直に受け、そして人にも与えるようにしたいと思っているのです。

・帰郷の日大西洋にハマナスを
・海霧(じり)静もるここはアツッの空ならむ

 

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