題名:よしなしごと2

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日付:2002/2/26


最近、たまたま、「引用する精神」という本を読みました。

それにヒントを得て、人類の誕生以来、歴史を紡ぎ続けてきたメディアという存在に ついて、この半年間で目についた諸賢の言葉からの引用に徹しながら、(すぐ、私見 を述べたがる悪癖を極力控え)考えてみました。

あちこちから引用させていただきながら気がついたのですが、述べられているご高見 のほかにも、句読点の打ち方にいたるまで、いろいろ勉強させていただきました。下 記の【 】の中が引用部分です。

「述而不作」

最初の引用は、勝又浩氏著の「引用する精神」という本からです。

勝又氏は、文芸評論家、法政大学教授です。

下記の文は、勝又氏自身が、中島敦氏の文章から引用しておられるのです。

【これでいいのか?と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされた様な書きっぷりでいいも のだろうか?彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽 きる。事実、彼は述べただけであった。しかし何と生気溌剌たる述べかたであったか? 異常な想像的視覚を有(も)ったものでなければ到底不能な記述であった。彼は、時 に「作ル」ことを恐れるの余り、既に書いた部分を読み返してみて、それあるが為に 史上の人物が現実の人物の如くに躍動すると思われる字句を削る。すると確かに其の 人物はハツラツたる呼吸、活動を止める。之で、「作ル」ことになる心配はない訳で ある。しかし、(と司馬遷が思うに)之では項羽が項羽でなくなるではないか。項羽 も始皇帝も楚の荘子もみんな同じ人間になって了ふ。違った人間を同じ人間と記述す ることが、何が「述ベル」だ?「述ベル」とは、違った人間を違った人間として述べ ることではないか。さう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳に は行かない。元通りに直して、さて一読して見て、彼はやっと落ちつく。いや、彼ば かりでない。そこに書かれた史上の人物が、項羽や氾増が、みんな漸く安心してそれ ぞれの場所に落ちつくやうに思われる。】

そして、あとがきに勝又氏は、

【個性だの創造だのというような意識もなかった昔の人の方が、人間にとって引用と いうことの本質、その文化的、人間的意義についてはるかに熟知していたことがよく 分かる。あるいは、引用などという言葉を知らなかったお陰で、引用の最も大切な、 深い精神を生きていた、と言うべきか。そんなところも、私自身、書いてみて始めて 発見したことであった。】

と書いておられます。

多くの仏教のお経の冒頭に「如是我聞」という言葉がついています。「私は、このよ うに聞いた」と記しているのです。

沢山の経典は、お釈迦様自身がお書きになったものではありません。お釈迦様が入寂 なさった後で、弟子たちが長期間にわたり作ったものですから、「私はこのように聞 いている」と、書き記した事情を冒頭に述べているのだそうです。

キリスト教の聖書も、イエス様ご自身が書かれたものではありません。イエスの言動 を、弟子や、またその弟子たちが新約聖書として書いたものです。

十字架上の最期の言葉が、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書で違ってい て、専門家の中では、やれ詩編からの引用だとか、そうではないとかの論争になって いるとのことです。

すぐに、版権だ、盗作だと騒ぐ人の多い世知辛い現代ではありますが、それでも、有 益なプログラムソフトを、社会のためとして無料開示されている例だってあるのです。 有益な引用は好ましいと思います。

「如是我聞」

NHKに「ラジオ深夜便」という番組があります。

深夜23時20分ごろから翌朝5時まで、ずっと流していてくれていますから、夜中 に目が覚めたとき、楽しませて貰っています。

先日、早朝4時からの「心の時代」という時間に、ライシャワー・アメリカ大使の通 訳をしておられた、たしか西山さんと仰る方のお話がありました。

そのお話からの引用、「如是我聞」です。物覚えの悪い私のことですから、抜けてい る点があるかと思います。でも、間違っているとは思いませんので、お許し下さい。

【英語と日本語の同時通訳を始めたのは、私と○○さんという女性の二人が最初だっ たと思います。たとえばドイツ語と英語との同時通訳は、その頃もう行われていまし た。でも、日本語は文の構成が違うので、できないだろうと言われていたのです。私 はこう考えました。日本語の場合、話の前の部分では紋切り型の内容が多く、重要な ポイント、たとえば「できます」とか「できません」とかいう言葉は、最期にでてく るんですね。そこで、英訳するとき、始めの部分は軽く聞き流しておき、結論の後に つけるようにしてみたら、結構、できることがわかったのでした。 あるときライシャワー大使が、大勢の聴衆を前に講演され、わたしが通訳していまし た。ところが途中で、大使が私に「今のは、君の訳とはちょっと違うことを言いたかっ たのだ。実はこういうつもりで話したのだ」と言われました。なにせライシャワーさ んは、日本語が分かるだけでなくて、日本の歴史や文学について、並みの日本人以上 にご造詣が深かったのです。そのやり取りを大使と私とは英語で話しました。そして すぐに、今のはこういうことだったのだと日本語でご披露しました。するとそれが聴 衆にとても受けたんです。

講演のあとで、大使が「すまなかったな。みんなの前でお前の顔を潰すようなことを 言ってしまって」とおっしゃいました。私は「とんでもありません。私は正確なこと を伝えるのが仕事です。どうぞこれからもどんどん仰って下さい」と申し上げたので した。】

「世界のメディア報道の傾向と対策」

次は石澤靖治氏編の「日本はどう報じられているか」という本からの引用です。石澤 靖治氏はワシントンポスト紙の極東総局記者、ニューズウィーク日本版副編集長など を経て、現在学習院女子大学教授です。

【では世界が日本をどう認識するかだが、そのほとんどがメディアを使った間接的な コミュニケーションによるということになる。メディア・コミュニケーションでは、 同じ対象でも見方が違えば、その報道の内容もまた別のものになる。これは情報を受 け取る人にとって最も基本的な心得だが、このあまりにも当然なことを常に認識しな がら情報に接するということは、実はできそうでいてなかなか難しい。

特に国際関係については、メディアによる報道を中立的に受け止めることは容易では ない。マスメディアによる報道の内容がどの程度実体を表しているのかを確認するこ とは、受け手がその内容についての知識をもっているか、あるいは報道を直接チェッ クできる場合には可能である。言い換えれば、身近な話題であれば,受け手はマスメ ディアによって形成される疑似環境からの影響をある程度排除できる。ところが、物 理的にも精神的にも、また知的にも自分から遠い題材になるとそれが難しくなり、マ スメディアの報道に依存する比重が大きくなってくる。国際的な問題になるとそれに 言語的な制約が加わる。その結果、マスメディアが行った報道によって外国のイメー ジが固定化されやすくなるのである。また大衆を相手にするマスメディアは、自国民 が相手国に対して以前から持っていたイメージに合わせて報道を行う傾向が強い。】

「物理的にも精神的にも、また知的にも自分から遠い題材」というように一般化して みると、遺伝子、放射能なども「マスメディアによって形成される疑似環境から」醒 めて受け取るのは難しいでしょう。

「テレビ界変えたスクープ」

これは、2004年1月亡くなられた産経新聞社取締役稲田幸男氏の追悼抄として、 読売新聞に出ていたものです。

【「よど号」ハイジャック事件が起きた1970年に、記者生活をスタートさせた。 この年社内報用に書いた作文の中で、「ジャーナリストは歴史の記述者である」と記 している。

過激派が暴走した70年代前半を事件記者として駆け抜けた。入社2年目には、浅間 山荘事件で厳寒の軽井沢に駆り出されている。

そして74年8月30日、8人の犠牲者を出した三菱重工本社ビル爆破事件の現場を 目の当たりにした。血みどろの犠牲者、散乱するガラスの破片・・。「ひどすぎる。 許せない」。妻の誓子さん(55)は、夫の言葉を忘れない。その思いが「犯人グルー プきょう一斉逮捕」のスクープにつながった。

だが、感情や主観に流され事実をゆがめることのないよう、自戒も怠らなかった。 「僕は八百屋と同じで、新鮮なものをいち早くとどけるだけ。あとは受け手に判断し てもらえばいい」。友人の江角浩安さん(55)(国立ガンセンター支所長)には杯 を交わす度にそう語った。

社会部長になって3年目の93年。民放連の放送番組調査会(非公開)に出席したテ レビ朝日報道局長(当時)の発言内容を記者が入手した。〈総選挙では、自民党を敗 北させ、反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようと話し合っ た〉 独善的に世論をリードするようなテレビ局の報道姿勢に、強い危機感を抱いた。それ までメディアが同業者を批判することはほとんどなかったが、「見過ごせない」と、 発言内容を報じることを決意した。これがきっかけとなり、民放各局は公正な報道の ためのガイドラインを一斉に作成した。

爆破事件に続き、このスクープでも新聞協会賞を受賞した。放送評論家の松尾羊一さ んは「あの記事で、政治報道に関する倫理観が始めて放送業界に芽生えたいっても過 言ではない」と評価する。

2年半前に肺がんで入院した際は、取材資料やパソコンを持ち込んだ。連日、部下ら が仕事の報告に訪れ、病室は会議室のようだったという。再入院した昨年8月以降は 言語機能に障害が出たが、11月に長男の司法試験合格を看護士から伝えられると、 誓子さんに向かい、「受かった」と一瞬だが言葉を取り戻した。

元気だったころ、「僕は一世紀生きて時代を見続けてやる」と、いつも誓子さんに語っ ていた。「その願いがかなわず、無念だったと思います」。最期は会話を交わすこと ができなくなった夫の胸中を、誓子さんは推し量った。

     (東京本社社会部 堤 辰佳)】

旧社会党に「山が動いた」的な勝利をもたらし政権を担当させたことが、結果的に大 衆の目を開かせ、転落が始まったのでした。

「編集手帳」

2題 読売新聞の第1面にある「編集手帳」を執筆しておられる方は、大変に博学で、判断 も正鵠を得、そのうえ文学的表現も巧みで、私はいつも尊敬の念を持って読ませてい ただいているのです。

先日こんなように書いておられました。

【「ゆうべ、どこにいたの?」「そんなに昔のことは覚えていない」「今夜、会ってく れる?」「そんなに先のことはわからない」。映画「カサブランカ」の一場面である ◆鉄面皮に等しい話のつなぎ方で恐縮だが、報道の仕事にはハンフリー・ボガードの せりふに通じるところもある。昨日を引きずっていては、今日の仕事がてにつかない。 明日は遙か先、昨日は遠い昔、いまがすべて、の傾きがある◆誤った報道によって傷 ついた人の昨日は、いつまでも「昔」にならない。傷口の乾かないまま、時間は止ま る。書く側と書かれる側の時間軸は、往々にしてねじれがちである◆テレビ朝日の報 道番組が「所沢産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出された」と報じた問題を巡 る訴訟で、最高裁の判断が下った。「番組の重要部分が真実だとの証明はない」〜風 評被害を受けた農家側の実質勝訴である◆テレビ朝日は、「放送の後に新法が制定さ れるなど、放送には一定の成果があった」と言う。そうだとしても、不正確な報道の 言い訳にはなるまい。社会に警鐘を鳴らすことを免罪符に、捏造やヤラセに走る不心 得者が出ても困ろう◆ボギーの出来損ないとしては、書く側と書かれる側、二つの時 間軸の間で日々、身を裂きつづける以外にない。折しも新聞週間、自戒をこめて思う。 】

【ロシアの敗北で日露戦争が終わったのは1905年(明治38年)である。小村寿太 郎外相が講和会議の開かれる米国に旅立った◆旗の波と万歳の歓呼に送られつつ小村 のつぶやいた言葉を、外務省の課長だった幣原喜重郎が書き留めている。「おれが帰っ てくるときは、あれが皆モップになるんだ。おれに泥をぶっかけるか、ピストルを撃 ちかけるか・・」(中公文庫「外交50年」)◆戦費の6割以上を借金でやりくりし た日本は、財政も戦力も底をついている。内実を知らない国民には不満が残ろうとも、 講和条約はまとめねばならぬ。つぶやきは悲壮な覚悟の表れであっただろう◆小村の 案じた通り、講和の?戦利品?の少ないことに世論は怒り、群衆の暴動が起きた。 「日露戦争の勝利が日本と日本人を調子狂いにさせた」と司馬遼太郎氏は語っている ◆1904年(明治27年)の2月8日、連合艦隊とロシア艦隊が旅順港外で砲火を 交え、日露戦争は始まった。開戦から、まもなく百年を迎える◆けなげに、真摯に、 祖国防衛戦を勝ち抜いた同じ国がなぜ、勝利を境にして調子狂いの40年間を過ごす ことになったのか。百年の節目は日本人に問いかけるだろう。国民感情におもねり、 不満の醸成と暴発に油を注いだ新聞というメディアもまた、問いの圏外には立ち得な い。 】

「使えるうちに使え」

こんどは京都大学法学部教授大嶽秀夫氏が書かれた「日本型ポピュリズム」という本 からの引用です。

【第一に、アメリカでは、テレビはテレビ映えする政治家の人気を上昇させるが、新 聞は(この場合クオリティ・ペーパーを意味するが)、辛辣な批評や解説で、それを 中和・解毒するという役割分担がある。確かに、クオリティ・ペーパーの読者の数は 限られているものの、オピニオン・リーダーに影響を与え、それが間接的、中長期的 には大衆の意見にも影響を与える。ところが、日本では、テレビの人気を新聞が増幅 する傾向をもつ。日本の新聞が、その系列下にテレビ局を置いていることも、テレビ に対する新聞による批判姿勢が弱いことの一つの理由であろう。このため、特定政治 家へのブームや政治的フィーバーが、オピニオン・リーダーをも巻き込んで、日本中 を席巻する事態を生んでしまう。

第二に、日本のメディアにおいては、その横並び体質と視聴者に媚びる性質とがとく に強い。たとえば、田中真紀子の人気は、ワイドショーの視聴者層に圧倒的であった。 既にみたように、「真紀子に不利な事実の報道があっても、真紀子の断固たる否定の 一言があるとそれをゥ呑み」にする、「真紀子さんをいじめるな」と非難囂々の声を 電話やファックスで報道機関や批判した政治家に送りつけるといった事態を生んだの である。人気のある間は、どのメディアのジャーナリストも(ゲリラ的な週刊誌は別 として)真紀子を批判する記事・映像を報道しなかったし、できなかった。

田中は自分でも感情をコントロールできないことを自覚しており、更迭の直後、人気 が急上昇している時期に、親しい議員から「今は何もしゃべるな」と忠告されても、 「それが一番難しいのよ」と答えている。計算ずくでなく、「ついしゃべってしまう」 ところに、「庶民感覚」「主婦感覚」が発露しており、それが視聴者の共感をよんだ ともいえそうである。

外交政策については、庶民の意見を代弁する形となったが、それが彼女の発想の「庶 民性」のゆえか、庶民の評価を意識した政治的なものか、はたまた(日中国交回復と ロッキード事件という)田中角栄の成果と怨念とを引きずってのゆえなのかは、はっ きりしない。

こうした田中真紀子に対して、マスメディアの態度は、ある民放のプロデューサーの 次の一言で要約できる。彼は田中の実像を知りながら「真紀子を使えば(視聴率が) 取れるからね。(人気者は)使えるうちに使え、というのが僕らの業界の鉄則だしね。 しばらくはどこの局でも彼女を使い続けるんじゃないの」。角栄に対してマスコミが 手のひらを返したように態度を豹変させたのを目の当たりにした経験を持つ真紀子が、 こうした冷酷なシニシズムを知らなかったはずはあるまい。】

視聴率を上げるためならば何をしても良いとしながらも、民間の視聴モニターたちに 賄賂を渡して数字を上げていた行為にまで堕すると、さすがに正当化するのが難しかっ たようです。

さて、いくつかの引用をお読みいただいた、ご感想はいかがでしようか。 今回は冒頭に、私見を控え引用に徹すると宣言したことです。あと、9行だけで終わ ります。どうぞお付き合い下さい。

私は引用箇所を読んでいて、「そういうことだったのか」と、何回も目からウロコが 落ちる思いに襲われたのでした。 現役で仕事をしていたころは、自分に関連した「作ラレタ」報道に、随分カッカとし たものです。いま思えば、未熟の至りでした。でも、一生のうちに、そんな時期があっ たことも、それはそれで有意義だったと思えるのです。

もっとも、長生きしているうちに、あまりにウロコが落ち続けて新鮮味がなくなった ことも事実ですが。

あと残された人生に、自分がどう変わってゆくのか、ウオッチし続けたいと思ってい ます。

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