音楽の魂

2007-04-20 00:00



ノーマン著、エモーショナルデザインより引用



時間の試練を経てきた音楽、文学、美術などを間なうことに答えがあるのではないかと私は感じている。こういう作品はすべて豊かで深く、体験するたびに何か違うものが感得される。クラシック音楽を考えてみよう。退屈でおもしろくないと感じる人も多いが、生涯の楽しみとして聞く人もいる。この永続性は、その構造の豊かさと複雑さに由来していると私は確信している。こういう音楽にはさまざまなテーマとバリエーションがあって、、あるものは同時に、あるものは継時的に織り成しあっている。人間が一度に意識的に注意できるものには限りがあり、それは音楽のもつ連関のうちの一部しか意識できないということである。その結果、毎回音楽を聴くたびに、異なる側面に焦点が合わせられる。音楽が飽きないのは、それが聞く度に異なるからである。長く味わえる経験すべてが同様の豊かさをもつことを、同様な分析から明らかにできると思う。



この意見にはうなづけるものがある。去年アーノンクールの「怪物的な」演奏をきき、そして「のだめカンタービレ」を見てからというものベートーベンの7番を何度聞いたかわからない。モーツァルトの39,40,41も何度も聞いている(こちらはNHKでやっていたアーノンクール指揮、ウィーンフィルの演奏)


そしてその構造の複雑さ、行きかう感情の豊かさに驚くわけだ。特にモーツァルトの音楽においては、小林秀雄が書いたようにひとつの感情はあっというまに吹き消され、別の感情が響いてくる。


さて一方。


バンドではDeep PurpleのHighway Starを歌う。単純そのものの構成であるが、これも若いころから何度聞いたかわからない。しかしいまだにそれを聞き、歌うのは楽しい体験だ。古のロックの名曲というものも時間の試練を経て今日に残ってきたものである。しかしそれは「多分」その複雑さ、豊かさ故ではない。人の本能に訴える何か単純なもの。それをハンマーのように振り回すところからきているのではなかろうか。


というわけでモーツァルトの音楽とHighway starが両方とも時間の試練を潜り抜けているのはいかなる理由によるものであろう。ひとつ考えられる理由としては、両者とも人間の感性に異なった方法でアピールする、というものだが。