perfume v.s. 初音ミク

2008-04-23 00:00



先日音楽会議にでていたとき、私の前に座った人がこんなことを言った。


「初音ミクの声は人間っぽくないって言われるけど、perfumeの声の方がよっぽど機械的だ」


左様か、と思い「ちょこれいと でっすこ」という曲を聴いた。確かにそうだ。その声はぶ厚い効果の下に塗りこめられている。初音ミクの「神調教」の方が(比較すれば)はるかに人間らしく聞こえる。


などと考えているところにこうした文章をみつける。


なぜそうなっているかというと、その法体系や倫理体系を造り、支持している人間たちが、「他人は哲学的ゾンビではない」という根拠のない信仰、そして、「二次元美少女には感情やクオリアはない」という根拠のない信仰を抱いているからです。それらはどちらも「信仰」でしかありません。だから、もし、二次元美少女の感情やクオリアの実在を「信仰」しているアニオタがいたとしたとしても、それは単なる「信仰」の違いでしかないとしか言えません。

「人間の少女には心がある」のと同じ意味で「二次元のアニメ美少女にも心がある」かもしれないよ - 分裂勘違い君劇場 「人間の少女には心がある」のと同じ意味で「二次元のアニメ美少女にも心がある」かもしれないよ - 分裂勘違い君劇場


「意識」とは「知性」とは何かについては専門家の間でも活発な議論がなされていると聞く。私が気にいっているのはCaltechの下條教授の本に書いてあったこの定義(手元に本がないのでうろ覚え。間違っていたらごめんなさい)


「意識も知性もそれを観察している人間の側にある」


きわめて単純な機構(センサーとモーターが基本的に直結されている)ロボットの行動を「観て」、人間は「ああ、助け合っているな」と考え、ロボットに「知性」を見る。対象物の「意識」を客観的指標で(例えば脳波のパルスで)観察する方法が存在しない以上、我々が日常生活考える「他人の意識」というものは己の主観の投影でしかない。


そう考えるとだよ


perfumeというアイドルグループと、初音ミクのどちらに「意識」や「感情」を感じるか、という問題が頭に浮かぶわけだ。




私はperfumeなるグループ名で活動している女性たちがどのような人間なのか全く知らない。知っているのは彼女たちが歌い、踊る姿、声だけだ。


そして私の考えでは「アイドル」の仕事は、いい言葉で言えば「夢を売る」こと。悪い言葉で言えば「妄想をかきたて金を払わせること」だ。つまり彼女たちがどんな人間であるか、などはどうでもいいこと。「視聴者」が彼女たちに抱くイメージだけが問題なのだ。(これはおじさんが子供のころから変わらない)


これが先ほど私が述べた「意識」の定義と合致していることに気がついただろうか?


恥を承知でかくが、いい年をしいたおじさんでありながらVocaloidの動画をみていると涙腺が緩むことがある。例えばこの曲


<script type="text/javascript" src="http://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm2860554" charset="utf-8"></script>


D


私はVocaloidに感情をみているか、あるいはそれを作った人たちの感情を見ているか。いずれにしてもこちらの感情がゆさぶられることは確かである。


となるとだよ


perfumeに声援を送るのと、初音ミクに入れ込むのとどちらが「健康的」なのだろうか?


初音ミクというキャラクターはその作り手によって実に様々な顔を見せる。コミカルなものあり、シリアスなものあり。私には「彼女」のほうがよほど興味深く思える。perfumeのように「作り手の意図」が透けて見える「人間」に比べれば。


もう一つおじさんらしい意見を書いておく。perfumeのような人間が演じている「アイドル」の問題点だ。幼いころ「フィンガー5」なるグループがいた。「かっこいいね。こんなのなりたいなあ」と言ったところ、母は「こんなの、学校も行かなくて良くない」と言った。それを聞いてかなりびっくりした。


しかしこの年になると母の言っていたことが正解だったと分かるのだ。モーニング娘。なるグループの後藤、辻、加護の運命を知るにつれその思いは強まる。


であれば、「人間」ではなく、2次元のキャラクターをアイドルとしているほうが、社会としても「健康的」なのではなかろうか。