パッション+ロジックが招く大惨事
2008-06-18 00:00
「非理法権天」という言葉を聞いたことがあるだろうか。非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権力に勝たず、、だと思った(うろ覚え)これがあるべき姿かどうかについては論じるつもりはない。しかし「理」が下から2番目というのは希望的にみて妥当、現実的にみれば「最下位が妥当」ではないかと私は考えている。そこでこういう文章を見ると脊髄反射的に書き出す訳だ。
思うに、研究は「パッション」からはじまります。
世の中では、○○に実践されているけど、本来、それはおかしい。~のように考えれば、もっとよくなるはずだ。
巷では、こんな風に思われている常識があるけれど、どうもそれは違う。実態は~であるはずだ。
(中略)
そうやって、自分が取り組む「問題」がわかったら、次に必要なのは「ロジック」です。
(中略)
実践としての価値はあっても、ロジックが立たなければ、研究としての価値は疑問符がついてしまいます。
今日は、「研究の世界」の事を書きました。あくまで僕の専門分野の話であり、また僕の信念です。何の一般性もないことを断っておきます。 ですが、実は・・・小さい声で本当のことをいうとね・・・これは「研究の世界」だけにあてはまることでしょうか? 研究の世界だけでなく、いわゆる実務の世界でも、企画をたてるとき、新しいことをはじめようとするときには、実は、同じようなことをやっていないでしょうか。
NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジックNAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: パッションとロジック
パッション+ロジックが「必要」である、という主張にはある程度同意する。*1私がここで言いたいことは
「パッション+ロジックは必要条件かもしれないが十分条件ではない」
ということだ。
歴史を紐解けば「パッション+ロジックが招いた愚行」の例はごろごろしている。一番身近なものとして「日本が米英に戦争をしかけた」を挙げれば十分と思う。彼らには帝国の防衛、大東亜共栄圏の確立という立派なパッションがあった。そして今も昔も優秀な官僚達は「開戦に踏み切るべきロジック」をきちんと作り上げた。
あるいはThe Best and The Brightestに記されるケネディ政権に集まった賢者たちの愚行、あるいは足利軍を京都に引き入れるとはけしからん、出撃せよ、というのもロジックとしては正しかったのかもしれない。
関係ない歴史上のエピソードを持ち出しているって?ではこれはどうだろう。
たとえば某自動車会社。 企画書をつくるときには、上司や同僚から「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、理由を何百回も問われます。企画はA3用紙1枚にまとめることになっています。ロジックがすっきりしていれば、A3一枚で、まとまるのです。
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この世界一の自動車会社のグループ会社に関してはこんなニュースを聞いた。
昨年9月、30年ぶりに富士スピードウェイ(FSW、静岡県小山町)で開かれたF1日本グランプリを巡り、シャトルバスのずさんな運行・管理でレースを観戦できなかったり、体調を崩したとして観戦者109人が16日、FSWに約3200万円の賠償を求め東京地裁に提訴した。チケット購入者がイベント主催者を訴えた集団訴訟はまれ。
<集団訴訟>F1日本GP観戦できず 109人が損賠求め - cybozu.net -<集団訴訟>F1日本GP観戦できず 109人が損賠求め - cybozu.net -
かけてもいいが、富士スピードウェイでは「トヨタ流の仕事のやり方」を徹底していたに違いない。現にF-1開催前には「シミュレーションは完璧」と胸をはっていたのだ。ロジックは「完璧」だったのだ。
ではパッション+ロジックに加えて何が必要だろう?
一つは「運」特にWeb関連の事業に関してはこの要素が大きい。パッションはあるだろう。ロジックはなんとでも組み立てられる。しかし何があたるかは所詮「運」まかせなのだ。パッション+ロジックが完璧でもあたらないものはあたらない。
もう一つは「知恵」だ。いかにパッションが熱かろうが、いかにロジックが完璧だろうが、間違いは間違い。米英を相手に開戦せよ、などというのは狂人の戯言、こう言えるだけの「知恵」というのは定義が難しいが、現実世界においてはとても重要なものではなかろうか。
「研究」の世界においてはどうか知らないが。