「崖の上のポニョ」という悪夢

2008-08-12 00:00


「夢」という言葉は肯定的な意味で用いられることが多い。しかし私がここで話題にしたい「夢」は




ああ、宝くじがあたったら、さっさと引退して好きなことするのになあ




といった類の「自分に都合のよい非現実的な妄想」ではない。寝ている間に見聞きする夢のことである。


私が聞いてみた人は例外なく「夢のなかでは変なことが、困ったことがおこる」という。たとえばこんなたぐいだ。




しまった遅刻してしまった。急いで電車に乗ろうとすると財布がない。家にとりに帰る途中で友達に会い(その友達はここ数年あったこともなかったはずなのに、なぜかいきなり親しく話し出す)山道に登り始める。途中でトイレに行きたくなったが、なぜかバーのカウンターの中がトイレになっている。。友達(いつの間にか別の友達になっている)は平然と「ここですればいいよ」という。



さて、いきなり話は「崖の上のポニョ」である。この映画についてはいろいろな人がいろいろな感想を述べている。私も本家に脊髄反射的な感想を書いたが、そのあといろいろな文章を読み、今回の標題のような結論に至った。すなわち


「崖の上のポニョは、宮崎氏が映像化した「夢」の世界である」


私があの映画で一番恐怖を感じたのは、嵐が過ぎ去ったあと、水位が異常に上昇した町の光景である。水の中には古代の生物がゆっくり泳ぐ。子供をつれた夫婦はあたかもそれが当然であるかのように悠然と漕いで行く。船団を組んだ人たちは、青い空の元、とても落ち着いてホテルに避難しようとする。ポニョとソウスケ(だったっけ?)はぽんぽん蒸気船でひたすら進む。


この非現実的な状況と、その風景の中におかれた人たちの平静さ。このアンバランスさはまさしく「夢」の中でしか体験できないものだ。この映画は宮崎氏が映像化し、現実世界にぶちまけた「夢」-悪夢といってもよいが-の世界なのだ。


夢の中で、見も知らないちょっと素敵な異性に「○○好き!!」とひたすら迫られたことはないだろうか。恥ずかしながら私にはある。そしてそれはこの映画に出てくるポニョの姿でもあるのだ。


であるから、やれ筋がどうだとかつじつまがどうだとか言うのは私の考えでは的外れである。そもそも「夢」につじつまも筋もない。あるのはその場その場で噴き出すイメージ、それに感情の起伏である。


この映画にでてくる様々な設定にやれあれはなんとかの象徴だとか、なんとかを意味している、と理屈をつけるのも個人の自由だが、私にはそれはフロイト流の夢分析のようなものに思える。


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私は宮崎氏の作品を全部見ているわけではない。ラピュタとかもののけ姫とかはいまだに見ていない。しかし少なくとも「千と千尋の神隠し」以降、宮崎氏の作品は、特定の筋を持たない、それでいながら印象的という世界を狙っているように思える。それを竹熊氏は


もう、つじつまとか整合性とか、わしゃ知らんの! 今回は無意識のリミッター全面解除して作っちゃうんでよろしく!

たけくまメモ : パンダとポニョ(3)


と評した。私が敬愛する映画評を書くm@stervision氏は(ハウルの動く城についてだが)こう述べている。


すなわち、観客に「物語の目指すところ=終着点」を示す意思が最初から無いのだ。もういいじゃないそーゆーの。ただキャラクターの感情のおもむくままに描いていけば、背景とか因縁とか伏線とか そんなのいちいち説明しなくたって映画は成立するんだよ──という宮崎駿の自信(というか開き直り)がありありと聞こえてくる。いまや100%の創造の自由と、それを保証する技術力/財力を手にした宮崎駿はどうやら「夢」以降の黒澤明と同じ段階──すなわち年寄りの手慰みの時期に突入したといってよいだろう。えらく国民的なスケールの「手慰み」だが。これだけメチャクチャな構成で、それでも圧倒的に面白いという実例を観せられてしまうと、いつもインターネットの個人ページで脚本がどうの伏線がどうのとチマチマと難癖つけてる自分が阿呆みたいに思えてくるよ。まさに「天才に適う努力なし」ですな。

m @ s t e r v i s i o n | archives 2004d


会社の底辺ではいまわり、ブログでつぶやくのが精一杯の人間にとって、こうした



誰にも文句を言わせず、自分が考えたものを形にし、世の中にぶちまける権利




というのはとてもうらやましいもののように思える。