罪は星野監督一人のものではない

2008-08-29 00:00


「平成の牟田口」との評判を確固たるものにしている星野仙一氏である。


オリンピックでの試合を一回も見ていないので(正確にいえば、米国戦の最後の場面だけはみたが)彼の采配がどうの、とは言うまい。



ここで言いたいのは



さて、今日の課題です。この状況で星野氏を弁護するとすれば、どのような方法が適当でしょうか?



である。いや、こんなこと考えても何の得にもならないんだけど、私が考えることのすべては得にもならないことだから。



古来こうした「誰がどう見ても弁護できない状況」におかれた人は多い。幼いころに見た「イノキ対アリの世紀の対決」はその中継を見たものにとっては「どうしようもない凡試合」だった。


しかし試合のVTRを封印し、梶原某が大幅に脚色したマンガを何度も繰り返し描いたことで、私より10ばかり年下の従兄弟などは


「えっ?猪木対アリの試合みたの!すごいなあ!」


と目を輝かせて言った。つまりかの凡試合はいつのまにか伝説へと変貌していたのである。つまり必要なのは「凡試合をやってしまった」と嘆くことではなく、想像力である。


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さて問題を星野氏に戻そう。問題は今が2008年だということである。マスメディアを適当にコントロールしておけば、皆が


「日本の野球は強いけど、審判にやられた」


と納得していたころは時代が違うのだ。なんといっても民は直接情報にあたり、会話をするようになってしまったのだから。記録もインターネットのどこかにいつまでも残り続ける。情報操作は難しくなっている。


というわけでハードルはあがったがまだいくつも方法はあると思う。一つの方法は


「罪を散らす」


というものだ。


本家牟田口にこのテクニックを使った例を紹介しよう。



↑の本の中では伊藤 正徳氏が「インパール作戦の敗因分析」と称してこの方法を用いている。敗因は、後方の補給、人事、上部たる大本営にもある、というものだ。いくつかの章をついやして書かれたそれらの分析を読んでいるといつのまにか


「あの時、あの状況であれば、ああしたこともやむ負えなかったのか」


という気分にさせられることに驚く。結局誰がどう悪かったのかあいまいになっていくのだ。インパール作戦中には3人の師団長全部がさまざまな理由で交代してしまった。これを


「部下を掌握できなかった軍司令官である牟田口の責任」


とはかかず


「人事は本来難しいもの。人事で失敗した例は我が国だけにとどまるものではない。人事の妙を得なかったところに悲劇の一因があった」(確か↑の本にはこういう書きかたがしてあった)


と書けば、誰がどう悪いかわからなくなる。



というわけで



「平成の牟田口」を弁護しようとすれば、このテクニックが有効ではないかと思うのだ。誰の目にも惨敗は明らか。しかし


「責任を監督一人に負わせるのは適当ではない。国際試合で成果をおさめようとすれば、関係者全員の密接な協力が必要とされる。(このあと韓国がいかに一丸となって努力したかをさらった書く)今回日本チームの監督、上位組織たるNPB,選手、それぞれが金メダル目指して懸命に努力したのは確かだが、それらの連携に一分の隙がなかったか今後十分に検証する必要がありそうだ。」


と書けばなんとなくどこに問題があったかわからなくなる。をを、我ながらなかなかの名文だ(なんのだ)




あるいは


星野氏が記者会見の時にこれくらいの芸をみせていたらなあ、とも思う。



D



「監督一言どうぞ」


「申し訳ない。その一言です。ベイベッ」



これで何もかも無茶苦茶になり、誰も責任を問おうなどとは思わなくなっただろうに。