文は人なり
2008-10-02 00:00
よく聞く言葉にはそれだけの正当性があると思ってはいる。しかし中にはどうしても同意しかねるものもありたとえば
「天は二物を与えず」
いや、持っている人は二物も三物ももってるんですけど。世の中には「才色兼備の姉妹」が結構存在しているように思う。
それと同じくらい信用していないのが
「文は人なり」
である。
ブログでもサイトでもそうなのだが、書いた文を読んでいると
「をを、なかなか立派な人ではないか」
と思う。ところが合ってみると、これはどうしたとこか、と思うことはよくある。というか最近は「文と人は違う」と最初から心構えをして会うことにしている。
これにはいくつか理由があると思う。まず人間は自分の都合のよいように妄想を膨らせる傾向があること。そしていったん妄想が作られてしまうと、仮に相手がその妄想と合致しないことを書いても目に入らなくなること。カエサルが喝破したとおり、人間は自分に都合のよい「現実」しかみないものなのだ。
そしてもうひとつ大きな要素は、文は基本的に一方通行であること。もちろん現実からのフィードバックを受け入れなければ多くの場合人をうならせる文はかけないと思うのだが、それでも実際に人間として対話している時ほどの双方向性は要求されない。つまり
「人の話を聞かず、自分のことばかりしゃべる人」
でも文の上ではなかなか「良い人」に見えるかもしれないのだ。
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なぜこんなことを書きだしたかといえば、カエサルの「ガリア戦記」をちょっと読んだからである。キケロの言葉にもあるが、装飾を脱ぎ捨てた裸体の文章がこれほどまでに人を引き付ける、というのは実に興味深いことだ。
カエサルに「文は人なり」が適用できるかどうかはしらない。どちらにしても大昔にしんでしまった人なので、私にとって確かめようはない。