スポーツあれこれ
2008-11-07 00:00
マラドーナがアルゼンチンの監督になるのだそうな。
昨年6月に日本国籍を取得したアルゼンチン出身の浦和FWエスクデロが、母国の英雄マラドーナ氏の代表監督就任に複雑な表情をみせた。最初は「叔父は親友。父も一緒にプレーした。僕もパーティーでサッカーの話を聞いたことがある。サッカーの経歴は神様と言っていい」と期待。しかし「まじめにやってくれるかな。2部の監督時代は9時練習開始と言って11時に現れる人だったからね。期待はしてるけど…」と不安も口にした。
“マラドーナ監督”にエスクデロも複雑(サッカー) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
私のようにサッカーに興味のない人間でも彼の「超人的」としかいいようのないプレーのビデオは何度か目にしたことがある。
しかしそれとこれとは話が別だ、というのも事実だ。
スポーツという娯楽に人の目を集めようとすればいろいろな方法があるのだと思う。このアルゼンチンにおけるサッカーのやり方はどこか我が国のプロ野球にも重なるところがある。監督としての実績より「人気」というわけだ。
平成の牟田口再登場はさすがにかなわなかったらしいが、実現まであと一歩のところにあったのも事実である。最近はさすがに沈静化してきたが「長嶋」という名前に対する常軌を逸した持ち上げぶりもそう遠い昔のことではない。
これらとは全く別の方法をとっているのがNFLである。名選手だったというだけの理由で監督として重宝されるとは聞いたことがない。フェアに、オープンにやることがそのスポーツ振興の方法であるとの認識が徹底しているように思える。
そういう意味でいえば「大統領選挙」もそれと同じ認識で行われるものかもしれない。「当選何回組」とか議員先生にしかわからない言葉が何かを決定することはない。党内でどんな地位にあろうが、予備選で、そして大統領選挙で票を集めたほうが勝ち。大変クリアだ。
個人的には国際的なサッカーの仕組みにはどこか馴染めないところがある。ワールドカップでの熱狂はすごいと思うが、そこかしこに「危うさ」が見え隠れする。もちろんこうした「危うさ」が悪いというのではない。しかし長い目でみてどちらが興味を集めるかといえば、「クリアにしたほうがいいんじゃない?」と思うこともある。