ブログとネットの普及によって失われたもの

2008-12-04 00:00


最初に「ブログ」という言葉を聞いた時なんだそれは?と思った。しくみをきいて


「簡単にサイトを更新できるのか、、でそれが何?」


と思った。


月日は流れ今や私もこうしてブログを書いている。しかし本家もちゃんと更新している。私の考えではブログというのは深く考え、推敲を重ねて書くものではない。その時考えたことを書き散らすのが本領なのではないかと思う。


対するに本家の方は、何度も書き直したり、あれこれ調べて付け加えたりする。「海上砲撃の進歩に見る組織の保守性について」といった内容は本家の方では公開できるが、ブログには不向きだと思うのだ。


さて


こうした「情報の即時性」はネットの大きな特質だと思う。それは基本的に興味深い現象だが、最近そのディメリットに気が付き始めている。


ネット上にあふれている情報の多くは、多種多様であるが、やはりよく考え、練られた書物にある情報に比べ浅くて軽い。もちろんそれは多くの場合「特長」と呼べるものだろう。


問題をややこしくしているのは


iPhoneなどの普及により、いつでもどこでもそれらの情報にアクセスできるようになったことだ。ふと気がつくと、ネットの上のなんとはない情報をふらふらと読んでいる。それらは確かに面白い。面白いから読むのだが、じゃあそれだけでいいのかと思う。


練られて考えられた情報に触れることも必要なのだが、その時間が「いつでもどこでも」によって浸食され始めているように思うのだ。


たとえていえば


ネット上の情報の多くは「ぬるま湯」のようなものだ。まあそことなくここちよい。だから漬かっている。


しかし四六時中ぬるま湯につかれるようになり、いつまで浸かっているとやはり問題がでてくる。



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話は少しずれる。今や私もiPhoneで会社のメールを4-6時中読むことができるように「なってしまった」


確かに仕事には便利。しかし心の休まる時は減ったように思う。


ネットの常時接続は、時間を「ぬるま湯」のようなだらだらしたものに変えてしまった。


最近はここから足を洗うことをかなり真面目に考えている。