映画評:チェンジリング
2009-03-03 08:58
寒いので、本家から改変しつつ転載。
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アカデミー賞に多数ノミネートされている作品だから見に行きたい。しかし監督がなあ。きっと”ずどーん”とくる映画に違いない。はてどうしたものか。
映画の冒頭A True Storyと字幕が出る。Based on とかInspired byとかではないのだな、と考えていると1920年代のLos Angelsの風景が映し出される。住宅街まで路面電車が通っていることにまず驚く。今の高速道路まるけ(これは名古屋弁)のLos Angelsとは大違いだ。主人公たるアンジェリーナ・ジョリーはローラースケートをはいて電話交換手の間を走り回っている。
いきなり休日出勤を命ぜられたジョリーは一人息子を家に残し職場に向かう。(ちなみに今だとこれは法律違反のようだ)
夕方帰ってきたら子供の姿が消えている。そこからの演技は鬼気迫るもの。私の趣味ではない が彼女は美人だと思う。しかしいくつかの場面においてはその片鱗も見せない。疲れ果て、やつれたしわだらけの顔。しかし彼女の目には力が-時として異様なほどに-宿り続ける。
それはまた、そうした演技を見せるに足る苦難が彼女を襲い続けるということでもある。警察は子供がイリノイ州で発見されましたと言う。しかしその子供は明らかに人違いだった。行方不明の間どんな苦難にあったか知らないが、背が7センチ短くなるなどあり得ない。しかし警察は全くとりあってくれず、育児を放棄したいのだろう、と難癖を付ける。これくらいの理不尽な扱いは大企業の子会社では普通にあることだが、相手が警察となるとそうはいかない。警察の見解を押し付けようとする医師を送り込んでくる。それでも文句を言い続けると有無を言わさず精神病院に放り込む。精神病院では悪夢としかいいようのない日常が繰り返 される。
しかし最悪の状況においても彼女の目からは力が失われない。間もなく-このタイミングは映画的すぎると思うが-彼女には救いの手が 差し伸べられる。そして息子を誘拐したであろう犯人もつかまり、その裁判と警察の公聴会が平行して行われる。(ちなみにここでイーストウッドは映画化に際 して犯人の残虐性を少し和らげる改変を行っている。それは父親達の星条旗で惨殺された死体を映さなかったことにも通ずる良識と言うものかもしれないし、そのようなノイズは必要ないと思ったのかもしれない)
ここで大団円にしないのがイーストウッドの恐ろしいところだ。彼女の一番の願いは我が子と再会する事。しかしそれがかなわぬ夢なのか、あるいは可能性があるのかはどこまでいっても明確にならない。フィルムは回り続ける。人生というのもこうしたものか、と考える。”二人は幸せに暮らしました”でまとめられるような人生などある筈がないのだ。
ラストシーン、ジョリーは 希望に満ちた美しい笑顔を見せる。しかしそれは単純なハッピーエンドではない。家に帰ると彼女のその後について調べる。亡くなったのがいつかもよくわから ない事を知る。映画に触発されて誰かが本を書こうとしても、もう本人のインタビューを行う事もできまい。この映画がなければこの事件は誰にも知られないままだったか もしれぬ。
しかし彼女が生きている間に見せた力や輝きはあるいはこの映画に書かれていたとおり、あるいはもっと激しかったかのではないか。そんなことを考えさせられ た。悲惨な事件も真正面から描き、安易なハッピーエンドをつけたりはしないが観客の心を揺さぶる。イーストウッド+アンジェリーナ・ジョリーの力量には感嘆させられた。
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というわけで、ごんざれふアカデミー賞はベンジャミン・バトンとチェンジリングどっちでもいいです、と書いたわけだ。
しかし本家の結果を見ればスラムドッグ&ミリオネアの圧勝。日本での公開が楽しみだ。この2本を蹴散らすのも当然、と思えるような映画だといいなあ。