Googleの本質はどこにあるのか

2009-06-30 07:10

というわけでいきなり引用からはいる。

え、ロングテールとか、新しい経済のモデルとか、そんな話もあるけど、Googleはインタフェースとインタラクションの企業でしょ?って思うわけだが。

via: 知覚-行為デザイン論: Googleはユーザインタフェースの企業でしょ? 慶応大学渡辺氏
ちょっとしたことでもネットで探します。で、Trial and error、つまりちょっと検索キーワードを変えていって何回も繰り返し検索します。それだけじゃなくって、初めは「うまいそば屋」を探していたのに気がついたらいつの間にか論文を探していた、なんてこともあるわけです。僕の場合どっちかというと論文を探していたのにいつのまにか「そば屋」を探しているほうが多いですけれどね。つまり、このユーザインタラクションを支えているものは速度であり、シンプルさであり、インタフェースの構成要素、スニペットとかキーワードハイライトという理解のしやすさを支援する部分、それからアクセス性ですね。情報がもとのところになくなっていてもキャッシュで何とか確認できること、なんかだと思います。

ここで仮説です。こんなの違うよというのはいろいろなところでよく言われるので、だから妄想というタイトルにしているんですけれども、ひょっとしたらグーグルの人たちというのは、ユーザの要求とか自分たちの技術の限界というのをちゃんと分かっていたんじゃないのかなと。分かっていてああいうデザインにしたんじゃないのかなと。
via: WI2研究会-特別企画「インテリジェンスとインタラクションの統合に向けて」NTT(当時)松下氏

というか改めて引用してみると、松下氏の言葉ですべて語りつくされていることそ知るし、そもそも自分が過去に言ったことの繰り返しでもあるが、とにかく書いてしまう。

つまり"一発でユーザがほしいものを出す"などということは原理的に不可能なのだ。なぜかといえば、ユーザはそもそも問題を持っていないから。持っていない問題に正解を出すことができるわけがない。

ではインタラクションを重視した検索とはどのように行われるべきか。

早さは本質的な意味を持つ。なぜならそうでなければインタラクションが円滑に行われずユーザの問題形式化を妨げるからだ。

しかしほかにも重要な要素がある。

たとえば人間と人間が一対一で相対している場面を想像しよう。多くの場合コミュニケーションは会話でなされる。

しかしこの"会話"というのは実に不便なコミュニケーション手段である。音は一次元でしか提示できず、同時に複数の候補を出すことができない。すぐに消えてしまう。

次にGoogleとユーザの対話を考えてみる。

断片的な情報からGoogleは可能性の高い大量の選択肢を提示する。10個の検索結果概要、それに加えて検索語の候補、あるいは追加すべき検索。

ユーザはこれら複数の選択肢の中から、次の選択を行うことができる。

こう考えると、コンピュータとの"対話"に安易に"音声入力/音声出力が究極のインタフェース"などという人間は、それらの技術のパッケージのセールスマンでない限り"いかがなものか"と思わざるを得ない。

つまり人間とコンピュータの対話は、問題の多い音声などという媒体に縛られるべきではないのだ。人間同士の会話が音声で行われるのはそれが最も適しているからではなく、進化の結果としてたまたまそうなっているにすぎない。

というわけで、人と人との会話をGoogle的に行うインタフェースなんておもしろいかもしれない(それが何を意味しているかわかっていないが)などと考えるのであった。