プレゼンの上手下手を分けるたった一つの要素
2009-06-24 07:00
をを、なんだか"注目されるブログのタイトル"みたいになってきたぞ。
さて、世の中にはプレゼンのテクニックやらなにやらを説く文章があふれている。そりゃプレゼンテーションじゃなくて、資料の説明だろう、と思うものからううむ、ここまでやれるものなのか、と思うものまで様々だが。
そもそも論に戻る。なぜプレゼンを上手にしたいと思うのか。そこがなければテクニックを学ぼうとも思わないし、やったところで所詮形をなぞるだけになる。
いや、研究室で先生にプレゼンは大事だと言われたから、とかでは理由にならん。私が考える根源的な要素とはこれだ。
聞いている人の身になれるか否か
全てはここから始まる。なぜこんなことを言い出したかというとこれを読んだからだ。
第七条、 プレゼンの練習は聞き手への誠意!
発表に向けて努力・練習・準備した演者の誠意は必ず聞き手に伝わります。
たとえどんな流暢な演者でも準備してこなかったプレゼンは鼻につきます。 via: 微生物病研究所 感染病態分野
あれ、今あらためて引用してみると論点ずれてるな。まあいいか。
私が言いたいのはこう言うことである。くだらないプレゼン、退屈なプレゼン、制限時間を無視したプレゼン。こういうものを聞かされるほど苦痛なことはない。
そして自分がプレゼンをやる時に考えるのだ。これを自分が聞かされたらどう思うだろう。そう考えると深い自己嫌悪に陥り、そして内容を見直し始めるだろう。
そうなって初めて"プレゼンのテクニック"というものが意味を持ち始めるのだ。
"これを聞かされたらどう思うだろう"と自問自答できなければ、退屈なプレゼンの一丁あがりである。これも言いたい、これは苦労したから抜かせない。ここは細かく数字を並べたい。。語り手だけの都合で作り上げられたプレゼンほど退屈なものはない。
私にとって不愉快なプレゼンの最たるものは"時間を超過して延々と続くプレゼン"である。こういうことをやってなんら恥じるところがない人間というのは、基本的に相手のことを考えていなのだと思う。"ユニバーサルデザイン"を提唱する人たちのプレゼンが、どれもこれも時間を大幅に超過するものであったのは、実に象徴的だった。彼らは実に流暢にしゃべっていたから、テクニックは身につけていたのだろうな。聞き手のことを思いやる心はなかったけど。
とはいえ、過去に一度だけ"だらだらと続き時間を大幅に超過したが悪い印象を持たなかったプレゼン(というか演説)"がある。
その昔民社党という政党があった。その元党首、春日一幸が労働組合の大会であいさつをした。
既にそうとうの高齢であったから、話はだらだらと続く。しかしところどころ面白い表現がはさまりくすっとさせられる。時間を大幅に超過してようやく締めくくりの言葉が続く。
"なんせ、この組合に来てお話させていただけるのは年に一回でございますから、ちょっと長くなってしまうのはご勘弁"
この一言でそれまでの"早く終われ、このじじい"という気持ちを吹き飛ばすのは、見事な芸としかいいようがない。
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[ちょっと追記)
そう考えると、私が知っているいくつかのプレゼン教室において、最初にやったことが
"自分がやったプレゼンのビデオを見せる"
だったのは実に理にかなったことだったのかもしれない。
プレゼンとは少しずれるが、コールセンターにおいて、一番教育の観点から効果があるのは
"自分がやった応答の録音を聞かせる"
ことだったと聞いた。いずれのケースも自分を聴衆の立場におかせ、その気持ちを実感させるという点で効果があるのだと考える。