サマーウォーズの映画評を読んで考えたこと

2009-09-25 07:10

というわけでサマーウォーズである。他の人が書いたこの映画に関する評を読むことがある。


たとえばこんなのがある。

出来が悪いのかと訊ねられたら「いや、素晴らしい」と答えるし、つまらないのかと訊ねられれば、「いや、面白い」と答えよう。そういう意味では満足度の高い快作に仕上がってる。
 でも、好きかと訊ねられたら、「うーん、嫌いじゃないけど」という歯切れの悪い答え方しかできない。

via: 【映画評】サマーウォーズ (2009) - 未完の映画評

素晴らしいし、面白い。だけど好きとは言えない。この評価の順序がどうにも腑に落ちないのだ。

よく読んでみると、この人がひっかかったポイントと私が感じたポイントはほぼ似ていることがわかる。しかし"素晴らしいし、面白い"これはどういうことか?

これに類する評もいくつか目にして首をひねっていたのだが、昨日ようやく答えになりそうな文章を見つけた。

前にsukebeningen氏がSUKEBENINGENSUKEBENINGEN アニメ表現の優先順位。というエントリーで「アニメ界におけるヒエラルキー」について書いていて、「アニメーターに比べて脚本家や音楽家や声優は下である」というのを説明していたのだけれど、この「サマーウォーズ」の作者は、そうしたヒエラルキーをまさに体現している人なのだと思った。この人はきっと、絵さえ動けばいいのだ。ストーリーはあまり重要ではないし、音楽や声優はそれ以上にどうでもいい。そうしてそれで、実際にヒットしている。だから、映画やビジネスとしてはそれで十分なのだろう。

via: 「サマーウォーズ」の感想 - ハックルベリーに会いに行く

アニメーションという世界では、絵が動くことが第一で、脚本も音楽も何もかもそれ以下という評価軸が存在するのだな。なるほど。

この監督の作品はあと一回だけ見てみようと思っているが、そうした評価軸の存在を念頭に置きながら見たいと思う。