「Twitter脳」(or つぶやき脳)は人間をダメにする
2009-09-03 07:06
Facebookである人が書いていたコメントをそのまま題名に。いや、私は真面目にそう考えているんですよ。
話としてはこうだ。つぶやきというのは基本リアルタイムで書き込むものだ。それは断片的な言葉であったり考えであったり。それゆえ面白いとも思うのだが、
"じっくり考え、文章を作り上げ公開する"
はどこにいったのだ?
きの合う仲間内だけで居心地のよい"浅い会話"が飛び交う。日常会話とはそうしたものだ、ともいえるだろうが人間が持っている時間は有限なのだ。つぶやき、それを入力閲覧している時間が増えれば何かが減る。
このブログで私は何度か"ビットの泥沼"という表現を使っている。Twitterはその最たるものだと私は考える。
敬愛する"それだけは聞かんとってくれ"に8年前に掲載された文章から引用する。
なんだか日に焼けてしまいました。もう26・・・お肌の曲がり角はとっくに過ぎているのに。気を付けなきゃと思いつつ・・・自然の成り行きに任せっぱなし・・・ついにシミ第一号が出来てしまいました。ちょ~ショック・・・少しはお肌を大切にしなくてはですね。
今日は国会議員水泳大会!!のはずが・・・大雨で中止となってしまいました。はりきってジャージ着て行ったのに・・・残念。
繰り返しになるが、これは二十六歳の市井の女子の人「原陽子」のサイトではない。代議士「原よう子」のサイトなのである。
断っておきたいのは、私には「原陽子」という私人を貶めるつもりは毛頭ないということだ。「原陽子」という私人がどこで何をしようとそんなことはどうでもよい。ただ、公人たる「原よう子」を考えるときにこれはちょっとものすごいのではないかといいたいのだ。
この人の文章が特別というのではなくて、今どきの二十六歳の言語活動というのは、だいたいこんなものなのだろうか。いや、そうだとしても国民の代表の書いたものとしてはちょっとものすごいことだ。
ちなみに手元にある「きけわだつみのこえ」には二十二歳の戦没者の次のような文章がある。
平生の修養浅薄にして大事に臨み、いまだ心平かならず。真に恥ずべきの至り。唯云ふ可きを言はず思ひし事を語らざるは稍淋しき感有りと雖もさしたる事なし。そは我内の思ひのみ。心に鬱積するは母心弱くして我身を思ひ心を痛む其の事のみ。今の我心は遠く万里に演習し而も再び還らざる構なり。願はくば父母共に我れを案ずる勿れ。
この二十二歳というのは算え歳だろうから実際にはもう少し若かったろうに、この違いはどういうことだろう。僅か六十年で言語能力というのはここまで違ってくるものなのだろうか。
via: Sorekika 【第355回 はらさんに五千点】
私も含めて言語能力の衰えというものは今世紀初頭においてもすさまじかった。Twitterやmixiはこの傾向を加速させるのではなかろうか。
とかなんとかいいながら私もTwitterを閲覧することが多い。理由は簡単。Twitterでしか情報を発信しない面白い人がいるからだ。また列車の運行情報も見たいからね。
でも自分でつぶやくことはしない。