文明の進歩は家事をする時間の削減には役立ったが、、

2009-12-28 07:21

というわけでまとまらない考えだが、一度文字にしてみようのコーナー。きっかけはこのつぶやきである。

白物家電は人間の余暇時間をつくりだすもの。黒物家電はその余暇時間を使うもの。

via: Twitter / Keita Watanabe: 白物家電は人間の余暇時間をつくりだすもの。黒物家電は ...

業務効率化とか使いづらい点の解消といった"負の値を0まで戻すこと"については測定も容易だし、そもそも何をすればよいか見えている。しかし問題はその先だ。どうすれば楽しく豊かになるのか。皮肉なことだが"負を0にする"だけでは楽しく豊かにはならない。

たとえばこういうことだ。私が会社に入った時は、すべてシャープペンシルを使い手で文字を書いていた。グラフのプロットもすべて手書きであった。今から考えれば無駄な休日出勤をたくさんやった。そのあとゴミのようなワープロソフトが来た。印刷時に黒いぼつぼつがでるので、それを白インクで消すためにまた残業をした。

今はそんな苦労とは無縁になっている。PCで文字をうつことは当たり前になり、メモを相手にとどけるため、わざわざ社内便の封筒に宛名をかき、送信箱におくなんてこともない。

じゃあそれだけ会社の労働時間が削減されたか、といえば反対である。iPhone+exchangeのおかげでどこでもメールを読むことができる。おかげでこの週末は10%くらい憂鬱な気分ですごした。そして結局のところ

"長時間残業=真剣に仕事をやっている"

というメンタリティは変化することなく、早寝早起きの人間に向けられる視線は冷たい。

振り返って家事についていえば、ものすごく効率化された。私が子供のころは洗濯板がまだ存在していたと思うが、いまやタイマー起動で起きた時には選択ができあがっている。冷凍食品+電子レンジのおかげで奥さまは自由に調理をバイパスできる(さらにいえば、旦那に弁当を買わせるという手段も存在する)そういえば窓ふきは効率化がなされていない分野だが、そこは旦那にやらせればよい。

かくして奥さまは自由に自分の時間を楽しみそのうえで"あたしには自由時間がない"と旦那をなじることができる。だんだん家庭生活の愚痴のようになってきたので話題を変えよう。

問題は

無駄な時間を省いたことがはたして幸せにつながっているのだろうか、ということである。前にも書いたが、私は満州と日本を往復する途中の軍人の気持ちについて考えることがあるのだ。その間はどうやっても仕事はできない。きっとのんびりした時間をすごしていたに違いないと思う。かたや私は新幹線のなかで寝るか仕事をするかどちらかしかない。

冒頭引用した言葉について"白物家電は余暇時間を作りだすもの"には賛成だが、その時間をどうするかについてどうすればよいのだろう。ふと気がつけば2chを眺めていたり、電子の仮想ブロックを消すことに熱中したりしておよそ

"楽しく豊かに"

なったとは言い難い。

ではどうすれば"楽しく豊かに"なれるというのか。

この

"0から+にする"

というところには単一の正解がない。おまけに人によって方向も異なる。したがって独善的な仮説を置くしかない、と考えている。

今持っているのは

"知見を広げる、気づきを得る"

ことは生活を楽しく、豊かにすることにつながるという仮説だ。自分が知らなかったこと。知っているつもりで知らなかったことに気がつくことは、生活を豊かにする、楽しくする、と仮定するのだ。

ではそのために何ができるのか。どのようなものがあるべきか。

というように考えるとたとえば"生活の中に存在するロボット"についてもいくつかアイディアがわいてくる。

たとえば洗濯物を畳むロボット、窓を拭いてくれるロボット。これらは"作業効率化、代行"のためのロボットである。いずれも"負を0にする"ためのロボットだ。

しかし

これらとは全く異なったロボットがあってもいいと思うのだ。

前にも引用したが再度引用しておく。

ロボットは家電ではないのである。たまに冷えなくなる冷蔵庫やごみを吸引しない掃除機を許容できる人間はいないが、メイドロボについては別だ。ひょっとして、ロボット工学者たちはその認識が甘いのではないだろうか。むしろ、メイドロボがたまにコケたりする機能は必要不可欠であるというのが多くの人にとっての共通認識であり、ロボット工学者は完璧を求めるのではなく、できれば気楽な気持ちで開発を進めていただきたい。

via: エレメンタルノート バックナンバー(141~160)

0を+にする。メイドロボットは何もできなくてもよい。ドジっこでいいのである。さらに付け加えれば

ニュースなどで表情を変えて感情を表現するロボットが紹介されていたりするが、見るたびに不気味である。擬似的な感情を求めるのだったら、ペットを飼えばいい。むしろ、ロボットの醍醐味は抑制された感情(および、そこから何らかの感情を読み取る人間の妄想力)にあり、感情が豊かなロボットがかえってうざったく感じるのは以下の検索結果を見ても明らかである。

via: エレメンタルノート バックナンバー(141~160)

人間のリアルな顔を作っている研究者には彼らの言い分があるのだろうが、平たく言えばロバートゼメキスと同じ間違いをしているとしか思えない。平たく言えば人間というものに対する認識が甘いと思う。

↑の文章で指摘されているとおり、どう人工物があがいたところで、受け取り手の妄想力を上回ることなどできはしない。必要なのは感情を表現したり、作り上げたりすることではない。受け取り手の妄想を引き出すことなのだ。

何だそれは、と言われればフェルメールの絵画がなぜこれほどまでに人々の関心を呼ぶか考えてみればよい。あるいはバッハの音楽あるいは古典派の音楽がその抽象的構造からどのように人々の感情をゆさぶるかを(以下32行省略)

したがって

私が考える"0を+にする"ロボットの一つの形態は、その行為、行動によって人間に気づき、あるいは発見を与えるロボットだ。そのために具体的な要素は少なければ少ないほどよい。そのほうが人間は妄想を働かせる余地があるからだ。

役に立たないロボット、しかしそれが目の端にちらちらすることにより何かを感じさせ、考えさせることができればそれは生活を豊かにすることにつながらないか?

-------------------------------
などと何を力説しているのだ>自分

しかしあれですね。このブログというのはすばらしい。こんなことを実生活でいえば頭がくるっているか、あるいはうっとうしい奴と思われるわけだが、ブログに書けばだれにも迷惑はかけない。なんだこれ、と思えば"戻る"ボタンを押せばいいだけだ。