WISSの今後
2009-12-09 07:19
さて、親愛なるWISSというワークショップである。その特異性故にガラパゴス化が懸念されつつある、、とここ2年参加できなかった立場から無責任に書いてみる。(ちょっと追記しました:12/9 09:15)
独自のチャットシステムを運用しているがゆえに、参加できなかった人間との情報共有ができない。もちろん論文は公開されるのだが、それについてどんな議論がなされたか参加しなかった人間が知る由がない。
最近の楽曲などにも言えることだが、情報そのものへのアクセスは無料もしくは低価格でできるようにして、ライブで金をかせぐ、というのが世の中一般の傾向だと思う。WISSの参加費は決して安くない。しかしチャットのログと論文だけでは得られない価値-参加費と時間に見合う-を提供できる場でなければ所詮存在意義はないのだ。
いや、もちろん"情報公開はしません"と言い切るのも一つのあり方だと思うけどね。
また発表に関してこんなつぶやきもある。
どの研究も手をかけて作ってあるけど、単に自分が歳をとったのか、驚きが少ないな
via: FewZio (fewzio) on Twitter
今年の論文、デモを見る限り私も同感だ。(文句をいうなら自分で出せ、というのはごもっともだが)しかしこれに関していえば
"そもそも驚くような発表は多くない"
というのが事実に近いのだと思う。こうした研究について興味を持ち始めたころは"PC内に人格が存在し、サービスを提案してくれる"という言葉に胸をときめかせる。そのうちそうした研究はほとんどすべて行き詰まりになることを知る。
知識が増えれば、行き詰まりになった道が山ほどあることに気がつく。そして驚きは減る。
しかし
依然として(ほんの時たまではあるが)思いもしなかったような新しい提案、発表は存在するものだと信じたいし、実際時々は存在する。面白いね、だけではすまされないような提案を知りたいと思うし、自分でも出したいと思う。
インタフェース関連の研究というものを調べだしてから、、7年くらいにはなるかな。振り返ってみてそうした研究が実生活にどれくらいの影響を与えたかということを考えるとなかなか興味深い。答えは簡単明瞭で
ほとんど影響を与えていない
ということになる。学会とは離れたところにあるAppleや任天堂、Googleが与えた影響に比べれば、学会のそれはほとんど誤差の範囲だ。
これはどういうことだろうか?
いくつか思いつくまま挙げてみる。
・"立派な論文"というのは行き詰まりの道においてもっとも生成されやすい。なぜならその部分は昔からあるので問題定義について文句を言われることが少ない。先行研究が存在するので新規性も主張しやすい。そして行き詰まりなので、"Probelm solved"と言われることもない。
・前にも述べたことだが、誰もがアクセスできるWeb上に公開されている研究成果の評価は、誰がそれを使っているか、ということでしか測れないと思う。いかに理論整然としていようが、誰も使わないということはそれに実用的な価値がない、ということなのだ(ああ、耳がちぎれるように痛い)
今年の論文賞をとったRerankEverythingについて、複雑な感慨を持つのは私だけだろうか?これって誰が継続して使ってるんでしょうか?こうした問いには意味があるのかないのか。
ちょっと話はずれるが、先日こんな記事を読んだ
世界のユーザー同士で母語を教え合う添削SNS「Lang-8」で世界を狙う25歳社長
via: きっと俺はミュージシャン : サービス天国
この記事を複雑な心境で見ている。
というのは、2007年のNPO法人ETIC.さん主催の
「東京ビジネスアイデアコンテスト」に同じコンセプトで
エントリーしてたから。こういうのあとの祭りで書くの
かっこわるいんだけど。実行したもん勝ちだから。
Webサービスに関していえば、賞だの表彰だのはあまり意味を持っているとは思えない。(きざしさんにいただいたチロルチョコと紅茶は大変ありがたく思っておりますが)
じゃあ多くの人が使っていれば"良い研究"ということなのか、といえばそうとは限らない。そうであれば、Amebaブログに論文賞を挙げなければならないが、そりゃ冗談だろう、ということになる。
先程ヒューマンインタフェースの研究は実生活にほとんど影響を与えていない、と書いた。しかしこれは少しせっかちなものの見方だと思う。
学会、あるいは先駆的なヒューマンインタフェースの研究の意義のうちには
"将来のビジョンをしめす"
というものがあっていいように思うのだ。今は誰もそのニーズに気がついてもいない。しかし実はここにニーズを生み出せるんだよ、こんなことをすればもっと面白くなるんだよ。現状分析からは決して生まれてこないビジョンの提示。これは学会でなければできないことだと思うのだ。
(企業でやると、つぶす圧力が強いからね)あるいは新しく示されたビジョンが行き詰まりになるかもしれない。しかしそれは新しい方向性を示したという価値を認められるべきだ。
五十嵐氏のTeddyはニーズとかシーズとか言う言葉と関係ないところに生まれた素晴らしい研究であり技術である。仮に五十嵐氏が日本の大企業付属の研究所でこれを作ったとしてもまず間違いなくお蔵入りになったと思う。日の目をみず、特許だけ出願され、何十年後かにDysonが商品化したときその特許が表にでてくるのだ。
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などとあれこれ私のようなチンピラに言わせたままでは終わらないのが、WISSのいいところだ。来年のPC委員長は後藤氏。あの"ぼかりす"の後藤氏だ。数少ないTwtterのログによれば彼はこう宣言したという。
一つ目、未来ビジョンを書く。論文末尾に、未来をどう切り開くのか?を書く。 二つ目、パネルディスカッションをする。 三つ目、評価実験は査読の対象外とする。
ううむ。すばらしい。改革とはこれだけの思い切りがあってこそ断行できるもの。この言葉を聞き
"評価実験をしない研究に何の意味がある"
と思う人は他に発表する学会がたくさんある。私のようなヘタレは"来年こそは"と考えるのだ。ええと(ネタ帳をぱらぱらめくる)
後藤氏の改革宣言の意図を反映した論文がどれだけ投稿されるかはわからない。しかし"これならチャレンジしたいかも"と思わせるだけの力が後藤氏の言葉にはある。吹っ飛んだビジョンを持った研究が飛び交う場。それはなかなか素敵ではなかろうか。
しかし仮に論文かけたとしても、出席がなあ。。お客さんからの電話一本ですべて吹っ飛ぶからなあ。。