リビングにある大型ディスプレイは何をすべきなのか

2010-03-11 08:24

家庭のリビングに大型ディスプレイがおいてある。それは一体何をするべきなのか。

過去においてこの設問に対する答えは簡単だった。どこかから配信されてくる美しい映像を映し出す。できるだけ大型の画面で、できるだけ安価に。

しかし不幸にしてその方向に進んでいけば幸せが得られる時代は終を告げた。どんな機器にも、定められた方向に線を延長していけば-つまり自分がどちらに向かっているか気にせずにひたすら努力すれば-報われる、という幸せな時期が存在する。そしてそれがいつか終を告げるのも古今東西一貫した真実だ。

さて、表題の設問に戻る。"リビングにある大型ディスプレイは何をすべきかのか"

ひとつの答え-あるいは提案と呼ぶべきか-がこの文章である。

ちなみに、私が数年前から暖めている商品のアイデアがあるので、ここで披露しよう。題して「おかえりなさいテレビ」。ターゲットは、毎日のように9時とか10時にならないと家に帰らない・帰れない会社員。わざわざ番組予約をして見るほどテレビは好きではないが、まわりの話題についていけるぐらいは、ドラマとかニュースとかスポーツ番組は見ておきたい、と感じている人たち。

 操作はいたって簡単。家に帰ったら、スイッチをオンにするだけ。いきなりその日のテレビ番組のダイジェストが始まる。流れている映像に興味がなければ「スキップ」ボタンを押す、興味があれば「しばらく見る」ボタンを押す。それだけだ。最初はあまり賢くないが、使っているうちにだんだんと「この人は野球が好きだな」とか、「キムタクのファンなんだな」と理解して、ダイジェストの内容が充実してくる。その人が平均して何時ぐらいにテレビを消すのか(=寝るのか)も認識して、家に帰った時間から計算して適当な長さに編集してくれる。

Life is beautiful から引用

ターゲットを設定し、"つかれたオヤジ"に要求する操作を

電源On

だけに絞ることは正しい。また簡単なフィードバックを得るという方向性も良いだろう。


しかし私はこの提案に賛成しかねる。これは私が常々批判している

"タコツボ製造機"

になると考えるからだ。
野球ファンだと判断したプログラムはひたすら野球の中継、ニュースだけを編集してつかれたオヤジに送り続ける。しかしある日オヤジは気がつく。何も画面に映らなくなったのだ。どうしたことか、と彼は仕事中に2chを覗く。

そして初めて知るのだ。世間がプロ野球というものに対する関心を失っていたことを。(参考情報)

"売れる""売れない"で言えば、この構想に基づく受像機は"売れる"のかもしれない。しかし私の考えではそれは人間に幸せをもたらさない。

"常日頃見ているものと似たものをみたい"

などというのは人間の欲求のほんの一部でしかない。誰かがつけっぱなしにしたTVをふと見て全く新しい分野に目覚めることはないだろうか?

人間は

"自分が過去に見たのと類似のものをみたい"

という欲求と

"少し新しい物を知りたい"

という欲求の間で揺れ動いているものだと考える。実際Goromi-Tubeを使っていて最近多用するのは

"あなたへのおすすめ"

機能だ。(ちなみにこれはGoogle Accountを利用してログインしないと使えない)自分が"お気に入り"にいれた動画を見返すよりもその機能を使うことが遥かに多い。さらには"Other"機能を使うことも増えてきた。自分が今までに見たものとは全く違うもの、とにかく何か別のものをみせろ、という欲求は必ず存在しているし、"リビングに置かれた大型ディスプレイ"に必要な機能だと考えるのだ。

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とかなんとか文句ばかり書いていると

批判だけなら能なしサラリーマンでもできる

といわれてしまう。確かにそれは事実なのだが、"じゃあお前は何を提案するのだ"という問に対して(誰も聞かないと思うけど)二つ提案をしておく。

ひとつはGoromi-tube。基本的にこれは流しっぱなしである。アクセスすれば何かが始まり、延々動画が再生される。しかし"何か別の"とか"おすすめ"とかを選択できるようになっている。PC上のアプリなのでマウス操作が必要だが、家電に搭載されれば、少数キーのリモコンで容易に操作できるはずだ。(本当はこれを優雅に操作するためのリモコンについてもアイディアがあるのだが、それはまた別の機会に)

でもねえ、これ誰も使ってくれないんだよねえ。。というわけでアイディア倒れは明白。いいんだ、自分は楽しく使ってるから(と石を蹴る)

もうひとつは、いつぞやかのブロガーイベントで提案した

""

としての大型ディスプレイである。

ソーシャルメディアがここまで流行ったことは何を意味しているか。今やTVを見ていた時間はソーシャルメディアにアクセする時間に吸い取られてしまっているのだ。

それは

"自分が知っている人間が何を言っているか行っているか"

に人間はとても興味を持つ、ということではなかろうか。

であればだよ

TV局の下請け会社が心血をそそいで作った番組(-あるいはそのダイジェスト-)より、自分の子どもが昼間に"大型ディスプレイ"の前で何をしていたか、つかれたオヤジにとってはそちらのほうが心にしみるのではなかろうか。

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この文章で私は"TV"ではなく"リビングに置かれた大型ディスプレイ"という言葉を使っている。もうそう考えるべき時期ではないかと思うのだがいかがだろうか。