ハードウェアの大きさが持つ意味

2010-05-11 09:08

オフィスにiPadがきたので触っている。

ある映画のTrailerを見る。スペースシャトル打ち上げの場面。手の中に美しい画面がある、という経験は初めてだ。何度も見たはずの打ち上げ風景だが、印象が全く異なるのに驚く。

磨きがかかった"異様な反応の良さ"とか書きたいことはいくつもあるのだが、今日はひとつだけ。

子供に与えるゲーム機はこれにしよう。

なぜか?

大画面のTVは皆の目を釘付けにし、会話を妨げる。パソコンは同じ場所にいるのに、注意を分断してしまう。一方、iPadは自然な会話を妨げずに、有益な文脈情報を提供をしうる。そこに大きな可能性を見た。

via: Twitter / Akiko Sugaya/菅谷明子: 2/2 大画面のTVは皆の目を釘付けにし、会話を妨げ ...

これは先日みつけたつぶやきだが、確かにこのiPadの大きさにはそうした効果がある。すなわち同じ場所にいて画面を共有できるのだ。

私は個人が小さな画面に見入っている姿が大嫌いだ。携帯電話しかり、DS,PSPしかりである。仮にそれが通信でつながっていても、

"隔絶された個人"

が物理的に集合している姿にはどうしてもなじめない。

しかしiPadのゲームなら違う。これなら文字通りみんなが楽しめるのだ。他人のゲーム風景を"覗き込む"形ではなく共有できる。

ポケモンとかスーパーマリオとかなくてもいいよ。これでエアホッケーを友達とやってほしい。そのうちきっと将棋とか、複数人で遊べるゲームがたくさんリリースされるに違いない。友達と同じ空間を共有しながら遊んでほしい。
こうでなくてはいけない、、というかなぜ任天堂はこのことに気がつかなかったのか。DSとWiiの間に別の市場があることに。