受賞するということ
2011-03-02 07:37
冬季オリンピックの度にフィギュアスケートの採点が話題になる。
思うに、ルールが明確に決まっており、結果が客観的に測定できる競技(スピードスケート、100m走)などと、そうでない種目(フィギュアスケート、ボクシングの"判定")の間には大きなギャップがある。同じ「スポーツ」とくくってしまっていいか判断に迷うほどだ。
さらにスポーツではないが「受賞」となるとこれは完全に選ばれる人と、選ぶ人がほぼ対等の重みを持っている、と言ってもいいのではなかろうか。
大学の先生と話をしていると、彼らと彼女たちにとって「科研費」という言葉が大きな意味を持っていると推察される。じゃあその大切な科研費は誰が審査して、決定するのかと聞いたら
「その分野の大御所の先生」
とのこと。つまるところは「その分野での最新傾向」に沿っていることが科研費を勝ち取るコツなのではないか、とぼんやり想像したりする。もちろんそれでいいのだが、「その分野を扱っている学会」がまったく間違った方向に向かっているとしたら、それは誰が正すのだろうね。
といったところでやおら引用。
Twitter / @山中俊治 Shunji Yamanaka: 同意します。権威のある賞も所詮は人が選ぶのだという相 ...より引用:
同意します。権威のある賞も所詮は人が選ぶのだという相対感覚が大切だと思います。 RT @kenichiromogi: 賞を有り難がって表層的、大げさに報道する日本のメディアよりも、背を向けて勝手にやっている人の方が、むしろハリウッドの心に近い。
去年の例だが、「しあわせの隠れ場所」でのサンドラブロックが主演女優賞などとは冗談としか思えないが、あるコミュニティの中ではそうした必然性があるのだろう。
などと言った所で受賞すればうれしいし、逃せば悔しいのが人の性ではあるが、所詮人が選ぶものだからねえ。これが「主演男優賞は、ノミネート者の間でバトルロイヤルをやって最後まで勝ち残った人が受賞」とかすれば客観的でいいと思うが(何の賞かわからなくなるけど)
というわけで、アカデミー賞会員の思考パターンにあれこれコメントするより、「私はこう思う」と書いたほうが楽しい、というわけで先月「ごんざれふ賞」を書いたわけだ。
ほかに権威を疑わせるわりに一部の熱狂を呼び起こす賞としては
「ノーベル平和賞」
が挙げられる。就任間もないオバマやら佐藤栄作やら金大中が受賞するのもあるコミュニティの中では意味があるのだろう。そろそろノーベル賞から切り離してはどうかと思うのだけど。