隙間を埋めるのだ

2011-04-07 07:04

というわけでいきなり引用。

1994年、カーネギーメロン大学の行動経済学者ジョージローウェンスタインは状況的興味をきわめて包括的に説明した。その内容は驚くほどシンプルだった。好奇心が生じるのは、自分の知識に隙間を感じたときだというのだ。 ローウェンスタインによると、隙間は苦痛を生む。何かを知りたいのに知らないというのは、どこかが痒くて掻きたくなるのと同じだ。その苦痛を取り除くためには、知識の隙間を埋めなくてはならない。くだらない映画を見るのは苦痛なのに、我慢して最後までみるのは、結末がわからない苦痛の方がはるかに大きいからだ。

アイデアの力 p118−119



というわけで、インターネットの普及により人間は「隙間」に取り囲まれることになったのではないかと思ったわけだ。

mixiで足跡があった。読み逃げは許さない。Twitterで情報が流れてくる。チェックしなくてはならない。Facebookでコメントをもらったらコメントし返さなくてはならない。2chのスレッドをチェックしなくてはならない。etc..

これらはすべてかつてはリーチできなかった情報にリーチ出来るようになったがために生まれた「隙間」である。そしてその「痒み」をのぞくため、人は情報にアクセスし続ける。隙間が埋まると少しの間安心するが、また足跡が、 Tweetが、コメントが、、

かくして人は隙間を埋め続ける。その様子はプチプチをひたすらつぶしている人となんら変わるところはない。つまり何も生み出していない。小さな不快感を「つぶす」ためにプチプチしているだけだ。

もう少し有効な情報との付き合い方はないものだろうか?ネットの普及により、リーチできる情報は爆発的に増えた。隙間をつぶす強迫観念も生まれた。とにかく入ってくる量は増えた。しかしそれで幸せになったのだろうか?

最近考えているのは

「Web上に晒している自分の顔を鏡で見る」

ことである。つまり自分の発言、考えたことを見返すのだ。くだらない情報を追いかけ続けている自分。それに自分がどう反応しているか、何を考えているのか。

いや、これすごいですよ。自分がいかにつまらない人間かよくわかる。鏡を見ない間は

「これでも私はなかなかなもので」

と思ったりするのだが、鏡の威力は恐ろしい。