「何にも使えない」と「いろんな使い方がある」

2011-07-19 07:14

ピッケのつくるえほん、というFacebookアプリがある。すばらしいUIを使って、こぶたのピッケや仲間のおはなしをつくることができる。

先日このアプリが展示会の模擬授業で使われたのだそうな。様々な人が感想をのべてくれたそうだが

立会いをしていて、「どの教科にも使えないですよね」と言われる方もあれば、反対に「いろんな使い方が考えられる、面白い!」と言われる方もありました。

via: 教育ITソリューションEXPO2011 終了: 「ピッケのおうち」ブログ

「新しいもの」に対する反応というのは常に似たような面がある。「使い道がない」というものと「いろいろな使い方がある」という一見正反対とも思える意見が交じるのだ。

これは受け取り手の想像力に大きく関係しているのではないかと思う。iPadを最初に見たときこうした感想を述べた人もいた。

これを持って何かをする自分が想像できない。今のところ自分を含めて誰かの何かをこれが解決してくれるとも思えない。とりあえずあの裏側のつるんとした引っかかりの無いパネルを手を広げて支えながら、自分は何ができるのかな?誰が何をするのかな?両手で両サイドを持ったり膝の上に載せたりして電子化されたドキュメントを読むのは目にキツイしなぁとかも思ったり。そもそも、そんなのを読みながらうたた寝をしてしまい、気が付くと落としたり枕にしてしまったりして綺麗な幾何学模様の入った画面と御対面するのは御免だし、混んだ電車の中でコレを使われるのは両肘を広げて携帯ゲーム機に集中してる人よりも罪が深いぞとか思ったり ・・・などなど。

via: iPadって誰がどこでどうやって使うんだろう?ってちょっと考えてみたけど、ワタシにはよくわかんないや:THE SHOW MUST GO ON:ITmedia オルタナティブ・ブログ

このiPadに対する感想が「ピッケのつくるえほん、はどの教科にも使えない」という感想と驚くほど一致するのには失笑を禁じえない。

今あるもの。今やっているやり方。そこから一歩も動こうとしない人にとってはiPadはただの中途半端なタブレットだし、ピッケのつくるえほんは「使い道がわからない」ソフトでしかない。

しかし

常に「今よりいいやり方は存在する」と信じる人間にとっては、新しいものを見て、触れたとき「これは使える」と直感することがある。そうした想像をふくらませてくれる「何か」に出会うのはとても幸運なことだ、と思わずにはいられない。

今のスタイルの学校教育が始まってから、時代も変わり基幹産業も変わりました。例えば子どものころ将来なりたい職業を書かされたけれど、大人になった私が就いた職業は当時存在していません。変化のスピードはあまりに速いのです。今の子どもたちが大人になったとき、どんな社会になっていて、どんな職業に就くかなんてわからない。
自分を肯定し人を信頼できる、知りたい学びたいという気持ち、無ければつくる、人や社会と繋がる、そんな態度や姿勢を身につけることが、いちばんオールマイティに有効だと思っています。

via: 教育ITソリューションEXPO2011 終了: 「ピッケのおうち」ブログ