消費すること/つくること
2011-07-21 06:39
というわけでインタラクションデザイン研究会に行ってきた。
今回のテーマは「パーソナルファブリケーション」冒頭渡辺氏が挙げていた例は
「昔は写真を撮ると写真屋で現像していた。今はデジカメで撮影し、自分の家でプリントする。このような変化」
ということなそうな。
講演の内容もさることながら、講演内容に触発されて行われた議論(on twitter)が興味深かった。私が興味深いと思ったのは
「仮に環境が整備されたとして、本当に個人が物を作るようになるのか?」
という問。以下適当に引用。
PC(もしくはそれに準じるもの)は広く普及するに従い、創作のための道具、という側面が弱まり情報消費の道具という側面が強くなっている気がするのだが。。
これは私のtweet.田中氏のプレゼンの中で使っていた
「コンピュータはメインフレーム→ワークステーション→個人が保有できるPCへと変化してきた。それと同じように物を作る設備も工場→個人が使えるものへ、と変化するのです」
とかそういう意味ととれるスライドをみて書いたこと。
スマートフォンとかタブレット端末を「物を作る道具」として使っている人はほとんどいない。多くは「情報を消費する目的」だけに使っている。であるからして、このアナロジーは正しくない、と言いたかったわけだ。
それでもって「そもそもモノを作る人はそんなにたくさんいるのか?」という話しがで、それに対して
うーんそんなに少ないですかね?子どもたちは絵とか歌とか色んな創作活動してるので,大人になって恥ずかしくなって創作しなくなっただけではと個人的には思ってます.料理も創作ですし RT: @kenji_rikitake 創作ができる人なんて全人口の1%もいないと思います.京大の中村さん(@nakamura)のtweetである。なるほど。これはもっともだ。多くの子供は絵を描くし、いろいろ妙な物を作る。しかし大きくなるにつれ情報の消費が増え創造は減る。そもそもこれはどうしたものか。中村さんからさらにtweetが
子供の頃は創作をよくしてたのに何故大人になってほとんど創作しなくなったかって,人の目が気になったり,凄いのを色々見てしまったり,これは良い/悪いと判断する価値基準を持つようになったからだよなぁとか思ったり.利用者や作品が増えるとどうなんだろう? #sigixd
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前に働いてた会社で、学生さんの面接をするとき必ず聞いていたのが
「授業の課題以外で、何かプログラムを作ったことがありますか?」
だった。今やネットに接続できさえすれば、無料でプログラムを作る環境が手に入る。(しかも何種類も)昔から考えれば信じられないほど「モノづくり」への敷居は下がっている。そりゃ作るしかないでしょう、と私なら思う。
しかし
この質問に「はい」と答えてくれる学生さんばかりではない。いや、そう答えてくれる人は少数派だ。中でも「をを、こんなものをつくっちゃいましたか」と思わせてくれる人はめったにいない。
子供は絵を見るばかりではなく、自分で書く。親がポケモンカードを買ってやらなければ、自分で作る。私は子どもが作るポケモンカードを見るのが大好きだ。子どもがぼけーっとTVを観ているのを見るのが悲しい。
しかしその「創作意欲」はどこへ消えてしまうのだろう。これは考えるべきネタだと思う。
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でもってもう一つ話題になったのが(あとでTwitterをみて知ったのだが)
「『新規性』は新しいものを潰すのにいいキーワード」
である。
twitterを見てもらうとわかるのだが、これに関しては実に様々な意見がでた。私などは常に研究ネタをつぶされた立場なので、この言葉に同意したい面もある。しかし他の研究を見たとき
「それは散々やられて、しかも成功しなかった方法だ」
とツッコミを入れたくなることもある。をを、私も人の研究を潰しているではないか。
そもそもCHIの研究が世の中の役に立っているのか、という疑問にも通じるところがあるのだが、その道の権威が「これは新規性がある」と評価した論文が山ほど量産されているにも関わらず、世の中があまりよくなっている実感がないのはどうしたことか。この議論になると、その人が何によって日々の糧を得ているかが大きく影響している気もするのだが。
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話は元に戻る。子供の頃多くの人が持っていた「何か新しいものを作りたい」というパッションはいつのまにか影をひそめてしまう。
しかし仮に大人になったときにもそのパッションを持ち続けたとしよう。ここで私は「大人」という言葉を使った。ここで意図しているのは以下の定義である。
成熟した人とは、成年に達していて、自分自身と他人と自分がいま置かれている環境に関する正確な認識に基づいて選択と決断をすることができ、それらの選択は決断が自分がしたことだということを承認することができ、それらがもたらす結果についての責任を受け入れることができる人のことである。
バージニア・サティ 「人作り」スーパーエンジニアへの道
第15章;P163
つまり自分とその周りの環境について正確な認識を持つことができなくてはならない。正確な認識、とは研究における先行研究、既存技術のサーベイがあてはまるだろう。その上で「既存技術とはここが違う。だから新しくやる価値がある」と判断できるのが、大人の研究というものではなかろうか。(査読者はなんというかわからないけどね)
こうした「大人の態度」は重要だが、元となるのはあくまでも「見てろ。僕にはできるんだ」という理不尽な思い込み、パッションである。それがなければなんともならない。
しかしこうしたパッションを持っていると、サラリーマン人生を送るのに障害となることが多い、というのも皮肉な事実だ。これまた話題になっていたが
「日本はHow to makeを考えるのは得意だが、What to makeを考えるのは下手だ」
という命題がある。そうかもしれんな、と思う反面、昨日書いたように
「わらでできたほったて小屋のような国産フレームワークと、近代都市のようなiOSの差異」
を見るに付け、本当かよ、とか思う。
また世の中
「お客様がWhat to makeを決定し、"業者"はHow to makeを考え、実行することでお金をもらう」
仕事のほうがはるかに多い。であればWhat to makeを考える頭なんぞは無用の長物、、というのが現実でもあるのだが。
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というように考えるネタがたくさんあった素晴らしい研究会であった。開催者が意図したことかどうか知らないが、プレゼンの巧拙(私が考える)と順番には密接な関係があったように思える。最初にプレゼンした城氏のスライドは実に読みにくかった。
背景に白い部分が多い写真の上に細いフォントでかかれた白文字を重ねているのだ。紹介を見る限り城氏は「研究者、アーティスト」らしいのだが、観客に見せることに鈍感であってもアーティストになれるのかな。