アカデミックな世界の人の階層構造

2011-08-15 07:00

研究ということに関わるようになってから、アカデミックな世界で生きている人と話をすることが増えた。

大学の先生のTweetとかなにやらを見ていると、その激務ぶりに驚くことが多い。考えて見れば「試験」というのは、学生にとっては何時間か座って回答を書くだけのものだったけど、そのためには、試験問題を作り、採点をし、文句をいう学生に対応する、という仕事が必要なのだよね。

世の中にはいろいろな世界があり、その世界の中では「価値あるもの」が独自に設定されている。でもって皆それを多少なりとも意識して努力するわけである。会社だったら上司のご機嫌とか営業成績とかそういうもの。アカデミックな世界では「国際会議に論文を通すこと」と「科研費をとること」が大きな「価値あるもの」に含まれるようだ。それでもってその「価値があるものの判断」は誰がするのか、といえば同業の大御所なのだそうな。

アカデミックな人たちの努力と成果に敬意を払いつつも、私はここに「とじた価値観の世界」を見ざるを得ない。結局のところ同じ業界で生きる人達が、大御所と新人にわかれ、前者か後者を評価しているだけなのだ。もちろんこのシステムで何十年も何百年もやってきたということなのだろうが。先日こんな文章を見つけた。

  • プロの研究者として、一流の研究をしたら出口として一流の論文を出版しない努力しないのはあり得ない。@peinture: 研究のモチベーションについて.一流雑誌に載るくらい良い研究をする≠一流雑誌に載せる.@ProfMatsuoka 先生のツイートを見ているとこれらを混同されている
    (中略)
    なので、一流の研究をする事と、それが一流雑誌や会議でいつか出版される事は基本的には同値。というか、研究職は良い職業だし、人類の進歩にとって大変重要だけど、そのような職業は幾らでも他にある。特に研究職が高貴な訳ではない。プロ野球と何ら変わらない。その中で評価システムがある。
  • via: Togetter - 「良い研究者≠良い論文掲載者?」

    一流の研究=一流の雑誌や会議で出版されること、と言い切る清々しさには憧れの念を抱く。こう言い切れるのは、アカデミックな世界の価値観が、その内部で閉じているからだと思う。一流の研究が何かを定義する人と、一流の雑誌に何を出版するか決める人は同一人物なのだ。

    こうした閉じた価値観を持つ世界というのは大変強固である。その中で暮らしている限りその価値観からは逃れようがない。しかし欠点もある。全てが自己完結しているため、周囲の環境から隔絶していく危険性があることだ。もちろん自己完結した組織だから組織の内部では何の問題もおこらない。周囲との隔絶がある程度以上大きくなった時点で急激に崩壊するまでは。

    さて、先程の引用先を見るとこんな言葉もでてくる。

    無論「結果」は論文数だけではない。プロ野球で幾つも記録があるのと一緒だ。前にもつぶやいたように、むしろ論文参照数のほうが大事だ。投手の記録として勝利数より防御率が重視されるのに似ている。もっとも時間がかかるのが玉にきずだが。その点一流雑誌掲載は参照数向上に役立つ。

    via: Togetter - 「良い研究者≠良い論文掲載者?」

    ただ一流会議に論文を通すのではさすがに強引だと思ったのか今度は「論文参照数」を出してきた。この論文参照数というやつも、私からみれば、所詮は論文を書くことで生業を立てている「閉じた価値観を持った世界」の中での出来事にすぎない。別の文章を引用する。

    学術的研究はその学問上の波及性によって評価され,尺度として論文の被引用回数が用いられる.ISI社の"Web of Science"データベース(学術誌インパクトファクターの元データ)によれば,上記の論文のうち国際誌論文の被引用回数は計75件である.これは日本人によるロボット関連論文の中でもかなり上位に属する.また,このことからもわかるように日本をはじめ米国,イタリア,韓国等から多くの後発研究者が出現している.研究課題としてもさらに広範なunderactuated system,非ホロノミック系の研究として発展し,新たな研究分野の成立を導いた.

     中略 

     一方で実用的技術としては,研究開始後10年以上経過するにも関わらず,後発研究・派生研究を含めて未だに実用化実績が皆無であり,実用上の価値はゼロと考えてよいだろう.根本的な失敗原因は,前提となる技術の目的がそもそもフィクションだったことにあると思われる.

    via: 学術的ロボット研究の問題点について

    アカデミックな「閉じた世界」では大成功だったら論文は、実用的技術としては何の役にもたたなかったという例である。最初に引用したTweetの作者から見れば、この研究は疑いもなく「一流の研究」ということになるだろう。その実用的価値が0だったとしても。

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    と長がな書いてきてお前は何を言いたいんだ。アカデミックな世界で生きている人に喧嘩を売りたいのか?と問わればもちろんNoと答える。アカデミックな世界にいきている人だろうが、営利企業に生きている人だろうが、立派な人は立派だし、そうでない人はそうでない人だ。というか営利企業にもこうした「閉じた価値観」はそこかしこに存在する。そして「閉じた価値観」を外から見るとどこか滑稽だというのも共通することだ。立派な人はその「外からみた滑稽さ」を自覚しつつその世界でちゃんと外からも理解できる成果を上げていく。「そうでない人」は閉じた価値観の中だけでご機嫌に生きていく。

    言いたいのはそんなことじゃなくて、昨日見つけたこの画像

    sci.jpg

    学部学生・院生・ポスドク・講師/教授・技官から見た学部学生・院生・ポスドク・講師/教授・技官のイメージというやつだ。これを見ていって自分が一番共感を覚えたのは技官だった。自分の認識イメージはこんなハンサムじゃないけどね。