HIS2011の感想(その1)

2011-09-20 08:02

というわけで仙台で行われたHIS2011というシンポジウムに参加していた。

ただ聞くのではなく、何か発表を、とは前にこの仕事をやっていたときに考えたポリシーだが、今はネタがない。というわけで3日あいだいろいろな話を聞いたり議論をした。

というわけで、何回続くかわからないが、頭に残っていることを。

その1:アフォーダンスからシグニファイアへ −ノーマンの『複雑さと共に暮らす』から
岡本 明

家から始発ででたとしても、この講演には少し間に合わなかった。最初から聞いていれば、と残念に思うほど興味深いトピックだった。

「誰のためのデザイン」で有名なノーマンであるが、最近アフォーダンスではなく、シギニファイアという言葉を使うようになったのだそうな。なんでももともとアフォーダンスという言葉を使ったギブソンは

「アフォーダンスとは、観察者がいなくてもそこに存在している」

という立場で、ノーマンは

「認知的アフォーダンス」

ということで人間が知覚する作用と切り離せないものだ、と考えたらしい。私のような素人からすると、ギブソンが言っている意味はよくわからない。でもってノーマンとギブソンが直接議論することもあったらしい。

でもって新しくノーマンが使い出した言葉がこの「シグニファイア」である。何かを指し示している物、とでも理解すればいいのだろうか。例えばコピー機のカバーの設計が悪いと本来持つべきでないところを人間が持ち上げてしまう。

そこで分かりやすい「持つ場所」を付ける。これがシグニファイアだとかなんとか。また最近「複雑さと共生する」ことも「許容する」ようになったのだとか。これは本読まなくちゃ。

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何度かこのブログでも書いていることだが、私は

「説明書なしで使えなくてはいけない」

原理主義には反対である(全ての原理主義に反対もいう気もするが気にしない)自転車に練習なしで乗れた人はいるだろうか?ピアノや、バイオリンを練習なしで引きこなせる人はいるだろうか?ではなぜそれらの

「絶望的なまでに狂ったインタフェース」

は生き残り続けるのか?これに関連して駄弁をふるってしまったのが、以下の対話発表。

その2:即応的な発話を可能とする音声合成装置の身体的なユーザインタ フェース
尾林 慶一

これは面白かった。既存の音声合成装置は、パネルから音声を選んで発話しているだけだが、それでは会話のタイミング、イントネーションなどを変化させることができない。そこで、手で握り連続的な値を入力する(つまりあれこれひねったり、ぐにょぐにょする、と理解したが)ことで複雑な音声を発声させられるインタフェースに関する研究だ。

説明の途中で「●●の操作は取得が困難、、」とか説明者が言ったところで、私は聞き始める。仮に取得が困難だとして、まず優先すべきは

「自由にイントネーションなどを付与した、パネル選択では絶対にできない発声」

ができることではないか?仮に習得するのに3ヶ月かかるとしても、このデバイスを使えば、自然な発声ができる、ということであればそれだけの価値はある、と。

などとわけのわからない事をいうおじさんに対して、説明者は根気よく理由を教えてくれる。なんでも想定しているユーザがあまり自由に手を振り回せないのだそうな。それ故、操作性にも気を配らなくてはならない、と。

でもなあ、とうるさいおじさんは続ける。いろいろな事情はあるのだろうけど、パネル選択が切り捨ててしまっている音声の大切な要素を、自由に操れる入力装置を作れば絶対価値があるとおもうのだけど。。世の中に狂ったようなインタフェースはいくらでもある、自転車しかり、バイオリンしかり(以下省略)

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この発表者が所属している研究室では「不便益」という面白い概念を提唱しているようだ。(サイトはここ。↑の研究はここ

非常に興味深い取り組みだと思う。発表されたものを聞いている限り、まだこの新しいコンセプトに関しては試行錯誤段階と思うが今後の発展に期待したい。

これは前に働いていた会社でデザイナーの人から聞いた言葉だが

「一輪車」

について考えてみよう。一輪車はそれこそ「狂ったようなインタフェース」である。自転車よりさらに非人間的だ。

ではなぜ子供(なぜか女の子ばかりだが)は一輪車に乗りたがるのか?また不便であるがゆえに、それを達成したときの喜びは大きい。そして使いこなせば、自転車とは違った面白い操作ができる。これも不便益じゃないですか?違いますか?そうですか。