インタラクション2012
2011-10-21 07:18
インタラクション2011というシンポジウムの査読者が公開されている。
ここに掲載されている「各査読者」のコメントの多くは驚くほど似通っている。(そうでないものもあるがそれは後述)
- 著者自身が、心の底から「欲しい」、「使いたい」と思って取り組んでいる研究
- 発明型なら、自身が本当に使いたいもの、徹底的に使った経験を披露して頂きたいし
- 「今まで見たことが無い」モノを見せてください(「この考え方は無かったわ...」でも可)
- 「そうきたか」と読者を唸らすような、新しいモノの見方・考え方を提示する創意工夫に満ちた研究
とまあこのような「新しいものに期待する」査読者たちが揃っているのだが、そのフィルターを通してでてきた結果があんなにつまらないのはなぜだろう。いや、去年の登壇発表の話ですけどね。
自分が査読をしたり、その後に議論したりしていて痛感するのだが、やはり複数の査読者による査読プロセスというのは
「角を削る」
作業なのだ。何が「そうきたか」と思えるかは人によって実にまちまちだ。私が飛び上がるほど感動した論文に
「新規性がない」
で1点がつくことなどしょっちゅう。結局まんべんなく高得点を取るのは
「現在認識されている問題領域に、現在提案されている解決策の改良版を提案し、きっちり検証した物」
ということになる。そうした地道な努力は正当な評価を得るべきだと思うが、それだけではつまらん。そもそもその問題領域自体に疑問を抱いてしまう場合には状況はもっと悪くなる。
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そう考えると、未踏ソフトウェアの選考の仕組みというのは画期的だったと思う。複数の査読者の同意を得る必要はない。担当PM一人の支持を得ればそれでプロジェクトにGoがかかったのだ。
となると、シンポジウムの選考プロセスもそのようにしてはどうかと思うのだ。3−4名の査読者を指名し、それを公表する。選考は総意ではなく、一人でも「5点」をつければそれで通過とする。あるいは一人の査読者が1セッションをオーガナイズする。参加する方もメリハリがついておもしろかろう。
ちなみに今年はデモ発表も6Pの論文を書かなくてはならないそうだ。
また,限られた会場内で最大限質の高い発表を実現すべく,インタラクティブ発表においても査読を行い,かつプログラム委員の投票によってインタラクティブ論文賞を事前に決定します.これによって,「よい研究とは何か」,すなわち,インタラクション研究のあるべき姿は何か,についての活発な議論が起こることを期待しています.
via: インタラクション2012
考え方を率直に表明し、その上で論文を募る態度は実にすばらしいと思う。これに賛同できない人間は論文を出さなければいいのだ。他にも発表の機会はたくさんあるし。
論文を精緻に記載することで、その内容を未来に残す、という主張は理解できるが同意はできない。XeroxのALTOの論文を読んだ人はいるだろうか?大抵の人は論文など読まなくてもその結果について知っている。Smalltalk-80しかり。私は未だに論文を読んでいないが初めて自分がそれに触ったときの感動は記憶から消えることがない。東大五十嵐教授のTeddy, 空間キーフレームの論文を読んだことはないが、そのデモを最初に見たときの衝撃も記憶に鮮やかだ。
つまりこういうことだ。いかに精緻かつきれいな論文を書いたところで、その内容にインパクトがなければ誰もそれを読まない。読まれない論文は存在しないのと同じだ。
というわけで今年もインタラクションは観客として参加することになりそうだ。いや、自分が査読通る自信がないだけなんだけどね。