君は青い鳥を探してるんじゃないか?
2011-11-24 07:31
今から15年ほど前、会社の上司から言われた言葉である。
「青い鳥」の探し方は人によって様々だ。この数日間いくつかの文章を目にしたので引用する。
---------
「夢とは、常にリアルな距離を持つべし」と言いたい。ミュージシャンをやりたい、ゲームクリエイターになりたい、小説家になりたい、などさまざまなハイブリットな夢のために、フリーターを選ぶ若者をみかけるけど、ぼくの経験ではフリーターのどこにもそれらの世界への入り口はないと思える。(稀有な成功例だけみると、フリーターから入ったように見えるけど、それは観測できない膨大な失敗例の中の例外なのだ)。何かを夢を実現したいなら、近い距離になくとも、「リアルに道がつながっている」職業を選ぶべきだと思う。そして、長い時間がかかろうが、腐らずに、虎視眈々と、チャンスを狙っているべきだと思う。どんな「平凡な仕事」にも、魂をこめて臨んでいるべきだと思う。誰がどこで観ているからわからないからだ。人生は意外性に満ちている。不思議な出会いに満ちている。「普通の仕事」をばかにせず、それらのどこかから、夢への扉が開くチャンスを、虎視眈々と狙うべきだと思う。
via: 今年のマイ・イベントが全部終了した。 - hiroyukikojimaの日記
--------------------
「自分の限界を知る」という表現に、後ろ向きなニュアンスが漂うのはなぜだろう。そこには、「自分の能力をあきらめている」「努力による成長の可能性を否定している」といった意味を感じるからだろう。みんな、「がんばれば、きっと何とかなる」と信じたいのだ。
via: 自分の限界を「正確に」知れば、自分磨きともサヨウナラできる。 - 雑談の達人
でも、がんばっても、無駄なものは無駄であることを知ることこそが、大人というものだ。
(中略)
「やってみなければ、きっと後で後悔する(=やってみれば、失敗しても悔いはないはず)」というのが、若者を駆り立てる殺し文句だが、何のことはない。大人になってみると「やりもしないが後悔もしない」という素晴らしい選択肢が転がっていることに気づく。
「自分にできること」「自分のやりたいこと」を無限の努力によって永遠に追求するのではなく、「他人と競争しても勝てそうにないこと」「自分のできないこと」「自分にとって苦手なこと」を早めに見極めることが、幸せへの近道だったのだ。
-------------
クリエイティブな仕事をする人は、
誰もがある種の審美眼があるからこの道に踏み込んだのだけれども、ここに、ギャップがあるのだ
最初の数年、あなたは作品を作り続ける
でもそれはあなたの目からみて、それほど良いとはいえない。
それは良くなりかけの半熟な作品で、
ポテンシャルはあるにしても、残念なことに変わりはない。でもそもそもあなたがこの道にやってきた審美眼はまだ健在で、
その美的感覚があるからこそ、あなたは自分の作品の仕上がりが許せないのだ。多くの人はここを乗り越えられない。彼らはやめてしまう。
via: 誰かが教えてくれればよかったのにと思う、クリエイティブな壁を越えるためのたった一つの方法 | Lifehacking.jp
------------------
生きてく、ということは常に矛盾に満ちている。(いや、そもそもそれが合理的だなどと仮定すること自体間違っているのだが)
私なりに引用した文章をまとめると
- 自分の限界について現実的に見極める必要がある。まず実現しそうにない夢をおっても幸せにはならない。
- 仮に自分が成功しそうな夢を追いかけたとしても、最初は絶対にうまくいかない。なぜならその分野において、あなたは「良いクリエイター」であるよりさらに「良い批評家」だから。
- しかしそこで諦めてはいけない。現実的に自分の可能性を評価し、夢の実現の可能性が少しでも高い方にかけ、負け続けても試合を投げてはいけない。
現実をありのままに受け入れ、それに適応していく柔軟さと、それに決して満足しない理想を合わせ持たなくてはならない。これは無茶である。矛盾である。しかしそうでなければ成功の見込みはない、ということになる。
こうした矛盾はストックデールの逆説にも通じるところがあるかもしれん。絶対ここ(捕虜収容所)からでる、という信念と、簡単に出られるなんてことはない、という現実の把握と。
-----------------
となると、「努力すれば自分に達成可能なこと」と「いくら努力しても無駄なこと」を見極めることが必要になるのだが、それはどうしたらわかるのだろうか?
今ぼんやりと思っているのは
「その人が、暇なとき、誰に頼まれたのでもないのにやっていること」
は「努力すれば自分に達成可能なこと」の候補になりうる、ということだ。しかしこれとて確かな事は言えない。自分だけのノートにポエムを書き連ねている人は私が思っているよりたくさんいることだろう。(前総理などは、国際舞台でそれを堂々と朗読した)
しかし彼と彼女たちが詩人になれるかと言えばそういうわけでもない。せめて「商業的には成功しないが、読者を得ることができる詩人」になれるかといえば、そういうわけにもいかにない(参考:困惑させる人)結局それをしることが「知恵」というものではないか、と抽象的な結論を投げて今日は終わりにするのである。