シンポジウム「未来を探検する知のバトンリレー」「人類の未来」に前半だけ参加したよ
2012-01-23 08:22
というわけでシンポジウム「未来を探検する知のバトンリレー」(第1回)「人類の未来」に前半だけ参加したのだ。
なぜ参加しようかと思ったかといえば、ウメサオタダオ展の関連イベントだからだ。何かウメサオ氏について面白い話が聞けるかと思ったのだが、前半ではそうした話はでてこなかった。
イベントでは3人が次々と語る。年代を分けて、第一走者、第二走者、第三走者なのだそうな。私は年寄りなので、「年代なんてものは馬鹿馬鹿しい」と思っているし、この分け方にも「?」と思った。しかし終わってみて気がついたことだが、確かにこの3人の視点には差異があった。(それが年齢による物だとは思わないけどね)それについては後で書く。
さて、まず第三走者、佐藤慧氏が語り始める。
話を聞いている間考えていたのは「何故この人の話はこんなに退屈なんだろう」ということだった。駅前でギターを抱えて歌っている人の歌を延々聞かされているような気がしてくる。
何故だろう?使われている写真は美しい。語られるエピソードも気持ちのこもったものだ。なのに何故退屈なのか?
そもそも佐藤氏がなぜ現在の職業(当日渡されたパンフレットではフォトジャーナリストとなっていたがサイトを見ると「フィールドエディター/ジャーナリスト」となっている)になったかといえば
「音楽を志していたが、ある日音楽に込める物が何もないことにきがついた」
からだそうな。それを聞いた瞬間ニコラウス・アーノンクールのこの言葉が頭をよぎる。
作曲家の体験が音楽に直接反映して、自伝のようになってはいけません。 それに全くあてはまらないのがモーツァルトです。 例えば彼が10歳の時に書いた作品には人間に与えられた全ての感情が表現されています。 10歳の少年が書いたとはとても信じられません。10歳という若さで感情の幅を感じ取り それを音楽で自由に表現できたのです。 確かにモーツァルトの音楽には絶対的な情熱や感受性が潜んでいます。 ただしそれらは彼の個人的な経験とは無関係なのです。ニコラウス・アーノンクール NHK音楽祭 レクイエムでのインタビュー
さて、次は松沢哲郎先生(京都大学霊長類研究所所長)である。覚えている事を箇条書きしよう。
・チンパンジーの瞬間的な認識能力は凄い。1−10の数字がランダムに画面上に表示されるのだが、それを0.5秒みただけで順番にタッチする事ができる。
・その種族を知るためには、その種族と近いが異なるものを調べる。たとえば外国にいくと、日本のことがよくわかるように。そうした観点から、チンパンジーと近いボボという種族に注目している。チンパンジーとボボの距離は、人間とネアンデルタールの距離くらい。
チンパンジーは知能が発達しているが、凶暴。ボボは道具を使ったりはしないが、とても平和な種族。
・最後にでてきた東北の震災と、ブータン国王の話は興味深いのだがつながりがよくわからなかった。
というわけで話は第一走者の村上陽一郎氏へ。
記憶に残っていることを書いてみる。かつて比較文化論というのはいわば「文化の優劣」を論じるものだったが、そもそも文化に優劣なんぞない。異なる文化があるだけ、ということではないのか。
(技術は進歩ということが言えるのだが)
他の文化について調べようと思えば、今の自分を一旦脇においておいて、それで他の文化について学ぶ必要がある。こうしたプロセスを経ることにより結局「自分とは何か」がわかる。
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「走者」の番号が減るに従って明確に意識されているのは「メタな視点」だ。それをやることによって結局何が解るのか。そうして最後に村上氏がたどり着いたのが「自分を一旦捨てることによって自分の事が解る」という結論だった。
そしてそれは「駅前で自分の感情を載せた音楽をかき鳴らしている」佐藤氏の話が極端に退屈(私にとって)である理由にもつながっている。彼は自分の歌っているが、それが聞き取り手にからどう見えるか、という点にまで考えが及んでいないように思う。そう考えれば、このイベントが世代を区切ったことにも意味があったのだろう。
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しかしこの「世代」という言葉には注意が必要だ。じゃあここで第三走者とされている佐藤氏が歳を重ねると、メタな視点を得るようになるか?と言われればそれについては疑問符をつけたい。
僕はまだまだ経験も知識も浅く何かを語れるような人間ではないが、
偉大な先人と場を共有出来たことで、未来を創造する力を頂いた気がする。
分野も経験も違う3人が結局のところ「愛」というもの
(村上先生は「共感力」という言葉にしましたがw)
を考え続けているということに人間の可能性を感じる。
知のバトンリレー|佐藤慧 -世界に魅せられて- から引用
結局のところ「愛」ですか。そうですか。