研究者の説明責任について考えること

2012-02-29 07:43

今日の内容は昨日の続き。まだの人はそちらから読んでくださいね。

というわけで研究者の説明責任である。研究の定義はいろいろあるし、実態もいろいろなのだが、基本的に「金にならない」仕事であることは自覚しておく必要がある。いや、もちろんいつかは花開き、世のため人のため役にたち、金銭的にも大きなリターンを生むことが期待されているわけだが、そう簡単に金にはならん。

しかし人間は雲かすみを食って生きていくことはできないし、機材を買ったり人をやとったりするのにも金がかかる。つまり短期的に金を得る見込みはないは金が必要。これは常に考えておくべきことだ。

じゃあ金が全てか?と言われるとそれにも首を傾げる。そのロジックでいけばGREEとかDeNAで「研究」をしている人達がいい研究者ということになる。研究者という前に人間としてどうなのか、という人達が。

というわけで、私は毛沢東語録のこの言葉を思い出すのであった。

それは戦略的には全ての敵を軽視し、戦術的には全ての敵を重視せよということである。

毛沢東語録 p99

この場合の「敵」を「金」に置き換える。「金」は戦略的には軽視する。究極の目的はそこにはない。しかし戦術的には重視しなければならない。

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などと考えているわけだが、お国の研究機関にいる人達から時々こんな言葉を聞くと「どきっ」とする。

「研究者の仕事は自分が興味を持ったことをとことん突き詰めることだ。金をとってきたり、そのための説明などは研究者がやるべき仕事ではない」

私の聞き方が間違っているのかもしれないが、こうした言説を今までに少なくとも3度は聞いたことがある。先日も

「論文を書くというのはとても集中を要する仕事だから、他のことをやっていてはとてもできない」

と真顔で言われた。

なぜこれを聞くと私が衝撃をうけるのか。「研究」を「歌」に置き換えてみよう。

「歌い手の仕事は自分が歌いたい歌を突き詰めることだ。金をとってきたりそのための仕事などは歌い手がやるべき仕事ではない」

あるいは、言い方を少しそれっぽくしてみよう。

「自分歌好きでー。歌に集中したいんすよー。マジ集中しないといい歌できないしー。だから金稼ぐ暇なんてないっすよー。バイトなんかしてたら歌なんかつくれないっすよー。」

自分の息子がこんなことを言い出したら、10回くらいビンタを食らわせたあげく、どこかのタコ部屋に放りこみ、自分の教育の過ちをさとって出家してしまうかもしれない。しかし最高学府と呼ばれるところの博士様が時々こういう事を発言されるわけだ。

もちろんこんな事を言うと「研究と歌を一緒にするとは何事か!」とお叱りを受けるとは思う。問題は「じゃあ何が違うんですか?」という問に説明する責任は研究者の側にあるということ。当たり前でしょ。自分が好きな歌作りたいから金くれ、と説得する責任は、その歌い手にある。

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先ほど挙げた「最高学府の博士様」の言葉は「ポケモン的世界観」と呼ぶべきかもしれない。ポケットモンスターの異常な世界観について誰か疑問に思わないのだろうか。少年、少女たちは学校にもいかず働きもせずぶらぶら旅を続ける。そして「大好きな」ポケモンバトルに日長興じる。相手をみつけては喧嘩をふっかけるのだ。実際に気絶するまで殴り合うのは手したのポケモンであって、本人たちではない。

「自分の好きなことをやりたいでーす。その為のお金は誰か他の人がとってきてくださーい」

ではまるで幼児の弁明だ。こうしたメンタリティがどこから生まれるのかとても興味がある。
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さて、説明責任である。いや、そんなことは分かっており、今色々な取り組みがなされているという。

因果関係がよくわからないのだが、ここ10年で研究者が研究に費やせる時間は減ってきているという。つまり他の仕事がいろいろふえているわけだ。この中に「一般向けの説明責任」もあるに違いない。

特に短期的な成果のでない研究ではロジックではなく、感情に訴えなければならない。聴くところによると、

「はやぶさ2の予算を削るとはどういうことだ!」

というお叱りの電話がいたるところに届いたのだそうな。「はやぶさ」はそうした一般の感情に訴えることに成功した日本では稀有の例ではないかと思う。

私は全く知らなかったのだが、研究機関で一般向けに博物館を作ったり、一般向け公開講座をやったりとあれこれしているらしい。

しかしそうした努力が効果を生んでいるとはあまり言えない。私が考えるにこれは努力がたらないのではなく、方法が間違っているのではないか。というわけで昨日考えたのは

大躍進政策の土法炉と、研究機関が作っている「博物館」の類似性である。

「みんなで頑張れ」とは聞こえのいい言葉だが、責任と思考の放棄でもある。
「研究には説明責任が伴う」
という命題と
「全員広報がんばれ」とは全く等価ではない。農民が耕作を放棄して溶鉱炉を手作りしたところで、国家が近代化するわけではない。

研究の「顧客」は誰なのか。それに対して何をすべきか、というのは「もしドラ」の基本である。

それを考えたことがないし、考える気もない、だって僕は研究者だから、というのであればマネージメントのプロを雇う金を払い、その命令に従うべきだ。つまり大学の長は「研究者の長」ではなく「大学を経営する責任者」なのだ。であれば、経営を一番上手に出来る人が行うべきだ。

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というかこれは研究者に限らず、全ての社会人が肝に命じておくべきことだが

「あなたの組織は存在する権利を持たない」

いつか研修で聞いた言葉だ。全ての組織は存在する権利を持たない。それ故、なぜ自分たちの組織が存在する必要があるかの立証責任はその組織に存在する。

国の機関で働いている人はこの意識が希薄なのでは、と思うことが時々ある。