KATAにはまりたがる日本人と、KATAを乗り越える日本人
2012-08-14 07:41
オリンピックが終わった。私個人に関していえば、回を重ねるごとに余裕を持って見ることができている気がする。
さて
「選手の地元の応援風景」をみていて気がついたことがある。なんと呼ぶのかしらないが、長い風船のようなものを打ち鳴らして応援している場合がやたらと多いことだ。あるいはメガホンとか。
アメリカにしばらく住んでいて、日本に帰ってくると、いくつかの風景が異様に見える。そのひとつに「スポーツの応援風景」があった。(当時は野球だったが)なぜ一糸乱れぬリズムに合わせ、皆で同じ事をしているのだ。私が米国で住んでいた地域では、みんな好き勝手に応援していた。驚いたのは、あるチームのファンの真ん中に相手チームのファンが居ても何も気にしていないことだ。(時々そうでない場合もあったのだが)それぞれが正反対のリアクションをして、自分のペースで試合を楽しんでいる。
そうした体験を思い出しながら今回あの「応援用小道具」をみていて、ああ、これはKATAだ、と気がついた。理由はよくわからないが、やはり日本人はKATAが大好きなのだ。なければそれを作り上げ、自分ではまっていく。
これ自体は一つの傾向であり、いいとも悪いとも言えない。私は(私が知っている)米国風の応援のほうが性にあっているが、野球場でお決まりの詩を歌って涙を流す人だっているだろう。
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さて、話は変わる。
via: 海外で躍動する日本人サッカー選手ニュース : なでしこジャパン 日本 vs フランス戦後の宮間あや選手の海外の反応
宮間は、ワールドカップの米国戦の後でも同じように米国選手に歩み寄り何かを話していた。他の選手が喜んでグラウンドを走り回っているときにだ。
少し古い日本人ならこうした行為を「武士道の発露」と形容するかもしれない。
その光景に、米国「NBCニュース」が先んじて報道し、米国のネットなどでも話題になっている。「美しい試合だ」「これは日本の文化的なもので勝利を相手に見せつけず、心からなだめる奥ゆかしい日本の傾向」と、宮間の行動を称える絶賛の声が上がった。
via: なでしこジャパンに見る武士道「惻隠の情(そくいんのじょう)」 | 牛のエセ日記
よくぞ貴女のような人が日本代表になってくれた!
武士道の真骨頂は、「惻隠の情」にあり武士道が常に目指して来きたものは、「弱者をいたわる思いやりの心」であろう。
そもそも「武士道」というものが実在したのか、あるいは明治以降に作られた「伝説」なのかについてはいろいろな議論がある。少なくとも日露戦争ではそうした「武士道」の発露が見られた。激戦の後の旅順開城の写真を見てみよう。
この写真のどこにも勝者も敗者もいないことがわかると思う。
しかしこのあと「武士道」というKATAは間違った方向に進んでいった。伊藤正徳の言葉を借りれば「メッキがはがれた」のである。KATAが示そうとした本質を悟ることなく、KATAにはまることを他者にも強制し、自分たちの愚かさを隠すために用いた。(日本の大企業に蔓延しているKATAも多くの場合はこんなものだ)
おそらく宮間氏は自分の行為のどこにも「武士道」というKATAを見ていないと思う。ただ自分が正しいと思える行為をした、と。彼女はKATAに頼る必要がないのだ。それ故昭和20年までの「武士道」のように本質を見失い堕落することもないだろう。
だから、彼女の行動にはKATAを表す名前を付けず、そのまま語り継いていくのが良いのだと思う。