記号接地問題に関するいくつかの文
2012-08-29 07:20
わけのわからない題名をつけていますが、要はまとまっていないということです。
先日来「フレーム問題」と「記号接地問題」についてあれこれ調べている。なぜ調べているかといえばそれらについて書こうとしているからだ。
しかし
「問題」や「失敗」について記述しない学会というか論文というシステムのおかげでとても苦労している。私が大学生だったころは、エキスパートシステム花ざかりの時期だった。しかし今それらは見る影もない。しかしそれが「なぜ、どのように失敗したか」について事細かに書いている文章をなかなか見つけることができない。Google先生にお伺いを立てても、このブログの文章が出てきたりする。
というわけで今朝思いついた事を書いておく。
「聖書は一言一句真実であり、神の言葉である」という聖書原理主義者とでもいうべき人がいるわけだ。そうした方面を真面目に考えると
「聖書に書いてある文章は、誰が読んでも同じような意味にとれなくてはならない」
ということになる。「真実」である、というからにはその前に「意味」が確定していなくてはいけないわけだ。
さて、問題です。「言葉」という記号を使って記述された文書の意味は、本当にそれ単体で確定するでしょうか?答えはNo.です。それに近いところを目指したのが、法律用語満載の契約文書だと思う。あの英語だとHereinとか他の場所では観たこともないような単語が満載つのやつだ。しかしそれとて法律やら判例やらの膨大な背景知識(というか合意事項)があっての上で成り立っており、かつそれでも「契約書の解釈を巡って」の裁判は絶えない。
かくのとおり「言葉」という「記号」は実にあやふやなものでしかないのだが、コンピュータはこの記号を処理するというのが大得意だ。そこからどう間違えたのか
「記号を処理すれば、人間の知能のような動作ができる!」
と多くの人が(当時の私含む)考えた時期があった。しかしそれは間違っていた。
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私がつっかえているのはこの「間違っていた」というのを平易でかつわかりやすい実例をあげて説明するところだ。記号というか言葉は所詮「意識」が扱うものなのだが、実は人間の「判断」は多くの場合「無意識」のうちに行われており、「意識」は後付けで理由をこじつけているだけ、とかそういう話しを読んだことがあるような気がする。となると「意識」などというものは冗談としか思えなくなるのだが、それでも日常生活である程度役に立っているような気がする。
「記号処理」でまずつかっかるのは「人間なら同じ意味と判断できる言葉を理解できない」というものだ。iPhoneのSiriに向かって「新しいメールはありますか?」と聞いても「誰に送信しますか?」という見当はずれの答えが返ってくるだけ。「新着メールは?」と聞くと「誰もあなたにメールなんか送りません」と正しい答えが返ってくる。しくしくしく。
つまり「新着メール」と「新しいメール」はSiriにとって全く異なる単語なのだが、人間はその意味を正しく判断できる。これってつまるところ何の問題なのだろうね?