オープン原理主義
2012-09-05 07:27
コンピュータの世界では「オープンさ」への原理主義のようなものが存在する。Androidが登場したばかりのころ、こういう言説をあちこちで見かけた。
多分、AndroidはiPhoneの牙城を打ち壊す。
僕はiPhoneユーザーだが、僕もそう思う。Androidはよりオープンだから。それが理由。それに尽きる。
開発者から見た開発環境にしてもオープンだし、端末を提供する側から見てもAndroidはオープンだ。
いつの時代もオープン、自由、開放は世の中に歓迎されて受け入れられてきた。大袈裟な事を言えば、昔は王様が全ての権限を持っていたのだって、自由へ流れてきた。日本の歴史だってそうだし、大きな権限を持つ力はいつも嫌われていた。コンピュータの世界だって、自由なソフトウェアが強い力を持っている。
via: iPhoneとAndroidについて思う事 - ichiroc subset
「オープンだから勝つ」この単純な図式に疑問を持たざるをえない事実が増えているように思うのだ。
いろいろなハードウェアメーカーが製品を出せば消費者に選択肢が増え、そして価格も下がるはずだった。しかし未だにiPhoneは圧倒的な価格競争力を持っている(販売価格ではなく、Appleの利益を見るとそうとしか言いようがない)
そしてMicrosoftは今まで頼りにしてきたOEMと正面衝突するコースをとっている。彼らも「オープンさへの絶対信仰」を捨てたのだと思う。
オープンなシステムのほうが開発者もより集まりやすく、かついいものができる。この図式は単純に過ぎると思う。
ぼくたちの失敗
下位互換性や Linux ディストリビューション間の互換性は、セクシーな問題ではない。解決するのが面白い問題ですらない。そんな仕事をやろうとは誰も思わないし、誰もが革新を起こして Linux の次の目玉機能に関わりたいのだ。
かくして Linux は、サポートや下位互換性といった退屈で些細なことを心配する必要なく実現しうる最高のシステムをデザインしたい理想主義者に押し付けられた。
via: 何がLinuxデスクトップを殺したか(What Killed the Linux Desktop 日本語訳)
「自由でオープンな環境」にあっては、開発者は自分の興味の赴くところで開発を行う。しかしユーザ体験の多くは「退屈で些細なこと」に依存している。そしてそれを欠いたシステムがどうなるかは神のみぞ知るところだ。
というわけで、このニュースもこうした背景を元に受け止める必要があると思う。
Twitterが8月に発表したAPI利用ガイドラインの厳格化に関連し、国内でも関連サービスの終了が相次いでいる。
via: Twitter関連サービスの終了相次ぐ API利用制限など「Twitterの変化」影響 - ITmedia ニュース
これに先立ち、Twitterは、いくつかのクライアントアプリを買収していた。おそらく彼らは「自分たちで、ユーザ体験にまで責任を持つ」という決断をしたのだと思う。オープン原理主義者にとっては噴飯ものの判断だが、その結果はまだ分からない。