軍人から学ぶこと
2012-09-11 07:13
というわけで最近ドラッカーの本を読んでいる。
とてもおもしろい。というか初めてなぜドラッカーがそれほど語られているのか分かった気がする。以前一冊買ったのだが、それはあまりおもしろくなかったのだよね。
その「おもしろさ」の一部は、第2時大戦中の軍人、あるいは政治家等のエピソードにあらわれている。例えばこんな一節がある。
この軍の歴史上最高とも言うべき教育上の偉業は、マーシャルという、モンゴメリーやドゴールやマッカーサー流の(人間的磁力や自信という指導者特有の)属性をすべて欠く人間によって、成し遂げられた。彼がもっていたものは、原則だった。彼は常に「この男は何ができるか」を問題とした。そしてその何かができれば、何ができないかは二義的とした。 例えばマーシャルは、何度もジョージ・パットンをかばった。パットンという野心的で自信満々の有能な戦時用の将軍が、平時用の幕僚の資質を欠くことによって不利をこうむらないようにした。しかしマーシャル自身は、パットンのような派手な軍人スタイルを嫌っていた。経営者の条件 p121
あるいは、自分と意見が一致するか否かより、「その人に何ができるか」だけに着目した人事を行ったロバート・リーのエピソードとか。
そのエピソードが語っていること自体も面白いのだが、読んでいて不思議に思うのは
「なぜ我が国の軍人、政治家はこうしたケーススタディで取り上げられないのか」
という点である。
アメリカ人が書いた本には、南北戦争が、当然の教養として取り上げられていることが多い。
すなわち、階層組織の構成員はやがて有効に仕事ができる最高の地位まで達し、その後さらに昇進すると無能になる。
via: ピーターの法則 - Wikipedia
というピーターの法則を体現したと言われるフッド将軍とか、「最もアメリカ人らしい容貌」と称されたシャーマンとか。
それは、その物語の登場人物が様々な性格をもった「人間」であり、そこから我々が学ぶことができるためでもある。
ところが
不思議な事に我が国の軍人はこうしたスタンスで取り上げられることがない。多くの場合取り上げられるのは、江戸から戦国時代の人間であり、それとても偶像化、形式化された姿で、南北戦争の将軍たちのような現実的な色鮮やかさに欠ける。
これはどういうことだろうか。東条英機と永田鉄山の比較などから私達が学べることはないのだろうか。
と今日は投げっぱなしでおしまいにする。この問題はずっと頭の隅にひっかかっているので自分なりの答えが出た時にはまた何か書くと思う。