駄目な研究にみる記号接地問題

2012-09-26 07:15

ここ一年でいろいろな学会の全国大会に行った。

この全国大会というやつはほとんどの場合レビューなしで発表ができる。それ故良い表現を使えば玉石混淆。悪い表現を使えば、面白い研究の比率は極端に少ない。しかし「をを。こんな面白い視点があったか」というものに出会えるととてもうれしい。とにかく言いたいこと、やっていることを発表できるので、実際に世の中でどんな「研究」が行われているかを知ることができる。

それで気がついたのだが、私が行った学会-データベース学会、感性工学会、ファジイなんとか学会、ヒューマンインタフェース学会とかなんとかで、やっていることはとても共通しているのだな。データベース学会というからには、効率的なインデックスと配置についてとか鬼のようにやっているか、と思ったのだが一番多いのはWebサービスとかアプリだ。結局どこに行ってもWebサービスとかアプリに出会うことになる。

とはいえ、やはり学会のカラーというものがある。先日行ったファジイ学会は「やたらと難しいロジック」を含めるのが特徴だった。子供の行動をシミュレートするのに「階層型モジュラー強化学習」を出されても聞いている方は困ってしまう。それで、その計算結果が本当に子供の行動を表しているかの検証はほったらかしだ。

また別の研究では音楽にユーザが指定した形容詞をアレンジしてくれる、というものだった。これも感性情報とか、ニューラルネット(あれ?GAだったかな?)とか難しい言葉はてんこ盛りだったが

「"明るく"とか入力してそれがイメージと合わない場合どうすればいいんですか?」

という基本的な質問にも碌な答えが帰って来なかった。思いつく限りの形容詞を試行錯誤するしかないのかな。そんなシステム作って誰が使うんだろう。

しかしいずれの場合も、共通していたのは「発表者の自信満々たる態度」である。

先日こんな本に出会った。

ナブ・アヘ・エリバは、ある書物きょうの老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草パピルスや羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日きょうの天気は晴かくもりか気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュをなぐさめた言葉をもそらんじている。しかし、息子むすこをなくした隣人りんじんを何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王のきさき、サンムラマットがどんな衣装いしょうを好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。

via: 中島敦 文字禍

これを読んで気がつく。現実と遊離し、幸せそうに難しいアルゴリズムと戯れている研究。あれは記号接地問題なのだ、と。美しい記号が作り上げた世界に住んでいる人たちはとても幸せそうだ。

しかし、彼は、おそらく自分が傴僂であることを知らないであろう。傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者ぎせいしゃの第一に数えた。ただ、こうした外観のみじめさにもかかわらず、この老人は、実に――全くうらやましいほど――いつも幸福そうに見える。

via: 中島敦 文字禍

今から数十年前、エキスパートシステムの研究に打ち込んでいた人たちもとても幸せだったのだと思う。このように接地しない記号が幸福感をもたらす理由については面白い考察ができるのかもしれん。。今はわからないが。

さて、そうした研究をしている本人は幸せそうなのだが、理由は知らねど私はこのように「接地していない記号」を見るとわめきだすようだ。

少し話はかわる。先日こんな記事を読んだ。

しかしながら、その後、この日本人数学者は先行研究から離れ、今日では世界でごくわずかの科学者だけが理解できる数学的装置を発展させた。望月教授の技術は、新しい「オブジェクト」、つまり、例えば集合、順列、行列に似た、抽象的な数学的概念を用いている。「ここに至ると、完全に理解できるのはおそらく世界で彼ひとりだ」とゴールドフェルドは続けている。

スターンフォード大学のブライアン・コンラッドによると、「科学コミュニティが望月教授の新しい見解を消化できるまでには多くの時間が必要だろう。このように長く精巧な証明を理解するために数学者たちが時間を費やすことができるかは、望月の経歴にもよるが......」。

via: 21世紀数学史上最大の偉業!?:「ABC予想」を日本の数学者が証明 « WIRED.jp

証明が500Pに及び、そもそもそれを理解出来る人は執筆者のみ。こう書くと「疑似科学」のよう。それが査読の価値をもつものかどうかは執筆者の経歴を見るしか無い、とはとてもおもしろい現象だ。

このように現代の数学というものは、専門化し、細分化され、極度に抽象化されているようだ。この例では「オブジェクト」を理解出来る人は一人しかいないと言っている。

ここで私は「こんな現実から遊離した学問はけしからん」と喚きだすべきなのだが全くの素人としてだが、この「現実から遊離した数学」がひょんなところで現実と関わりを持つのは面白いと思っている。非ユークリッド幾何学は単なる思考の遊びにしか思えないが、驚くことに現実の宇宙は非ユークリッド幾何学で扱うべきなのだ、とかなんとか。

もう一つは

数学そのものは、現実から遊離しているように思えるがそれを生業としているのは紛れもなく現実世界の人間だということだ。



子供が中学生になったら読ませたい本リストのトップに位置している(私の中で)この本にでてくる数学者達の人生は実に色鮮やか。これが現実世界に接地していない、と誰がいえよう。このABC問題もいつの日か誰かが本にしてくれんだろうか。