他人の目を気にしない、ということ

2012-09-28 06:45

そうか、他人の目をきにしなくていいのなら、電車内で化粧をしてもいいのだな、とかそういう話ではない。

先日この記事が話題になっていた。

アイデアを出すのが恥ずかしいとか、自分のデザインを見せるのが恥ずかしいとか、
自分の夢を語ることが億劫だとか、何かにつけて自分という存在の見られ方を強く意識してる子が多い。
だから、僕は最初にこういう「誰も君のことなんか見てない。」
君が失敗しようが、へまをここうが、チャックが開いていようが、誰も君のことなんか見てないし、覚えてない。
自分の言葉や表現を素直に出すことは別に怖く何かない。どうせ失敗しても忘れられるし、そもそも見てないから。

忘却と無視の繰り返しだ。だったら何したって怖くはない。
ただ自分の素直な表現や言葉を出せたとき、必ずそれを評価してくれる人がいる。通じる人がいる。

via: 誰も君のことなんか見てない。 - CNTR

可能なときは、自分が作った「変なソフトウェア」を論文にしたてて人前で発表する。発表の前にいつも後悔する。なんでこんな馬鹿なを事を言い出したのか。罵倒され、嘲笑されるに決まっているじゃないか。俺はなぜこんなことをしているのか。何もせずに昼寝していればよかったのに、と。

思うにほとんどの人は山月記に書かれたこのジレンマに直面していると思う。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為せいである。おのれたまあらざることをおそれるがゆえに、あえて刻苦してみがこうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとしてかわらに伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによって益々ますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

via: 中島敦 山月記

最初に引用した「誰も君の事を見ていない」という言葉は真実であるとともに、この「虎」が幻影である事を教えるものでもある。尊大な羞恥心というが、そもそも誰も私のことなんか見ていない。だから羞恥心を持つ必要はないのだ。

提示したものが酷評されてボツにされる。プレゼンの最中に聴衆が寝てしまう。なんだかわからんと言われる。これは全て私が実際に経験したことだが、だからなんだというのだ。これらによって影響を受けるのは私の尊大な羞恥心だけで、俯瞰してみれば世の中には何の変化も起こってはいない。誰もそんなことを気にしてはいないのだ。

だからといって

ただ自分の素直な表現や言葉を出せたとき、必ずそれを評価してくれる人がいる。通じる人がいる。

と思えるほど私は楽観的ではない。しかし「率直な表現や言葉を出す」以外のことはできないし、成功する可能性はないのだ。いや、成功する可能性云々の問題ではない。頭の中に浮かぶidea、こうあるべき、という姿を形にしないわけにはいかないのだ。

アーティストとは、他の人間にとってはまったく意味をもたない大義、けれども自分にとってはそれがすべてという大義を追求するために、自分自身の安寧や命さえ捧げることもめずらしくない人種のことをいう。

別の言い方をすると、アーティストは富や名声、安楽を得るためではなく、真に自分自身のために何かに夢中になる。

via: ジョン・マエダの考える「デザインを超えるもの」 « WIRED.jp

そう考えると、私の頭の中にはどこかジョン・マエダ氏が言うところの「アーティスト」的な部分があるのだと思う。自分にとっての大義ではなく、組織として、仕事としての大義が仕事に占める割合が大きくなる時、私は窒息しかける。今までの自分の職歴と、その時自分がどのように感じていたかを思い返すとそうとしか思えない。職場の環境がすばらしく、給与的に恵まれていても、「こんなもの何の役にたつんだ」というシステム構築を請け負うSI屋では長く生きられない。頭の中のアーティストが窒息するからだ。

とはいっても

お金がないとホームレスになるし、子供の教育もきちんとできない。というわけで目下最大の難問は

「頭の中のアーティストと現実の折り合いをどうやってつけるか」

でございます。